【第23話】波間の算段
清水の湊を囲む三保の松原——その外海側の浜辺は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
吹き荒れる暴風雨の中、浜には大勢の人々が詰めかけていたが、誰もが絶望的な顔で沖合を見つめているだけだった。
灰色の波の向こう。湊の入り口を阻むように広がる浅瀬の手前で、帆柱の折れた一隻の廻船が荒波に揉まれている。遠州屋の船だ。
「駄目だ、あそこは『死に潮』だ! 助けの小舟を出したところで、岩に叩きつけられて一緒に砕けるだけだ!」
「もう諦めるしかねえ……!」
地元の船頭たちの怒号と悲鳴が、雨音に混じって飛び交う。
ずぶ濡れのまま浜へ駆けつけた佐夜は、その光景を前に言葉を失い、立ち尽くした。
「……絵図はありますか。この辺りの、岩礁と潮の流れが分かるものを」
僕は叫びながら、一番年嵩の老船頭の胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄った。
「なんだ若造! 素人が口出しするんじゃねえ!」
「彼に答えなさい!!」
佐夜の凄絶な叫び声が、風の音を切り裂いた。
普段の彼女からは想像もつかない気迫に圧され、老船頭は懐から油紙に包まれた不格好な絵図を取り出した。
「いいですか、教えてください」
僕は砂浜に絵図を広げ、雨を拭いながら老船頭を問い詰めた。
「あの浅瀬です。今は満ち潮ですか、引き潮ですか!?」
「……今は満ち切る寸前だ。だが船が重すぎる! 引っ張ったところで、浅瀬の底に腹をぶつけて砕け散るだけだ!」
「荷はどれくらい積んでるんです!」
「上方からの帰りだ、米と布が腹いっぱいに詰まってる!」
現場の状況。
これは、特別な知識じゃない。船を軽くすれば浮く。それくらい、海の男なら誰でも知っている。
なのに、気づけば僕の頭は、勝手に動いていた。目の前の潮と、船の重さと、綱を引く人数。バラバラだったはずの理屈が、ひとりでに繋がって、一つの手順に組み上がっていく。止めようもなかった。
「……理屈の上では、越えられるはずです」
僕は震える声をごまかすように、佐夜と老船頭を見た。
「波に逆らう必要はない。船を限界まで軽くして高く浮かせ、一番潮が満ちる瞬間の大波に乗せて、あの浅瀬の上を『滑り越えさせる』んです。……そのためには、積荷をすべて海へ捨てさせます」
僕の言葉に、周囲の船頭たちが息を呑んだ。
積荷をすべて捨てる。それは商人にとって、莫大な財産を海の底へ沈めることを意味する。
「荷を捨てろなんて簡単に言うな若造! どれだけ損をすると思ってるんだ。それに、荷を捨てたって波の力だけで浅瀬を越えられる保証がどこにある!」
「保証なんてありません! 僕が知っているのはただの理屈です!」
僕は思わず怒鳴り返していた。和船の構造も、この海の本当の恐ろしさも僕は知らない。ただ、バラバラの理屈を一つの手順として組み立てただけだ。うまくいく保証なんてどこにもない。
「でも、このままじゃ沈む! だから、陸から力ずくで引っ張り上げるんです。波が来る瞬間に合わせ、太い綱と数十人の人間で一気に引く。丈夫な松の木に綱を直接かけるんじゃない。荷揚げに使う滑車か轆轤を持ってきてください。力の向きを変えれば、人数分の力を逃がさず船に伝えられる……はずです!」
「『はず』だと……? そんな思いつきに、船の命を張れってのか!」
「それにそんな人手と綱、急に集まるわけが……!」
「私が集めるわ!!」
佐夜の声だった。
蒼白だった彼女の顔に、いつもの、いや、今までで一番恐ろしい商人の光が宿っていた。
「父さん! 弥兵衛! 湊中から一番太い綱をありったけ買い占めて! 銭に糸目はつけない!」
佐夜は周囲の男たちを次々と睨みつけた。
「そこにいるあんたたち! 綱を引きなさい! 一人につき銭一貫出すわ! 船が陸に着いたらもう一貫だ!!」
その額に、絶望していた男たちの顔色が変わった。
銭一貫。当時の庶民ならひと月は食いっぱぐれない破格の対価だ。
僕にできるのは、頭の中で助かるための絵を描くことだけだ。その絵を現実に移し、実際に人と銭を動かしたのは、彼女の圧倒的な商才と覚悟だった。
浜辺に急造の牽引陣地が組まれる。
まず、沖の船から風と波に乗せて、細い命綱を結びつけた空樽が流された。浜の男たちがそれを拾い上げ、手繰り寄せて本命の太い綱を繋ぐ。
その太綱が船へ引き上げられる際、佐夜は遠州屋の焼印を押した大きな木札に墨で『荷ヲ捨テロ』と大書きし、目印の赤い布と共に綱へ括り付けて送った。実質的に店を取り仕切る彼女からの、紛れもない絶対の命令である。
やがて、絶望の波間に、次々と米俵や木箱が投げ捨てられていくのが見えた。番頭の弥兵衛が海の底へ沈む莫大な財産を見て苦虫を噛み潰したような顔で天を仰ぐ傍らで、佐夜だけは、自分の財産が消えていくのを瞬き一つせずに見据えていた。
満ち潮の頂点が近づく。だが、数ある波のどれに乗せるべきか、僕には皆目見当がつかなかった。
「西側へ引っ張れ! 東の岩肌は尖ってやがる、腹を裂かれるぞ!」
叫んだのは老船頭だった。彼は雨を拭いもせず海面を睨みつけ、牽引陣地へ指示を飛ばす。
「乗せるなら次の三つ目だ、あの波が一番背が高い! ……今だ! 引けぇぇぇッ!!」
老船頭の絶叫とともに、数十人の男たちが一斉に綱を引いた。
積荷を捨てて浮力を得た船体が大波に押し上げられ、浅瀬の上へ乗り上げる。だが、和船の船底は僕の想像以上に脆かった。
バギィィッ! と凄まじい音を立てて船底が削られ、船体が大きく傾く。
「駄目だ! 止まるぞ!」
「引け! 止まったら波に食われて終わりだ!!」
僕の想定した『理屈』が、現実の海の暴力の前に軋みを上げていた。綱が千切れんばかりに張り詰め、松の木が悲鳴を上げる。祈るような思いで、僕も砂と潮に塗れながら綱にしがみついた。
滑車を通した陸からの牽引と、最後の大波のひと押しが、ついに船を強引に浅瀬の向こう側へと引きずり落とした。
ドォォォンッ!
巨大な水しぶきとともに、遠州屋の船が砂浜に乗り上げた。
船底は無惨に砕け、もはや船としての原型を留めていない。計算違いが一つでもあれば、海の藻屑になっていた。だが、甲板に倒れ込んでいる水夫たちは、全員が息をしていた。
腕を押さえて呻く者も、額から血を流す者もいる。奇跡のような無傷とはいかない。それでも、命だけは全て繋ぎ止めたのだ。
「……っ、みんな……!」
佐夜が砂を跳ね上げて駆け出し、血と潮に塗れた水夫たちに抱きつく。
雨と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼女は身内の生還を喜んでいた。
終わった。
僕はその場にへたり込み、荒い息を吐いた。
船を失い、莫大な積荷も失った。佐夜は大損害を被った。だが、今はそれだけで十分だった。
「……おい、見たかよあの右筆」
「ああ……荷を捨てりゃ船は浮く、定滑車を使えば陸から引ける。どれも当たり前の理屈だ。だが、あの嵐の中で、よくもまああそこまで筋道立てて指図できたもんだ。……あの若造、ただの寺の右筆じゃねえな」
ふと、周囲の船頭たちが僕を見て囁き合っていることに気がついた。
しまった。やりすぎた。素人の寺の右筆が、熟練の船乗りたちを差し置いて、船の救い方を指図した。ただ者ではない、と見られただろう。
歴史に触れまいと、そう思ってきた。ただ観察するだけの傍観者でいようと。なのに、僕はまた、動いてしまった。目の前で人が死のうとしているのを、見過ごせなかった。
この一件で、本来なら失われたはずの命が繋がり、沈むはずだった船が浜に上がった。遠州屋の行く末も、少しだけ変わったのかもしれない。
僕がここにいて、手を動かすたびに、本来の流れから、何かがずれていく。その恐怖が、今また、背筋を冷たく撫でた。
そして。
水夫たちを労っていた佐夜が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
泥だらけの顔。僕を見る彼女の目には、深い感謝と、拭い去れない疑念が、はっきりと宿っていた。
もはや「勘のいい男」という言い訳は通用しない。
僕は、この時代で唯一心地よかった「ただの右筆」というささやかな居場所を、自らの手で壊してしまった。歴史に触れまいとしながら、その手で、また一つ、歴史を動かしてしまったのだ。




