【第22話】震える手
あの日から、僕の胸の奥には重たいしこりが残っていた。
行商人との商談で見せた僕の「分析」は、佐夜の商いを変えた。相場自体は歴史通りに動くとしても、僕が思考を巡らせ、口に出してしまった言葉が、確実に彼女たちの行く末を歪めたのだ。
無自覚に誰かの人生を変えてしまう恐怖。その重圧を感じながらも、僕は雪斎様から言いつかった市での調べ物のついでに、ふらりと遠州屋へ立ち寄ることをやめられずにいた。
「ついでに寄ったと言う割には、随分と手際よく算盤を弾くじゃない」
「佐夜さんが無理やり帳簿を押し付けてくるからですよ」
店先の土間で、僕は苦笑しながら数字を書き写した。
あくまで僕は臨済寺の預かりの身であり、ここの手代ではない。それなのに、顔を出せば当然のように仕事を手伝わされるこの関係が、不思議と心地よかった。
だが、その日の佐夜はどこか上の空だった。
ふとした瞬間に視線を帳簿から外し、駿河の空を見上げている。あの日、遠州灘の沖合に浮かんでいたひと筋の暗い雲は、今や空全体を覆い尽くさんばかりに広がっていた。生温かく湿った風が吹き込み、店先の暖簾を不気味に揺らしている。
「どうかしましたか?」
「……うちの船が、上方から戻る頃合いなのよ」
ぽつりと、彼女が漏らした。
遠州屋は両替だけでなく、廻船問屋としての顔も持っている。
「あの船には、私が小さい頃からよく知ってる水夫たちが乗ってるの。普段なら、時化の前にどこかの湊へ避難しているはずなんだけど……」
自らを言い聞かせるように、彼女はギュッと両手を握りしめた。
この冷徹でドライな商人の仮面の下には、身内を何よりも大切に想う顔がある。
「あんた、雨風がひどくなる前に寺へお帰り。今日はもう店仕舞いにするから」
強ばった笑顔でそう促され、僕は後ろ髪を引かれる思いで遠州屋を後にした。
その夜、季節外れの嵐が駿河を襲った。
雨戸を叩きつける風雨の音は凄まじく、寺の木々が悲鳴のように軋む。僕は僧房の隅で身を丸めながら、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。昼間に見た彼女の不安げな横顔が、脳裏から離れない。
翌朝。
雨は小降りになったものの、風と波のうねりは一向に収まる気配を見せなかった。
庫裏の片付けを手伝っていた僕のもとに、若い僧が慌てた様子で駆けてきた。
「圭殿、面会の方が。ひどく取り乱しておられて……」
胸の奥で、嫌な音がした。
寺の門前へ急ぐと、そこにいたのは泥はねで着物を汚し、ずぶ濡れになった佐夜だった。
雨に打たれて青ざめた顔。いつも口元に浮かべている勝気な笑みは微塵もなく、その瞳は恐怖と焦燥に見開かれている。
「佐夜さん……!? 一体、どうしたんですか」
「清水の湊まであと少しのところで、船が……潮の流れに捕まったの」
彼女の声は、震えていた。
「帆柱が折れ、今は沖合の岩礁の手前でなんとか持ち堪えてる。でも、この波と風では、じきに岩に叩きつけられる……っ」
「そんな……」
佐夜の瞳から、気丈な商人の仮面が完全に剥がれ落ちていた。
彼女は僕の腕を、すがるように強く掴んだ。
「湊の船頭たちは、今出れば助けに行く船も砕けるって……。父も手代も、人を集めるしかできない。だから、あんたなら、何か別の筋道が見えるんじゃないかって……!」
息を呑んだ。
いつも強気で、どんな商談でも不敵に笑ってのける彼女が、なりふり構わず震えている。僕が何者かも知らないはずなのに、ずぶ濡れのまま、僕という人間に一縷の望みを託して駆け込んできたのだ。
(どうする……)
ここで僕が口を出せば、それはもう商談の助言とは違う。人の命と船の行方を、僕の知識で曲げることになる。計算された推論といった言い訳はもはや通用しない。僕の異常性は誰の目にも明らかになり、元の気楽な関係には二度と戻れなくなるだろう。
自分がここにいるだけで誰かの人生を変えてしまう恐怖。巨大な歴史という奔流に触れる罪悪感。
だが。
『あんたなら、何か別の筋道が見えるんじゃないかって……』
僕の腕を掴む彼女の手の震えが、僕の中にあったすべての理屈を吹き飛ばした。
いつも太陽のように明るかった彼女を、こんな絶望的な顔のままにしておくことなど、僕には到底できなかった。
彼女が大切に守ってきたものが、今、理不尽な嵐の底に沈もうとしている。歴史の保存だとか、観察者としての倫理だとか、そんな高尚な理屈は、目の前で崩れ落ちそうな彼女を前にしては何の意味も持たなかった。
「海図は……ありますか」
「え……?」
「海図です。いや、清水の湊の絵図でも、岩礁の位置を書いた覚えでもいい。潮の流れと地形が分かるものを、何でも用意してください!」
頭の片隅で「歴史が変わる」と警鐘が鳴り響いていた。
だがそれよりも早く、僕の体は考えることを放棄し、嵐の残る外へと駆け出していた。




