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【第21話】詮索しない女

彦四郎の一件で負った心の重しを、佐夜の言葉が少し軽くしてくれてから、僕は臨済寺での公務の合間を縫うようにして、駿府の市、そして彼女の家である廻船問屋『遠州屋』へと足を運ぶことが増えていた。


「こら、そこの豆俵! 縄が甘い! こぼした分は、あんたの飯から引くわよ!」


遠州屋の荷捌き場では、今日も佐夜のよく通る声が響いていた。

手代や丁稚たちが「ひえっ」と悲鳴を上げながら、慌てて縄を結び直している。

容赦なく叱り飛ばす彼女の視線は、荷の緩みだけでなく、彼らの明日を見据えていた。

荷が崩れれば損が出る。店が傾けば、皆が路頭に迷う。数十人に飯を食わせるという泥臭い覚悟が、彼女の小さな背中をぴんと支えている。


武家社会の「忠義」とは違う。

儲かるか、損をするか。損をすれば食っていけない。そのヒリヒリとした実利の世界で、自分の肩に何十人もの生活を乗せて立つ彼女の後ろ姿は、どうしようもなく逞しかった。


「また油を売りに来たの? 寺の仕事は暇なのかしら」


指示を出し終えた佐夜が、柱の陰にいた僕を見つけて呆れたように笑う。

手には分厚い大福帳。僕は苦笑しながら首を振った。


「雪斎様の御用で、市に少し用事があってね。その帰りに、つい」

「つい、ねえ。まあいいわ。ちょうど帳簿の計算で手が足りなかったところよ。手伝って」


有無を言わさず、墨と筆を押し付けられる。

僕は文句を言う代わりに、彼女の横に座って帳簿を開いた。


一十百千万。

この時代の度量衡や鐚銭びたせんが入り混じる計算は、当時の人間からすればひどく手間の掛かる作業だ。

だが、アラビア数字と筆算の概念を知る僕にとっては、ただの四則演算にすぎない。

頭の中で数式を展開し、瞬く間に数字の羅列を整理していく。


「相変わらず、気味が悪いほど早いわね」


佐夜が僕の書き付けた数字を検算しながら、感嘆の息を漏らす。


「どういう頭の作りをしてるのかしら。臨済寺のお坊様は、みんなそんな阿修羅みたいな計算ができるの?」

「……いや、僕と、あと一人くらいかな」


ふと、計算に異常な執着を見せるあの若武者、彦四郎の顔が脳裏をよぎる。もっとも彼は坊主ではないので、臨済寺の人間というわけではないが。

苦笑交じりにそう答えながら、僕は胸の奥がざわつくのを感じた。

歴史学専攻の大学院生であった僕は、この時代において明らかに「異物」だ。

いくら寺にいるとはいえ、これほど高度な計算処理を平然とやってのける若造など本来いるはずがない。

少しでも勘のいい者なら、僕の正体や出自に疑念を持つはずだった。

雪斎様が僕を「遠くを見る目」と評して飼い殺しているように。


だが。


「ふうん。まあ、計算が早い分には店にとって大助かりだから、どうでもいいわ」


佐夜はそれ以上、何も聞かなかった。

『どこから来たのか』『なぜそんな知識があるのか』。

普通なら真っ先に飛びついてくるはずの疑問を、彼女はあっさりと切り捨てる。


彼女にとって重要なのは、「今、目の前にいる人間がどれだけ役に立つか」、あるいは「どれだけ信用できるか」だけなのだ。

過去の経歴や、見えない未来の思惑など、銭の計算には関係ない。

その徹底した現実主義が、歴史という見えない重圧に押し潰されそうになっている僕にとって、どれほど救いになっていたことか。


「……佐夜さんは、僕の素性とか気にならないの?」


思わず口を突いて出た問いに、佐夜は不思議そうに目をパチクリとさせた。


「素性? あんたの?」

「うん。どこの馬の骨かも分からないのに、よく店に入れてくれるなって」

「馬の骨でも、銭の計算ができるなら上等な馬の骨よ」


佐夜は鼻で笑うと、大福帳をパタンと閉じた。


「それにね、あんたの目は嘘をつかないわ」

「え?」

「前に言ったでしょ。あんたは優しすぎるって。切り捨てた相手のことまで心配して、勝手に傷ついてる。そんなお人好しが、店に悪巧みを企てるはずないじゃない」


彼女の言葉は、相変わらず鋭く、そして温かかった。


午後になり、遠州屋に畿内からの行商人が訪れた。

塩と米の相場についての交渉が始まる。佐夜は手代を下がらせ、自ら商談の席に座った。僕は少し離れた席で、記録係として筆を執っていた。


「駿河の塩を、もっと安く卸してくだされ。近頃は三河の塩も出回っておりましてな」

「冗談じゃないわ。三河の塩は泥が混じってる。うちの塩は純度が高いのよ」


一進一退の攻防。

その中で、行商人がふとこぼした。


「しかし、畿内はまたきな臭くなってきましてな。公方様(足利将軍家)の足元が揺らいでいる。戦が長引けば、塩より米の相場が跳ね上がる。今のうちに塩を安く仕入れておかんと、割に合いませぬ」


その言葉を聞いた瞬間、僕の中で思考が連鎖した。

行商人の言う通り公方様の足元が揺らいでいるなら、戦は長引く。長引けば物流が止まる。米は備蓄に回され、代わりに内陸部で塩が致命的に不足する……。


「……いや、米より塩です」


考えるより先に、僕は口を開いていた。

佐夜と行商人が、同時にこちらを振り向く。


「今あなたが仰った通り、畿内の戦が長引けば物流の道が封鎖されます。米は各地の国人衆が備蓄に回すため市場に出回らなくなる。しかし塩は、内陸でどうしても必要になる。半年後、塩の相場は今よりかなり上がるはずです。下手をすれば数倍になります。だから、今の相場で安売りする必要はありません」


言い切った後、僕はハッとして息を呑んだ。

やってしまった。

表向きは、相手の情報から導き出した論理的な推論だ。だがその速さと確信の裏には、僕だけが知っている『史実の結末』へのカンニングがあった。知っていることを、いかにも自分の分析のふりをして漏らしてしまったのだ。


「ほほう……?」


行商人の目が、値踏みするように細められる。


「お若いのに、随分と遠くが見える。ただの帳面方とお見受けしたが、なぜそこまで言い切れるので?」


心臓が早鐘を打つ。

「……今、あなたが仰った『戦が長引く』という言葉から、筋道を立てて考えただけです」

震えそうになる声を抑え、僕は努めて平坦に答えた。


「あら、ごめんなさいね。この子、たまに知ったかぶりをするのよ」


沈黙を破ったのは、佐夜の明るい声だった。


「うちに出入りする色んな商人から、聞きかじった噂話を繋ぎ合わせてるだけ。でも、あながち外れとも言えないんじゃない? 現に、畿内への荷の通りは悪くなってるんでしょう?」


佐夜の絶妙な援護射撃により、商談は「塩の相場は据え置き」という形で無事にまとまった。


行商人が帰った後。

僕は冷や汗を拭いながら、佐夜の前に正座していた。

今度こそ、追及される。なぜあんなことを言ったのか。なぜあんなに自信満々だったのか。


だが、佐夜は帳簿に数字を書き込みながら、ちらりと僕を見て笑った。


「なによその顔。別に怒ってないわよ。……それにしてもあんた、面白い勘してるじゃない」

「え……?」

「もしあんたの言う通り、半年後に塩の相場が数倍に跳ね上がったら、ご褒美に大福でも奢ってあげるわ。それまで、うちの塩は少し出し渋っておくとするわね」


それだけだった。

彼女は、僕の不用意な予言を「面白い勘」として処理し、見事に実利へと変換してしまった。

そこに、僕の得体の知れない正体に対する恐怖も、過剰な期待もない。


(ああ……)


僕は深く、息を吐き出した。

誰かの言葉が、誰かの商いを変える。それ自体は当たり前のことだ。佐夜だって行商人だって、互いの情報で相手の行く末を変えている。

だが、僕の場合は違う。僕の分析の裏には、この時代の誰も持たない『結末を知っている』という卑怯な札が紛れ込んでいる。その札を意識しないまま口を開けば、僕の言葉は他人の人生を、本来あるべき形とは違う方向へ歪めてしまう。


けれど、佐夜の前では。

彼女は僕の異常な「勘」を怖がらず、ただの「使える情報」として実利に変換してしまう。おかげで僕はただの「計算が早くて、ちょっと勘のいい男」でいられる。その気軽さが、どれほど心を軽くしてくれているか、彼女は知らないだろう。



「大福、楽しみにしとくよ」

「ええ。せいぜい祈っておきなさいな」


窓から差し込む夕日が、彼女の横顔を黄金色に染めていた。

この乾いた実利の世界こそが、僕にとって唯一の、息ができる場所になっていた。


遠州灘の沖合には、季節外れの暗い雲が、ひと筋だけ浮かんでいた。

今回は、2話連続で投稿しているので、このまま22話もお楽しみください。

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