【第20話】泥と銭
彦四郎という実務の右腕を得てから、臨済寺での僕の仕事は劇的に変わった。
彼が凄まじい速度で帳面の矛盾や未決済の書類を処理し、僕がそれに政の観点から注釈を添え、最後に雪斎様が朱筆を入れる。この三人体制が確立したことで、駿府の行政はかつてない滑らかさで動き始めていた。
代官からの問い合わせには即日で返書を返し、水利争いは揉め事が大きくなる前に裁いていく。
雪斎様の疲労も目に見えて減った。夜中に寺の廊下で響いていたあの重い咳を聞く回数も、確実に減っている。
「……計算が合うというのは、気持ちのいいものですね」
ある日の午後、山積みになっていた検地帳をすべて処理し終えた彦四郎が、大きく伸びをしながら言った。
彼の顔には、遠江の土蔵で見せたような捻くれた影はない。自分の居場所と役割を見つけ、水を得た魚のように生き生きとしている。
「本当に助かっているよ。君がいなかったら、今頃僕は書類の山に埋もれて窒息していた」
僕が苦笑しながら言うと、彦四郎は照れたように頭を掻いた。
仕事は順調だった。組織は改善され、効率は上がり、雪斎様の寿命も延びるかもしれない。
本来なら、これ以上ないほど喜ばしい成果のはずだった。
だが、僕の心の中には、ずっと冷たい泥のようなしこりが沈んでいた。
『恨みを買わずに済む政などないと思え』
雪斎様のあの言葉が、夜になるたびに耳の奥で蘇る。
僕は「泥の作法」を使い、朝比奈家の不正を「忠義の備蓄」と言い換えることで彦四郎を救った。その裏で、顔も知らない朝比奈家の誰かが、すべての罪と責任を被らされたはずだ。
その重圧が、少しずつ僕の心を削っていた。
歴史学を学んできた僕は、過去の権力者たちが非情な決断を下すのを、ただ紙の上の記録として「客観的」に評価してきた。
『この粛清は組織の引き締めのために必要だった』とか、『この犠牲は構造改革の代償としてやむを得なかった』とか、そんな風に。
だが、実際に自分がその「犠牲」を誰かに強いる側になった時、その決断がどれほど重く、苦いものなのかを、僕は初めて思い知ったのだ。
数日後。
僕は雪斎様からの使いを頼まれ、久しぶりに駿府の町へ下りていた。
用件を済ませた後も、まっすぐ寺へ帰る気になれず、僕はあてもなく市を歩いた。
駿府の市は相変わらず活気に満ちていた。
農民が野菜を並べ、行商人が大声で布を売り込み、海沿いの漁師が干物を並べている。
武士の「メンツ」や「忠義」とは違う、今日を生きるための熱気がそこにはあった。
「あれ、圭さん?」
不意に声をかけられ、僕は足を止めた。
振り返ると、藍色の小袖を着た佐夜が立っていた。手には小さな風呂敷包みを抱えている。
「奇遇だね。買い物?」
僕が無理に笑顔を作って尋ねると、佐夜は少しだけ目を細めた。
「ええ。店の帳簿の整理が終わって、少し息抜きにね。……圭さんこそ、何か嫌なことでもあった?」
「えっ」
「顔色が悪いわよ。前にお店に来た時より、ずっと疲れてるみたい」
商家の娘らしい、遠慮のない真っ直ぐな言葉だった。
図星を突かれ、僕は思わず視線を泳がせた。
「……少し、仕事で難しいことがあってね」
誤魔化すようにそう言うと、佐夜はそれ以上深くは詮索しなかった。
ただ、ポンと僕の肩を叩いた。
「難しいことは分からないけど、銭の勘定が合わないなら私が手伝ってあげるわよ。これでも、計算は得意な方なのよ」
「いや、計算のほうは間に合ってるんだ。新しく優秀な助っ人が入ってね」
「へえ。なら、何が問題なの?」
僕は少し躊躇した。
今川家の内情を、市井の娘に話すわけにはいかない。だが、この数日誰にも言えずに溜め込んでいた重圧が、不意に口を突いて出た。
「……皆を守るために、一人に損を被せなければならないとしたら、佐夜さんならどうする?」
抽象的すぎる問いだった。
だが、佐夜は少しだけ考え込むと、あっさりと答えた。
「そうね。私は迷わず切り捨てるわね」
「えっ」
「だって、そこで情けをかけたせいで店が潰れたら、働いてる手代も丁稚も路頭に迷うじゃない。小さな損を捨てて、大きな損を避けるのは商売の基本よ」
あまりにも冷徹な、だが重い責任に満ちた答えだった。
「でも、切り捨てられた側は、一生恨むかもしれない」
「恨まれるでしょうね。でも、全員で共倒れして『みんなで仲良く死にました』なんて、誰も褒めてくれないわよ」
佐夜は僕の顔を下から覗き込んだ。
「圭さんは、優しすぎるのよ」
「優しい?」
「そう。切り捨てた相手のことまで心配してる。でもね、商売人なら、恨まれたって、店と雇ってる者たちを食わせられるならそれでいいって、腹を括るわ」
彼女の言葉には、武士の「忠義」とは違う、背負う者としての重さがあった。
僕は初め、彼女の乾いた割り切りに「心地よさ」を感じて、少しだけ逃げ込みたくなっていたのだ。だが、佐夜の割り切りは決して責任からの逃避ではない。切り捨ての重さを引き受けて、なお前に進むための覚悟なのだと気づかされた。
「……商売人って、たくましいね」
僕が苦笑すると、佐夜は誇らしげに鼻を鳴らした。
「当たり前でしょ。飯を食わせるって、そういうことよ。綺麗事だけじゃ、人は生きていけないんだから」
そう言って、彼女は風呂敷包みの中から、小さな紙包みを取り出した。
「はい、これ。おすそ分け。港の方から入ってきた、新しい干し菓子よ」
「いいの?」
「疲れた顔をしてる男を放っておいたら、店の評判に関わるからね」
彼女は悪戯っぽく笑い、僕の手に紙包みを押し付けた。
包み越しに伝わる微かな甘い香りが、張り詰めていた僕の心を少しだけ解きほぐした。
僕は佐夜と別れ、再び臨済寺への道を歩き始めた。
心の中の泥が完全に消えたわけではない。僕の作法のせいで、朝比奈家の誰かが泥を被ったはずだ。顔も名も知らない。だが、その誰かがいるという事実は、この先もずっと僕の背中に張り付いているだろう。
佐夜の言葉には、この時代を逞しく生き抜く人間の確かな強さがあった。
だが、彼女たちと僕とでは、決定的に違うことがある。
もし僕がこの時代にいなかったら、朝比奈家の誰かが泥を被ることも、なかったのかもしれない。
歴史を変えるつもりなんてなくても、ただ僕がここにいて、何かを行動するだけで、本来起こるはずのなかった波紋が広がり、見知らぬ誰かの人生を変えてしまう。
その避けられない現実が、僕の足元を静かに蝕んでいた。
手の中の干し菓子の、かすかな甘さだけが、今の僕の現実だった。




