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【第19話】泥の作法

「たかが算盤引きが、朝比奈のまつりごとに口を出すか! 腹を切れ!」


使いの武将が刀の柄を握りしめ、土気色になった彦四郎を怒鳴りつけている。

上座の雪斎様は、静かに目を閉じていた。そして、やがてゆっくりと目を開き、冷酷なまでに落ち着いた声で口を開いた。


「中根彦四郎」

「……は、はい」

「今すぐ荷物をまとめよ。お主の役目は終わりだ。遠江へ帰り、二度と駿府の土を踏むな」


それは、追放宣告だった。

彦四郎はギリッと唇を噛み締め、深く頭を下げた。自分の「正しさ」が、武家社会の「血筋とメンツ」の前に敗北したことを悟ったのだ。


「……お待ちください」

たまらず、僕は雪斎様と使いの武将の間に進み出た。


使いの武将が血走った目で僕を睨む。だが雪斎様は制止もせず、ただ静かな瞳で僕を見据えていた。

その無言の視線が、「ならばお主がこの場を収めてみせよ」と告げていた。


試されている。僕は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

「田畑の泥は読めるようだが、人の泥は読めぬ」——直前の雪斎様の言葉が脳裏に蘇る。

現代の監査なら、不正を暴くのが「正義」だ。だが、ここは戦国時代。今川家最大の重臣である朝比奈家のメンツを公衆の面前で潰せば、最悪の場合、家中が二つに割れて内乱になる。雪斎様はその「泥臭い力学」を知っているからこそ、これまで裏で手を回して帳尻を合わせていたのだ。


(正しさを殺さず、かつ、武士のメンツも潰さない着地点……!)


僕は必死に思考を回転させ、使いの武将に向き直った。


「使者殿。彦四郎が『過少申告』と朱筆を入れた二割の米……これは、朝比奈様が遠江の国境の砦を修築するために、あえて手元に残された『備蓄』ですね?」

「……は?」

使いの武将が目を丸くする。彦四郎も驚いて顔を上げた。


僕は構わず畳み掛けた。

「今川家のために、朝比奈様が自らの腹を痛めて防衛を固めようとしてくださった。その類まれなる『忠義』を、土蔵育ちで軍学を知らない彦四郎は理解できず、単なる計算のズレだと勘違いしてしまった。……そういうことですね?」


使者の顔色が変わった。

彼らは不正(中抜き)をしていた。だが、それを正面から咎められれば切腹ものだ。しかし今、目の前の若者はそれを「今川家への忠義のための備蓄」だと言い換えてくれたのだ。これに乗れば、切腹すべき身から一転して忠臣になれる。


賭けだった。

使者がこの嘘に乗らなければ、僕も彦四郎もまとめて雪斎様に斬られる。だが、他に道はなかった。

僕は額に冷たい汗が伝うのを感じながら、使者の言葉を待った。


「そ、その通りだ! 我が主は、国境の守りを憂い、自らの蔵を削ってでも砦を固めんとされていたのだ! いずれ普請の折に役立てるため、あえて手元に蓄えておられた。それをこの若造が、あろうことか不正呼ばわりし、主の忠義を踏みにじったのだ!」

「ええ、完全に彼の無知が招いた誤解です。朝比奈様の顔に泥を塗る意図など微塵もありません」


僕は深く頭を下げた。

「雪斎様。朝比奈様の忠義に免じて、彦四郎の無知をお許しいただけないでしょうか」


沈黙が下りた。

雪斎様はしばらく僕を見つめていたが、やがて微かに口角を上げた。


「……相分かった。朝比奈の忠義、見事である。ならばその二割の米を使い、来月までに国境の砦を完全に修復せよ。期待しておるぞ」

「は、ははっ!」


使いの武将は、大量の汗を流しながら平伏した。

不正に得た米は、結局すべて本当に砦の修築工事に吐き出さざるを得なくなったわけだ。実利(砦の修復)を取りつつ、朝比奈家のメンツ(忠義)を立て、彦四郎の命も救う。

これが、僕が初めて使った「泥の作法」だった。


* * *


使いが去った後、張り詰めていた糸が切れたように、彦四郎はへたりと畳に手をついた。


「……見事な手際であったな、圭」

雪斎様が、低く笑い声を漏らした。

「正しさを曲げず、面目を保たせ、おまけにタダで砦の修築まで手に入れた。見事な綱渡りよ」


僕は小さく息を吐いた。

「……彼を試すために、わざとあの帳面を通したのですか」


試されていたのだと思いたかった。

だが、先ほどの雪斎様の目には、本当に彦四郎を切る覚悟も確かにあった。


「さてな。だが圭よ、ゆめゆめ忘れるな」


雪斎様は笑みをスッと消し、冷ややかに僕を見据えた。

「実を取るということは、誰かに泥を被せるということだ。恨みを買わずに済むまつりごとなどないと思え」


僕は背筋が寒くなるのを感じた。

雪斎様は視線を外し、畳に這いつくばる彦四郎を見下ろした。


「で、お主はどうする。まだ駿府に残るつもりか?」


彦四郎は顔を上げ、深く頭を下げた。出会った時の、あの捻くれた警戒心はもうない。


「私は、帳面の数字しか見ていませんでした。ですが、武士は『面目』という理屈のないもので動いている。それを計算に入れなければ、ここでは首がいくつあっても足りないとよく分かりました」

「ほう」

「私には、武士の面目は計算できません。ですが、米と銭の計算なら誰にも負けない。……雪斎様、どうかこれからも、私に算盤を弾かせてはいただけないでしょうか」


雪斎様はフンと鼻を鳴らした。

「ならば、その算盤の腕を極めよ。次にしくじれば、言い訳を口にする前に首が飛ぶと思え」


「……ははっ!」

彦四郎は深く平伏した。それは、実質的な雇用の継続だった。


雪斎様が奥へ消えた後、彦四郎は改めて僕に向き直った。

「俺も、これからは帳面の数字だけでなく、武士の『面目』の計算を学びます。そのために……どうかこれからも、俺の算盤をあなたのそばで弾かせてください」

「もちろん。でも、僕だってまだその計算は手探りなんだ」

僕は深く頷き、小さく笑った。

「一緒に学んでいこう。君の算盤がなければ、僕の仕事も回らないからね」

それは、僕にとって初めての「同志」であり、実務の右腕を得た瞬間だった。


同時に、胸の奥に一滴の苦い泥が落ちるのを感じていた。

僕は今、嘘をついた。事実を歪めて、人を救ったのだ。歴史を正確に記述することを生業にしてきた僕が、初めて自らの手で真実を塗り替えた。

その矛盾への戸惑いは、確かな重みとなって僕の中に残った。


『——恨みを買わずに済むまつりごとなどないと思え』


——数日後、遠江・朝比奈領。

「申し開きも立たぬ愚か者めが!」

激しい打撃音と共に、一人の若武者が庭先に蹴り飛ばされた。


朝比奈の代官の息子だった。

中抜きは、代官が私腹を肥やすためのものではなかった。半分は、朝比奈本家へ収めるための、逆らえぬ上納。そして残りを、代官は密かに、飢えた配下の百姓たちに回していた。年貢を額面通りに納めれば、痩せた村から冬を越せぬ者が出る。代官は、上と下の板挟みの中で、そうやって帳尻を合わせ続けてきたのだ。

だが、駿府で雪斎に「忠義のための備蓄であろう」と逃げ道を塞がれた本家は、自らの関与を隠すため、辻褄を合わせるためのすべての泥を、末端の代官家に——その息子一人に——被せた。


縁側から、父親が激怒の形相で見下ろしている。

「中根の次男坊が騒いだせいで、我らは雪斎様に見事に嵌められたのだ! 砦の普請費用は、すべてお前が捻出せよ!」


その怒りが半ば芝居であることを、若武者だけは知っていた。

父の目の奥にあるのは怒気ではない。保身と、焦りと、わずかな後ろめたさだった。


若武者は血を吐きながら、理不尽な仕打ちと屈辱に震え、駿府の方角を睨みつけた。

「太原雪斎……! それに、算盤しか能のない中根の次男坊め……!」


彼はすべての役目を取り上げられ、自らの婚礼のために蓄えてきた私財も、いずれ継ぐはずだった田畑の一部も、砦の石垣に変えることを強いられた。

彼の中で、駿府の権力者たちへの激しい憎悪と復讐心が産声を上げた瞬間だった。

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