【第18話】動き出した歯車
父親は最後まで渋ったが、雪斎様の許可状を見せると表向きは逆らえなかった。彦四郎本人は、最後まで信じられない顔をしていた。
駿府の臨済寺へ着いてからも、彼ははじめのうち、借りてきた猫のように縮こまっていた。
それも無理はない。薄暗い土蔵に引きこもっていた下級武士の次男坊が、いきなり「東海道一の弓取り」を裏で操る黒衣の宰相・太原雪斎の前に引きずり出されたのだ。
だが、雪斎様は彦四郎を値踏みするように一瞥すると、一言だけ命じた。
「座れ。そしてこれを計算し直せ」
雪斎様が顎でしゃくった先には、人の背丈ほどに積まれた各領地の年貢帳や検地帳の山があった。
彦四郎は震える手で算盤に触れた。だが、玉を弾き始めた瞬間、彼の目つきが変わった。
そこからは、まさに圧巻だった。
パチ、パチ、パチパチパチ。
静かな部屋の中に、凄まじい速度で算盤の玉が弾かれる音だけが響き続ける。
彦四郎は、まるで水を得た魚だった。数字の海に潜り込んだ彼は、周囲の権威も、自分がどこにいるのかすらも忘れたように、ただひたすらに帳面の矛盾と計算ミスを暴き出していった。
「ここの石高と年貢の割合、合いません。二割ほど少なく申告されています」
「この川の普請費用、昨年の記録と照らし合わせると人足の賃金が不自然に高いです」
彦四郎が弾き出した正確な数字を、僕が受け取る。
僕は現代の知識と、これまで雪斎様の横で見てきた政のセオリーを元に、それが「意図的な不正」なのか「単なる計算ミス」なのかを判断し、短い書き付けを添えて雪斎様に回す。
雪斎様はそれを一瞥し、最終的な裁断を下して朱筆を入れる。
三人による見事な分業体制ができあがっていた。
「……信じられない速度だ」
数日後、人の背丈ほどあった書類の山が跡形もなく消えているのを見て、僕は思わず感嘆の声を漏らした。これまで雪斎様が一人で、あるいは僕が少し手伝いながら何日もかけて処理していた量が、たった1日で終わってしまったのだ。
「数字が教えてくれる通りに弾いただけです」
彦四郎は隈の浮いた目をこすりながら、少しだけ得意げに笑った。遠江の土蔵で出会った時の、あの捻くれた警戒心はすっかり薄れている。
水利争いの訴状が二日も早く裁かれ、商人衆への返書が滞らなくなり、代官からの催促が激減した。
仕事の山が減ったことで、雪斎様の睡眠時間も目に見えて増えた。
夜中に響いていたあの重い咳も、ここ数日はほとんど聞いていない。
(……やった)
僕は胸の内で小さくガッツポーズをした。
桶狭間という巨大な運命そのものを変えることはできないかもしれない。でも、雪斎様の過労を防ぎ、今川家の情報処理を高速化するという「組織の強化」には成功した。
歴史という巨大な流れに逆らうのではなく、ただ目の前にある組織の負担を軽くしているだけ。
これなら、誰も不幸にならない。
そう思っていた。
僕の現代の合理主義的な思考が、この戦国という時代の「泥臭い本質」を見誤っていたことに気づくまでは。
それから半月ほど経ったある日。
僕が町から戻ると、寺の部屋には怒声が響き渡っていた。
「たかが算盤引きの分際で、我ら朝比奈家を愚弄するか!」
見知らぬ武将が、顔を真っ赤にして怒鳴りつけている。朝比奈家からの使いだろう。
その足元には、彦四郎が処理した帳面が投げ捨てられていた。
上座では、雪斎様が静かに目を閉じている。
僕がそっと帳面を拾い上げて中を見ると、彦四郎の字で、容赦のない朱筆が入れられていた。
『面積に対する収穫量の申告が二割不自然である。過少申告の疑いあり。再計算の上、提出を求む』
僕は血の気が引いた。
その日、僕は町へ、雪斎様は城へ出ており、二人とも不在だった。
僕が「帳面は必ず僕か雪斎様を通すように」と徹底しなかった落ち度だ。そして、土蔵育ちで決裁の作法を知らない彦四郎は、「計算の済んだ帳面は返すもの」と思い込み、一切の根回しもなく、直接朝比奈家に突き返してしまったのだ。
「今川家を支える譜代重臣の顔に、どこの馬の骨とも知れぬ若造が泥を塗るとは! 腹を切れ!」
使いの武将が刀の柄に手をかける。
だが、彦四郎は震えながらも、決して自説を曲げようとしなかった。
「顔? 泥? 何を言っているのですか。数字が間違っているから、間違っていると書き直しただけです」
「黙れ! 貴様のような下賤の者が、朝比奈の政に口を出すか!」
使いの武将の怒号に、彦四郎は顔を歪めながらも言い返した。
「間違っているのは事実です! 今年の降水量と土壌を考えれば、これほど収穫が落ちるはずがない。誰かが中抜きをしているのは明白です! 家柄が上なら、一足す一が三になるとでも言うのですか!」
彼の言葉は、純粋な数学的論理としては完璧に正しかった。
現代の監査法人なら、拍手喝采ものだろう。
だが、ここは戦国時代だ。
理屈よりも、武功と血筋と「メンツ」で人が動く世界。
朝比奈の代官からすれば、「どこから湧いて出たかも分からない若造に、自分の不正を(あるいは単なるミスを)真っ向から指摘され、大恥をかかされた」ことになる。
「雪斎様……」
僕は雪斎様を見た。
雪斎様は深く溜息をつき、目元を押さえていた。
「朝比奈の代官から、猛烈な抗議の書状が届いた。……『あの無礼な若造の首を刎ねよ』とな」
僕は息を呑んだ。
彦四郎という「純粋な計算機」は、たしかに今川家の実務を爆発的に加速させた。
だが同時に、彼は武士たちのプライドという地雷原を、目隠しで全力疾走するような存在だったのだ。
「……軋轢が生まれると、仰っていたのは」
「そうだ」
雪斎様は彦四郎を冷ややかな目で見下ろした。
「田畑の泥は読めるようだが、人の泥は読めぬ。計算ができるだけでは、いずれ火種を生む」
動き出したのは、効率という名の歯車だけではなかった。
僕の手は同時に、面目を潰された者たちの怒りという別の歯車も回し始めていた。




