【第17話】泥まみれの算盤
「土と泥の臭いがわかる者を探せ」
雪斎様のその言葉は、僕にとって一つの明確な選考基準となった。
ただ計算が早いだけの者なら、商人の手代や寺の修行僧にもいる。だが、彼らに領地トラブルの裁定はできない。武士という生き物のメンツや、土地に執着する泥臭い感情を肌で知らなければ、到底戦国大名の実務は回せないからだ。
だから、武士の中から探すしかない。
僕は連日、寺に運び込まれる各領地からの検地帳や年貢の報告書、水利権の訴状などを片っ端から読み漁った。
そして五日目。
膨大な書類の山の中で、僕は一つの帳面に目を奪われた。
遠江国、見付周辺を治める小領主からの年貢帳だった。
一見すると普通の帳面だ。だが、数字の羅列を追っていくうちに、背筋が粟立つような感覚を覚えた。
計算が正確なのは当然として、その「前提条件」が異常なのだ。
過去数年の降水量の偏りから今年の収穫量の減少を予測し、さらに川の氾濫リスクを見越して、被害が出る前に刈り取りを急がせ、納入を早める段取りが組まれている。
ただの足し算引き算ではない。これは「統計」と「リスクヘッジ」だ。この時代の言葉ではない。けれど、僕にはそうとしか呼べなかった。
「……書いたのは誰だ」
帳面の端には、ただ『中根』とだけ記されていた。
僕はすぐに雪斎様から許可状をもらい、遠江へと向かった。街道には関所や国衆の目がある。武士のように馬を乗りこなせるわけもない僕のために、雪斎様が護衛と道案内を兼ねた兵を一人付けてくれた。
数日後。
遠江の中根氏の館(といっても、土塀に囲まれた少し大きめの農家のような佇まいだった)に到着した僕は、今川本陣からの使いということで、丁重に、しかしひどく怪訝な顔で迎えられた。
当主である中根の親父殿は、見事な髭を蓄えた、いかにも戦国武将という風体の男だった。
僕は挨拶もそこそこに、例の帳面を取り出した。
「この見事な帳面をまとめられた方に、ぜひお会いしたい。雪斎様の直々の命で探しております」
親父殿は、一瞬、自分の耳を疑ったように言葉を失った。
そして、ひどくバツの悪そうな顔で頬を掻いた。
「はあ……雪斎様が、これを。しかし、これを書いたのは……いや、お恥ずかしい話ですが」
「誰なのですか?」
「……次男の、彦四郎でございます」
親父殿は顔をしかめ、忌々しそうに視線を床へ落とした。
「腕は……まあ、帳面だけは確かでございます。ですが、武家の子としては……」
案内されたのは、母屋から離れた薄暗い土蔵だった。
「申し訳ありませぬが、私はまだ仕事が残っておりますゆえ」と、親父殿は逃げるように立ち去ってしまった。
戸を開けると、強烈な墨と古い紙の匂いが鼻をつく。
薄明かりの中、うずたかく積まれた木簡と和紙の山に埋もれるようにして、一人の若者が座っていた。
「……何の用ですか」
振り返った若者——中根彦四郎は、ひどく痩せていた。
年齢は僕と同じか、少し下くらいだろう。だが、武士特有の逞しさは皆無で、肌は陽の光を浴びていないせいか青白く、目の下には濃い隈があった。
何より、その生気のない目が、薄暗がりの中から僕をじっと睨みつけていた。
「君がこれを書いたのか」
僕は帳面を見せた。
彦四郎は顔をしかめた。
「……字が汚かったなら書き直します。ですが、数字は一分一厘も間違っていません」
「間違っていない。むしろ完璧すぎる。過去の天候の記録から今年の収穫を予測しているだろう。それに……ここだ。北の畑の収穫見込みだけを二割減らしているのは、なぜだ?」
筆を動かしていた彦四郎の手が、ピタリと止まった。
まさか、自分の書いた帳面の中身をそこまで深く読み込んでいる者がいるとは思わなかったのだろう。
「……上流の山で、松の木の伐採が続いているからです。木が減れば、大雨のたびに泥水が北の畑に流れ込む。今年の梅雨の雨量なら、必ずそうなる」
「だから、年貢の徴収を半月早めて、被害が出る前に刈り取らせる計画にしたのか」
「……そうです」
彦四郎は思わずといった様子で身を乗り出していた。その生気のない目に、確かな熱が灯っている。
「どうやって計算した?」
「どうやってって……村の古老たちから過去十年分の雨の時期を聞き出して、それを川の水位の変化と照らし合わせただけです。川の石に印をつけて、毎日測ればわかることだ」
さらりと言うが、それは現代の「水位観測データに基づく統計」そのものだ。
この時代に、それを自力で思いつき、実行している。しかも、誰に評価されるわけでもない土蔵の中で。
「なぜ、君がこれを?」
僕が尋ねると、彦四郎は自嘲気味に笑った。
「俺は、子供の頃から体が弱くて、槍も振れなければ馬にも乗れない。戦に出れば一番に死ぬ『役立たず』です。だから、せめて家の帳簿でもつけて飯代を稼げと、親父殿から土蔵に押し込められているのですよ」
彦四郎は算盤の縁を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。
「武功がなければ人間ではない。首を獲らねば価値がない。……馬鹿馬鹿しい。槍を振り回すことしか能のない連中に、田畑の泥の重さが分かってたまるか」
彦四郎は吐き捨てるように言った。
僕は、静かに息を吐いた。
——土と泥の臭いがわかる者。
雪斎様の言っていた意味が、ようやく分かった。
彼は武士の家に生まれながら、武士の価値観から弾き出された。だからこそ、武功や名誉という「派閥の論理」に縛られていない。純粋な数字と、泥まみれの現実だけを見ている。
これほど完璧な人材がいるだろうか。
「中根殿」
「……何ですか」
「僕と一緒に、駿府へ来てくれませんか」
僕の言葉に、彼は怪訝そうに眉をひそめた。
「俺をからかっているのですか? 駿府へ行ってどうしろと」
「雪斎様の元で、働くんです」
僕は彼をまっすぐに見つめ、はっきりと告げた。
「君のその『泥まみれの算盤』を、太原雪斎様が求めているんです。今川の政の中枢で、思う存分、数字を回してみませんか」
彦四郎の口元が微かに震え、その手からぽたりと筆が滑り落ちた。
小さな音が、静かな土蔵の中に響いた。




