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【第16話】もしこの人が死んだら

数日後、僕は寺の使いで再び駿府の街へ下りていた。

紙や墨の買い出しという名目だったが、本当は息が詰まっていたからだ。あの雪斎の言葉を聞いて以来、寺の空気がひどく重く感じられてならなかった。


秋晴れの空の下、駿府の市場は今日も活気に満ちていた。

米を積んだ荷馬車が行き交い、大声で魚を売り込む声が響く。両替商の店先では算盤の音が途切れず、通りを歩く武士たちの顔には、東海道の覇者たる今川家臣の誇りがあふれている。

誰もが、この平穏と繁栄が明日も続くと信じて疑っていない。


だが、僕の目には、この街が巨大な砂の城に見えた。


——あと五年。


僕の脳内で、歴史の知識が冷酷なシミュレーションを始める。


弘治元年(一五五五年)、太原雪斎が死ぬ。

巨大な権威の集約点が消滅した瞬間、今川家の中枢は機能不全に陥る。

国衆同士の領地争いを誰も裁けなくなり、不満が鬱積する。重臣たちは己の派閥を有利にしようと暗闘を始め、家中は静かに割れていく。

それらを力で抑え込むため、義元公は「政治」と「軍事」の両方を、一人で背負わねばならなくなる。


その過負荷が、五年後に限界を迎えるのだ。

永禄三年(一五六〇年)。尾張出兵。

そして、桶狭間。


こんな計算を反射的にしてしまう自分が、少し恐ろしかった。


大学院のゼミで、僕は「桶狭間の敗因は義元の油断ではない。雪斎の死によって組織が硬直化し、柔軟な情報収集と意思決定ができなくなっていたからだ」と発表した。

あの時は、紙の上の理論だった。

だが今は違う。


義元公が討たれれば、どうなる。

カリスマを失った今川家は、若き氏真の代で完全に瓦解する。西からは徳川家康が、北からは武田信玄が牙を剥く。

やがて武田軍が駿河へなだれ込み、この駿府の街にも戦火が迫る。

あの気のいい紙屋の親父も。すれ違った誇り高き武士たちも。

——そして、海の向こうの未来を語ってくれた、あの両替商の娘も。


僕は道の真ん中で立ち止まった。

行き交う人々の肩がぶつかるが、気にならなかった。


歴史は変えてはいけない。

それは、現代から来た僕が絶対に守るべき一線だった。過去の歯車を一つでも狂わせれば、バタフライエフェクトによって未来はどうなるかわからない。僕は歴史の観察者であって、介入者になってはいけない。


「……でも」


僕は無意識に呟いていた。

知っているのだ。目の前を歩いている子供が、十年後に戦火に巻き込まれるかもしれないことを。あの美しい商家が、略奪されて灰になるかもしれないことを。


『わしはな、圭。お前の素性など、どうでもよい。だが、お前の目には何かが見えておる。見えておるのに、言わぬ。それが——』


雪斎の苛立った声が蘇る。


言えるわけがない。

「あなたは五年後に死にます。今川は十年後に滅びます」などと。

そんなことを言えば、僕は狂人として斬られるか、さもなくば得体の知れない予言者として座敷牢に幽閉される。どちらにせよ、誰も救われない。


歴史の大筋を変えることはできない。桶狭間という巨大な運命を、名もなき僕が止めることなど不可能だ。

そもそも、変えてはいけない。歴史に手を出せば、どんな代償を払うことになるか。


……なのに、頭が勝手に動いていた。

桶狭間そのものを消すことはできない。でも、その日に至るまでの今川家の脆さを、少しだけでも減らすことなら——。

もし、雪斎の死による組織の空白を少しでも埋めることができれば。今川家は「桶狭間」という破局の瞬間において、ほんの数刻だけでも早く情報を処理し、違う決断を下すかもしれない。

そうすれば、駿府が燃える未来を、回避できるかもしれない。


ダメだ。そんなことを考えてはいけない。

それは、歴史を変えるということだ。僕の手で、戦国の歯車に砂を噛ませるということだ。やってはいけない。


分かっている。

分かっているのに、僕の足は寺へ向かって走っていた。

止まらなかった。この街の活気を、あの両替商の娘の顔を知ってしまった以上、ただ傍観して彼らが焼け死ぬのを待つことなど、僕にはできなかった。


息を切らして山門をくぐり、まっすぐに雪斎の部屋へ向かう。


「戻りました」

「早いな。紙は買ったか」


雪斎は相変わらず、書類の山と格闘していた。

僕は買ったばかりの杉原紙を部屋の隅に置くと、雪斎の背中を見据えた。


「雪斎様」

「何だ」

「先日の、『誰に帳面を渡すか』というお話ですが」


雪斎の手が止まった。

ゆっくりと振り返り、探るような目で僕を見る。


「……何か、妙案でも思いついたか」

「いいえ。妙案はありません。雪斎様が仰った通り、朝比奈様や岡部様に任せれば派閥が揉めますし、僕のような素性の知れない者が口出しすれば、武士の誇りを傷つけます」


僕は一度、深く息を吸い込んだ。自分でも、なぜこんなことを言おうとしているのか分からなかった。


「……だから、探すしかないのではないかと」

「探す?」

「はい。武功も家柄もないが、実務の能力だけは高く、既存の派閥に属していない者。駿府の近くにいる者は、もう誰かの派閥に組み込まれているはずです。だから、まだ中枢に見つかっていない場所から探すしかありません。……うまく言えないのですが、例えば遠江の片田舎で、燻っているような若者を」


雪斎の片眉がわずかに上がった。


「そいつを一人だけ引き上げ、雪斎様の直属として実務を仕込ませれば……派閥がないからこそ、誰の利益も代弁しない『ただの算盤』として使えるはずです。……これが正しいのかも、分かりません。ただ」


言葉が震えそうになるのを、必死に抑えた。

歴史を変えようとしている。頭が警鐘を鳴らしている。


「ただ……そういう者を、僕に探させてください。帳面と計算の能力なら、僕が見極めます」


長い沈黙が落ちた。

雪斎は僕の顔をじっと見つめていた。その目は、僕の肚の底にある「何か」を測っているようだった。


「……お前は、面倒事を避ける男だと思っていたがな」

「今でも避けています。ですが」


僕は駿府の街並みを思い出した。


「これ以上、雪斎様が帳面に埋もれて咳をするのを聞くのは、御免被りたいだけです」


雪斎はふっと息を吐いた。

それは、初めて見る微かな笑みだった。


「……よかろう」

雪斎は書状を一枚、僕の方へ投げた。


「遠江の在地武士からの訴状だ。まずはこれを見ろ。計算ができるだけでは使い物にならん。土と泥の臭いがわかる者を探せ」


部屋の隅に置いたままの、真新しい杉原紙。

その匂いが、やけに現実離れして感じられた。

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