【第15話】誰に渡すか
雪斎の言葉は、僕の頭の中で一つの命題に変換されていた。
「太原雪斎の業務を、いかにして他者に移譲するか」
現代の企業や役所なら、答えは簡単だ。業務を洗い出し、マニュアル化し、権限を定義して部署ごとに割り振る。特定の人間に依存する「属人化」を排除し、誰がやっても回るシステムを作る。それが組織論の基本だ。
翌日から、僕は寺領の計算を早々に片付け、雪斎が処理している他の帳面に目を凝らした。
誰に、何を、どの順で渡すか。
それを解くためには、まず「何をやっているか」を因数分解する必要がある。
だが、三日も経たずに僕は筆を置いた。
結論から言えば、無理だった。
目の前にあるのは、地元の領主である遠江の国衆同士の、水利権を巡る争いの裁定記録だ。
川の水をどちらの田にどれだけ引くか。一歩間違えれば一揆や武力衝突に発展する。雪斎はこれを、現地を見ることもなく、過去の検地帳と双方の言い分をすり合わせて、見事な采配で分割していた。
「……これを、例えば朝比奈様に任せたらどうなりますか」
僕は、部屋の隅で経文を読んでいる雪斎の背中に向かって尋ねた。
雪斎は振り返らなかった。
「火を噴くな。朝比奈に任せれば、朝比奈に連なる者が得をしたと騒ぐ」
「では、岡部様なら」
「岡部は己にも身内にも厳しい忠義者だ。だが、忠義者であることと、裁定を下される国衆が納得することは別よ」
その通りだ。
戦国の武士団は、巨大な血縁と地縁の派閥だ。重臣たちにはそれぞれ自分の派閥があり、庇護下の国衆がいる。彼らに裁定権を持たせれば、必ず「公平ではない」という不満が出る。
「なら、御屋形様ご自身が裁くしか……」
「御屋形様は武家の棟梁ぞ。あの方の裁定は『最終』でなければならん。些末な水争いでいちいち御意を仰いでいては、御威光が安くなる」
雪斎の言うことは、いちいち理にかなっていた。
組織の長である義元公は神輿として奥に座り、決定的な場面でのみ動く。
重臣たちはそれぞれに派閥を抱えているため、中立的な調停者にはなれない。
だから、雪斎なのだ。
駿河・遠江・三河にまたがる広大な今川領において、雪斎だけが「武士の派閥に属さない僧侶」であり、かつ「義元公が絶対の信任を置く師」であるという、唯一無二の立ち位置を持っている。
商人の税の免除も、寺社の領地安堵も、他国との外交交渉も、すべて同じだ。
雪斎の決定に皆が従うのは、システムが優れているからではない。「あの雪斎様が、御屋形様の意を受けて決めたことだから」従っているのだ。
権限が属人化しているのではない。権威そのものが属人化している。
この時代において「権威」とは、血筋か、武功か、さもなくば雪斎のような超常的な個人的カリスマのいずれかしかない。
「業務の切り出し」なんて、机上の空論だった。
マニュアル化して誰かに渡せるような軽い仕事など、そもそも雪斎の部屋には上がってこない。
「……わかったか」
経文を読むのをやめ、雪斎が静かに言った。
「わしの代わりは、わしと同じ顔と、わしと同じ重さを持っておらねば務まらん。だが、そんな者はこの世におらんのだ」
その声には、自負よりも深い徒労感が滲んでいた。
自分一代で巨大な権力の集約点を作り上げてしまった男の、孤独な諦観だった。
「身分や派閥を持たない者に、実務だけを担わせることはできないのですか」
僕は思わず口にしていた。
「例えば、武功はないが計算が早い者。家柄は低いが、法や理屈に明るい者。そういう『ただの役人』……という言い方が正しいかわかりませんが。彼らを大量に育てて、感情を交えずに処理させる。彼らの背後には御屋形様の権威だけがある。そうすれば——」
雪斎はゆっくりと振り返った。
その目は、ひどく冷たかった。
「圭。それは『武士をないがしろにする』ということだ」
僕は息を呑んだ。
「家柄を誇り、血を流して土地を守ってきた者たちからすれば、刀も振れぬ下賤な者が、上から理屈で指図してくるということだ。戦場を知らぬ小賢しい役人が、己らの命より重い土地の差配を決める。……武士がそれに黙って従うと思うか」
従うはずがない。
この時代は、暴力が法なのだ。
現代の官僚制は、警察や軍隊といった暴力装置を国家が独占しているから成立する。
だが今は戦国時代。一人一人の武士が独立した武装勢力だ。彼らを理屈や書類だけで統制することなど、不可能に近い。
「わしは僧だから許されておる。だが、お前の言うような『役人』の群れを作れば、遠からず家中は割れる。謀反が起きるぞ」
僕は押し黙った。
雪斎の言う通りだ。僕の考えは、あまりにも現代の常識に毒されすぎていた。戦国という生身の時代の重さを、全く理解していなかった。
「……だが」
雪斎は再び前を向き、経文の束に目を落とした。
「お前の言う『役人』の群れ……それを作らねば、いずれ今川は自重で潰れる。それも事実だ」
静かな声だった。
雪斎もわかっているのだ。自分の代わりがいないことも、今の武士の枠組みのままでは国が回らなくなることも。
必要なのは、派閥に属さない実務家だ。
だが、それを重用すれば、既存の武士階級の逆鱗に触れる。
あちらを立てれば、こちらが立たない。
「……誰か、一人から始めるしかありませんね」
僕は硯の筆を整えながら、ぽつりと言った。
「いきなり群れを作るのではなく、一人。身分は低いが、誰もが舌を巻くほど実務に長けた者を、一人だけ引き上げる。そして、そいつに少しずつ帳面を任せて、武士たちを慣らしていく」
雪斎は答えなかった。
ただ、その沈黙は「それができれば苦労はせぬ」と言っているように聞こえた。
五年。
あと五年で、この巨大な矛盾を抱えたまま、この人は死ぬ。
そして、今川家は崩壊へと突き進むのだ。
秋風が障子を揺らした。
部屋の中は、ひどく冷たかった。




