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【第14話】あと何年

秋の気配が、臨済寺の庭に降りてきていた。

朝の空気が変わった。汗で肌に張りついていた着物が、ようやく体から離れた。境内の銀杏が少しだけ色を変え始めている。


帳簿仕事は相変わらずだった。

寺領からの年貢帳の書き写しと、駿府に出入りする商人の税目録の整理。雪斎が封をした別の箱——軍事や間者の報告——には、僕は近づかない。雪斎も渡さない。それでよかった。


その日、雪斎の部屋に帳面を届けに行くと、障子の向こうから低い咳が聞こえた。

乾いた、短い咳だった。


「失礼します」


声をかけて障子を開けると、雪斎は何事もなかったように書状を読んでいた。硯の横に湯呑みが置いてあるが、手をつけた様子がない。


「帳面を持ってまいりました」


「置け」


僕は言われた場所に帳面を置いた。

立ち上がろうとした時、また咳が来た。今度は少し長かった。雪斎は袖口で口を押さえ、何も言わずに書状に目を戻した。


ただの風邪かもしれない。年齢を考えれば、珍しいことでもない。

だが僕だけが、その咳に決定的な年号を重ねてしまう。


太原雪斎。弘治元年(一五五五年)没。


あと五年。


修論を書いている時には、ただの年号だった。「雪斎の死後、今川家の意思決定構造に空白が生じ——」。その一文を、僕は何の感情もなく打ち込んだ。

今、その「一文」の主語が、目の前で咳をしている。


「……お体は」


「風邪だ」


雪斎は素っ気なく言った。それ以上訊くなという声だった。


僕は部屋を出た。廊下を歩きながら、指先が冷たいことに気づいた。

秋の冷気のせいだと思いたかった。


その晩、雪斎に呼ばれた。

用件は帳簿の確認ではなかった。雪斎は灯明の前に座り、僕にも座るように目で促した。


「圭」


名を呼ばれるのは珍しい。


「お前に訊く。わし一人で裁いている間はよい。だが、処理する帳面は増えておる。人も国も増えれば、いずれこの部屋は詰まる」


雪斎は手元の書状を脇に置いた。


「この仕組み——寺領の台帳、商人の税目録、検地の差配、わしが一手に握っている今の形は、あと何年もつと思う」


僕は息を止めた。


雪斎は自分の体制のことを訊いている。以前、僕が答えてしまった「すべてが一人を通りすぎている」という指摘。あの時、雪斎は「代わりがおらぬ」と認めた。今夜の問いは、その続きだ。


だが僕の耳は、別の言葉を聞いていた。


あと何年もつ。


五年。あなたは、あと五年で死ぬ。

そしてあなたが死んだ後、この仕組みは一気に瓦解する。今川家は組織的な空白に陥り、桶狭間への道が開く。


答えられるわけがなかった。


「……わかりません」


「嘘をつくな」


雪斎の目が細くなった。灯明の揺れる光の中で、老僧の顔に深い影が刻まれている。


「お前は、わかっておるはずだ。帳簿を見て、人の動きを見て、この仕組みの脆さを。だから第一にそう言ったのであろう」


雪斎が訊いているのは、体制の寿命だ。組織の話だ。

だが僕の頭の中では、二つの数字が重なって離れなかった。


「……仕組みが一人に依存している以上、その一人がいなくなれば、すぐに崩れます。引き継ぎも、分散もされていない。一年か、半年か……その一人が、いなくなった瞬間に」


声が震えなかったのは、奇跡だった。


雪斎はしばらく黙っていた。

灯明の芯がパチ、と小さく弾けた。


「わしが死んだ後、か」


僕は顔を上げた。

雪斎は穏やかな顔をしていた。怒りも、動揺もない。自分の死を、ただの前提として扱っている。


「……後始末が悪いのは好かん」


雪斎は湯呑みに手を伸ばし、冷めた白湯を一口だけ飲んだ。


「お前の言う通り、分散がいる。わしの目と耳と手を、何人かに分けねばならん。……だが、誰に、何を、どの順で渡すか。そこが難しい」


僕は黙っていた。

答えを知っている。歴史が証明している。雪斎はこの問題を解けなかった。だから今川は崩壊した。


だが、それを言うことは——歴史に手を突っ込むことだ。


「お前は黙っておるな。いつもそうだ。問えば答えるくせに、肝心なところで口を噤む」


雪斎の声に、かすかな苛立ちが混じった。

初めてだった。この老僧が感情を見せるのは。


「わしはな、圭。お前の素性など、どうでもよい。だが、お前の目には何かが見えておる。見えておるのに、言わぬ。それが——」


雪斎は言いかけて、また咳をした。今度は長かった。

僕は思わず手を伸ばしかけて、止めた。


咳が収まると、雪斎は何事もなかったように姿勢を正した。


「もうよい。下がれ」


僕は頭を下げて部屋を出た。


廊下は暗かった。自分の足音だけが響く。

五年。あと五年。その数字が、頭の中で反響していた。


修論の結論部を思い出した。「太原雪斎の死は、今川家にとって組織的な死であった」。

あの文章を書いた時、僕は優れた分析だと思っていた。指導教授にも褒められた。

今、その「優れた分析」の対象が、冷めた白湯を飲みながら自分の後始末を考えている。


僕は壁に背をつけて、しばらく動けなかった。


歴史を知っているということは、こういうことだ。

目の前の人の死期を知りながら、何もできない。何も言えない。言えば歴史に触れる。言わなければ——あの人は、一人で死ぬ。


秋の虫が、遠くで鳴いていた。


——第1部(転移と邂逅) 完——

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― 新着の感想 ―
観測者に徹するというスタンスの歴史改変ものというのは斬新で、思わず一気読みしました。 スタンスの関係で展開がもどかしくなり、普通の転生モノのような娯楽的快感(身勝手な快感)は少ないですが、それを補う考…
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