【第13話】海の向こう
数日後、僕は雪斎の使いで再び駿府の市に出た。
用事を済ませた後、あの両替商の前に足を向けた。
改めて見ると、その店は単なる両替商というより巨大な物流の拠点だった。
店の奥には広い土間があり、いくつもの荷車が出入りしている。茶、塩、干魚、見慣れない布。駿河湾に面した清水湊から運ばれてきた品々が、ここで各地へ送られていくらしい。
「いらっしゃい。また鐚銭の両替?」
奥から佐夜が出てきた。今日は帳面ではなく、小さな木箱を抱えている。
「いや、今日は用事は終わったんだ。……忙しそうですね」
「父と兄が船で遠江まで出てるからね。清水湊の荷は、今ほとんどあたしが捌いてる」
十五、六の娘が取り仕切る規模ではない。だが、土間で働く男たちは誰も彼女を軽んじていなかった。彼女の指示は的確で、無駄がない。
「で? 用事がないのに来たってことは、また面白い『理屈』を売りに来た?」
「いや……」
「冗談だよ」
佐夜は笑い、土間の隅にある上がり框に腰を下ろした。僕にも座るように顎で促す。
彼女が抱えていた木箱を開けると、中には見慣れない小物が詰まっていた。鮮やかな染め物の切れ端や、奇妙な形をした香木。
「これ、西の方から回ってきた荷の一部。湊の連中は『海の向こう』の品だって言うんだけどね」
「海の向こう、ですか」
「明国だけじゃないらしいよ。もっとずっと南の、誰も知らない国から来たらしい。親父の話じゃ、最近、見たこともない大きな船が西の海をうろついてるって噂だ」
佐夜は香木を鼻に近づけ、匂いを嗅ぐようにしながら目を細めた。
「背が高くて、鼻の高い異人。雷みたいな音を出して人を撃ち殺す、鉄の筒。……ただの船乗りのホラ話かもしれないけどね」
僕は黙って聞いていた。
心臓の鼓動が、少しだけ早くなっていた。
(鉄砲だ)
背筋が凍った。
もう、伝わっている。そして——その後ろから来るものを、僕は知っている。
歴史の知識としては、当然知っていた。
修論の本筋ではなかったが、桶狭間以後の戦国史を考える時、鉄砲と南蛮貿易を避けて通ることはできない。
だが、教科書で文字を追うのと、生きた人間の口から「得体の知れない恐ろしい噂」として聞くのとでは、まったく違う。
南蛮船。
彼らが運んでくるのは、珍しい品や新技術だけではない。火薬の匂いと、交易と布教と征服が絡み合った、海の向こうの巨大な歴史そのものだ。
僕がこれまで直面してきたのは、今川や織田といった「日本の戦国時代」だった。
だが、海は繋がっている。この海の向こうから、日本の理屈など通じない、別の世界の歴史が口を開けて迫ってきているのだ。
雪斎の政治の現場を見た時と同じ、いや、それ以上のめまいを覚えた。
文献上の知識に過ぎなかったものが、圧倒的な質量と熱を持って、僕の足元を揺らしている。
「……信じるの?」
僕が黙り込んでいると、佐夜が不思議そうに首を傾げた。
「え?」
「雷を撃つ筒なんて。馬鹿馬鹿しいおとぎ話みたいでしょ」
「……いや。海はずっと遠い異国に繋がってますから。僕たちの常識が通用しない、恐ろしいからくりがあってもおかしくないと思います」
僕は知っている事実を隠すように、慎重に言葉を選んだ。
「武士たちは、山の向こうの領地を奪い合って毎日殺し合いをしてる。でも、商人は違う」
佐夜は木箱を撫でながら、ふっと笑った。
「海には境目がない。湊から船を出せば、見たこともない国に繋がってる。怖いけどね……でも、胸が躍る。あんたの言った『悪貨は良貨を駆逐する』って理屈もそうだよ。武士の刀じゃ相場は斬れない。まあ、刀で脅されたら値は下げるけどね」
佐夜は片目を瞑って笑う。
「でも、理屈を知っていれば、海の向こうの得体の知れない相手とだって、渡り合えるかもしれない」
その横顔には、恐怖よりも純粋な野心があった。
生身の商人。海という途方もない不確実性を前にして、それでも利益と未知を求めて船を出す人種。
「あんた、今、すごく遠くを見てるね」
佐夜がこちらを見た。
「そう見えますか」
「うん。うちの親父が、新しい湊を開く算段をしてる時と同じ目。……あんた、寺の帳簿係って言ったけど、本当は何者なの?」
「ただの、迷い人です」
「ふうん。まあ、今はそれでいいや。でも、あんたの頭の中には、まだあたしたちの知らない理屈がたくさん詰まってるんでしょ? いつか、全部吐き出してもらうからね」
佐夜は面白そうに笑うと、土間の外――駿河湾へと続く道を真っ直ぐに見やった。
僕も釣られるように、同じ方角へ目を向ける。
吹き込んだ風に乗って、微かに潮の香りがした。




