最終話 一生分の余白
薬草院の日々は、忙しく、騒がしく、そして呆れるほど風通しがいい。
先日、見習いの少女が処方の改良案を持ってきた。膏薬の基材を替えて、伸びを良くする工夫だった。おっかなびっくり差し出された紙を検分して、私は告げた。
「採用します。台帳に登録するので、ここに考案者の名前を」
「え……ええと、院長さまのお名前では」
「規則第一条を三回読んでから、自分の名前をお書きなさい」
彼女は泣きそうな顔で自分の名を書き、その台帳の頁を三日間、通りかかるたびに眺めていた。気持ちは、痛いほどわかる。私は二十七まで、その頁を持てなかったから。あなたは十六で持てた。それでいい。それがいい。
夕暮れの調合室で、ステラがぽつりと言ったことがある。
「お姉さま。私、あの家でお姉さまの給金のこと、黙っていました。今さら許してほしいとは言いません。でも」
「ステラ。あなたの鼠尾草、乾かしすぎ。明日はもう半日早く取り込みなさい」
「……はい」
「それから、次の休みに街へ出ます。妹と茶を飲むのは初めてだから、店はあなたが選ぶこと」
ステラは薬草の束を抱えたまま、しばらく黙って、それはもう盛大に泣いた。乾燥中の薬草の前で泣くのはやめてほしい。湿気るので。
夜、将軍府に帰ると、いつもの儀式が待っている。
「手を」
「もう治っておりますが」
「管轄だと言ったはずだ」
観念して差し出すと、彼は今夜も丁寧に膏薬を塗る。剣だこの指が、指の股を一本ずつ辿っていく。この時間に一日の話をするのが、いつの間にか習いになった。見習いの初登録の話をしたら、彼は目を細めた。
「その台帳、いずれ国で一番重い帳面になるな」
「大裈裟です」
「大裈裟なものか。人の仕事に正しく名前がつく国は、強くなる。……四千人の名無しの薬師が、それを証明した」
「もう、名無しではありませんけれど」
「ああ。毎日呼んでいる私が、一番よく知っている」
こういうことを、真顔で。何度目でも、心臓に悪い。
◇
結婚式は、薬草院の中庭で挙げた。
大聖堂で、と勧める周囲を、アルヴィスさまが「妻の職場が世界で一番いい」と押し切った。参列してくれた国境の兵たちの胸には、葉の形に折った緑の飾り。誰の発案かは、聞くまでもなかった。
入場の道の両脇で、兵たちが一斉に剣を掲げた。将軍への礼だと思って通り過ぎようとしたら、隊列の古参が笑って首を振った。
「奥方さまへの礼であります。シェラ峠の生き残り、総員、あなたの薬で今日ここに立っておりますので」
歩き出しの三歩目で早くも涙腺が危うくなった花嫁は、私くらいのものだと思う。隣の人が「言っただろう、四千人だと」と、少し得意げだったのが憎らしい。
「誓いの前に、渡したいものがある」
彼が差し出したのは、使い込まれた古い手帳だった。開いて、息が止まった。
八年分の記録だった。携行薬が変わった年の、部隊ごとの生存者数。膏薬が加わった年。包み紙の折り方の、不器用な写生。「作り手はおそらく几帳面で、寒がり(冬は蝋の封が早く厚くなる)」という推測書きまである。当たっている。私は筋金入りの寒がりだ。
「あなたを見つけるずっと前から、私はあなたの仕事の、最初の記録係だった」
冬空の瞳が、まっすぐに私を見た。
「これからは隣で記録する。あなたが何を作り、誰を救い、どんな顔で笑ったか。全部だ。……後ろ半分は、そのために空けてある」
手帳の後ろ半分は、まっさらだった。一生分の余白だった。
ああ、もう、駄目だ。人生で四度目の人前の涙は、誓いの言葉より先に来てしまった。
かつて、私は名前のない薬師だった。行き遅れと呼ばれ、雑用係と呼ばれ、誰の記録にも残らなかった。それでも間違っていなかったと、今なら言える。積み上げたものは消えない。見ている人は、いる。いなければ――自分の名前で、記録が残る場所を作ればいい。私の薬草院の規則第一条は、今日も新しい薬師たちを守っている。
「リディア」
ほら、また呼んだ。用もないのに。
「なんでしょう、旦那さま」
「用ならある。誓いの言葉の最中に泣かれると、私の理性の管轄外なのだが」
「まあ。管轄外のときは、どうなさるの」
「こうする」
額に、唇が落ちてきた。中庭が沸き、鐘が鳴り、私は真っ赤になって俯いた。二十七年分の遅れなど、この人の隣では、最初からなかったことになっている。
名前を呼ばれるということは、こんなにも、あたたかい。
(了)




