「またあの子を優先するのですか?」と言うのをやめた日
私は伯爵ロシュフォールの娘、アニエス・ロシュフォール。
王都の夜会に一人で到着した。馬車の扉を開けた従僕が、後ろに誰もいないことを確かめて、ほんの少しだけ目を伏せた。
今夜の会場は、王都でも古い歴史を持つヴァロワ侯爵家の大広間だった。招待状には、婚約者同伴の席が用意されていると書かれていた。
「ロシュフォール様、リュシアン様は後ほどお越しで?」
受付に立つ年配の侍従が、名簿を見ながら声を落とした。婚約者である騎士団副長リュシアン・ベルナールは、こういう場に遅れる男ではなかった。
「来ません。席は私一人で使います」
侍従の指先が、名簿の上で止まった。近くにいた令嬢二人が、扇の陰で顔を寄せ合うのが見えた。
「ですが、お二人分でご用意がございます」
「では、椅子を一つ下げてください。空席に話しかける趣味はありませんので」
侍従は一度だけ目を瞬かせたあと、深く礼をした。背後で誰かが、小さく息を飲む音を立てた。
不思議なものだ。何度も置き去りにされたのに、最後の一度だけは周囲の方が先に傷ついた顔をする。
リュシアンが来ないことは、昼の時点で分かっていた。彼の幼馴染である子爵令嬢セリーヌ・マローが、また体調を崩したからだ。
また、である。春の観劇も、夏の庭園会も、秋の王立劇場の招待席も、ぜんぶ同じ名で横へ流れた。
セリーヌ・マロー子爵令嬢は、幼い頃から体が弱いと言われている女性だった。細い首に淡い布を巻き、少し咳をしただけで、周囲の男たちが椅子を探し始める。
最初、彼女を心配した。二度目には見舞いの花を持たせた。三度目には、リュシアンが前で外套を取りに戻るのを見送った。
四度目に、口にした。
「またあの子を優先するのですか?」
彼は困った顔をした。無慈悲な女にでもなったように、眉を下げて私の名を呼んだ。
「アニエス、そんな言い方をしないでくれ。セリーヌは本当に苦しんでいるんだ」
「では、苦しんでいないことにしておきます」
「そういう話ではない。君は強い人だろう」
その言葉が、皮膚に細い針を刺すように残った。強いと言えば、放っておいてよいのか。立っていられる女は、置き去りにしてよいのか。
それからは、もう聞かなくなった。聞いても答えは変わらず、答えが変わらないなら、こちらの声だけが減っていく。
今夜、一人で大広間へ入った。空いた椅子を下げられた席は、思ったより広く見えた。
侯爵夫人が近づいてくる。ヴァロワ侯爵夫人マルティーヌは、この夜会の主催者であり、王都の令嬢たちが最も恐れる上品な老婦人だった。
「アニエス嬢、ベルナール副長は急なお役目かしら」
「いいえ、幼馴染の方の付き添いです」
「まあ。今夜も」
今夜も、という短い言葉で、これまでの分がきれいに並べられた気がした。夫人の扇が、ゆっくりと閉じる。
「お席を一つ下げさせていただきました。ご迷惑でしたら、端へ移ります」
「迷惑ではありませんよ。空席より、きちんと座る方を大事にする夜会ですもの」
侯爵夫人は、それだけ言って私の手を取った。周囲に聞こえる声ではなかったが、近くの貴婦人たちには充分届いた。
席についた。隣には誰もいない。前には銀の皿と、まだ触れられていない葡萄酒があった。
最初の挨拶が始まる前、隣の席に座った青年が軽く頭を下げた。隣国大使の甥であるオーギュスト・ラフォン子爵令息だと、受付で紹介されたばかりだった。
「ロシュフォール伯爵令嬢、お隣を失礼いたします。空席と会話するよりは、ましな相手でありたいものです」
「空席は、少なくとも返事を遅らせませんわ」
「それは手厳しい。では、遅れないよう努めましょう」
その返しに、思わず笑いそうになった。口元を扇で隠すと、彼は目だけで笑った。
食事が始まる。誰も、リュシアンの名をあえて口にしない。ただ、話の合間に左隣へ視線が落ちる。
空席はない。椅子は下げられている。それだけで、彼の不在はずっと目立った。
中盤のダンスの時間になった。婚約者がいる令嬢は、まず婚約者と踊る。だが前に立ったのは、侯爵夫人の孫であるエクトル侯爵令息だった。
「ロシュフォール嬢、一曲お願いしてもよろしいでしょうか」
「婚約者のある身で、よろしいのですか」
「今夜、あなたの隣に婚約者は見当たりませんので」
言葉は柔らかい。けれど、遠慮の幕は一枚もなかった。差し出された手に、手袋越しの指を乗せた。
「では、空いた一曲を埋めていただきます」
「光栄です。空けた方には、あとで空白の広さを知っていただきましょう」
床に出ると、音楽が始まった。踏み出しながら、窓の方へ目を向ける。そこには夜の庭が広がり、馬車道の明かりが小さく揺れていた。
リュシアンは来ない。今夜も、来ない。
胸の中にあったはずの痛みは、いつの間にか形を変えていた。鋭いものではなく、使わなくなった手袋のように、もう自分のものではない感じがした。
曲が終わると、拍手が起きた。エクトルは礼をし、席まで送ってくれた。
「ベルナール副長は、惜しいことをなさる」
「彼は惜しいと思っていないでしょう。思う方は、来ますから」
「では、来ない方に合わせる必要もありませんね」
私は返事をしなかった。返事をすると、まだ彼のために言葉を使っていることになる。
夜会が終わる頃、侯爵夫人が私の元へ戻ってきた。彼女の手には、小さな封筒があった。
「アニエス嬢、来月の茶会にもいらして。今度は、お一人分で招待状を出します」
「ありがとうございます。助かります」
「ええ。椅子は、座る方のために置くものですから」
礼をした。返事の代わりに、扇の骨を軽く閉じる音が鳴った。
◇
翌日の昼過ぎ、リュシアンが屋敷へ来た。
ロシュフォール伯爵家の応接間は、庭の薔薇がよく見える部屋である。父であるロシュフォール伯爵アルベールは、仕事部屋から顔を出さなかった。
母である伯爵夫人エレーヌは、紅茶だけを用意させて退室した。つまり、この話は私が終わらせなさい、ということだった。
リュシアン・ベルナール騎士団副長は、青い騎士服の襟元を少し乱していた。徹夜明けの顔ではあったが、倒れそうなほどではない。
「アニエス、昨日はすまなかった。セリーヌが急に高熱を出して、医師が来るまで離れられなかったんだ」
「そうですか」
「怒っているのか」
「怒ってほしいのですか」
彼は言葉を詰まらせた。テーブルの上で、彼の指が紅茶の皿の縁をなぞる。
「そういう意味ではない。ただ、君が何も言わないから」
「言っていましたよ。何度も」
「だから、今回は違うんだ。セリーヌは本当に危なかった。昨日ばかりは仕方がなかった」
「昨日ばかり、ですか」
膝の上で両手を重ねた。爪先に力が入りそうになり、手袋の内側で指をゆるめる。
「観劇の日も、庭園会の日も、劇場の招待席の日も、仕方がなかったのでしょう。なら、全部まとめて仕方がないのです」
「分かってくれたのか」
「ええ。分かりました」
彼の顔に、安堵が広がった。その顔を見て、やっぱりこの人は何も受け取っていなかったのだと思った。
「では、次の約束をしよう。今度は必ず時間を空ける。君の好きな菓子店でも、湖畔の散歩でもいい」
「空けていただく時間は、もう残っていませんけど」
リュシアンは、椅子の背から身を起こした。まるで部屋の床が一段落ちたかのように、彼の目が揺れた。
「アニエス?」
「昨日の夜会で、あなたの席は下げてもらいました。来月の茶会も、私一人分で招待されます」
「待ってくれ。たかが夜会一つで、そこまで言うのか」
「たかが夜会一つでしたか。では、来なかったあなたにも軽い話ですね」
「違う。君との婚約を軽く見ているわけではない」
「軽く見ていないものを、そんなに何度も置き忘れられるのですね」
彼は立ち上がった。すぐに座り直したのは、応接間で声を荒げるわけにはいかないと思い出したからだろう。
「セリーヌは幼馴染なんだ。家族同然なんだよ」
「私は何ですか」
「君は婚約者だ。当然、大事に思っている」
「家族同然の方が倒れるたび、当然大事な婚約者は後でよいのですね」
「そんなふうに比べる話ではない」
「あなたが毎回、順番を決めていました」
彼の唇が開いたまま止まった。比べていないと言いながら、毎回選んでいたことに、今さら気づいた顔だった。
扉が軽く叩かれた。入ってきたのは、私の侍女であるマリベル・シャンソンだった。彼女は伯爵家に仕える侍女で、幼い頃から私の衣装と外出を任されている。
「お嬢様、昨日お預かりした封筒をお持ちしました」
「ありがとう、マリベル」
彼女が差し出した封筒を、テーブルに置いた。中には、ヴァロワ侯爵夫人からの茶会の招待状が入っている。
宛名は、私一人の名だった。
リュシアンの視線が、封筒に釘付けになる。彼はそっと手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「なぜ、私の名がない」
「昨日いなかったからです」
「それだけで?」
「ええ。それだけの積み重ねです」
彼の喉が動いた。何かを飲み込んだようだったが、言葉にはならなかった。
「アニエス、君を見捨てたつもりはない」
「つもりがなくても、何度も待ちました」
「セリーヌには私しかいないんだ」
「私には、誰もいません」
彼は初めて、私の顔をまっすぐ見た。そこに驚きがあったのは、私が一人で立っていることを、今まで見ていなかったからだろう。
「婚約解消の話は、父からあなたの家へ出します」
「本気なのか」
「はい」
「一度、きちんと話し合おう。君に謝りたい」
「謝るための時間も、セリーヌ様の具合次第ですか」
彼は息を止めた。部屋の隅で、マリベルが盆を持つ手にほんの少し力を入れたのが分かる。
「そんな言い方をしないでくれ」
「では、どんな言い方なら間に合いましたか」
沈黙が落ちた。外では庭師が鋏を動かしている。薔薇の枝が切れる小さな音だけが、やけにはっきり聞こえた。
リュシアンは、椅子から立ち上がった。今度は座り直さなかった。
「また来る」
「お約束は結構です」
「アニエス」
「守られない約束を増やされると、数える手間がかかりますから」
彼は何も言えず、礼だけをして部屋を出た。扉が閉まったあと、マリベルが盆を置いて深く息を吐いた。
「お嬢様、最後の一言は少々強すぎたかと」
「今までが弱すぎたのよ」
「それはまあ、屋敷中の者が存じております」
マリベルの返事に、私はやっと笑った。声は大きくなかったが、胸の中の古い結び目が一つほどけた。
◇
三日後、セリーヌ・マロー子爵令嬢が屋敷に来た。
薄桃色のドレスに白いショールを巻き、侍女に支えられている。顔色は悪く見えるように作られていたが、足取りは思ったより確かだった。
応接間に通すと、彼女は向かいに座る前から目を潤ませた。マロー子爵家の令嬢セリーヌは、リュシアンの幼馴染であり、彼の時間を何度も持ち去った女性だった。
「アニエス様、お願いです。リュシアンを責めないでくださいませ」
「座ってから泣いた方が、安定しますよ」
セリーヌは半端な姿勢で止まった。支えていた侍女が慌てて椅子を引き、彼女はそこへ腰を下ろした。
「わたくし、本当に体が弱いんです。リュシアンが来てくださらないと、とても不安で」
「医師ではなく、婚約者のある騎士団副長でなければ駄目なのですね」
「幼い頃から、そうでしたもの。わたくしが苦しい時、彼は必ず来てくれました」
「では、その習慣を続けてください。降ります」
セリーヌの涙が止まった。まるで欲しかった菓子箱を渡されたのに、中身が塩だったような顔をしている。
「降りる、とは」
「婚約を解消します。これで、あなたが彼を呼んでも私の予定は壊れません」
「そんな、わたくしのせいで婚約を壊すなんて」
「あなたのせいだけではありません。リュシアン様が毎回選びました」
「でも、わたくしは彼を奪いたいわけでは」
「奪う気がなくても、毎回呼んでいましたね」
セリーヌは唇を噛んだ。白い指がショールの端をつかみ、皺を作る。
「それは、具合が悪かったからです」
「では、これからは遠慮なく呼べます。おめでとうございます」
「おめでとうなんて、ひどいです」
「困りましたね。泣かれても、私の婚約者はもう呼べません」
彼女の顔が、初めてはっきり歪んだ。そこにあったのは弱さではなく、思い通りの形にならなかった苛立ちだった。
「アニエス様はお強いから、分からないんです。弱い者がどんなに心細いか」
「強い女なら待たせてもよいと、リュシアン様にも言われました」
「そんなつもりでは」
「つもりのない方が多すぎて、もう席が足りませんね」
マリベルが後ろで咳払いをした。笑いを噛み殺したのだと分かったが、見ないふりをした。
セリーヌは立ち上がろうとして、膝の上のショールを落とした。拾おうとした侍女より先に、それをつまみ上げる。
「お忘れ物です」
「……ありがとうございます」
「次は、リュシアン様の上着でもお借りになればよろしいのでは。もう、返すよう頼まれることもありませんから」
セリーヌは青ざめた。ようやく、自分が得たものの形に気づいたのだろう。
これから彼女が具合を悪くするたび、リュシアンは駆けつける。誰も止めない。誰も責めない。誰も二人の間に残らない。
ただし、その世話を美談にしてくれる婚約者も、もういない。
◇
婚約解消の話は、思ったより早く進んだ。
父はリュシアンの父であるベルナール伯爵に書簡を送り、母は私の衣装部屋から、婚約式用に仕立てていた淡青色のドレスを出させた。
切り裂くわけではない。誰かに譲るわけでもない。母はそれを見て、飾りのリボンだけ外した。
「これは春の外出着にしましょう。婚約者の顔色を見るための青ではなく、あなたの顔色をよく見せる青ですもの」
「お母様、なかなか言いますね」
「娘が何度も待たされていたのに、母親が黙っていただけだと思われるのは心外です」
母は針箱を閉じ、私の頬に軽く触れた。伯爵夫人エレーヌは、社交の場では柔和に見えるが、家の中では私よりずっと辛辣である。
「アニエス、泣きたければ泣きなさい」
「今は、腹が立っています」
「結構。涙より歩きやすいわ」
その言葉で、喉の奥が熱くなった。泣かなかったのは、意地ではない。泣くための時間まで、彼に渡したくなかった。
その週の終わり、王都の茶会でリュシアンとセリーヌを見かけた。会場は白い藤棚のある庭園で、招待客は多くなかった。
リュシアンはセリーヌの椅子のそばに立っていた。彼女は膝に薄い膝掛けを置き、時々胸元に手を当てる。
周囲の令嬢たちは、優しい顔をして二人を見ていた。だが、その優しさは以前と違った。憧れではなく、少し距離を置くための顔だった。
「ベルナール副長、今日もマロー嬢のお付き添いですのね」
「ええ、彼女はまだ本調子ではありませんので」
「まあ。では、舞踏会もずっとそのように?」
聞いたのは、ヴァロワ侯爵夫人だった。リュシアンは笑おうとして、失敗した。
「必要があれば」
「必要は続くものですものね。大変ですこと」
夫人の言葉に、庭園の空気が一瞬だけ薄くなった。セリーヌは慌てて口を開く。
「あの、リュシアンは優しいだけで、わたくしが無理を言っているわけでは」
「ええ。皆さま、そう思っておりますよ」
その返事が一番きつい。少し離れた席で紅茶を飲みながら、葡萄の砂糖漬けを一つ口に入れた。
隣に座ったオーギュスト・ラフォン子爵令息が、皿の上をのぞき込む。
「ロシュフォール嬢、その菓子は甘いですか」
「見た目より酸っぱいです」
「では、今の会話に合いますね」
「あなた、意外と口が悪いのですね」
「空席よりましな相手を目指しておりますので」
また笑いそうになり、今度は扇で隠さなかった。笑ってから、リュシアンの視線がこちらを向いていることに気づいた。
彼は何か言いたげだった。しかし、セリーヌが袖を引くと、すぐ彼女の方へ体を向けた。
その動きが、答えだった。彼はまだ選んでいる。けれど、もう私の前ではなかった。
茶会の終わり際、リュシアンが私の元へ来た。セリーヌは少し離れた椅子で、侍女に扇いでもらっている。
「アニエス、少し話せるか」
「ラフォン子爵令息と話しているところです」
「少しだけでいい」
オーギュストが、困ったように眉を上げた。だが、席を立たなかった。
「ベルナール副長、会話の途中に入るのは、騎士団の作法ですか」
「あなたには関係ない」
「いえ、今この方と話している相手は私です」
リュシアンの頬が引きつった。以前なら、彼が来れば彼に合わせて立った。だから彼は、断られる形を知らない。
「アニエス、本当に後悔している」
「では、後悔のそばにいてください。私はもうそこにいません」
「君は変わった」
「はい。待つのをやめましたから」
彼は目を伏せた。セリーヌが遠くからこちらを見ている。呼びたいのに、今呼べばどう見えるかを考えている顔だった。
リュシアンは、その視線に気づいた。気づいて、私の前に残ろうとした。初めて、彼は選ぶ前に迷った。
遅い。
「リュシアン様」
セリーヌの声がした。小さく、けれど全員に聞こえる高さだった。
リュシアンの肩が揺れた。彼は私を見て、セリーヌを見て、唇を噛んだ。
「行って差し上げたら?」
「アニエス」
「今さら私の前で我慢されても、これまでの分は戻りません」
彼は何も言えなかった。やがて、セリーヌの方へ戻っていく。その背中を見て、紅茶のカップを置いた。
オーギュストが小さく息を吐く。
「追いかけられたら、どうなさるつもりでした?」
「追いかけられない人だと、もう知っています」
「では、安心して菓子を勧められますね」
「酸っぱい方ですか」
「ええ。今のあなたには、甘すぎるものより似合いそうだ」
その言い方があまりに真顔だったので、今度こそ声を出して笑った。
◇
一か月後、リュシアンとセリーヌの噂は、王都の茶会を一巡していた。
彼はどこへ行っても、セリーヌの体調に合わせて席を立つ。彼女はどこへ行っても、リュシアンが離れると具合を悪くする。
誰も悪者にはしない。ただ、招待状の数が減った。踊りの申し込みが減った。騎士団の同僚たちも、彼を重要な席へ連れて行かなくなった。
ある午後、伯爵家の門前にリュシアンが立っていた。雨上がりの石畳に、彼の靴先が濡れている。
玄関広間で彼と向き合った。応接間へ通すつもりはなかった。
「アニエス、最後に一つだけ聞きたい」
「はい」
「いつから、私を諦めていた」
問いかける声は、以前より少し低かった。やつれてはいるが、それを支える相手はここにはいない。
「あなたが約束を破った日ではありません」
「では、いつだ」
「破ったあと、次の約束を当然のように差し出した日です」
彼の顔が歪んだ。
「埋め合わせをしようと」
「穴を開けた人が、次の穴を掘る話をしていたのです」
雨樋から落ちた雫が、石に当たって跳ねた。彼は何度も何か言おうとして、結局、一つも形にできなかった。
「セリーヌは、私がいなければ不安定になる」
「では、そばにいて差し上げてください」
「君は、平気なのか」
「平気になるまで、あなたが何度も練習させてくれました」
リュシアンは、目を閉じた。悔しそうでもあり、泣きそうでもあった。だが、私はもうその顔をほどく役ではない。
「アニエス、君にひどいことをした」
「ええ」
「許してくれとは言えない」
「はい」
「それでも、幸せでいてほしい」
「その言葉は、私の幸せに必要ありません」
彼は苦笑した。初めて、自分の言葉が届かないことを受け入れた顔だった。
「君は本当に強いな」
「いいえ。強い人だと言われるのに飽きただけです」
リュシアンは深く礼をした。以前よりずっと長い礼だった。返したのは、客人へ向ける浅い礼だった。
彼が門を出ていくと、マリベルが玄関の奥から顔を出した。
「お嬢様、よろしかったのですか」
「何が?」
「最後くらい、もう少し優しくしてもよかったかと」
「優しい女は、セリーヌ様のそばに置いてきたわ」
「なるほど。では、お嬢様には何が残りました?」
濡れた石畳の向こうを見た。雲の切れ間から、春の光が落ちている。
「椅子と、時間と、酸っぱい菓子」
「あと、ラフォン子爵令息から届いた茶会の招待状もございます」
「それは早く言って」
マリベルが笑いながら、銀の盆に乗せた封筒を差し出した。宛名は、私一人の名で書かれている。
封を切ると、短い一文が添えられていた。
『空席のない茶会です。よろしければ、酸っぱい菓子をご一緒に』
封筒を閉じ、胸の前で軽く叩いた。もう誰かの予定の端に座るつもりはない。
「マリベル、青いドレスを出して」
「婚約式用だったものですか」
「春の外出着になった方よ」
「かしこまりました。今度は、ちゃんとお嬢様のための青ですね」
私はうなずいた。窓の外では、雨の名残を受けた薔薇の葉が光っていた。
完。
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