表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

「またあの子を優先するのですか?」と言うのをやめた日

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/04/25

 私は伯爵ロシュフォールの娘、アニエス・ロシュフォール。

 王都の夜会に一人で到着した。馬車の扉を開けた従僕が、後ろに誰もいないことを確かめて、ほんの少しだけ目を伏せた。


 今夜の会場は、王都でも古い歴史を持つヴァロワ侯爵家の大広間だった。招待状には、婚約者同伴の席が用意されていると書かれていた。


「ロシュフォール様、リュシアン様は後ほどお越しで?」


 受付に立つ年配の侍従が、名簿を見ながら声を落とした。婚約者である騎士団副長リュシアン・ベルナールは、こういう場に遅れる男ではなかった。


「来ません。席は私一人で使います」


 侍従の指先が、名簿の上で止まった。近くにいた令嬢二人が、扇の陰で顔を寄せ合うのが見えた。


「ですが、お二人分でご用意がございます」


「では、椅子を一つ下げてください。空席に話しかける趣味はありませんので」


 侍従は一度だけ目を瞬かせたあと、深く礼をした。背後で誰かが、小さく息を飲む音を立てた。


 不思議なものだ。何度も置き去りにされたのに、最後の一度だけは周囲の方が先に傷ついた顔をする。


 リュシアンが来ないことは、昼の時点で分かっていた。彼の幼馴染である子爵令嬢セリーヌ・マローが、また体調を崩したからだ。


 また、である。春の観劇も、夏の庭園会も、秋の王立劇場の招待席も、ぜんぶ同じ名で横へ流れた。


 セリーヌ・マロー子爵令嬢は、幼い頃から体が弱いと言われている女性だった。細い首に淡い布を巻き、少し咳をしただけで、周囲の男たちが椅子を探し始める。


 最初、彼女を心配した。二度目には見舞いの花を持たせた。三度目には、リュシアンが前で外套を取りに戻るのを見送った。


 四度目に、口にした。


「またあの子を優先するのですか?」


 彼は困った顔をした。無慈悲な女にでもなったように、眉を下げて私の名を呼んだ。


「アニエス、そんな言い方をしないでくれ。セリーヌは本当に苦しんでいるんだ」


「では、苦しんでいないことにしておきます」


「そういう話ではない。君は強い人だろう」


 その言葉が、皮膚に細い針を刺すように残った。強いと言えば、放っておいてよいのか。立っていられる女は、置き去りにしてよいのか。


 それからは、もう聞かなくなった。聞いても答えは変わらず、答えが変わらないなら、こちらの声だけが減っていく。


 今夜、一人で大広間へ入った。空いた椅子を下げられた席は、思ったより広く見えた。


 侯爵夫人が近づいてくる。ヴァロワ侯爵夫人マルティーヌは、この夜会の主催者であり、王都の令嬢たちが最も恐れる上品な老婦人だった。


「アニエス嬢、ベルナール副長は急なお役目かしら」


「いいえ、幼馴染の方の付き添いです」


「まあ。今夜も」


 今夜も、という短い言葉で、これまでの分がきれいに並べられた気がした。夫人の扇が、ゆっくりと閉じる。


「お席を一つ下げさせていただきました。ご迷惑でしたら、端へ移ります」


「迷惑ではありませんよ。空席より、きちんと座る方を大事にする夜会ですもの」


 侯爵夫人は、それだけ言って私の手を取った。周囲に聞こえる声ではなかったが、近くの貴婦人たちには充分届いた。


 席についた。隣には誰もいない。前には銀の皿と、まだ触れられていない葡萄酒があった。


 最初の挨拶が始まる前、隣の席に座った青年が軽く頭を下げた。隣国大使の甥であるオーギュスト・ラフォン子爵令息だと、受付で紹介されたばかりだった。


「ロシュフォール伯爵令嬢、お隣を失礼いたします。空席と会話するよりは、ましな相手でありたいものです」


「空席は、少なくとも返事を遅らせませんわ」


「それは手厳しい。では、遅れないよう努めましょう」


 その返しに、思わず笑いそうになった。口元を扇で隠すと、彼は目だけで笑った。


 食事が始まる。誰も、リュシアンの名をあえて口にしない。ただ、話の合間に左隣へ視線が落ちる。


 空席はない。椅子は下げられている。それだけで、彼の不在はずっと目立った。


 中盤のダンスの時間になった。婚約者がいる令嬢は、まず婚約者と踊る。だが前に立ったのは、侯爵夫人の孫であるエクトル侯爵令息だった。


「ロシュフォール嬢、一曲お願いしてもよろしいでしょうか」


「婚約者のある身で、よろしいのですか」


「今夜、あなたの隣に婚約者は見当たりませんので」


 言葉は柔らかい。けれど、遠慮の幕は一枚もなかった。差し出された手に、手袋越しの指を乗せた。


「では、空いた一曲を埋めていただきます」


「光栄です。空けた方には、あとで空白の広さを知っていただきましょう」


 床に出ると、音楽が始まった。踏み出しながら、窓の方へ目を向ける。そこには夜の庭が広がり、馬車道の明かりが小さく揺れていた。


 リュシアンは来ない。今夜も、来ない。


 胸の中にあったはずの痛みは、いつの間にか形を変えていた。鋭いものではなく、使わなくなった手袋のように、もう自分のものではない感じがした。


 曲が終わると、拍手が起きた。エクトルは礼をし、席まで送ってくれた。


「ベルナール副長は、惜しいことをなさる」


「彼は惜しいと思っていないでしょう。思う方は、来ますから」


「では、来ない方に合わせる必要もありませんね」


 私は返事をしなかった。返事をすると、まだ彼のために言葉を使っていることになる。


 夜会が終わる頃、侯爵夫人が私の元へ戻ってきた。彼女の手には、小さな封筒があった。


「アニエス嬢、来月の茶会にもいらして。今度は、お一人分で招待状を出します」


「ありがとうございます。助かります」


「ええ。椅子は、座る方のために置くものですから」


 礼をした。返事の代わりに、扇の骨を軽く閉じる音が鳴った。



 翌日の昼過ぎ、リュシアンが屋敷へ来た。


 ロシュフォール伯爵家の応接間は、庭の薔薇がよく見える部屋である。父であるロシュフォール伯爵アルベールは、仕事部屋から顔を出さなかった。


 母である伯爵夫人エレーヌは、紅茶だけを用意させて退室した。つまり、この話は私が終わらせなさい、ということだった。


 リュシアン・ベルナール騎士団副長は、青い騎士服の襟元を少し乱していた。徹夜明けの顔ではあったが、倒れそうなほどではない。


「アニエス、昨日はすまなかった。セリーヌが急に高熱を出して、医師が来るまで離れられなかったんだ」


「そうですか」


「怒っているのか」


「怒ってほしいのですか」


 彼は言葉を詰まらせた。テーブルの上で、彼の指が紅茶の皿の縁をなぞる。


「そういう意味ではない。ただ、君が何も言わないから」


「言っていましたよ。何度も」


「だから、今回は違うんだ。セリーヌは本当に危なかった。昨日ばかりは仕方がなかった」


「昨日ばかり、ですか」


 膝の上で両手を重ねた。爪先に力が入りそうになり、手袋の内側で指をゆるめる。


「観劇の日も、庭園会の日も、劇場の招待席の日も、仕方がなかったのでしょう。なら、全部まとめて仕方がないのです」


「分かってくれたのか」


「ええ。分かりました」


 彼の顔に、安堵が広がった。その顔を見て、やっぱりこの人は何も受け取っていなかったのだと思った。


「では、次の約束をしよう。今度は必ず時間を空ける。君の好きな菓子店でも、湖畔の散歩でもいい」


「空けていただく時間は、もう残っていませんけど」


 リュシアンは、椅子の背から身を起こした。まるで部屋の床が一段落ちたかのように、彼の目が揺れた。


「アニエス?」


「昨日の夜会で、あなたの席は下げてもらいました。来月の茶会も、私一人分で招待されます」


「待ってくれ。たかが夜会一つで、そこまで言うのか」


「たかが夜会一つでしたか。では、来なかったあなたにも軽い話ですね」


「違う。君との婚約を軽く見ているわけではない」


「軽く見ていないものを、そんなに何度も置き忘れられるのですね」


 彼は立ち上がった。すぐに座り直したのは、応接間で声を荒げるわけにはいかないと思い出したからだろう。


「セリーヌは幼馴染なんだ。家族同然なんだよ」


「私は何ですか」


「君は婚約者だ。当然、大事に思っている」


「家族同然の方が倒れるたび、当然大事な婚約者は後でよいのですね」


「そんなふうに比べる話ではない」


「あなたが毎回、順番を決めていました」


 彼の唇が開いたまま止まった。比べていないと言いながら、毎回選んでいたことに、今さら気づいた顔だった。


 扉が軽く叩かれた。入ってきたのは、私の侍女であるマリベル・シャンソンだった。彼女は伯爵家に仕える侍女で、幼い頃から私の衣装と外出を任されている。


「お嬢様、昨日お預かりした封筒をお持ちしました」


「ありがとう、マリベル」


 彼女が差し出した封筒を、テーブルに置いた。中には、ヴァロワ侯爵夫人からの茶会の招待状が入っている。


 宛名は、私一人の名だった。


 リュシアンの視線が、封筒に釘付けになる。彼はそっと手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「なぜ、私の名がない」


「昨日いなかったからです」


「それだけで?」


「ええ。それだけの積み重ねです」


 彼の喉が動いた。何かを飲み込んだようだったが、言葉にはならなかった。


「アニエス、君を見捨てたつもりはない」


「つもりがなくても、何度も待ちました」


「セリーヌには私しかいないんだ」


「私には、誰もいません」


 彼は初めて、私の顔をまっすぐ見た。そこに驚きがあったのは、私が一人で立っていることを、今まで見ていなかったからだろう。


「婚約解消の話は、父からあなたの家へ出します」


「本気なのか」


「はい」


「一度、きちんと話し合おう。君に謝りたい」


「謝るための時間も、セリーヌ様の具合次第ですか」


 彼は息を止めた。部屋の隅で、マリベルが盆を持つ手にほんの少し力を入れたのが分かる。


「そんな言い方をしないでくれ」


「では、どんな言い方なら間に合いましたか」


 沈黙が落ちた。外では庭師が鋏を動かしている。薔薇の枝が切れる小さな音だけが、やけにはっきり聞こえた。


 リュシアンは、椅子から立ち上がった。今度は座り直さなかった。


「また来る」


「お約束は結構です」


「アニエス」


「守られない約束を増やされると、数える手間がかかりますから」


 彼は何も言えず、礼だけをして部屋を出た。扉が閉まったあと、マリベルが盆を置いて深く息を吐いた。


「お嬢様、最後の一言は少々強すぎたかと」


「今までが弱すぎたのよ」


「それはまあ、屋敷中の者が存じております」


 マリベルの返事に、私はやっと笑った。声は大きくなかったが、胸の中の古い結び目が一つほどけた。



 三日後、セリーヌ・マロー子爵令嬢が屋敷に来た。


 薄桃色のドレスに白いショールを巻き、侍女に支えられている。顔色は悪く見えるように作られていたが、足取りは思ったより確かだった。


 応接間に通すと、彼女は向かいに座る前から目を潤ませた。マロー子爵家の令嬢セリーヌは、リュシアンの幼馴染であり、彼の時間を何度も持ち去った女性だった。


「アニエス様、お願いです。リュシアンを責めないでくださいませ」


「座ってから泣いた方が、安定しますよ」


 セリーヌは半端な姿勢で止まった。支えていた侍女が慌てて椅子を引き、彼女はそこへ腰を下ろした。


「わたくし、本当に体が弱いんです。リュシアンが来てくださらないと、とても不安で」


「医師ではなく、婚約者のある騎士団副長でなければ駄目なのですね」


「幼い頃から、そうでしたもの。わたくしが苦しい時、彼は必ず来てくれました」


「では、その習慣を続けてください。降ります」


 セリーヌの涙が止まった。まるで欲しかった菓子箱を渡されたのに、中身が塩だったような顔をしている。


「降りる、とは」


「婚約を解消します。これで、あなたが彼を呼んでも私の予定は壊れません」


「そんな、わたくしのせいで婚約を壊すなんて」


「あなたのせいだけではありません。リュシアン様が毎回選びました」


「でも、わたくしは彼を奪いたいわけでは」


「奪う気がなくても、毎回呼んでいましたね」


 セリーヌは唇を噛んだ。白い指がショールの端をつかみ、皺を作る。


「それは、具合が悪かったからです」


「では、これからは遠慮なく呼べます。おめでとうございます」


「おめでとうなんて、ひどいです」


「困りましたね。泣かれても、私の婚約者はもう呼べません」


 彼女の顔が、初めてはっきり歪んだ。そこにあったのは弱さではなく、思い通りの形にならなかった苛立ちだった。


「アニエス様はお強いから、分からないんです。弱い者がどんなに心細いか」


「強い女なら待たせてもよいと、リュシアン様にも言われました」


「そんなつもりでは」


「つもりのない方が多すぎて、もう席が足りませんね」


 マリベルが後ろで咳払いをした。笑いを噛み殺したのだと分かったが、見ないふりをした。


 セリーヌは立ち上がろうとして、膝の上のショールを落とした。拾おうとした侍女より先に、それをつまみ上げる。


「お忘れ物です」


「……ありがとうございます」


「次は、リュシアン様の上着でもお借りになればよろしいのでは。もう、返すよう頼まれることもありませんから」


 セリーヌは青ざめた。ようやく、自分が得たものの形に気づいたのだろう。


 これから彼女が具合を悪くするたび、リュシアンは駆けつける。誰も止めない。誰も責めない。誰も二人の間に残らない。


 ただし、その世話を美談にしてくれる婚約者も、もういない。



 婚約解消の話は、思ったより早く進んだ。


 父はリュシアンの父であるベルナール伯爵に書簡を送り、母は私の衣装部屋から、婚約式用に仕立てていた淡青色のドレスを出させた。


 切り裂くわけではない。誰かに譲るわけでもない。母はそれを見て、飾りのリボンだけ外した。


「これは春の外出着にしましょう。婚約者の顔色を見るための青ではなく、あなたの顔色をよく見せる青ですもの」


「お母様、なかなか言いますね」


「娘が何度も待たされていたのに、母親が黙っていただけだと思われるのは心外です」


 母は針箱を閉じ、私の頬に軽く触れた。伯爵夫人エレーヌは、社交の場では柔和に見えるが、家の中では私よりずっと辛辣である。


「アニエス、泣きたければ泣きなさい」


「今は、腹が立っています」


「結構。涙より歩きやすいわ」


 その言葉で、喉の奥が熱くなった。泣かなかったのは、意地ではない。泣くための時間まで、彼に渡したくなかった。


 その週の終わり、王都の茶会でリュシアンとセリーヌを見かけた。会場は白い藤棚のある庭園で、招待客は多くなかった。


 リュシアンはセリーヌの椅子のそばに立っていた。彼女は膝に薄い膝掛けを置き、時々胸元に手を当てる。


 周囲の令嬢たちは、優しい顔をして二人を見ていた。だが、その優しさは以前と違った。憧れではなく、少し距離を置くための顔だった。


「ベルナール副長、今日もマロー嬢のお付き添いですのね」


「ええ、彼女はまだ本調子ではありませんので」


「まあ。では、舞踏会もずっとそのように?」


 聞いたのは、ヴァロワ侯爵夫人だった。リュシアンは笑おうとして、失敗した。


「必要があれば」


「必要は続くものですものね。大変ですこと」


 夫人の言葉に、庭園の空気が一瞬だけ薄くなった。セリーヌは慌てて口を開く。


「あの、リュシアンは優しいだけで、わたくしが無理を言っているわけでは」


「ええ。皆さま、そう思っておりますよ」


 その返事が一番きつい。少し離れた席で紅茶を飲みながら、葡萄の砂糖漬けを一つ口に入れた。


 隣に座ったオーギュスト・ラフォン子爵令息が、皿の上をのぞき込む。


「ロシュフォール嬢、その菓子は甘いですか」


「見た目より酸っぱいです」


「では、今の会話に合いますね」


「あなた、意外と口が悪いのですね」


「空席よりましな相手を目指しておりますので」


 また笑いそうになり、今度は扇で隠さなかった。笑ってから、リュシアンの視線がこちらを向いていることに気づいた。


 彼は何か言いたげだった。しかし、セリーヌが袖を引くと、すぐ彼女の方へ体を向けた。


 その動きが、答えだった。彼はまだ選んでいる。けれど、もう私の前ではなかった。


 茶会の終わり際、リュシアンが私の元へ来た。セリーヌは少し離れた椅子で、侍女に扇いでもらっている。


「アニエス、少し話せるか」


「ラフォン子爵令息と話しているところです」


「少しだけでいい」


 オーギュストが、困ったように眉を上げた。だが、席を立たなかった。


「ベルナール副長、会話の途中に入るのは、騎士団の作法ですか」


「あなたには関係ない」


「いえ、今この方と話している相手は私です」


 リュシアンの頬が引きつった。以前なら、彼が来れば彼に合わせて立った。だから彼は、断られる形を知らない。


「アニエス、本当に後悔している」


「では、後悔のそばにいてください。私はもうそこにいません」


「君は変わった」


「はい。待つのをやめましたから」


 彼は目を伏せた。セリーヌが遠くからこちらを見ている。呼びたいのに、今呼べばどう見えるかを考えている顔だった。


 リュシアンは、その視線に気づいた。気づいて、私の前に残ろうとした。初めて、彼は選ぶ前に迷った。


 遅い。


「リュシアン様」


 セリーヌの声がした。小さく、けれど全員に聞こえる高さだった。


 リュシアンの肩が揺れた。彼は私を見て、セリーヌを見て、唇を噛んだ。


「行って差し上げたら?」


「アニエス」


「今さら私の前で我慢されても、これまでの分は戻りません」


 彼は何も言えなかった。やがて、セリーヌの方へ戻っていく。その背中を見て、紅茶のカップを置いた。


 オーギュストが小さく息を吐く。


「追いかけられたら、どうなさるつもりでした?」


「追いかけられない人だと、もう知っています」


「では、安心して菓子を勧められますね」


「酸っぱい方ですか」


「ええ。今のあなたには、甘すぎるものより似合いそうだ」


 その言い方があまりに真顔だったので、今度こそ声を出して笑った。



 一か月後、リュシアンとセリーヌの噂は、王都の茶会を一巡していた。


 彼はどこへ行っても、セリーヌの体調に合わせて席を立つ。彼女はどこへ行っても、リュシアンが離れると具合を悪くする。


 誰も悪者にはしない。ただ、招待状の数が減った。踊りの申し込みが減った。騎士団の同僚たちも、彼を重要な席へ連れて行かなくなった。


 ある午後、伯爵家の門前にリュシアンが立っていた。雨上がりの石畳に、彼の靴先が濡れている。


 玄関広間で彼と向き合った。応接間へ通すつもりはなかった。


「アニエス、最後に一つだけ聞きたい」


「はい」


「いつから、私を諦めていた」


 問いかける声は、以前より少し低かった。やつれてはいるが、それを支える相手はここにはいない。


「あなたが約束を破った日ではありません」


「では、いつだ」


「破ったあと、次の約束を当然のように差し出した日です」


 彼の顔が歪んだ。


「埋め合わせをしようと」


「穴を開けた人が、次の穴を掘る話をしていたのです」


 雨樋から落ちた雫が、石に当たって跳ねた。彼は何度も何か言おうとして、結局、一つも形にできなかった。


「セリーヌは、私がいなければ不安定になる」


「では、そばにいて差し上げてください」


「君は、平気なのか」


「平気になるまで、あなたが何度も練習させてくれました」


 リュシアンは、目を閉じた。悔しそうでもあり、泣きそうでもあった。だが、私はもうその顔をほどく役ではない。


「アニエス、君にひどいことをした」


「ええ」


「許してくれとは言えない」


「はい」


「それでも、幸せでいてほしい」


「その言葉は、私の幸せに必要ありません」


 彼は苦笑した。初めて、自分の言葉が届かないことを受け入れた顔だった。


「君は本当に強いな」


「いいえ。強い人だと言われるのに飽きただけです」


 リュシアンは深く礼をした。以前よりずっと長い礼だった。返したのは、客人へ向ける浅い礼だった。


 彼が門を出ていくと、マリベルが玄関の奥から顔を出した。


「お嬢様、よろしかったのですか」


「何が?」


「最後くらい、もう少し優しくしてもよかったかと」


「優しい女は、セリーヌ様のそばに置いてきたわ」


「なるほど。では、お嬢様には何が残りました?」


 濡れた石畳の向こうを見た。雲の切れ間から、春の光が落ちている。


「椅子と、時間と、酸っぱい菓子」


「あと、ラフォン子爵令息から届いた茶会の招待状もございます」


「それは早く言って」


 マリベルが笑いながら、銀の盆に乗せた封筒を差し出した。宛名は、私一人の名で書かれている。


 封を切ると、短い一文が添えられていた。


『空席のない茶会です。よろしければ、酸っぱい菓子をご一緒に』


 封筒を閉じ、胸の前で軽く叩いた。もう誰かの予定の端に座るつもりはない。


「マリベル、青いドレスを出して」


「婚約式用だったものですか」


「春の外出着になった方よ」


「かしこまりました。今度は、ちゃんとお嬢様のための青ですね」


 私はうなずいた。窓の外では、雨の名残を受けた薔薇の葉が光っていた。


完。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。


よろしければ、長編もお読みください。

「婚約破棄された令嬢、剣と魔法の冒険譚」公開中! https://ncode.syosetu.com/n3057lo/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
文章が全体的におかしいです。他の方がおっしゃるようにAIを使用されているのならどこかに明文された方がよろしいかと思います。 口調からそれぞれの人物像が見えることもなく、まるで機械のような文章で、話の…
AI小説によくみられる表現や設定、矛盾が多数見受けられます。AIを使用している場合、タグかあらすじにAI小説、あるいはAIを使用していると明記してください。
そう、AI小説の見分け方、を見てから何か起きてるようで何にもならない話にAI感を感じます。 AIでは無いのかもしれませんが、で、結局どうなんだ?と結論がハッキリスッキリしない小説に飽きてしまっていて、…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ