6.第二章 雅代 エピソード1
『IDとパスワードを入力してください』の文字。IDは、自動的に表示されたものでいいとして、パスワードを入力してみたが、『パスワードが間違っています。もう一度、入れ直してください』と、赤文字で表示される。別のパスワードを試してみたが、やっぱりだめ。
「はぁ……」
っと、大きなため息をついたとき、
「お母さん、さっきから難しい顔をして、何しているの?」
と、多香子の声が聞こえて、はっと肩を大きく上げてしまった。
「なんだ、多香子……ここにいたの。いやね、お父さんのスマホのアプリを退会しようと思って、さっきからパスワードを入力して、アプリの中に入ろうとしているんだけど、なかなかうまくいかなくて……」
「パスワードって、お父さんの誕生日にしていたんじゃないの。前に、お父さんに頼まれて、コンビニのアプリに登録したときは、お父さん、『誕生日にしてくれるとわかりやすいから』と言っていたけど……」
そう言って、多香子はお風呂上がりの髪をタオルで乾かしながら、ダイニングテーブルの向かいに座る。
「それが、誕生日を入れても、うまくいかないのよ。アプリによっては、アルファベットと数字を組み合わせないといけないとか、いろいろ制約があるじゃない。アプリごとにパスワードが違っていて、それを忘れてしまっていたら、一体何のためのパスワードかわからないわ」
とっさに頬に手を遣ったのは、私が困ったときに見せる仕草。それを合図に、夫はいつも「どうしたの?」と、優しく声をかけてきてくれた。
「お母さん、ちょっとそのスマホ、私に貸して」
「何度、お父さんの誕生日を入力しても、駄目だったわよ」
「いや、そうじゃなくて、パスワードを忘れてしまったときのために、パスワードを設定し直したり、ヒントを表示させたりする方法があるんだ」
まるで慣れた手つきで、スマホの操作を始める多香子。一体どんな方法があるのかと、私はその様子を、訝しげに見つめていた。
「あったよ、あった。えっと……『結婚記念日はいつ?』だってさ。ねぇ、お母さんたちの結婚記念日が、パスワードかも知れないよ」
目を輝かせながら、そう話す多香子の顔を見ながら、私は半信半疑で、
「結婚記念日は、十月五日だったけど……」
と、答える。
「えっ、十月五日って、明日だよ」
「あら、そうだったわね」
驚きとも感嘆とも言えないような声を出す。
「それじゃ、1005ってことかな。試しに入れてみるよ。イチ レイ レイ ゴ エンター」
多香子が目を大きく見開いたので、どうやらそのパスワードで、アプリの中に入れたのだろうか。
「ちょっとお母さん……これって、駅前のケーキ屋さんのアプリだよね。えっと、なになに、『ご注文の品を用意していますので、明日の十七時以降にお越しください』だってさ」
「えっ、ご注文の品?」
「だって、メッセージ欄に今日の日付でそう書いてあるよ。代金は支払い済みとも……お父さん、このアプリで何かを予約していたんじゃないのかな」
「えっ、予約? そんなこと、聞いていたかしら……」
「ほら、見てよ、これ」
「えっと、なになに、『ご注文の品を用意していますので……』あら、ほんとね。何かが予約されているわ」
多香子から受け取ったスマホの画面には、確かにそう表示されていた。とっさに、首を傾げる私。
「お父さん、あまりスマホには関心がなさそうだったけど、ちゃんとアプリを使いこなしていたんだ」
「そっ、そうね。お母さんだって、初めて知ったけど……」
そんな会話を交わして、多香子と顔を見合わせた。
なにはともあれ、多香子に訊いたおかげで、パスワードがわからなくても、アプリに入る方法があることを知った。他のアプリにも、同じ方法で入ってみようと思ったが、それはまた時間を見つけてやってみることにして……それにしてもお父さんが予約していたものって、何だろう。気になって、アプリの中をあれこれ探してみたが、何を予約したのかまでは見つけられなかった。
その答えは、次の日に洋菓子店に行ってみてわかった。結婚記念日を祝うための、ホールのケーキだった。夫がケーキを買って帰ったことなんて、これまでに一度、クリスマスのときに私が頼んだときくらいだった。何かの記念日ごとに、私がケーキを手作りしていたので、夫が買って帰る機会自体なかったのだ。
もしも夫が生きていたならば、当然ながら今年の結婚記念日にも、私がケーキを作るはずだったが、そんな機会も気力もなくしていた。もはや、この日が結婚記念日であることさえ、忘れていたのだから。
お店でケーキを受け取って、家に帰った私は、さっそく箱を開けてみた。中から出てきたホイップクリームがベースのホールケーキには、チョコレートの板がちょこんと添えられていた。そこには、『結婚二十周年記念 僕から美由紀に、心をこめて』の文字。
そうだった、今年は結婚して二十周年の年なのだ。二十七で結婚して、今は四十七。言われてみればそうだけど、日ごろの家事に追われて、すっかり忘れてしまっていた。
だけど夫は、私たちの大切な日をちゃんと覚えていてくれた。私を驚かそうとして、このケーキを私と多香子に内緒で持って帰ろうとしていたのだ。そう思ったら、涙が溢れてきた。几帳面な夫の姿が目に浮かんできて、わんわん声に出して泣いた。




