5.第一章 美由紀 エピソード4
そうそう、そんなことがあったかな。やがてテストが終わって、長い夏休みに入った。私は、部活をやっていなかったので、その間、電車に乗ることはなかったけれど、新学期が始まってまた彼と会うのを、密かに心待ちにしていた。
それからは、また普通に朝の電車の中で、彼の姿を近くで見る日々が続いた。彼は、相変わらず参考書を読み耽るのに忙しそうだったし、私の方から話しかけるにしても、通っている学校が違ったので、話題が浮かばなかった。私一人だけが、やきもきする日々。いつしか、私は、彼のことを考えないで済むように、図書館で借りた本を読み始めていた。最近になって人気が出てきたという、恋愛小説。真剣に読んでいるつもりだったけど、ほとんど本に書いてある言葉は、頭に入ってこなかった。
そうやって、何一つ変わらない日々を送るのが嫌になった私は、ある日、同じ電車の別の車両に乗った。たまたまではなくて、わざとそうした。表向きは、自分のそわそわした気持ちを鎮めるためだったが、本当は彼に抗議をしたかったのかも知れない。そう、あれから、私のことに構ってくれなくなったことへの、今の私にできる最大限の抵抗。
彼は、私のそんな気持ちに気づいてくれるだろうか。恋愛などにはまるで鈍感そうだったので、今もいつもの車両で、平然と参考書を読んでいるかも知れない。そう思ったら、今度は腹が立ってきた。私に気づいてくれない彼に対して、それともこんな姑息な手段にしか出られない、私の不甲斐なさに対して……。
こうなったら、いっそのこと、乗る電車を一本早めよう。そうしたら、彼とは物理的に離れることになるので、これ以上彼のことを考えずに済む。その分、早起きをしなければならないけれど、平穏な日々を送るためには仕方がない。
そうやって、次の日から電車を一本早めようと思っていたとき、不意に私が乗っている車両に、彼が乗っていることに気づいた。私が座っている席から、扉を挟んだ向こう側の席に、彼が座っていたのだ。参考書を手に持っているのは同じだったが、彼は、時折参考書から顔を上げると、まわりをキョロキョロしながら見つめている。思わず彼と目が合いそうになった私は、とっさに俯いた。
「えっ、どうして、どういうこと?」
微かに心臓が脈打つ音が、脳の中に響き渡る。頭に血が上り、身体がどうにかなってしまいそうなほど、熱くなった。
それから、数日が経ったときだっただろうか、私が最寄り駅から電車に乗り込むと、私がいつも座っている席に、彼が座っていた。もちろん、いつものように参考書を広げながら。あろうことか、彼の隣の席だけが空いていた。一瞬、そのまま立っていようかと思ったが、そんなことをすると、彼のことを意識していることが、彼に伝わってしまうかも知れない。そう思った私は、こともなげに彼の横に腰かける。
こんなときは、いつもと同じことをするのが一番。そう思って、私は、鞄の中から読みかけの本を取り出した。栞を挟んでいたページを開いて、続きを読み始める。主人公の女子高生が、密かに思いを寄せる男子生徒に告白する場面。どうなってしまうのかと、夕べ布団に入る前に、どぎまぎしながら読んでいたのだが、今はそんなことはどうでもよかった。この二十分間を、どう過ごすのかで、頭の中がいっぱいだった。
そのとき、私の不意を打つかのように、彼が話しかけてきた。
「一学期のテスト、どうだった?」
ほんの一瞬、凍りつく私。
「えっ?」
「ほら、あの数学のテスト。少し変わった方法を教えてしまったけど、無事に解けたかなって」
「えっ、あっ、うん……なんとか……」
それは本当のことだった。なんとか解けたどころか、彼に教えてもらったおかげで、その日のテストは九十五点。数学が大の苦手だった私にとっては、これまでに取った最高の点数だった。
「そっかぁ、それならよかった。あんな、変わった方法を教えてしまったから、うまくいったか心配だったんだ。でも、なかなか話しかけられなくて……」
改めて見た彼の横顔は、それまでに見ていた彼の顔よりも、優しそうだった。
「うんん、あのときは本当にありがとう。私、〇〇美由紀っていうの。希望が丘女子学園に通っているんだ」
「僕は、〇〇健一。誠真学院に通っているよ」
気がつけば、普通に会話ができていた。まるで、お互いの目の前に横たわっていた妨げが、避けられたかのように。
話してみて、私が思っていた以上に、彼がシャイで真面目なことがわかった。そして、彼自身も、私のことが気になっていたことも。
それからだっただろうか、毎朝、電車の中で他愛ない会話を交わして、テスト前には勉強を教え合ったのは。私が古文を教えて、彼が数学と化学を教えるという感じで……。
「ガチャ」
ふと、玄関の扉が開く音が聞こえた。娘の多香子が、学校から帰ってきたのだろうか。
「お母さん、ただいま。どうしたの、何かいいことがあったの?」
リビングに入ってくるなり、多香子が怪訝そうに訊いてきた。どうやら、学生時代のことを思い出しているうちに、強張りっぱなしの表情を緩めてしまっていたようだった。
「多香子、おかえり。うんん、別になんでもないのよ。ちょっと、昔のことを思い出していただけ」
そう答えて、掛け時計に目を遣った。そろそろ、夕飯の支度にかからないといけない時間だった。
「ふうん、そうなんだ……」
多香子は、感情の籠っていないような返事をして、二階へと上がっていった。
「ふう……」
大きく息を吐き出す音が、リビングに響き渡る。どうやら、多香子には気づかれずに済んだみたい。私はゆっくり立ち上がると、キッチンへと向かったのだった。




