4.第一章 美由紀 エピソード3
そんな彼と、初めて喋ることになったのは、一年生の一学期も終わりに差しかかった頃だっただろうか。
すでにテスト期間中に入っていて、私は、他の学生たちに漏れずに、電車の中でノートを開いていた。高校の勉強はとにかく難しい。現代文や古文はまだなんとかなったけれど、化学や数学はまるでちんぷんかんぷんだった。
その日、テストに出ると先生から言われていた数学の問題を、見直すのに必死だった。あまりに必死だったので、彼のことは忘れていた。そう、私の前に彼が立っていたことも。
「その問題は、左側の項のbを移項して、cの値を求めるといいよ」
前に立っている学生たちが、問題の解き方を教え合っているのだろうと思った。彼らのように、私も誰かに教えてもらいたい。だって、この問題が解けなくて困っているのだから……。そんなことを思いながら、どんな学生たちが喋っているのだろうと気になって顔を上げてみると、そこには見覚えのある男子学生の顔があった。
「えっ、あっ……」
いつも見ている彼だった。頬を赤らめる暇もないほど、私は目を丸くして驚いた。
彼は、表情をほとんど変えないまま続ける。
「その問題は、見た目は複雑そうだけど、少し見方を変えると意外に簡単だよ。遠まわりの解き方になっちゃうけど、最初に左側の項のbを右側の項に持って行くの」
「えっ、左側のbを右側に?」
何が起きたのかもわからないまま、私は、持っていたシャープペンシルで、彼が言ったように、左項にあったbを移項する。
「それから、dを消すために、右項と左項をdで割る」
「えっと……こう?」
指先を震わせながら、彼の言うように操作する。
「そうそう、それで、残ったcの値が求められるけど、それでは見栄えが悪いから、右項を括弧でくくるといいよ」
「括弧、かっこ……」
彼の言うようにやってみると、夕べ、一晩考え続けて解けなかった問題が、いとも簡単に解けた。
「今日は、数学のテスト?」
「えっ、うん……数学と古文」
「そっかぁ。古文は苦手なんだ。僕の学校も、今日からテストが始まるよ。お互いに大変だけど、テスト頑張ろう」
「うん……」
そう言って、彼は持っていた参考書を再び読み始めた。私は、彼に教えてもらって解いたノートの文字と、彼が手にしている参考書の表紙のイラストとを何度も往復させる。
途端に、彼と初めて話したことが、なんだか恥ずかしく思えてきて、顔が熱くなった。それを彼に悟られまいと、俯いたまま必死にノートの文字を追った。一刻も早くその場から逃げ出したくて、ノロノロと走る電車をじれったく思ったほどだった。
やがて、電車が駅に到着した。私は、彼にどうお礼を伝えて、この場を切り抜けたらよいかを考え巡らせたが、適当な言葉が思い浮かばなかったので、
「ありがとう」
と、わざと無愛想に言って、電車を駆け下りたのだった。




