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夫のパスワード  作者: 松山 さくら


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3.第一章 美由紀 エピソード2

 雅代が帰ってしまうと、家の中は一気に静かになった。今までだって、昼間は私一人だったけど、夜になれば夫と娘の多香子が帰ってきて、他愛ない会話を交わしながら、食卓を囲むことができた。だけど、そんな家族揃っての団らんは、いくら望んでも戻ってこないのだ。

 そう考えた瞬間に、私は一人ぼっちになってしまったことを、思い知らされる。夫の葬儀の後、誰かが慰めのつもりで言ってくれた。『今は悲しみに暮れているけど、いつかきっと時間が解決してくれるよ』と。そうなのかも知れない。夫の死を受け入れて、夫との温かかった日々を懐かしく振り返れるようになるくらい、十分に時間が経てば……。だけど、本当にそうなのかと、懐疑的になってしまう。この悲しみが和らぐことなんてあるのだろうか。むしろ、月日が経つごとに、悲しみがより一層深まっていき、二度と立ち上がれなくなるのではないかとさえ、思えてくる。

 後から聞いた話だが、事故は車を運転していた運転手が、飛び出してきた子供を避けようとして、起きたものだったという。幸い、子供は無事だったが、急ハンドルを切った先に、夫がいたのだ。運転手を憎んではいけないと思う。それに、子供はとっさに飛び出すもの。頭ではそう思っているが、それらのことを考えると、身体がブルブルと震えてしまう。持っていきようのない怒りや憎しみが、私の心の中を蠢く。

 人間の心って不思議で、意識しないようにしようと思えば思うほど、逆にそのことに固執してしまうもの。それを考える度に、心が疲弊し、生きる気力を奪われる。

「あまり思いつめないでね」

 ふと浮かんだ雅代の言葉だった。そうだ、他のことを考えてみようと思った。辛いときだからこそ、明るいことを思い浮かべてみよう。

 そうして思い浮かんだのは、夫のこと。そりゃ、超がつくほどの真面目さや、物事を難しく考えるところなど、気に入らないところはあった。多香子のことで、夫が何を考えているのかがわからずに、きつく当たってしまったことだってある。だけど、やっぱり、夫のことを考えてしまっている。私はどこまでいっても、夫のことを愛していたのだと、今さらながら気づかされる。

 そんな夫との出会いは、高校への行き帰りの電車の中でのことだった。私たちは、今では珍しくなった男子校と女子高に通っていた。一駅違いの学校で、私の方が一駅先に降りる。帰りは、夫の方が先に電車に乗っているという関係だった。

 これも今ではあまり見かけなくなった爪入りの学生服を着た夫に、紺のワンピースの制服に身を包む私。同じ学年だったので、夫の姿を最初に見かけたのは、入学して最初の登校日だったように思う。

電車で通学するなんて初めてのことだったので、私はガチガチに緊張していた。七人掛けの座席の真ん中に座っていた私は、することがなくて、きょろきょろと辺りを見まわしていた。都市郊外に向かう私鉄電車の車内は、学生たちが大半を占めているという感じで、彼ら彼女らが着ている制服を眺めているだけでも、色々な学校があるのだなと思った。

 その中に、扉の近くに立って、遠くを見つめている男子学生の姿があった。身長はそれほど高くはなく細身、髪をセンターでわけて、ごく平凡は顔つきの男子学生。おろしたての制服や鞄を見て、すぐに私と同じ一年生だと思った。そのときは、彼も今日からこの電車に乗って学校に通っているのかと、特に気にすることなくやりすごしたのだが、次の日から、毎朝、彼を見かけるようになった。

 当たり前と言えば当たり前だっただろう。だって、同じ方向の学校に通っているのだから、毎朝、同じ時間の電車に乗り合わせていたとしても、少しもおかしくはなかった。それも、六両つないである電車の後ろから二両目の車両に。

 私が、そこに乗っていたのには訳があった。高校の最寄り駅の出口が近いからだった。彼もそこに乗っているということは、学校の最寄り駅が近いからか、自宅の最寄り駅の入口が近いかのどちらかであっただろう。

 そんな感じで、たまたま乗り合わせただけだったから、とりたてて意識することなどなかったのだが、今のようにスマホなどがない時代、片道二十分の車内は退屈だった。まわりに視線を巡らせていた私は、次第に彼がどこの学校に通っているのかが気になり出したのだ。私が先に降りるってことは、その先の駅にある学校であることは確実。いくつか知っている学校の名前が思い浮かんだが、その中にこの地域屈指の名門校と呼ばれる学校があった。

「もしかして、あそこの学校かな?」

 他人がどこの学校に通っていようと、私には関係がなかったのだが、気になり始めたら止まらなかった。

 彼が通っている学校は、それからしばらくしてわかった。いつしか、彼は、電車の中で参考書を開くようになり、その表紙に学校の名前が書かれているのを見かけたから。やはり、私が思った通りの学校だった。偏差値が七十近くもある屈指の進学校。

 一方で、私が通っているのは、いわゆるお嬢様学校。それなりに進学実績はあるようだったが、彼が通う学校には到底及ばなかった。

「やっぱりそうなんだ……」

 彼が通う学校の名前を知って、気落ちする私。成績で張り合おうなんて意識はなかったけど、なぜか負けてしまったようで悔しかった。

 自分でも不思議な感情だった。彼とは目が合ったことも喋ったこともなかった。名前も知らなければ、どこに住んでいるのかもわからない。単なる同じ車両に乗り合わせる学生同士。

 だけど、私は、毎朝熱心に参考書を読み耽る、彼の一挙手一投足が気になって仕方がなかった。彼になんとかして、近づきたいと切に願うようになった。

 私のその心の動きを誰かが聞けば、それは『一目ぼれ』だと、決めつけてしまうかも知れない。だけど、それとは少し違うような気がする。一目ぼれは、どちらかというとその人の外見に惹かれることを意味する。自分の夫のことを悪く言いたくはないけれど、夫の外見は中の下、他にいくらでも異性を惹きつけるような容姿端麗の男子学生はいたけれど、私の心は不思議にも、彼らの方には向かなかった。


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