14.第三章 健一 エピソード5
「お母さん、お母さんってば」
夢の中で多香子の声が聞こえたような気がして、ふと目を覚ましてみると、学校から帰ってきたばかりと思しき多香子が、心配そうに見つめていた。
「えっ、あっ、多香子……」
「もう、お母さん、大丈夫? 何度呼びかけても返事をしないから、気を失ったんじゃないかって、心配したんだからね」
「そっ、そうだったの。ごっ、ごめん。ちょっと考えごとをしていたら、いつの間にか眠ってしまったんだわ」
そう返事して、ゆっくりと起き上がってみる。時計の針に目を遣ると、午後七時をまわっていた。
「あっ、夕飯の支度……」
何も準備をしていなかったことを、とっさに思い出した。食材の買い出しに行っていなかったことも。
「お母さん、夕飯の準備、まだなんでしょ。いいよ、即席ラーメンなら、私が作ってあげるから」
そう言って、多香子はキッチンへと向かった。いつもなら、「いいわよ、お母さんが作るから、先に着替えてらっしゃい」と言って、多香子を止めるのだけれど、このときは立ち上がる気力さえ湧かなかった。
そうして出来上がった、即席のラーメン。袋の即席めんを使って作ったにしては、白菜やネギ、チャーシューが添えられていて、見るからに美味しそうだった。
「お母さん、今日は久しぶりに、リビングで並んで食べようよ」
多香子は二人分のラーメンと、グラスに注いだ麦茶を運んで来てくれていた。
「そっ、そうね。たまには、気分が変わっていいかも知れないわね。ありがとう。いただくわ」
リビングのテーブルは、ソファーから離れていて、食事をするには少し不便だったが、多香子と肩を触れながら食べることで、私の落ち込んでいた気分は幾分持ち直した。
部屋に、ラーメンをすする音が響き渡る。秋が深まって、朝晩はすっかり冷え込み、温かいものが恋しかっただけに、多香子が作ってくれたラーメンは、美味しかった。久しぶりに、汁を全部飲み干した。
「ありがとう。美味しかったわ」
「うんん、いつも、お母さんが夕飯を作ってくれているから、これくらいのことはやって当然よ」
そう言って、多香子は頬を赤らめる。はにかみながらも見せる、頬のシャープなラインは、子供の頃のあどけなさがすっかり消えて、大人へと近づきつつあることを、私に示していた。
この先、多香子も、かつて私が経験したように、目の前に降り注ぐ数々の困難や試練を乗り越えて、社会の荒波へと出て行くのだろう。母親として、そんな多香子の背中を、見守りっていてあげたい反面、いざとなったら背中をポンと押してあげられるような強さが、私にあるだろうかと考えてしまう。
ある意味で、夫が亡くなってしまった今となっては、私は、一人で母親と父親の両方の役目をこなさないといけないのだ。母親としての役目はなんとかなるにしても、父親としての役目なんて、果たして私に務まるだろうか。何かあれば、いつだって夫に泣きついていたくらいなのだ。「大丈夫、何とかなるから、心配いらないよ」夫は、そう言って、私を抱きしめてくれていた。これまでにも何度も思ったことだけど、やっぱり私は、夫がいなきゃ駄目なのだ。自分のことは決して出さず、どんなことでも包み込んでくれるような、優しい表情の夫。だからこそ、夫によからぬ影が差していたことを知って、私は悲しくて仕方がないのだ。
「ところでさ、さっき、お母さん、『お父さん、お父さん……』って、ずっと寝言を言っていたけど、お父さんのことで、何か思い出したことでもあったの」
「えっ、お父さんのこと?」
いつの間に食べ終えた食器を運んだのか、キッチンの流し台に向かって洗い物を始めていた多香子。自分では意識していなかったけど、私はショックのあまり、夢の中でもうなされていたのだろうか。
話そうかどうしょうか、迷った。多香子は、多感な時期を生きている。ちょっとしたことでも、よい意味でも悪い意味でも心を動かされてしまう、微妙な時期なのだ。本当のことを話してしまったら、もしかしたら私以上に心に傷を負わせてしまうかも知れない。
「お母さん、お父さんのことで、本当は色々悩んでいるんでしょ。私、お母さんの様子を見ていたらわかるよ。こないだから、お父さんのスマホの中を、細かくチェックしたりしてさ。大丈夫、私なら平気。お父さんがどんな人であったとしても、私を育ててくれたお父さんには変わりはないよ」
「たっ、多香子……」
多香子は、洗い終わったお皿を、布巾で拭き始めていた。
「実を言うと、私ね。本当はずっと不安だったの。だって、お父さん、いつも私が言うことに『うんうん』と頷くばかりで、全然自分のことを喋らなかったでしょ。そりゃ、私のことを全部そのまま受け止めてくれる、優しいお父さんだったよ。でもね、何も話してくれないから、逆に不安だったの。お父さん、本当はどんなことを考えていたのかが知りたかった」
私は、どう反応したらよいかがわからなかった。だから、視線を彷徨わせたまま、ソファーから動けないでいたのだが。ただ、多香子が言ったことは、私にも当てはまることではあった。まわりから羨ましく思われるほどの家族思いの夫だったが、その夫自身が、どんなことを考えて生きていたのかがわからなかった。いや、正確には、夫が語ろうとしなかった。だから、今からでも、それがわかるのであれば、知ってみたい。私が好きになった人が、人生の最後にどんなことを考えて生きていたのかを……。




