13.第三章 健一 エピソード4
「はぁ、よかった……」
と、言うのが、最初の感想だった。これで、夫がやっていたというSNSとやらを見ることができる。そもそもの目的が、そのアプリを解約することだったのだが、そんなことはとうに忘れてしまっていて、今はそこで夫が誰とどんなやりとりをしていたのかを、確かめずにはいられなかった。
アプリ画面の操作はよくわからなかった。こんなとき多香子がいれば、すぐに操作の仕方を教えてくれるのだろうが、その多香子は学校に行っている。私があれこれ触っていて、もしも見たくもないものを見てしまったときは、それはそのときだった。今さら、後戻りはできないのだ。「あぁ、やっぱりね」と、絶望の淵に立たされるか、落胆させられるかのいずれであったとしても、私はそれらをきちんと受け止めるつもり。
夫が参加していたグループの中に、『みんなのストレス発散教室』という名前を見つけた。試しに開いてみると、ニックネームと呼ぶのだろうか、カタカナや横文字がずらりと並んだ。ざっと見た感じ、五十人弱。恐らく、そこでやりとりをしている人たちなのだろう。
その中から、夫のニックネームらしき名前を見つけた。『KEN』……健一だから『KEN』なのだろうか。そのグループのページの中では、確か『チャット』と呼んだかな、前に多香子に見せてもらったような、文字のやりとりが長々と続いている。それぞれのストレス発散法をかき込んだものや、どんなストレスを抱えているのかなど。とりあえず、画面を下の方までスクロールさせてみたが、『KEN』の名前で書き込まれたものは見当たらなかった。きっと、夫はそこに名前を連ねているだけで、メンバーの人たちのやりとりを眺めていただけなのだろう。
家の形をしたアイコンをタップして、トップページに戻ってみる。それから、たまたま触れたボタンで、所属するグループの一環が画面に表示された。今しがた見た『みんなのストレス発散教室』に加えて、『〇〇商事営業第二課』と『希望が丘未来の会』の名前。『営業第二課』とは、夫が所属していた部署のことだった。恐らく仕事の関係だろう。まさか、業務に関することを、こんな外部のツールを使ってやりとりしていた訳ではないだろうけど、慶弔関係や親睦行事のことなど、社内で表立ってやりとりできないようなことを、ここでやりとりしていたのだろうか。
気になったのは、『希望が丘未来の会』と名づけられたグループだった。『希望が丘』とは、私が通っていた高校がある地域の総称。明るそうな名前に反して、当時は新しく造成された丘の上に、学校だけがポツンと建っているような、そんな寂しい場所だったが、今はモダンな家が建ち並ぶニュータウンになっているだろうか。
不思議なのは、その『希望が丘』と夫が、どう結びつくのかということ。今、住んでいる場所から見て、夫の実家はそれとは真逆の方向にあったし、そこに友人や知人がいるなんてことは聞いたこともなかった。
まるで狐につままれたような気持ちで、そのグループ名をタップしてみる。すぐに、グループのメンバー一覧が出てきた。『KEN』と『masa』の二つだけ。
「えっ、どういうこと?」
思わず画面に向かって訊く。『KEN』は夫に違いない。もう一人の『masa』というのは、誰だろう。『雅彦』『将司』『正和』……男の人の名前ばかりが思い浮かんだのは、そうであって欲しいと言う私の願望の表れだろうか。
気になって、書き込まれたやりとりの一部をスクロールして、表示させてみる。
『KEN』……「今度の日曜日、会えないかな。妻が実家に帰る日なんだ」
『masa』……「いいけど、どうしたの?」
『KEN』……「ちょっと、話したいことがあって」
『masa』……「話したいことって? ここでは話せないの?」
『KEN』……「そう、直接会って、話した方がいいと思うんだ」……
「なによ、これ?」
あまりの衝撃に、声が上ずってしまった。少し読んだだけで、めまいを覚えた。だって、ひと目で相手の人が女の人だとピンときたから。
すぐさま、書き込まれた日付を確認してみる。夫が亡くなる一か月くらい前の日付だった。確かに、その頃、私は実家に帰ったことがあった。いや、実家に帰ったと言うよりも、実家の母と、日帰りのバスツアーに出かけたと言った方がよいだろうか。ちょうど母の誕生日で、温泉好きの母のために、私が旅行を申し込んであげたのだった。家を空けることを後ろめたく思っていた私に、夫は、「僕なら大丈夫、ゆっくり温泉に浸かっておいで」なんて言って笑顔で送り出してくれたけど、その夫は、私の知らないところで女の人と会っていたと言うのだろうか。
いつしか、私の身体は、ブルブルと震えていた。裏切られたことへの怒りが、ふつふつと心の奥底から湧いてくる。
「何が、『ゆっくり温泉に浸かっておいで』よ。自分は、女の人と楽しく過ごしていたくせに……」
だけど、次の瞬間には、持って行き場のない悲しみが、私を襲う。夫はこの世にはもういないのだ。「あれは違うよ。用事があって、知り合いと会っていだけ」なんて、言い訳すらしてもらえないのだから。
こんなことなら、アプリを見なければよかった。パスワードがわからないまま、スマホを解約さえしてしまえば、アプリの中身を見ることもなかったのだから。
悔し涙が、とめどなく流れ落ちる。座っているのも辛くて、そのままソファーの上に寝転がる。そして、いつしか私は眠りに落ちていた。




