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夫のパスワード  作者: 松山 さくら


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11.第三章 健一 エピソード2

「部屋の掃除をして、さぁ、あなたも運気アップ。淀んだ空気を入れ替えて、リフレッシュしてみましょう」

 お昼のワードショー番組でそう話していたのは、最近テレビやネットで話題の、カリスマ主婦と呼ばれている人。その人が紹介している節約術や、日常のちょっとした裏技には定評があって、実際に本も何冊か出していて、私も読んだことがあった。

「そうよね、最近、心が沈んでばかりいるし、私も家を片づけてみようかな」

 そう思い立ってみたものの、リビングやキッチンなどは普段からこまめに掃除していたので、改めて気になる箇所はなかった。水まわりも、こないだやったばかりだし……そんなことを思い悩んでいたときにふと脳裏に浮かんだのが、二階の夫が使っていた書斎の光景。書斎とは言っても、本棚と机と椅子のセットが置いてあるだけの単なる空き部屋で、夫が持ち帰った仕事をやるために、いつの頃からか、夫が仕事部屋として使うようになった部屋。

 部屋の中を、掃除機をかけて換気することはあっても、机のまわりには夫の仕事道具が置いてあったので、勝手に触ってはいけないと思って、あえてそのままにしてきた。だけど、その夫はもういない。いつまでも、あの部屋をそのままにしておく訳にはいかなかったし、幸い夫の仕事先からの電話が入ることもなく、そろそろ机のまわりを整理してみてもいいかなと思った。

 そうやって入った夫の書斎は、夫が亡くなってから一度も窓を開けていなかったからか、空気が淀んでいた。こういうとき、よく亡くなった人の匂いを嗅いで、その人が生きていた頃のことに思いを馳せたりするのだろうが、その匂いはほとんどしなかった。僅かに漂ってくるのは、壁紙の接着剤の匂い。この家を建ててから、十五年目になるけれど、この部屋の中だけが新築に近い匂いがするから不思議だった。

 問題の夫の机は、夫の性格を反映してか、思った以上にきれいに片付いていた。机の上に、書類の束が積まれているけれど、それらはクリアファイルに入れられて、後で見てもすぐにわかるように、きれいに分けられている。整理してみようと思ってこの部屋に入ったけれど、どうやら私の出番はなさそうだった。

 途方に暮れた私は、不意に抽斗の中を覗いてみたい衝動に駆られた。開けたことのなかった抽斗。パンドラの箱、浦島太郎の玉手箱……もしかしたら、そうすることがこの部屋に入った目的だったのではないかと、自分に問いかける。だが、心の中で起こった衝動は、すでに私の腕の神経回路を通って、指先の筋肉を動かしていた。

 筆記用具に使い古された手帳、その他に本の栞や、会社で配られたノベルティグッズなど、どれも取るに足らないものばかりだった。「なんだ、こんなの……」と、拍子抜けしてしまうほどだった。

 抽斗を閉めようと思ったとき、ふと手帳に視線が向かった。B5サイズのノートを半分にした、B6サイズの手帳。それほど大事なことを書き込んではいなかったのか、リビングやダイニングのテーブルの上に、ポツンと置かれているのをよく見かけていたので、最初は気にも留めていなかったのだが、なんとなく中を覗いてみたくなった。

 私はゆっくりとその手帳を取り出すと、心の中で、

「あなた、ちょっと覗いてみるね」

 と、断ってから、恐る恐るページを開いた。

 最初のページから、几帳面だった夫の、細かい字が並んでいた。読んでみると、なんということはなかった。テレビか何かで聴いた格言のようなものや、ふとした瞬間に思い出したと思しき、仕事か何かのアイデアなどが箇条書きされていた。

『妻の夕飯ランキング』なんて言葉を見つけたときは、思わず見入ってしまった。一位は、チキン南蛮、二位は麻婆豆腐、三位はチーズインハンバーグ……といった具合で、二十位まで綴られている。夫は、どんなものでも嫌がらずに食べてくれた。たまに「今夜の夕飯のメニュー、何がいい?」と訊くと、夫は決まって「美由紀の作りたいものが一番だよ」と言った。そう言ってくれるのは、作る方にとってはありがたかったが、たまにはリクエストでもしてくれればよかったのにと、今振り返ってみて思う。どうやら、実際に食べた物の中から、気に入ったメニューをこうやって、手帳に書き残してくれていたのだろう。

こんなことなら、夫が好きだったチキン南蛮や麻婆豆腐を、たくさん作ってあげればよかったなと、涙が込み上げてきそうになるのを、必死に堪える。

 気を取り直して、他のページも見てみたが、多香子が前にポツリと漏らしていた志望大学のことや、お歳暮で届いた品物などが脈絡なく書き留められていて、恐らくメモ代わりにこの手帳を使っていたのだと思った。見聞きしたことや気づいたことなどをここに書いておいて、何かの折にそれを開いて振り返ると言った感じで。

 あまり長い時間読んでいると、その場を立ち去りがたくなりそうだった。私は、途中まで読んだところで手帳をパタンと閉じると、元の場所に戻しかけた。

 そのとき、ページに挟んでいた紙がポトリと床に落ちた。とっさに拾い上げてみる。B6サイズの紙を二回ほど折りたたんだ紙。紙の所々が変色していたり、破けていたりしていたので、随分長い間、手帳に挟んだままにしていたのだろうか。

 何かのメモだろうと思った。裸のまま挟んでいたくらいだから、取るに足らないもの。だから、そこに何が書かれているのかを、もはや見るつもりはなかったけれど、拾ったついでにとばかりに、私の指は勝手に折り目を開いてしまっていた。

『一学期中間試験結果』の表題が目に入ってきた。続いて、『一年五組 ○○健一』の表記。その下には表があって、『現代文』『古文』『数学Ⅰ』『数学A』……の科目名と、それぞれの試験の点数と平均点が印字されていた。

「なにこれ……」

 呆気に取られて、口を大きく開けたままの私。それも無理はなかった。私自身、そんな紙の成績表を見たことなんて、学生の頃以来だったのだから。

 最初、多香子の高校の成績表かと思った。だけど、多香子の学校の成績は、ウエブ上で見ることになっていたし、第一、この成績表の氏名欄には夫の名前が記されている。となれば、夫の成績表ということになるのだろうが……。

 改めて、そこに書かれていることを眺めてみる。『現代文』の九十点から始まって、『数学Ⅰ』の九十七点、『音楽』の九十八点まで、ざっと見た感じでも、いい成績だった。いかにも努力家の夫らしい成績。だけど、どうしてこんなものを、二十年近く経った今、手帳に挟んでいる必要があるのだろうか。百点を取ったりして、学生がお守り代わりに財布や筆箱などに忍び込ませていると言うのなら、まだ話はわかるけれど……。

 考えても、わからなかった。わかるはずがなかった。仕方なく折りたたみかけたとき、私の視界にある表記が飛び込んできた。『平成7年7月12日から14日実施』……

「えっ、これって、もしかして……パスワードのヒント?」

 瞬時に、私の頭の中の神経回路に、かつてないほどの強烈な電流が走る。確か、夫が私に初めて話しかけてきたのは、定期試験のときだった。夫は、その日から試験が始まるようなことを話していたと思う。古文が苦手だということも。私は、それがてっきり、五月の中間テストのときのことだと思い込んでいたけど、実際は期末試験のときだったのだ。だから、五月の中間テストと思しき日付を入力しても、エラーとして弾かれた。

 平成7年7月12日なら、パスワードは『0712』だろうか。それとも、和暦や西暦で示して『070712』か、えっと、平成七年って西暦で何年だったかなと、視線を彷徨わせる。

 いずれにせよ、それら三つのパスワードを試せばよい。思い立ったが吉日、善は急げ、私は手帳をもとの場所に戻すのもそこそこに、慌てて階段を下りたのだった。

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