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夫のパスワード  作者: 松山 さくら


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10.第三章 健一 エピソード1

 多香子から、夫のスマホアプリのパスワードのことを聞いて以降、私は夫が設定したパスワードを見つけては、アプリの中に入って、退会や解約の手続きを進めていった。

 パスワードを忘れた場合に備えて、救済とも言えるような仕組みが備わっているのは、遺された私のような家族にとってはありがたかった。『初めてデートに訪れた場所は?』『プロポーズの言葉は?』『結婚式の会場の名前は?』……ある意味で、私たち夫婦の足跡とも言えるべき質問項目が並んでいた。他人が見れば滑稽に思われてしまうかもしれないが、私にはとっては、重要なヒントでもあったのだ。ある意味で、私と夫だけが知っている秘密の暗号。他にも、思いつく質問項目はいくらでもあっただろうが、もしものときに備えて、私でも答えられるような質問を設定してくれていたのは、いかにも真面目で几帳面な夫らしかった。

 そうやって、一つ、またひとつと、アプリを消去していく。夫が生きていた痕跡をこの世から消し去っていくようで、躊躇いや寂しさはあったが、決して安くはない携帯料金を払い続ける訳にはいかなかった。

 そう、一家の大黒柱を失った今、一番お金がかかる時期の娘を抱えながら、家計をどうやって維持していくのかは、今の私にとっては大問題だったから。夫が遺してくれた貯金や住む家があるとは言え、どうにかしてお金を稼いでいかなければならなかった。だから、もう少し落ち着いたら、私も働きに出ようと思っている。

 多香子から聞いた方法でアプリに入って退会手続きを進めていたら、残ったアプリは一つとなった。夫の誕生日や銀行のカードの番号を入力するという、正攻法で攻めても弾かれるだけだったので、夫が設定した質問項目を開いてみる。これまでに、数々のアプリをその方法でくぐり抜けてきたのだから、今回も間違いなくクリアーできるだろう。

 そうやって、スマホの画面に表示された質問。

『初めて妻と話した日付は?』

 それを読んだ瞬間、「えっ?」と思った。初めて話した日のことは覚えている。電車の中で、私がノートを開いていると、夫が「その問題は……」と言って、急に話しかけてきたのだ。だけど、それが何月何日であるかなんて、覚えているはずがない。

 確か、何かの試験期間中だったと思う。中間テストなら五月だったかなと、適当に『0516』と、思いつきでパスワード欄に入力してみる。見事にというか、呆気なく『入力した値に間違いがあります』の赤文字が表示された。『0516』が駄目なら、『0517』かと思って入力してみたが、結果は同じ。そうやって、『0520』まで入力したとき、警告文が出てきた。『五回連続して間違えると、一定時間が過ぎるまでロックがかかります』

「えっ、ロックがかかる? 一定時間?」

 そう呟きながら、眉を顰める私。そこで言う一定時間が仮に丸一日だったとして、三百六十五日を全部入力するのに、ざっと見積もっても七十三日かかる計算だし、そもそもパスワードは四桁ではなくて、西暦か和暦も入れないといけないかも知れない、そうなれば、何通りのパターンが考えられるだろうか。確か、電車の中で、そんな確率の求め方を夫に教わったような気がするけれど……。

 なす術がないと言った感じで、途方に暮れていると、タイミングよく多香子が学校から帰ってきた。

「お母さん、困ったような顔をして、どうかしたの?」

 と、不思議そうに訊いてきた多香子に、事の次第を打ち明ける。

 まるで救世主のように、私から夫のスマホを受け取った多香子は、「どれどれ……」と呟きながら、画面を操作し始めたのだが、

「お母さん、このアプリ、ロックがかかっちゃっているから、しばらく操作しても無駄だよ」

 と言って、首を横に傾ける。

「ロックがかかるなんて知らなかったから、お母さん、いくつかパスワードの候補を試してみたんだけどね……どれも駄目だったの」

 額に皺を寄せる私に、多香子は、

「私が教えてあげた方法でやっても駄目だったの?」

 と、口元をへの字にして見せる。

「うん……それがね、どうやらお父さんと初めて話した日付が、パスワードに設定されているようだけど、そんなことを訊かれても、覚えていないのよ。高校一年生のときに、電車の中でお父さんから話しかけてきたことは覚えているんだけどね」

 多香子は、制服のまま、いつしかダイニングテーブルに腰かけている。最近、こうやって、多香子と向き合うことが増えて改めて気づいたが、多香子の胸のあたりまで伸ばしたセミロングの黒髪と言い、筋の通った目鼻立ちと言い、若い頃の私にそっくりのような気がする。実の母娘なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、多香子が着ているブレザーの上着に緑のチェックのスカートを、私がかつて着ていた紺のワンピースの制服に代えると、まるであの頃の私が目の前に座っているかのよう。その眩い青春の一コマが思い出せずにいる私。スマホをあれこれ触っては首を傾げている多香子の姿を、私はもどかしい気持ちで眺めていた。

「お父さんにしては、なんだか珍しいね。お母さんでもわからないようなパスワードを、設定するなんて……。あっ、ちなみにこのアプリ、SNSだよ」

「エスエヌエス?」

 どこかで聞いたことがあるワードだったが、それをカタカナで書くのか、アルファベットで書くのかがわからない。

「お母さん、やったことがないんだ……。私も、中学生のとき、このアプリのSNSを使って、いろんな友達と会話していたけど、なんだかやっているうちに疲れちゃってやめたんだ」

「ふうん、そうなの……」

 感情の籠らない声でそう答えながら、そのSNSと呼ぶものが、そんなにも面倒なものなのかと、思ってみる。そんななものを夫が使いこなしていたなんて、まるで想像ができないけれど、仕事の付き合いか何かで使っていたとも考えられる。

「今の学校の友達なんかは、このSNSを使って、彼氏と出会ったとか話しているけど、私はこういうの、苦手なんだよね。自分が書いた言葉って、後々まで残ってしまうでしょ。そんなつもりはないのに、相手には別の意味で捉えられたりしてさ。それで、相手の人とトラブルになったりして……電話の代わりに、相手の人と気軽に話せるのは便利なんだけど……」

 どうも、多香子の言っていることがわからない。電話の代わりに話すということは、そのSNSとやらは、文字をやりとりすることなのだろうか。昔でいう携帯電話のメールのようなもの? いや、メールなら、今でも多香子と頻繁に交わしているけれど……。SNSを介して、多香子の友人が恋人と出会ったということは、一時期ニュースで問題になっていた、出会い系なんとかと呼ぶものなのだろうか。

 私自身、それをやったことがないものだから、多香子から詳しく聞いたところで、あくまで想像することしかできないのだけれど、夫がそれを使って誰とどんなやりとりをしていたのかは、気になるところ。しかも、このアプリだけ、私が思い出せないようなパスワードを設定していたところを考えると、私には見せられないようなやりとりが書き綴られているのだろうか。まさか……。

 夫は、真面目な人だった。隠し事ができない人だった。いや、仮に何かを私に黙っていたとしても、隠し通せないとすぐに思ってしまって、「実はこうだった」と、正直に話してくれた。不器用さと馬鹿正直を兼ね揃えた人。そんな夫に、もの足りなさを覚えることはあったけど、私はそんな夫を誰よりも愛していた。夫と一緒にいて、十分に心は満たされたし、安心して毎日を過ごすことができた。

 だけど、今、そんな心の平穏に、陰りが差している。夫が、私に秘密で、このSNSとやらをやっていたこと。夫にだって、家では見せない顔がある。会社では、営業部の課長としての顔があったし、今でもたまに大学時代の友人たちと会って交友を深めたりしている。そこまで束縛するつもりはないし、すべきでないことはわかっている。だけど、なんだか悔しい。私の知らない夫がいたことが……。

 まだ、何もわかっていないのに、想像がとめどなく膨らんでいく。もしも夫が……と思うだけで、心が痛い。私って、やっぱり弱い人間なのだと思う。ほんの一つ、何かの歯車が狂ってしまうだけで、まともに立っていられなくなるのだ。

 夫が亡くなるまでの、平穏だった日々に戻りたかった。今にも、「ただいま」と言って、帰ってきて欲しい。それから、私に優しい素顔を見せて、この不安な気持ちを抱えた私を、まるごと抱きしめて欲しい。

「お母さん、どうしたの、大丈夫?」

 ふと、我に返ると、怪訝そうに多香子が見つめていた。多香子と目が合って、ハッと心臓が飛び出そうになった。

「えっ、うん、大丈夫。なんでもないよ」

 無理に作り笑いを見せて答えてみたが、心の中では依然、冬の日本海のような、激しい荒波が寄せては返すのを繰り返していた。


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