第5話 貫人は初めて、ありがとうの前に助けてと言う
貫人は、人に待たせることが苦手だった。
荷物を届けるなら、指定時刻より少し早く着く。通院の付き添いなら、受付票を先に用意する。買い物を頼まれれば、売り場で迷わないよう品名を並べ替えておく。
早く動けば、相手が困る時間を短くできる。それは、ずっと正しいことだと思っていた。
青い小箱を拾ってから五日目の朝、恵唯から届いた連絡には、写真が三枚添えられていた。
八号棟の壁棚から見つかった、薄い大学ノートだった。
表紙には何も書かれていない。中には薬の時刻、着替えの順番、夜間に目を覚ましたときの声の掛け方が記されている。
ただし、住宅会社の測定用紙とは書き方が違った。
数字より、待つことが多い。
右袖は本人が肘を通すまで引かない。
薬の袋を先に開けない。飲むかどうかを本人へ聞く。
階段の前では急かさない。息が整ってから次の一段へ。
夜中に呼ばれても、すぐ体へ触れない。返事を待つ。
恵唯は、ノートが澄江からちとせへ渡された私的な覚え書きだと見ていた。公的な測定資料ではない。誰がいつ書き足したかも、すべては分からない。
それでも、十枚のカードの余白にある青い補足と、言葉の選び方が似ていた。
面会の前に、四人は八号棟跡から旧商店街の呉服店まで、仕立て屋だった澄江のカードをたどった。布地の反物を抱える代わりに、同じ重さになるよう畳んだ毛布を二人で持つ。カードには、針を落としたとき膝をつかずに拾える磁石、雨の日に反物を濡らさず休める深い軒、股関節が痛む日は遠回りでも段差の少ない道を選ぶことが書かれていた。
貫人は最短の路地へ入ろうとして、カードに描かれた低い段差を見落とした。澄江の道は距離だけなら長い。けれど、布を守り、自分の脚も守るには、そのほうが早く店へ着けた。
「近い道と、着ける道は別なんですね」
貫人が言うと、恵唯は経路図へ二本の線を引いた。直線のほうへ「最短」、緩く曲がる線へ「本人が選んだ道」と書く。
澄江の一日も、歩いただけで分かったことにはならない。ただ、これで十枚のうち三枚目について、記録と実際の町を照らし合わせることができた。
貫人は朝の配達を終えると、予定より二十分早く高齢者住宅へ着いた。
玄関前で自転車を止めたところへ、恵唯たちがやってくる。
「早いですね」
恵唯が時計を見る。
「道路が空いていました」
「面会は十時からです」
「待っています」
「待てますか」
「もちろんです」
答えた直後、貫人は玄関の自動扉を三度見た。
琴葉が笑う。
「一分も経ってないよ」
「待っています」
「待ってる人は、そんなに扉を見ない」
和馬は玄関脇の長椅子へ座り、貫人の隣を軽く叩いた。
四人がそろって腰を下ろす。
何も運ばず、何も探さず、ただ時刻になるのを待つ。貫人にとって、それは重い荷物を持つより落ち着かない時間だった。
十時になると、生活相談員の本橋が迎えに来た。
「瀬川さんは今朝もお元気です。ただ、疲れると記憶が混ざります。質問を続けず、途中で休憩を入れてください」
恵唯がうなずく。
「証言を無理に引き出しません。確認できない部分は、そのまま残します」
「外へ出る場合は、私か介護職員が同行します。移動方法は瀬川さん本人へ聞いてください」
貫人はその言葉を頭の中で繰り返した。
本人へ聞く。
先に手を出さない。
澄江は談話室の窓際に座っていた。
白い髪を短く整え、膝には小さな裁縫箱を載せている。針へ糸を通そうとしているが、糸先が穴の周りを何度も滑っていた。
貫人は反射的に手を伸ばしかけた。
止める。
「お手伝いしましょうか」
澄江は針を目の高さへ持ち上げた。
「まだ、自分でやってるところ」
「失礼しました」
「謝るのが早い人ね」
澄江はもう一度糸先を寄せた。三度目で穴を通る。
「ほら。できた」
「お見事です」
「あなた、郵便屋さん?」
「貫人です。先日、青い小箱を拾いました」
「かんと」
澄江は二度繰り返し、すぐ琴葉を見る。
「この人の妹さん?」
「時計屋です」
「そう。時計屋さん」
恵唯は青い小箱を保護ケースごと机へ置いた。原物へ直接触れる前に、本橋が澄江へ確認する。
「瀬川さん、この箱を見ても大丈夫ですか」
「私の箱よ」
「触りますか」
「触る」
手袋は使わない。澄江が縫った布の感触を確かめられるよう、保存担当者と相談し、箱の外側だけを清潔な手で触れることになっていた。
澄江は青い蓋を撫で、角の縫い目を指で探った。
さっきまで曖昧だった目が、細い糸を追ううちに静かになっていく。
「これ、ちとせちゃんが水を怖がらないように青くしたの」
恵唯が録音機の作動を確認する。
「ちとせさんは、水が苦手だったのですか」
「子どもの頃、川へ落ちたって。だから青いものも嫌いだった。でも、嫌いな色を箱にして持てば、怖いものを持って歩けるでしょう」
「澄江さんが縫ったんですね」
琴葉が尋ねる。
「ちとせちゃんが切って、私が縫った。あの子、布を真っすぐ切れないの。人の息はよく見てるくせに」
澄江は笑い、箱の内側をのぞいた。
「一枚、ないね」
「最初からなかったのでしょうか」
「ないのは、ちとせちゃんの一日」
談話室の空調が低く鳴る。
恵唯は急いで次を聞かず、澄江の手が箱から離れるのを待った。
「どうして、ちとせさんのカードだけ作られなかったんですか」
「会社の人が言ったの。介助は家の性能じゃないって。ちとせちゃんが待った時間も、夜に何回起きたかも、数字町の数字にいらないって」
「でも、一日交換表には名前がありました」
「案内する人だったから。みんな、自分と違う人の朝を歩いたでしょう。足の遅い人、夜に働く人、音で道を知る人。ちとせちゃんは、誰と誰を組ませるか考えて、横で見てた」
「ちとせさんの一日は、誰も歩かなかった」
和馬の声に、澄江はうなずいた。
「歩かせてもらえなかった、が近いね」
貫人は大学ノートの複製を開いた。
「ここに、相手が手を伸ばすまで触れない、と何度も書いてあります」
「ちとせちゃん、早かったから」
「介助が?」
「待つのが。急いで待てる人だった」
不思議な言い方だった。
貫人は、待つことを何もしない時間だと思っていた。
だが、ちとせのノートでは、待つことが一つの動作として書かれている。呼吸を見る。指が動くのを見る。本人の返事が出るまで、自分の速さを置いておく。
「私たちは、ノートどおりの一日を再現できません」
恵唯が言った。
「記録が足りませんし、ちとせさん本人の気持ちも分かりません。分かる部分だけ、確認させてください」
「それでいいよ。人の一日は、紙一枚に入らないから」
昼前、本橋が澄江へ短い外出を提案した。
天気は穏やかで、建物前の庭を一周するだけなら体調にも問題がない。介護職員も少し離れて同行する。
「歩行器にしますか。車椅子にしますか」
本橋が尋ねる。
「途中まで歩行器」
澄江が答える。
「帰りは?」
「疲れたら考える」
貫人はすぐ車椅子を用意しようとした。
「待って」
澄江が言う。
「はい」
「まだ、立つところ」
澄江は椅子の肘掛けへ両手を置いた。腰を少し前へずらし、足の位置を確かめる。
貫人には、背中を支えれば一秒で立たせられるように見えた。
けれど一秒で立つことが目的ではない。
澄江は自分の腕へ力を入れ、ゆっくり腰を上げた。
本橋が歩行器を前へ置く。
「ありがとう」
澄江は本橋へ言ったあと、貫人を見る。
「あなたは、何も取らなかった。えらい」
「何もしていません」
「何もしないの、難しい顔だったよ」
琴葉が横で笑いをこらえている。
庭の半分まで進むと、澄江が足を止めた。
貫人は先へ回り、椅子を持ってこようとする。
「待って」
二度目だった。
「私が、どこで休むか決めるの」
「はい」
「あなた、名前は?」
「貫人です」
「寛治さん」
「貫人です」
「そう。貫太さん」
「かなり近づきました」
庭のベンチまであと三メートル。
澄江はそこまで歩き、自分で腰を下ろした。
「ありがとうね、ありがとう君」
貫人は少し複雑な気持ちで頭を下げた。
「それなら、間違っていません」
帰りは澄江が車椅子を選んだ。
誰かに決められる前に、自分で決めた。
その選択を運ぶことが、貫人の役目になった。
談話室へ戻ると、澄江は十一足の写真を手に取った。
泥に半分隠れた一足を指で叩く。
「これが、ちとせちゃん」
「会社の名簿にはありません」
「紙には住んでなくても、夜は八号棟で寝てた。私が呼べば起きた。朝になれば、みんなの道へ行った」
澄江は携帯同期記録器の保護ケースを見た。
「洪水のあと、会社の人が持っていったよ。壊れてるから捨てるって」
「どうして戻ったんですか」
琴葉が聞く。
「捨てるなら、ちょうだいって言ったの。直らなくても、ちとせちゃんが使ったものだから。紙に名前を書いて、もらった」
正式な払下げ記録が残っていた理由だった。
澄江は十枚のカード、記録器、真鍮の鍵、写真を青い小箱へ入れた。蝋引き布で二重に包み、川沿いの避難経路標識にある乾いた点検筒へ隠した。
「仮の家へ移るとき、会社の人が荷物を見たから。あとで取りに行くつもりだった」
「行けなかった?」
「柵ができた。町を出た。忘れた。思い出したときには、どの標識だったか分からなくなった」
前夜の大雨で古い標識の基礎が崩れ、点検筒ごと川へ落ちた。
青い小箱は三十二年かけて流れたのではない。
三十二年間、箱は暗く乾いた筒の中で待ち続けた。そして四日前の朝、崩れた土と濁流に押し出され、貫人の前へ流れ着いた。
「私が拾ったのは、偶然でしょうか」
貫人が言う。
「川は届け先を書かないよ」
澄江は答えた。
「でも、拾った人が開けたなら、その人が届ければいい」
話し終える頃、澄江の声に疲れが混じった。本橋が休憩を促し、四人も立ち上がる。
澄江は目を閉じかけてから、ふいに手を上げた。
「時計を止めたの、壊れたからじゃないよ」
琴葉が振り返る。
「機械が勝手に前へ戻ろうとしたの。光の向きが変わったら、まだ歩いてる人が困るから、ちとせちゃんが止めた」
「光を動かしたのは誰ですか」
「由樹くん。六時十二分の前に、三回まわした」
澄江は指を一度、二度、三度と回す。
「若いのに、怖い顔で回してた。怖いから、ずっと冗談を言ってた」
高齢者住宅を出ると、貫人は自転車へ荷物を載せた。
午後の配達が二件残っている。
「一人で行くんですか」
恵唯が尋ねる。
「いつもの範囲です。大丈夫です」
ペダルへ足を掛けた瞬間、後輪から鈍い音がした。
車体が傾く。
貫人はすぐ降りたが、後輪の軸が外れ、泥よけへ食い込んでいる。
「昨日から音してたでしょ」
琴葉がしゃがむ。
「少しだけです」
「少しの音を放っておくと、大きく壊れる」
「すぐ直します」
貫人は工具袋を開いた。
軸を戻し、チェーンを掛け直し、配達先へ謝り、遅れた分を走ればいい。
いつもそうしてきた。
琴葉が車輪を見て首を振る。
「一人で支えながら直すのは無理。部品も足りない」
「自転車店まで押します」
「後輪が回らない」
「持ち上げれば」
「荷物もある」
恵唯が時刻を見る。
「次の配達まで二十二分です」
「間に合わせます」
言ったあと、貫人は三人の顔を見た。
喉まで出た言葉は、ありがとうございます、だった。
まだ誰も助けていない。
先に礼を言えば、自分が受け取る側になる時間を短くできる。すぐ借りを返し、関係を元へ戻せる。
それでは、待たない介助と同じだ。
貫人は工具袋から手を離した。
「助けてください」
言葉にすると、胸の奥が妙に静かになった。
和馬がすぐ役割を分ける。
「琴葉さんは車輪。恵唯さんは配達先へ連絡。私は自転車店へ運ぶ車を手配します。貫人さんは荷物の中身と期限を教えてください」
「一件目は薬局から個人宅へ衛生用品。二件目は商店街の帳簿です。衛生用品が先です」
「帳簿は私が届ける」
恵唯が電話を掛けながら言う。
「役場へ戻る途中です」
「でも」
「委ねてください」
琴葉が車輪を外す。
「衛生用品は和馬の車で。貫人は住所を伝える」
貫人は、自分の仕事が三人の手へ分かれていくのを見た。
取られた感じはしなかった。
むしろ、自分一人では届かなかった時間へ、別の道がつながっていく。
三十分後、衛生用品は予定より五分遅れで届いた。帳簿は時間どおり。自転車は修理店へ運ばれた。
すべて終わってから、貫人は三人へ向き直った。
「助けてくださって、ありがとうございました」
琴葉が笑う。
「今度は順番が合ってる」
和馬がうなずいた。
「頼まれる側にも、できることを渡してもらえました」
恵唯は携帯端末へ何かを入力する。
「何を書いているんですか」
「貫人さんが初めて、礼より先に助けを求めた時刻です」
「記録するほどですか」
「重要な変化です」
「公文書にはしないでください」
「未確認事項の隣に置きます」
貫人は笑った。
人を助けることと、人に助けを求めることは、反対ではなかった。
どちらも、相手へ役目を渡すことだった。
夕方、修理店から代車を借りた貫人は、自然堤防の上をゆっくり走った。
川面は、箱を拾った四日前より穏やかだった。
青い小箱はもう流れていない。
届け先は分からないまま、それでも四人のところへ届いた。
次に届けるべき相手は、由樹だった。




