第4話 時計職人は、傷を消すことが正しいと思っていた
四日目の朝、琴葉は店のカーテンを半分だけ開けた。
時計の傷には、二種類ある。
使った人が残した傷と、消そうとした人が残した傷だ。
琴葉は青い小箱から出た携帯同期記録器を、作業台の中央へ置いた。
腕時計ほどの大きさだが、普通の時計より厚い。文字盤は六時十二分を示したまま。革帯の内側には、青い糸で補修した跡がある。
昨夜、資料写真で確認した澄江の縫い方と一致していた。
糸の端を内側へ隠し、最後の結び目だけを二重にする。
「これ、澄江さんが直したんだ」
琴葉は独り言のように言った。
朝の時計店には、まだ客はいない。
作業台の反対側に恵唯が座り、町の視聴覚資料保存担当である塩谷が記録用のカメラを準備している。和馬と貫人は、工具棚から離れた椅子に並んでいた。
「分解前の状態を撮影しました」
塩谷が言う。
「続けてください」
琴葉はうなずき、息を整えた。
幼い頃から、祖父の隣で時計を見てきた。
祖父は傷を見つけると、まず磨いた。
文字盤の曇りを取り、歯車の錆を落とし、針の曲がりを直す。壊れているものが元の形へ戻る瞬間を、琴葉は魔法のように思っていた。
だから自分も時計職人になった。
止まった時計を動かし、傷を消し、狂った時刻を合わせる。それが正しい仕事だと信じていた。
だが、目の前の記録器にある傷は、消したら何かまで失う。
琴葉は裏蓋を固定している四本のねじを、対角線の順に緩めた。
一度に外さない。固着の具合を確かめながら、少しずつ力を分ける。
「委譲ですね」
和馬が言った。
「ねじに?」
貫人が聞く。
「一本だけへ全部の力を任せない」
「今しゃべると手元が狂う」
琴葉が言うと、二人は同時に口を閉じた。
裏蓋が外れる。
内部には小さな時刻機構と、薄い金属箔を巻いた円盤が収まっていた。押しボタンを操作した時刻と、その前後の短い周囲音を残す仕組みである。
金属箔の留め具には、市販のねじではなく、縫い針を短く切ったものが使われていた。
「正規部品ではありませんね」
恵唯が言う。
「うん。でも雑じゃない。針の太さをそろえて、先端を丸めてる。応急修理した人は、機械を分かってる」
「祖父ですか」
琴葉はすぐには答えなかった。
「祖父なら、もっと別の留め方をする。たぶん、住民の誰か。祖父がやり方を教えた可能性はある」
裏蓋の内側には、細い線が並んでいる。
頭文字だった。
S、H、Y、M。
十一人分ある。
そのうち一つだけ、上から何度も削られていた。
削った傷は深く、方向がばらばらだ。最初の刻印に使われた工具とは違う。
「ここ」
琴葉は拡大鏡を固定した。
「刻んだ人と、消した人が違う」
「分かるんですか」
貫人が尋ねる。
「刻印は同じ角度、同じ深さ。消した傷は急いでる。文字だけ読めなくなればいいって削り方」
ちとせの頭文字かもしれない。
だが今は、そう決められない。
祖父が消した可能性も残る。
琴葉は胸の奥に浮かんだ反発を、いったん作業台の外へ置くように息を吐いた。
「祖父がやったと思いますか」
恵唯が尋ねる。
「思いたくない」
「質問への答えになっていません」
「分かってる」
琴葉は拡大鏡から目を離した。
「昨日までなら、祖父じゃない理由を先に探した。でも今は、祖父かもしれないし、違うかもしれない。両方残す」
恵唯は少し驚いた顔をしたあと、記録用紙へ書いた。
「傷の工具差を確認。削除者は未確定」
「それでいい」
琴葉は裏蓋を閉じず、透明な保護カバーをかけた。
金属箔の再生には専用治具が必要だった。
祖父の作業控えに、似た記録器の図が残っている。だがすぐに組めるものではない。琴葉は寸法を測り、必要な部品を書き出した。
「今日中に再生できますか」
貫人が聞く。
「急げば壊す」
「すみません」
「謝らなくていい。聞きたいのは私も同じだから」
琴葉は工具を置いた。
「先に、調律師の道を歩く」
二号棟の住民だった柊晴一は、目の見えないピアノ調律師だった。
カードには、晴一が町を歩くときに使った音の手掛かりが記されている。
ただし、四人は屋外で目隠しをしない。
それは晴一の人生を知ることではなく、危険なまねをすることになる。恵唯が一号棟の廊下を使う許可を取り、手すりのある短い区間だけ、一人ずつ目を閉じることにした。
最初は琴葉だった。
和馬が右側へ立つ。
「手すりは左です。私は右にいます。止まりたくなったら止まってください」
「分かった」
目を閉じる。
明るさが消えただけで、廊下の広さが分からなくなった。
靴底が床へ触れる音。
窓の隙間から入る風。
遠くで貫人が鼻をすする音。
「今、笑った?」
「笑ってません」
「貫人、笑ったでしょ」
「鼻です」
見えないと、声の位置が近く感じる。
琴葉は左手で手すりを探した。指先へ木の冷たさが触れる。
一歩進む。
床材が変わった。
硬い板から、少しざらついた帯へ。
「玄関方向を知らせる素材です」
恵唯の声が前方からした。
「説明しないで。自分で知りたい」
もう一歩。
外を大型車が通った。
低い音が壁へ反射し、廊下の右側が急に広がったように感じる。
琴葉は足を止めた。
「音で部屋の形が変わる」
「実際の形は変わっていません」
恵唯が言う。
「そういう意味じゃない」
目を開けると、廊下はさっきと同じだった。
当然なのに、少し腹が立った。
見えていると、見えていないときの地図を簡単に上書きしてしまう。
次は貫人が目を閉じた。
廊下を三歩進み、鼻を動かす。
「パン屋は左です」
「建物の中です」
琴葉が言う。
「甘い匂いがします」
「昨日の団子じゃない?」
和馬が尋ねる。
「違います。焼いた芋みたいな」
一号棟を出て屋外の音を確かめることになった。
全員、目は開けたまま歩く。
用水路の水音。
自然堤防へ上がる坂で変わる足音。
建物が途切れる場所で、車の反響が薄くなる。
カードには、晴一の言葉が残っていた。
「見えない私は、町を知らないのではない。見える人と別の地図を持っている」
琴葉はその一文を何度も読んだ。
祖父の公式図面には、点字のような小さな刻みがあった。
子どもの頃は、製図板の傷だと思っていた。
「これ、晴一さんが触るための印だったのかも」
琴葉は図面の複製を指でなぞった。
「一号棟から時計までの方向。時計から自然堤防の坂。音が鳴る位置に印がある」
恵唯が図面を確認する。
「公式仕様には、光による警報しか記載されていません」
「最初は音も入れるつもりだったんだ」
「実装されなかった?」
「正規部品は外されてる。でも現物にはピアノ線と鍋の蓋がある」
中央広場の時計内部で見つけた住民改造。
祖父の設計だけでは、晴一へ避難方向を伝えられなかった。
住民が補った。
祖父はそれを知っていた。
「完璧じゃなかった」
琴葉は口にした。
誰かに責められたわけではない。
それでも、その言葉を言うには力が必要だった。
「祖父の時計は、完璧じゃなかった」
和馬が隣に立つ。
「だから住民が直したんでしょう」
「祖父が最初から作れてたら、直さなくて済んだ」
「直したことで、住民の時計にもなった」
琴葉は眩しい文字盤を見上げた。
祖父の名前だけが刻まれた銘板。
その内側に、パン屋の銅板、仕立て屋のボビン、調律師のピアノ線がある。
祖父の失敗を認めることは、祖父を小さくすることだと思っていた。
違うのかもしれない。
一人で完成させられなかった時計を、十一人が使える形へ変えた。
それもまた、祖父が残したものの一部だ。
調査を終え、四人は旧商店街へ戻った。
琴葉の店へ向かう途中、貫人が立ち止まる。
「匂いがします」
「まだ言ってる」
「本当に焼き芋です」
角を曲がると、移動販売の焼き芋店が停まっていた。
貫人は得意そうな顔をした。
「音ではなく匂いの地図ですね」
和馬が言う。
「調査経路から二百八十メートル逸脱しています」
恵唯が地図を見て答える。
「戻りますか」
貫人が少し残念そうに聞く。
琴葉は焼き芋の煙を吸い込んだ。
「休憩。今日は足の地図と音の地図と匂いの地図を確認する」
「正式な記録項目ですか」
「今、正式にした」
四人は焼き芋を一本ずつ買った。
和馬が半分に割り、熱さを逃がす。
「有意義な逸脱です」
恵唯は何も書かないふりをして、手帳の端へその言葉を残した。
午後、琴葉は再生台を組み始めた。
祖父の図をそのまま使わない。
三十二年前の磁性箔は弱っている可能性がある。強い磁力や速い回転を与えれば、音を取り出す前に消える。
回転軸は手で動かす。
読み取り部は箔へ触れない。
新しい信号を書き込まない構造にする。
塩谷が再び立ち会い、機器の状態と作業手順を記録した。
夕方、ようやく複製音源が取れた。
最初は雑音だけだった。
雨。
衣擦れ。
金属を押す小さな音。
琴葉は再生速度をわずかに落とした。
誰かの息が聞こえる。
遠くで女性が話している。
『……八号棟……』
雑音が重なる。
もう一度。
塩谷が音声処理で低い機械音を少し抑えた。
『ちとせさん、八号棟へ』
四人は誰も動かなかった。
短い声だった。
それでも、確かに名前を呼んでいた。
「ちとせ」
貫人が小さく繰り返す。
公式居住者名簿にはない。それでも交換表には案内役として何度も現れ、十一足の写真にも、十一個の刻印にも、空いた仕切りにも、その人の場所が残っている。
だが、これまで本人の名前を音として聞いたことはなかった。
「この記録器を着けていた人が、ちとせさんなんでしょうか」
和馬が尋ねる。
「革帯の青い補修と、押しボタンの位置から可能性は高い。でも、これだけでは確定できない」
琴葉は自分で言った。
以前なら、祖父の道具だから祖父の資料を優先した。
今は、都合のいい答えへ急がない。
「削られた頭文字も、ちとせのものかもしれない」
恵唯が言う。
「消したのが祖父かもしれないし、別の人かもしれない」
琴葉の胸が少し痛んだ。
「うん」
「大丈夫ですか」
貫人が聞いた。
「大丈夫じゃない。でも、削った人を決めつけて祖父を守るよりはいい」
恵唯は携帯端末を開いた。
「職員名簿を再確認します。居住者名簿ではなく、臨時入館証の記録も含めて」
資料室へ戻った恵唯から連絡が来たのは、閉館時刻を過ぎた頃だった。
四人は再び役場へ集まった。
机の上に、一枚の複写票がある。
榎本ちとせ。
夜間介助。
八号棟への入館を許可。
備考欄には、赤い印字。
「居住扱い不可。測定対象外」
琴葉はその文字を見た。
「住み込みなのに、入館する人として処理したんだ」
「居住を認めると、測定対象者が十人という契約条件から外れるからでしょう」
恵唯が答える。
「だから夜になったら、住んでないことになる?」
「書類上は」
「人は書類の外でも寝るし、起きるし、誰かを助ける」
声が強くなった。
恵唯は反論しなかった。
入館証の裏には、緊急連絡先が記されている。
そこだけ黒く塗りつぶされていた。
「連絡先まで消してる」
「保存時の個人情報処理かもしれません」
「また、決められないのか」
「今は、まだ」
琴葉は作業台で見た削り傷を思い出した。
答えの出ないものが増えるたび、以前なら苛立った。
壊れた箇所を見つけたら、原因を決め、部品を替え、動作を確かめる。それで仕事は終わる。
この記録は違う。
消した人を探せば、守ろうとした人も見える。
直そうとすれば、傷そのものが証拠になる。
「時計は、まだ動かさない」
琴葉は三人へ言った。
「六時十二分から先を見たい。でも今、鍵を回したら、傷の位置も内部の記録も変わるかもしれない」
貫人がうなずく。
「待ちます」
「私が待てないかもしれないから言ってる」
「そのときは止めます」
「一人で?」
「三人で」
和馬が静かに加えた。
琴葉は笑った。
祖父の時計を、自分一人で直す必要はない。
祖父自身が、住民の手を借りていた。
携帯同期記録器の複製音源を保存し、原物を保護箱へ戻す。
最後に透明な蓋越しに、削られた頭文字を見た。
傷を消さない。
きれいにしない。
そこに誰かがいたことと、誰かが消そうとしたことの両方を残す。
時計職人として、それは直さない選択ではない。
次に正しく触れるための、最初の修理だった。




