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午後六時十三分、止まった時計は未来を刻み始めた ― 波間で拾った青い小箱がつないだ十一人目の記憶 ―  作者: 乾為天女


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3/7

第3話 恵唯の壁には、十一人目だけ居場所がない

 性能データ区域から戻った二日目の夜、水緒町役場の防災資料室には、窓が一つしかない。


 その窓も書架の陰に半分隠れ、午後になると細長い光を床へ落とすだけだった。恵唯は昔から、その部屋が嫌いではなかった。紙は声を荒らげない。決められた場所へ戻せば、昨日と同じ顔で待っている。


 ただし今日は、壁が紙より騒がしかった。


 閉館時刻を過ぎた資料室の白壁に、色とりどりの付箋が枝のように広がっている。


 青は公文書で確認できたこと。


 黄は証言。


 赤は矛盾。


 白は未確認。


 中央には「午前六時九分から六時十二分」と書いた大きな紙。その周囲を、停電、予備電源、契約住民十人、榎本ちとせ、眩しい時計、一日交換表という言葉が取り囲んでいた。


 恵唯は新しい青い付箋を貼った。


 「交換表の原本。二号棟床下から発見。筆跡は複数」


 次に黄色。


 「和馬さんが、六時九分に起こせという声を聞いた」


 貼ったあと、少し考えて、黄色の右上へ小さく「裏付けなし」と書き足す。


 「そこまで書かなくても忘れないと思いますよ」


 背後から声がした。


 貫人が紙袋を抱えて立っている。閉館後に来るなら連絡してほしいと昨日伝えたはずだが、彼は十九時ちょうどに来た。連絡も十九時ちょうどに届いた。


 「来る前に連絡してください」


 「今、連絡しました」


 「到着報告です。事前連絡ではありません」


 「次は五分前にします」


 「最低でも十五分前でお願いします」


 貫人は素直にうなずき、紙袋を机へ置こうとした。


 机は資料で埋まっている。椅子には地図。床には図面。窓枠にもカードの複製写真が並んでいた。


 貫人は紙袋を持ったまま、右を見て、左を見た。


 「これは、どこへ置けばいいですか」


 「中身は何ですか」


 「団子です」


 恵唯は壁を見た。


 「未確認事項の下が空いています」


 「団子を未確認にするんですか」


 「中身を確認していませんから」


 「団子です」


 「貫人さんの申告です」


 そこへ琴葉が入り、貫人から袋を受け取った。


 「証拠保全しとく」


 紙袋に油性ペンでそう書き、白い付箋の下へ置く。


 「食べ物に直接書かないでください」


 「袋だから平気」


 「何の証拠ですか」


 「四人がちゃんと夕食前に休憩した証拠」


 和馬は二人のやり取りを聞きながら、すでに袋から一本取り出していた。


 「保全するんじゃなかったんですか」


 恵唯が尋ねる。


 「品質確認です」


 琴葉が吹き出した。


 恵唯は付箋を一枚取り、そこへ「団子はみたらし。和馬が一本確認」と書いた。書いてから、自分が何をしているのか分からなくなり、付箋を剥がした。


 笑い声が小さく続く。


 それが止むまで、恵唯は母の名前がある箱を開けられなかった。


 書架の最下段から取り出した灰色の保存箱には、「水緒生活性能データ区域 最終集計」と記されている。


 母、森下奈緒子が集計補助員として働いていたのは、恵唯が生まれる直前だった。


 母はよく、妊娠中の恵唯はお腹の中で静かすぎたと話していた。


 「動かないから心配したの。だけど病院で機械を当てると、ちゃんと音がした」


 恵唯はその話が好きだった。


 見えなくても、測れば確かめられる。数字や記録を信じるようになった理由の一つは、たぶんそこにあった。


 母が亡くなったあと、性能データ区域の話だけは嫌いになった。


 洪水時の記録が書き換えられた。


 対象外の人間が消された。


 集計担当者が会社へ従った。


 町の古い掲示板や、匿名の投書に、母の名前が何度か現れた。誰も確かな資料を示さなかったが、恵唯は反論もしなかった。反論するには、正しい記録が必要だった。


 箱の蓋を開ける。


 最終集計表は、三冊の綴じ込みになっていた。


 一冊目は住宅性能。


 二冊目は日常動線。


 三冊目は災害時行動。


 恵唯は三冊目を机へ置き、六時九分の欄を探した。


 六時八分まで、十人分の識別番号と位置が並んでいる。


 六時九分。


 停電。


 六時十分、十一分は空欄。


 六時十二分に予備電源が復旧し、十人分の位置情報が再び記録される。


 その間に何が起きたかを説明する添付資料の番号が、欄外へ手書きされていた。


 「補足経路図、災三―七」


 恵唯は別箱を探した。


 三―六の次は三―八だった。


 三―七だけがない。


 「抜かれてる?」


 琴葉が肩越しにのぞく。


 「綴じ穴の状態から見ると、最初から綴じられなかったのではありません。いったん入れた紙を外しています」


 「誰が?」


 「まだ分かりません」


 ページ下部には、母の署名があった。


 その横に、細い字で追記されている。


 対象外一名を除外。


 恵唯の指が止まった。


 「お母さんの字?」


 琴葉が尋ねる。


 「署名は母です。追記は……似ています」


 正確に言えば、似ていると認めたくなかった。


 母は文字の横線をわずかに右上がりに書く。この追記にも同じ癖がある。


 和馬が近づいたが、紙には触れなかった。


 「違う人が似せた可能性は?」


 「あります。ただし、母が書いた可能性も同じように残ります」


 「同じではないでしょ。今は何も分からない」


 琴葉の声が強くなる。


 「だから両方を残します」


 「お母さんを疑うの?」


 「疑わないことと、調べないことは違います」


 自分で言いながら、胸の内側が冷えた。


 母を守りたい。その気持ちは、資料箱の蓋を開ける前から胸の底にあった。


 けれど、守るために都合のよい紙だけを選ぶなら、根拠のない噂を書き散らした誰かと、していることは変わらない。


 恵唯は青い付箋を一枚取り、「母の署名あり」と書いた。


 赤い付箋には「補足経路図が欠落」。


 白い付箋には「追記筆者未確定」。


 最後に黄色を取り、「母が対象外一名を除外した可能性」と書こうとした。


 ペン先が動かない。


 「無理に貼らなくていいんじゃないですか」


 貫人が言った。


 「貼らなければ、考えていないことになります」


 「考えているから、手が止まってるんでしょう」


 恵唯は振り返った。


 貫人は慰める顔をしていなかった。答えを知っている顔でもない。ただ、団子の串を紙皿へ置き、そこに立っている。


 「分からないまま、隣にいます」


 その言葉には、母は悪くないとも、母が書いたとも含まれていなかった。


 恵唯は黄色い付箋を壁へ貼った。


 文字は書かず、空白のままにした。


 翌朝、四人は午前三時五十分に旧商店街へ集まった。


 夜と朝の境目は、空の色だけでは分かりにくい。閉じた店のシャッター、新聞配達の自転車、遠くで動き始めた冷蔵車。眠っている町の中に、起きている人の音だけが点々と浮かんでいる。


 旧パン工房の前には、当時の看板が半分残っていた。


 小田切製パン。


 パン職人の小田切宗介は、性能データ区域の三号棟に住んでいた。早朝に工房でパンを焼き、八号棟を含む各戸へ配り、最後に自然堤防上の一号棟へ非常食用の箱を届けていた。


 カードの表にはパンの印。


 裏には糸巻き。


 一日交換表によれば、この道を歩いたのは仕立て屋の澄江だった。


 恵唯はカードの複製を読み上げた。


 「朝四時。パンを百二十個焼く人の足は、眠気より先に床の冷たさを覚える」


 琴葉が地面へ手を当てた。


 「冷たい」


 「地面だからです」


 「雰囲気を受け取ってるの」


 再現用の箱には、パンの代わりにジャガイモが詰めてある。


 重さは当時の配達記録を参考にした。ただし一人で全量を持たず、四つに分け、安全のため台車も用意した。誰かの苦労を知るために怪我をするのは、本末転倒だと恵唯が主張したためである。


 貫人は自分の箱を軽々と持ち上げた。


 「これなら行けます」


 「カードを続けて読んで」


 恵唯が言う。


 琴葉が次の行を見る。


 「右足をかばう。一分歩いたら、足を休める。急かされると、休むふりをやめて痛みを隠す」


 貫人は箱を持ったまま固まった。


 「一分ごとですか」


 「そう書いてある」


 「距離ではなく?」


 「時間です」


 小田切宗介の診療記録は残っていない。だが交換表の欄外に「右脚装具」の記載があり、カードには杖をついたパンの絵が描かれていた。


 四人は一分歩き、一分止まることにした。


 最初の一分で、貫人は商店街の角まで進んだ。


 止まる。


 誰も通らない道で、何を待つでもなく立っていると、一分は長かった。


 「もう一分経ちました?」


 「二十二秒です」


 恵唯が答える。


 「時計を見ないほうがいい」


 和馬が言った。


 「配達をしていると、止まることを損に感じるんです」


 「止まらないと歩けない人には、止まる時間も道の一部なんでしょう」


 貫人は箱の持ち手を握り直した。


 二度目の一分。


 三度目の一分。


 いつもなら十分で抜ける商店街を、四人は三十分近くかけて進んだ。


 歩く速さが変わると、町の形が変わった。


 薬局の軒は、雨宿りできる深さがある。


 閉店した呉服店の前には、腰を掛けられる低い石がある。


 用水路の曲がり角には、右足をかばう人が体を支えたような手すりの擦れが残っている。


 貫人は毎日のようにこの道を通る。


 それなのに、石を見たことがなかった。


 速く通り過ぎる人にとっては、景色の一部にもならない。休まなければ進めない人にとっては、次の角まで行くための大切な場所になる。


 「知らない町みたいです」


 貫人が言った。


 「町は同じです」


 恵唯は答えたあと、少し考えた。


 「見えている情報が違います」


 八号棟へ着く頃、東の空が薄く明るくなった。


 建物は閉鎖されているため中へ入らず、当時の玄関位置で一度休む。


 カードの余白には、青い糸で小さな波が描かれていた。


 その下に、別の筆跡がある。


 「宗介さんは、休むときに謝る。謝らなくていい場所を作ること」


 「ちとせの字でしょうか」


 貫人が尋ねる。


 「交換表の青い補足と似ています」


 恵唯は複製写真を並べた。


 「断定はできません。ただ、十枚全部に同じ青い印があります」


 「全員の道に付いていったんだ」


 琴葉が言った。


 「測る対象じゃないと言われた人が、測る人たちの足元を一番見ていた」


 八号棟から自然堤防へ向かう道は、緩やかな上りだった。


 緩やかだからこそ、長く続く。


 右足をかばうつもりで歩くと、左の腰へ負担が集まる。貫人は試しに歩幅を狭くしたが、すぐ元の速さへ戻ってしまう。


 「無意識に先へ行ってます」


 恵唯が指摘した。


 「すみません」


 「謝る必要はありません。戻ってください」


 貫人は三歩戻った。


 そのとき、台車の上で箱が傾いた。


 「あ」


 袋の口が裂け、ジャガイモが道へ転がり出した。


 一個、二個、五個。


 坂を得たジャガイモは、想像以上に速かった。


 「止めて!」


 琴葉が追う。


 貫人も走りかけて、右足をかばうという今日の歩き方を思い出した。だが、転がるジャガイモに配慮する必要はない。


 四人が慌てて坂を下りたところへ、登校中の小学生が三人やってきた。


 「ジャガイモ逃げてる!」


 「そっちお願い!」


 琴葉の声で、子どもたちは笑いながら拾い始めた。


 用水路へ落ちる直前の一個を、黄色い帽子の女の子が靴で止める。


 「助かりました。ありがとうございます」


 貫人は一人ずつに頭を下げた。


 「こちらもありがとうございます」


 「何で二回言うの?」


 「拾ってくれたことと、落ちなかったことです」


 「落ちなかったのはジャガイモじゃん」


 「では、ジャガイモにも」


 「学校遅れるよ」


 恵唯に促され、子どもたちは笑いながら走っていった。


 予定より十五分遅れた。


 貫人が一人ずつ礼を言った時間も、遅れに含まれている。


 恵唯は記録用紙へ「荷崩れあり。地域住民三名の協力」と書いた。


 「礼の時間も書きますか」


 貫人が聞く。


 「必要なら」


 「必要です」


 「では、何秒でしたか」


 「測っていません」


 「未確認にしておきます」


 自然堤防の上へ着く頃には、朝日が川を照らしていた。


 一号棟の近くに、古い石の腰掛けがある。


 低く、幅が広い。パン箱を横へ置き、人が座れる形だ。カードには「最後の休み場所」と記されていた。


 琴葉が裏側へ回り、土を払った。


 「何かある」


 石の下に、薄い木片が挟まっていた。


 引き出すと、靴の形をした木札だった。表面に「十一番」の刻印。上部の穴には、青い糸が通され、波の形に縫い留められている。


 「写真の靴と同じ形」


 恵唯は青い小箱から複製した写真を出した。


 生活交換会で撮られた十一足。その前に、靴形の札が一つずつ置かれている。泥に半分隠れていた十一足目の前にも、青い糸のようなものが見えた。


 「澄江さんが作ったと思う」


 琴葉が木札の裏を指した。


 「糸の始末が、箱の内張りと同じ。縫い目を表へ出さず、最後だけ二重に結んでる」


 「なぜ、ここに?」


 「パン職人の道を歩いた人が、最後に置いたのかもしれません」


 恵唯は木札を保護袋へ入れた。


 十一番。


 契約上は十人。


 写真には十一足。


 箱には十一枚分の仕切り。


 時計の基礎には十一個の印。


 どの記録も少しずつ違う形で、同じ一人を指している。


 和馬は石の腰掛けの隣へ立っていた。


 誰かのために場所を空けるように、少し横へ寄る。


 「聞こえますか」


 貫人が小声で尋ねた。


 「声というほど、はっきりは」


 和馬は目を閉じた。


 朝の車が自然堤防を走る。


 川風が草を倒し、また起こす。


 その間に、息を吐くような言葉が混じった。


 「歩いた道は十人分」


 和馬がゆっくり口にする。


 「私の帰り道だけ、紙にない」


 恵唯は反射的に記録用紙へ書こうとした。


 ペン先が紙へ触れる直前で止まる。


 「黄色ですか」


 貫人が聞いた。


 「ええ。証言としても扱えない、和馬さんの感覚です」


 「白では?」


 「未確認ではあります。でも、何もないとは言い切れません」


 恵唯は黄色い欄へ言葉を書いた。


 資料室の壁に残した空白の付箋が、頭に浮かんだ。


 母が追記したかもしれない。


 誰かが母の字をまねたかもしれない。


 ちとせは住んでいた。


 住んでいなかったことにされた。


 確定したことと、確定していないことが混ざり、胸の中で枝分かれしていく。


 いつもなら線を引ける。


 原因と結果を分け、資料の強さを比べ、もっとも確かな順に並べられる。


 今日は、そのどれもできなかった。


 「恵唯さん」


 貫人が声を掛ける。


 「大丈夫です」


 答えはすぐ出た。


 それが習慣だと、自分でも分かった。


 「大丈夫かどうかも、未確認でいいと思います」


 貫人は言った。


 恵唯は少しだけ笑った。


 「では、帰ったら白い付箋を貼ります」


 「団子の下は空けておいてください」


 「団子はもうありません」


 和馬が最後の串を紙袋へ戻した。


 「証拠が消えた」


 琴葉が言う。


 「品質は確認できました」


 和馬は真顔だった。


 恵唯は木札を抱え、自然堤防から町を見下ろした。


 同じ道を歩いたからといって、小田切宗介の人生が分かったわけではない。


 足の痛みも、夜明け前の寒さも、配達先で謝ってしまう気持ちも、四人が借りられたのはほんの一部だ。


 それでも、速く歩いていたときには見えなかった石が見えた。


 休む人が謝らなくて済む軒が見えた。


 記録に載らない誰かが、十人の歩き方を書き残していたことも見えた。


 恵唯は木札の保護袋へ、日付と発見場所を書いた。


 筆跡がわずかに右上がりになる。


 母と同じ癖だった。


 似ていることは、同じ人である証拠にはならない。


 けれど、違うと決める証拠にもならない。


 恵唯はその両方を、今度こそ同じ紙へ残した。



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