第3話 恵唯の壁には、十一人目だけ居場所がない
性能データ区域から戻った二日目の夜、水緒町役場の防災資料室には、窓が一つしかない。
その窓も書架の陰に半分隠れ、午後になると細長い光を床へ落とすだけだった。恵唯は昔から、その部屋が嫌いではなかった。紙は声を荒らげない。決められた場所へ戻せば、昨日と同じ顔で待っている。
ただし今日は、壁が紙より騒がしかった。
閉館時刻を過ぎた資料室の白壁に、色とりどりの付箋が枝のように広がっている。
青は公文書で確認できたこと。
黄は証言。
赤は矛盾。
白は未確認。
中央には「午前六時九分から六時十二分」と書いた大きな紙。その周囲を、停電、予備電源、契約住民十人、榎本ちとせ、眩しい時計、一日交換表という言葉が取り囲んでいた。
恵唯は新しい青い付箋を貼った。
「交換表の原本。二号棟床下から発見。筆跡は複数」
次に黄色。
「和馬さんが、六時九分に起こせという声を聞いた」
貼ったあと、少し考えて、黄色の右上へ小さく「裏付けなし」と書き足す。
「そこまで書かなくても忘れないと思いますよ」
背後から声がした。
貫人が紙袋を抱えて立っている。閉館後に来るなら連絡してほしいと昨日伝えたはずだが、彼は十九時ちょうどに来た。連絡も十九時ちょうどに届いた。
「来る前に連絡してください」
「今、連絡しました」
「到着報告です。事前連絡ではありません」
「次は五分前にします」
「最低でも十五分前でお願いします」
貫人は素直にうなずき、紙袋を机へ置こうとした。
机は資料で埋まっている。椅子には地図。床には図面。窓枠にもカードの複製写真が並んでいた。
貫人は紙袋を持ったまま、右を見て、左を見た。
「これは、どこへ置けばいいですか」
「中身は何ですか」
「団子です」
恵唯は壁を見た。
「未確認事項の下が空いています」
「団子を未確認にするんですか」
「中身を確認していませんから」
「団子です」
「貫人さんの申告です」
そこへ琴葉が入り、貫人から袋を受け取った。
「証拠保全しとく」
紙袋に油性ペンでそう書き、白い付箋の下へ置く。
「食べ物に直接書かないでください」
「袋だから平気」
「何の証拠ですか」
「四人がちゃんと夕食前に休憩した証拠」
和馬は二人のやり取りを聞きながら、すでに袋から一本取り出していた。
「保全するんじゃなかったんですか」
恵唯が尋ねる。
「品質確認です」
琴葉が吹き出した。
恵唯は付箋を一枚取り、そこへ「団子はみたらし。和馬が一本確認」と書いた。書いてから、自分が何をしているのか分からなくなり、付箋を剥がした。
笑い声が小さく続く。
それが止むまで、恵唯は母の名前がある箱を開けられなかった。
書架の最下段から取り出した灰色の保存箱には、「水緒生活性能データ区域 最終集計」と記されている。
母、森下奈緒子が集計補助員として働いていたのは、恵唯が生まれる直前だった。
母はよく、妊娠中の恵唯はお腹の中で静かすぎたと話していた。
「動かないから心配したの。だけど病院で機械を当てると、ちゃんと音がした」
恵唯はその話が好きだった。
見えなくても、測れば確かめられる。数字や記録を信じるようになった理由の一つは、たぶんそこにあった。
母が亡くなったあと、性能データ区域の話だけは嫌いになった。
洪水時の記録が書き換えられた。
対象外の人間が消された。
集計担当者が会社へ従った。
町の古い掲示板や、匿名の投書に、母の名前が何度か現れた。誰も確かな資料を示さなかったが、恵唯は反論もしなかった。反論するには、正しい記録が必要だった。
箱の蓋を開ける。
最終集計表は、三冊の綴じ込みになっていた。
一冊目は住宅性能。
二冊目は日常動線。
三冊目は災害時行動。
恵唯は三冊目を机へ置き、六時九分の欄を探した。
六時八分まで、十人分の識別番号と位置が並んでいる。
六時九分。
停電。
六時十分、十一分は空欄。
六時十二分に予備電源が復旧し、十人分の位置情報が再び記録される。
その間に何が起きたかを説明する添付資料の番号が、欄外へ手書きされていた。
「補足経路図、災三―七」
恵唯は別箱を探した。
三―六の次は三―八だった。
三―七だけがない。
「抜かれてる?」
琴葉が肩越しにのぞく。
「綴じ穴の状態から見ると、最初から綴じられなかったのではありません。いったん入れた紙を外しています」
「誰が?」
「まだ分かりません」
ページ下部には、母の署名があった。
その横に、細い字で追記されている。
対象外一名を除外。
恵唯の指が止まった。
「お母さんの字?」
琴葉が尋ねる。
「署名は母です。追記は……似ています」
正確に言えば、似ていると認めたくなかった。
母は文字の横線をわずかに右上がりに書く。この追記にも同じ癖がある。
和馬が近づいたが、紙には触れなかった。
「違う人が似せた可能性は?」
「あります。ただし、母が書いた可能性も同じように残ります」
「同じではないでしょ。今は何も分からない」
琴葉の声が強くなる。
「だから両方を残します」
「お母さんを疑うの?」
「疑わないことと、調べないことは違います」
自分で言いながら、胸の内側が冷えた。
母を守りたい。その気持ちは、資料箱の蓋を開ける前から胸の底にあった。
けれど、守るために都合のよい紙だけを選ぶなら、根拠のない噂を書き散らした誰かと、していることは変わらない。
恵唯は青い付箋を一枚取り、「母の署名あり」と書いた。
赤い付箋には「補足経路図が欠落」。
白い付箋には「追記筆者未確定」。
最後に黄色を取り、「母が対象外一名を除外した可能性」と書こうとした。
ペン先が動かない。
「無理に貼らなくていいんじゃないですか」
貫人が言った。
「貼らなければ、考えていないことになります」
「考えているから、手が止まってるんでしょう」
恵唯は振り返った。
貫人は慰める顔をしていなかった。答えを知っている顔でもない。ただ、団子の串を紙皿へ置き、そこに立っている。
「分からないまま、隣にいます」
その言葉には、母は悪くないとも、母が書いたとも含まれていなかった。
恵唯は黄色い付箋を壁へ貼った。
文字は書かず、空白のままにした。
翌朝、四人は午前三時五十分に旧商店街へ集まった。
夜と朝の境目は、空の色だけでは分かりにくい。閉じた店のシャッター、新聞配達の自転車、遠くで動き始めた冷蔵車。眠っている町の中に、起きている人の音だけが点々と浮かんでいる。
旧パン工房の前には、当時の看板が半分残っていた。
小田切製パン。
パン職人の小田切宗介は、性能データ区域の三号棟に住んでいた。早朝に工房でパンを焼き、八号棟を含む各戸へ配り、最後に自然堤防上の一号棟へ非常食用の箱を届けていた。
カードの表にはパンの印。
裏には糸巻き。
一日交換表によれば、この道を歩いたのは仕立て屋の澄江だった。
恵唯はカードの複製を読み上げた。
「朝四時。パンを百二十個焼く人の足は、眠気より先に床の冷たさを覚える」
琴葉が地面へ手を当てた。
「冷たい」
「地面だからです」
「雰囲気を受け取ってるの」
再現用の箱には、パンの代わりにジャガイモが詰めてある。
重さは当時の配達記録を参考にした。ただし一人で全量を持たず、四つに分け、安全のため台車も用意した。誰かの苦労を知るために怪我をするのは、本末転倒だと恵唯が主張したためである。
貫人は自分の箱を軽々と持ち上げた。
「これなら行けます」
「カードを続けて読んで」
恵唯が言う。
琴葉が次の行を見る。
「右足をかばう。一分歩いたら、足を休める。急かされると、休むふりをやめて痛みを隠す」
貫人は箱を持ったまま固まった。
「一分ごとですか」
「そう書いてある」
「距離ではなく?」
「時間です」
小田切宗介の診療記録は残っていない。だが交換表の欄外に「右脚装具」の記載があり、カードには杖をついたパンの絵が描かれていた。
四人は一分歩き、一分止まることにした。
最初の一分で、貫人は商店街の角まで進んだ。
止まる。
誰も通らない道で、何を待つでもなく立っていると、一分は長かった。
「もう一分経ちました?」
「二十二秒です」
恵唯が答える。
「時計を見ないほうがいい」
和馬が言った。
「配達をしていると、止まることを損に感じるんです」
「止まらないと歩けない人には、止まる時間も道の一部なんでしょう」
貫人は箱の持ち手を握り直した。
二度目の一分。
三度目の一分。
いつもなら十分で抜ける商店街を、四人は三十分近くかけて進んだ。
歩く速さが変わると、町の形が変わった。
薬局の軒は、雨宿りできる深さがある。
閉店した呉服店の前には、腰を掛けられる低い石がある。
用水路の曲がり角には、右足をかばう人が体を支えたような手すりの擦れが残っている。
貫人は毎日のようにこの道を通る。
それなのに、石を見たことがなかった。
速く通り過ぎる人にとっては、景色の一部にもならない。休まなければ進めない人にとっては、次の角まで行くための大切な場所になる。
「知らない町みたいです」
貫人が言った。
「町は同じです」
恵唯は答えたあと、少し考えた。
「見えている情報が違います」
八号棟へ着く頃、東の空が薄く明るくなった。
建物は閉鎖されているため中へ入らず、当時の玄関位置で一度休む。
カードの余白には、青い糸で小さな波が描かれていた。
その下に、別の筆跡がある。
「宗介さんは、休むときに謝る。謝らなくていい場所を作ること」
「ちとせの字でしょうか」
貫人が尋ねる。
「交換表の青い補足と似ています」
恵唯は複製写真を並べた。
「断定はできません。ただ、十枚全部に同じ青い印があります」
「全員の道に付いていったんだ」
琴葉が言った。
「測る対象じゃないと言われた人が、測る人たちの足元を一番見ていた」
八号棟から自然堤防へ向かう道は、緩やかな上りだった。
緩やかだからこそ、長く続く。
右足をかばうつもりで歩くと、左の腰へ負担が集まる。貫人は試しに歩幅を狭くしたが、すぐ元の速さへ戻ってしまう。
「無意識に先へ行ってます」
恵唯が指摘した。
「すみません」
「謝る必要はありません。戻ってください」
貫人は三歩戻った。
そのとき、台車の上で箱が傾いた。
「あ」
袋の口が裂け、ジャガイモが道へ転がり出した。
一個、二個、五個。
坂を得たジャガイモは、想像以上に速かった。
「止めて!」
琴葉が追う。
貫人も走りかけて、右足をかばうという今日の歩き方を思い出した。だが、転がるジャガイモに配慮する必要はない。
四人が慌てて坂を下りたところへ、登校中の小学生が三人やってきた。
「ジャガイモ逃げてる!」
「そっちお願い!」
琴葉の声で、子どもたちは笑いながら拾い始めた。
用水路へ落ちる直前の一個を、黄色い帽子の女の子が靴で止める。
「助かりました。ありがとうございます」
貫人は一人ずつに頭を下げた。
「こちらもありがとうございます」
「何で二回言うの?」
「拾ってくれたことと、落ちなかったことです」
「落ちなかったのはジャガイモじゃん」
「では、ジャガイモにも」
「学校遅れるよ」
恵唯に促され、子どもたちは笑いながら走っていった。
予定より十五分遅れた。
貫人が一人ずつ礼を言った時間も、遅れに含まれている。
恵唯は記録用紙へ「荷崩れあり。地域住民三名の協力」と書いた。
「礼の時間も書きますか」
貫人が聞く。
「必要なら」
「必要です」
「では、何秒でしたか」
「測っていません」
「未確認にしておきます」
自然堤防の上へ着く頃には、朝日が川を照らしていた。
一号棟の近くに、古い石の腰掛けがある。
低く、幅が広い。パン箱を横へ置き、人が座れる形だ。カードには「最後の休み場所」と記されていた。
琴葉が裏側へ回り、土を払った。
「何かある」
石の下に、薄い木片が挟まっていた。
引き出すと、靴の形をした木札だった。表面に「十一番」の刻印。上部の穴には、青い糸が通され、波の形に縫い留められている。
「写真の靴と同じ形」
恵唯は青い小箱から複製した写真を出した。
生活交換会で撮られた十一足。その前に、靴形の札が一つずつ置かれている。泥に半分隠れていた十一足目の前にも、青い糸のようなものが見えた。
「澄江さんが作ったと思う」
琴葉が木札の裏を指した。
「糸の始末が、箱の内張りと同じ。縫い目を表へ出さず、最後だけ二重に結んでる」
「なぜ、ここに?」
「パン職人の道を歩いた人が、最後に置いたのかもしれません」
恵唯は木札を保護袋へ入れた。
十一番。
契約上は十人。
写真には十一足。
箱には十一枚分の仕切り。
時計の基礎には十一個の印。
どの記録も少しずつ違う形で、同じ一人を指している。
和馬は石の腰掛けの隣へ立っていた。
誰かのために場所を空けるように、少し横へ寄る。
「聞こえますか」
貫人が小声で尋ねた。
「声というほど、はっきりは」
和馬は目を閉じた。
朝の車が自然堤防を走る。
川風が草を倒し、また起こす。
その間に、息を吐くような言葉が混じった。
「歩いた道は十人分」
和馬がゆっくり口にする。
「私の帰り道だけ、紙にない」
恵唯は反射的に記録用紙へ書こうとした。
ペン先が紙へ触れる直前で止まる。
「黄色ですか」
貫人が聞いた。
「ええ。証言としても扱えない、和馬さんの感覚です」
「白では?」
「未確認ではあります。でも、何もないとは言い切れません」
恵唯は黄色い欄へ言葉を書いた。
資料室の壁に残した空白の付箋が、頭に浮かんだ。
母が追記したかもしれない。
誰かが母の字をまねたかもしれない。
ちとせは住んでいた。
住んでいなかったことにされた。
確定したことと、確定していないことが混ざり、胸の中で枝分かれしていく。
いつもなら線を引ける。
原因と結果を分け、資料の強さを比べ、もっとも確かな順に並べられる。
今日は、そのどれもできなかった。
「恵唯さん」
貫人が声を掛ける。
「大丈夫です」
答えはすぐ出た。
それが習慣だと、自分でも分かった。
「大丈夫かどうかも、未確認でいいと思います」
貫人は言った。
恵唯は少しだけ笑った。
「では、帰ったら白い付箋を貼ります」
「団子の下は空けておいてください」
「団子はもうありません」
和馬が最後の串を紙袋へ戻した。
「証拠が消えた」
琴葉が言う。
「品質は確認できました」
和馬は真顔だった。
恵唯は木札を抱え、自然堤防から町を見下ろした。
同じ道を歩いたからといって、小田切宗介の人生が分かったわけではない。
足の痛みも、夜明け前の寒さも、配達先で謝ってしまう気持ちも、四人が借りられたのはほんの一部だ。
それでも、速く歩いていたときには見えなかった石が見えた。
休む人が謝らなくて済む軒が見えた。
記録に載らない誰かが、十人の歩き方を書き残していたことも見えた。
恵唯は木札の保護袋へ、日付と発見場所を書いた。
筆跡がわずかに右上がりになる。
母と同じ癖だった。
似ていることは、同じ人である証拠にはならない。
けれど、違うと決める証拠にもならない。
恵唯はその両方を、今度こそ同じ紙へ残した。




