第2話 数字町の家は、まだ住民を測っている
二日目の朝、性能データ区域の門は、錆びた音を立てて開いた。
門の向こうには、雑草に腰まで埋もれた十棟の家が並んでいた。
同じ会社が同じ時期に建てたはずなのに、一棟ずつ形が違う。屋根の傾きも、窓の大きさも、壁の厚みも、玄関までの段差も異なり、十棟の家そのものが十通りの問いを投げかけていた。
中央には、銀色の円盤を掲げた大時計が立っている。
朝の薄い光を受けても、文字盤だけが妙に明るかった。針は六時十二分で止まり、秒針はない。雑草の海の中で、そこだけ時間から切り離されている。
「久しぶり」
琴葉が門の前で小さく言った。
「以前、来たことがあるんですか」
貫人が尋ねる。
「小学生のころ、祖父に一度だけ連れてこられた。柵の外から見ただけだけど。あの時計を指して、失敗したものほど長く残るって言ってた」
「失敗した時計だと?」
「聞けなかった。祖父はそのあと、もうここへ来なかったから」
恵唯は町役場発行の立入許可証を四人分確認した。首から下げる札には、入場時刻と立入り可能な範囲が印字されている。
「一号棟、二号棟、八号棟、中央広場だけです。床が抜ける危険のある場所には入りません。時計は外観確認のみ。工具を使う場合は、私へ申告してください」
「私じゃなく、町の施設担当へ申告するんでしょ」
琴葉が言う。
「私が立会記録を書きます」
「つまり、恵唯へ言えばいい」
「手続きを省略しないでください」
貫人は四人分のヘルメット、手袋、水筒、懐中電灯を背負っていた。琴葉の工具箱と恵唯の資料鞄もある。和馬だけは自分の小さな鞄を持っていた。
「貫人、半分持つ」
和馬が言った。
「大丈夫です」
「聞いてない。俺が持つ」
和馬は返事を待たず、水筒の袋を貫人の肩から外した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
貫人は礼を言ったあと、少しだけ戸惑った。和馬は、貫人が断るための余白を残さず、それでいて奪ったようにも見せなかった。
一号棟は自然堤防の最も高い場所に建っていた。
玄関前のコンクリートには泥が薄く残っているが、背後低地の九棟より状態がよい。町の施設担当者が仮設電源を接続し、安全確認用の照明が点いた。
次の瞬間、天井のスピーカーから乾いた女声が流れた。
「被験者三号。歩行速度超過。規定速度へ戻してください」
四人は一斉に立ち止まった。
貫人が周囲を見回す。
「私ですか」
「ほかに速歩きしてる人はいない」
琴葉が言った。
「ですが、私は被験者三号ではありません」
「三十二年前の機械にまで律儀に説明しなくていいよ」
貫人はそれでも歩幅を半分にした。
「規定速度が分からないので、これくらいでしょうか」
「従わなくていいって言ってる」
スピーカーは沈黙した。
和馬が真顔でうなずく。
「正解だったみたいです」
「偶然です」
恵唯が即座に言った。
一号棟の壁には、床から十センチ刻みの目盛りが描かれていた。窓枠には温度測定器の跡、廊下には歩幅を測る線、台所の棚には開閉回数を記録する小さな接点が残っている。
「家に住むというより、家に見られていた感じだね」
琴葉が壁をなぞった。
「住民は同意して参加しています」
「同意したら、落ち着かなさまで消えるわけじゃないでしょ」
恵唯は反論しかけ、壁の目盛りを見て口を閉じた。
貫人は玄関から台所まで歩いた。床板の一部だけが、ほかより白く擦れている。何度も同じ場所で立ち止まった跡だ。
誰かが靴を脱ぎ、荷物を置き、湯を沸かした。
数字を取るための家にも、毎日の癖は残る。
一号棟の安全確認を終え、四人は中央広場へ向かった。
眩しい時計は、近くで見ると建物ほど大きかった。鏡面の文字盤はところどころ曇り、縁には鳥の巣の跡がある。台座の一部が外され、内部へ続く保守口が見えていた。
琴葉は祖父の図面を地面へ広げた。
「おかしい」
「どこがですか」
恵唯がしゃがむ。
「図面では、反射板は固定。試験用ランプも中央だけ。なのに現物は、反射板の角度を変える軸が三つある」
琴葉は保守口へ懐中電灯を向けた。
内部には、正規部品とは思えないものがいくつも組み込まれていた。厚い革帯。パンを焼く天板から切り出したような銅板。細いピアノ線。糸巻きに似た金属製のボビン。そして、古い自転車の発電機を大きくしたような手回し装置。
「住民が作った」
琴葉の声が少し弾んだ。
「どうして分かるんですか」
「この革、機械用じゃない。端を手縫いしてある。銅板は厚さがばらばら。ボビンには糸くずが残ってる。設計者が発注した部品なら、こんな組み方はしない」
「祖父が許可した可能性は?」
「分からない。でも、知らなかったとは思えない」
琴葉は図面から時計の内部へ目を移した。祖父の線は定規で引いたように整っている。けれど現物の中では、パン屋の銅板も仕立て屋のボビンも、別々の暮らしから持ち寄られた道具が、足りない部分を埋め合うようにつながっていた。
「停電しても、手で回せばランプを点けられる。三方向の反射板へ光を送る。ピアノ線を鳴らせば、光が見えない人にも合図が届く」
和馬が時計を見上げた。
「人が時計へ合わせたんじゃなく、時計を人へ合わせたんですね」
恵唯は記録用紙へ書き込みながら言った。
「ただし、公式図面にない改造です。安全性は確認されていません」
「結果を知る前に、危険だったと決めるの?」
「危険がなかったとも決められません」
琴葉と恵唯の視線がぶつかった。
貫人は二人のあいだへ水筒を差し出した。
「少し休みませんか」
「仲裁が雑」
琴葉は言いながら水筒を受け取った。
真鍮の巻き鍵は、大時計の側面にある差し込み口と形が合った。
琴葉は鍵を穴の手前へ近づけるだけにした。差し込まない。
「これを回せば、たぶん手動で歯車が動く」
「回さないでください」
恵唯が言う。
「回さない。内部に磁性の記録媒体があるかもしれない。固着した歯車を無理に動かしたら、擦れて消える」
「昨日は、壊れ方を見ると言いましたね」
「うん。直す前に、どう止まったかを知る。傷を消してから原因を考えたら、原因まで消える」
言ったあと、琴葉は自分の言葉に引っ掛かったように黙った。
祖父の時計を直したい。その気持ちは昨日まで強かったはずだ。だが今は、きれいに動かすことより、止まった理由を残すことが先に思えた。
四人は次に、青い小箱のカードを広場の地面へ並べた。
表には、パン、杖、鍵、糸巻き、薬袋、耳、カメラなどの印がある。裏には別の小さな印。余白には、どのカードにも青い波が描かれていた。
「十棟へ一枚ずつだと考えると、印が合いません」
恵唯が言った。
「パンの印は三号棟の小田切宗介。でも裏の糸巻きは八号棟の澄江。表と裏が別人です」
「澄江さんがパン職人の道を歩いたカードなんじゃない?」
琴葉が答える。
「まだ確定できません」
和馬はカードへ触れず、円を描くように周囲を歩いた。
「家の持ち主順じゃない」
恵唯が顔を上げた。
「何を根拠に?」
「昨日と同じです。聞こえるというより、順番を直せと言われている感じがする。家ではなく、歩いた人の順」
「その『感じ』を外せば、何か物証がありますか」
「今はない」
「では仮説にもできません」
「仮説は、まだ証明されていない考えでは?」
「検証できる形になっている必要があります」
「なら、検証すればいい」
和馬の声は穏やかなままだった。それがかえって恵唯を苛立たせたらしい。
「見えない誰かの言葉で、資料の順番を変えるんですか」
「資料が正しい順番だと、誰が決めたんです」
恵唯の指が止まった。
貫人は、また水筒を差し出すべきか迷った。二度目はさらに雑だと叱られそうだった。
そのとき、時計の内部から、ぴん、と細い音がした。
風でピアノ線が震えただけかもしれない。
和馬は時計を見上げたが、何も言わなかった。
二号棟は、中央広場から少し斜面を下った場所にあった。
目の見えない調律師、柊晴一が暮らしていた家である。玄関までの通路には、杖の先で分かるよう素材の違う帯が埋め込まれていた。恵唯が床の安全を確かめ、四人は一列で入った。
台所の床下収納は空だった。
ただ、底板の一部だけ色が違う。
「後から張り替えてる」
琴葉が留め具を確かめた。
町の施設担当者の許可を得て底板を持ち上げると、薄い金属筒が現れた。中には丸められた紙が入っている。
恵唯が手袋を替え、紙を机へ広げた。
上部には、手書きで「一日交換表」とある。
縦に十一人の名前。横に曜日と、借りる生活の印。
「月曜。瀬川澄江が、小田切宗介の朝を歩く」
恵唯が読み上げた。
「火曜。入江由樹が、柊晴一の道を歩く。水曜。榎本ちとせが、佐伯真知の配達経路を歩く」
「ちとせ」
琴葉が名前を繰り返した。
公式居住者名簿にはない名前。昨日、携帯同期記録器の裏から削られたような頭文字が見つかったばかりだった。
交換表では、ちとせの名は何度も「歩く人」の欄へ現れる。案内、記録補助、付き添い。ところが、「誰かが借りる生活」の欄には一度も出てこない。
恵唯は表の最下段を指でなぞった。
「空欄です」
「何が?」
「榎本ちとせの生活を借りる人が、いない」
十枚のカード。
十一人分の仕切り。
カードには十人分の生活があり、ちとせはそのすべてに関わっている。なのに、ちとせがどんな一日を送っていたかを記すカードだけがない。
「なくしたんじゃない」
和馬が言った。
「最初から作られなかった」
恵唯は反論しなかった。
紙の端には、青い波印と短い書き込みがある。
「介助は住宅性能ではないため、測定外」
琴葉が読み、眉をしかめた。
「人が一緒に暮らしてるのに、その人の動きは家の性能に関係ないって?」
「契約上の判断です」
「恵唯が決めたわけじゃないのは分かってる。でも、おかしいでしょ」
恵唯は表を見つめたまま答えた。
「おかしいと思います。だから、根拠を集めます」
言葉は冷静だったが、声の奥に昨日とは違う揺れがあった。
二号棟を出たとき、仮設電源の電圧が一時的に変わった。
琴葉が工具箱を置く音へ反応し、天井の古いセンサーが警報を鳴らした。
「異常振動。異常振動。担当者へ通報します」
「私は担当者です」
琴葉が天井へ言う。
警報は止まらない。
和馬がスピーカーの下へ立った。
「担当者へ任せています。こちらで対応します」
ぶつり、と音声が切れた。
貫人は心から感心した。
「和馬さん、すごいですね」
「偶然です」
恵唯が言った。
「ですが、適切な委譲でした」
和馬の口元が、ほんの少し上がった。
「恵唯さんから褒められたと思っていいですか」
「偶然止まったことは評価していません。言葉の選択だけです」
「十分です」
中央広場へ戻り、琴葉は時計の基礎を一周した。
コンクリートの縁に、浅い傷が並んでいる。汚れを刷毛で払うと、円を描くように十一個の印が現れた。
一つずつ形が違った。パン、耳、糸巻き、鍵、カメラ。カードに使われた生活印と同じである。
恵唯が数えた。
「一、二、三……十一」
「十棟しかないのに」
貫人が言う。
琴葉は祖父の図面を確認した。基礎の刻印は、図面にはない。
「祖父が作った傷だと思う」
「どうして?」
「刻み方が、祖父の作業控えと同じ。数字の代わりに位置を印で残す癖があった」
「十一人目がいることを知っていた」
「知っていただけじゃない」
琴葉は刻印の円を見つめた。
「ここへ立たせた。時計の改造に参加した十一人の位置を、祖父が残したんだ」
公式図面にはない十一番目。
公式名簿にはいないちとせ。
けれど、時計の足元には、彼女が立った場所がある。
和馬がゆっくり時計の下へ歩いた。
朝の風が止まる。
雑草の擦れる音も、遠くの工事車両の音も、一瞬だけ薄くなった。
和馬は顔を上げた。
「六時十二分じゃ遅い」
恵唯が振り返る。
「何ですか」
和馬は誰もいない文字盤を見たまま、続けた。
「六時九分に起こせ」
その声は、和馬自身のものより少し低く聞こえた。
恵唯の顔色が変わった。
彼女は資料鞄から設備稼働記録を取り出し、指で時刻を追った。
「公式警報の作動時刻は六時十二分です。予備電源が戻った時刻と同じ」
「六時九分には?」
貫人が尋ねる。
「停電。そこから三分間、電子記録は空欄です」
「空欄ではなく、何かが始まった」
和馬が言った。
「それは証拠にはなりません」
恵唯は反射的に返したが、今度は声が弱かった。
「でも、確認する理由にはなります」
和馬はそれ以上言わなかった。
貫人は時計の基礎に刻まれた十一個の印を見た。
数字町では、家も、人も、歩く速さも測られた。
測られた十人は記録に残り、測られなかった一人は消えた。
それでも誰かは、コンクリートへ彼女の立つ場所を刻んでいた。
貫人は背負っていた荷物を地面へ下ろした。和馬が半分持ってくれたおかげで、肩の痛みはいつもより軽い。
「明日は、何を確認しますか」
恵唯は交換表とカードを見比べた。
「まず、母が担当した最終集計表を探します。それから、パン職人のカード。歩いた順に読めという手紙が正しいなら、実際の経路を確かめる必要があります」
「朝四時からですか」
琴葉が聞く。
「カードの時刻を再現するなら」
「役場の人って容赦ないね」
「琴葉さんは参加しなくても構いません」
「行く。祖父の時計に関係あるから」
和馬もうなずいた。
貫人は明日の予定を頭に浮かべた。朝四時なら、通常の配達が始まる前だ。終わったあとに全部こなせる。
そう考えたところで、昨日の電話を思い出した。
全部を一人で抱え込まず、時間を伝え、別の人を紹介した。それでも何も壊れなかった。
「明日の午前中、配達を一件だけ代わってもらいます」
貫人が言うと、琴葉が目を丸くした。
「自分から?」
「はい」
「熱ある?」
「ありません」
「箱から変なもの出た?」
「出たのはカードと時計と鍵です」
和馬が静かに笑った。
「それなら、少し進んだんでしょう」
貫人は礼を言いかけた。
けれど、その前に別の言葉を選んだ。
「明日も、手伝ってください」
三人は、それぞれ違う表情で彼を見た。
琴葉は笑い、和馬はうなずき、恵唯は手帳へ時刻を書き込んだ。
「午前三時五十分、旧商店街のパン工房跡に集合です」
貫人は思わず苦笑した。
「慎重に考えた結果が、一番早い集合時間なんですね」
「朝四時の冷たさを確かめるのでしょう」
「分かりました。ありがとうございます」
今度の礼には、頼んだ相手から助けてもらう約束が含まれていた。
眩しい時計は六時十二分を指したまま、四人の頭上で光を返している。
その足元では、十一個の小さな印が、もう誰にも踏み消されないように朝日を受けていた。




