第1話 波間で拾った青い小箱の中身
雨は、夜のあいだに町じゅうの音を洗っていったらしい。
朝六時を過ぎた水緒町には、いつもより遠くまで見通せるような静けさがあった。商店街のアーケードからは水滴が落ち、軒先の植木鉢は濡れた土の匂いを立てている。川のほうからは、ごうごうという低い音が途切れず届いていた。
貫人は自転車の前かごに豆腐店の保冷箱を載せ、河川敷沿いの道を走っていた。
「昨日は屋根の下へ入れてくれて、ありがとうございます」
信号待ちで、彼は自転車のハンドルを軽く叩いた。前夜、配達の帰りに雨脚が強くなり、商店街の倉庫で一晩預かってもらった自転車である。自転車は当然ながら返事をしない。
返事がなくても、言っておいたほうがいい。人でも道具でも、助けてもらった事実は変わらないと、貫人は思っていた。
水緒川は普段よりずっと太く見えた。河川敷の遊歩道は立入禁止の黄色い柵で塞がれ、茶色い水が階段の半ばまで迫っている。流木や草の塊が、川面を速い足取りで通り過ぎていった。
貫人は黄色い柵の手前で自転車を止めた。
何か青いものが見えたからだ。
増水した水が柵の向こう側へ寄せては引くたび、手のひら二つ分ほどの青い箱が、枯れ枝の間から現れては沈んだ。角ばった形は菓子箱より重そうで、取っ手のようなものも見える。
「落とし物……ですよね」
もちろん、川へ尋ねても返事はない。貫人は周囲を見回した。
柵を越える気はなかった。茶色く濁った水は、深さも流れの速さも隠している。それでも、次の波が来れば、箱は枝から外れて川の中央へさらわれる。
貫人は自転車の荷台から荷締めひもを外した。次に、道の向かいにある釣具店のシャッターが半分開いているのを見つけた。
「朝早くにすみません。長い棒を貸していただけませんか」
店主の矢口は、寝起きの髪を帽子で押さえながら顔を出した。
「魚なら今日はやめとけ。川に食われるぞ」
「魚ではなく、箱です。私は柵のこちら側にいます」
「箱に食われても知らんぞ」
矢口はそう言いながら、店の奥から清掃用の長い火ばさみを持ってきた。三メートル近くある。貫人は自転車のスタンドへ荷締めひもを結び、火ばさみの持ち手を固定した。
ちょうど通りかかった制服姿の中学生が、何をしているのかと足を止めた。
「箱を取ります。危ないので柵より前へ来ないでください」
「おじさん一人だと棒がぶれるよ」
おじさん、と呼ばれたことには触れず、貫人はうなずいた。中学生には荷締めひもの端を持ってもらう。矢口が後ろから自転車を押さえた。
「せえので引きます。手伝ってくださって、ありがとうございます」
「まだ取れてないぞ」
「先に言っておいたほうが力が出ます」
火ばさみの先が枯れ枝をかき分ける。箱の取っ手へ届いたかと思うと、水が膨らみ、棒ごと強く横へ持っていかれた。
「右!」
中学生が叫んだ。貫人は腕を伸ばし、火ばさみを右へ振る。金属の先が取っ手へ入り、鈍い手応えが返った。
「今です」
三人でひもを引いた。
青い箱は泥水を吐きながら柵へぶつかり、火ばさみの先から外れかけた。貫人は片膝をついたが、柵より前には出なかった。矢口が自転車を引き、中学生がひもを手繰る。最後の波が箱の底を押し上げ、青い塊が柵の下をくぐって舗装路へ滑り込んだ。
三人は同時に息を吐いた。
「ありがとうございます。矢口さんも、君も」
「朝倉です」
「朝倉君、ありがとうございます。それから、自転車も」
貫人がハンドルへ頭を下げると、朝倉は目を丸くし、矢口は帽子のつばを上げた。
「おまえ、とうとう自転車と会話するようになったのか」
「会話は成立していません。お礼を伝えただけです」
引き上げた青い箱は、見た目以上に重かった。
表面は琺瑯らしく、濃い青の下からところどころ鉄の色がのぞいている。蝋を染み込ませた布が二重に巻かれ、黒いゴムひもで縛られていた。水の中を長く漂ってきたようには見えない。布は濡れていたが、箱の内側までは水が入っていないかもしれなかった。
角には、数字と文字を組み合わせた刻印があった。
MS―LP―08。
留め金は錆びて固まり、無理にこじれば蓋そのものが歪みそうだった。
「警察へ持っていくか?」
矢口が聞いた。
「落とし物として届けます。ただ、中に名前があるか確認できれば、早く持ち主へ返せます。開けるなら、壊さない人に頼みます」
「そんな人、この朝っぱらから起きてるのか」
「琴葉さんは起きています。時計店の人は朝が早いので」
「おまえの知り合いは町じゅうにいるな」
「配達先が多いだけです」
貫人は保冷箱を先に届けたあと、青い箱を後ろの荷台へ固定した。
自転車へまたがると、腰の奥に鈍い疲れが残っているのを感じた。前夜は帰宅が遅く、眠ったのは二時近かった。それでも今日は通院の付き添いが二件、買い物代行が三件、商店街の荷物運びが一件ある。
できる、と貫人は思った。
できないと言う前に動けば、大抵のことは終わる。終わったあとで礼を伝えれば、角も立たない。
彼は濡れた道へ漕ぎ出した。
琴葉の店は、商店街の外れにある小さな時計店だった。看板には「瀬戸時計修理」とあり、古い振り子時計が描かれている。開店前だったが、ガラス戸の向こうでは明かりがついていた。
貫人が戸を叩くより早く、中から声が飛んできた。
「鍵、開いてるよ。両手がふさがってる」
中へ入ると、琴葉は拡大鏡を額につけ、小さな腕時計の部品をピンセットでつまんでいた。髪は後ろでひとつに束ねられ、作業台の周囲には歯車やドライバーが整然と並んでいる。
「おはようございます。開店前にすみません」
「貫人が開店時間を気にしたこと、あったっけ」
「迷惑をかけた回数は数えています」
「それは怖いから数えなくていい」
琴葉は拡大鏡を上げ、荷台から運び込まれた青い箱を見た。
「川から拾った?」
「どうして分かるんですか」
「床に水の道ができてる」
貫人が振り返ると、入口から作業台まで、ぽつぽつと泥水が続いていた。
「拭きます」
「先に箱。水が中へ入ってたら時間との勝負だから」
琴葉は布を外し、留め金を横から眺めた。細い竹べらで泥を取り、錆の色を確認する。次に箱の底へ指を滑らせ、角の摩耗を爪でなぞった。
「これ、昨夜誰かが閉じて川へ落とした箱じゃないね」
「長く水の中にあったんですか」
「逆。長く水の近くにはあったけど、水の中にいたのは短い。琺瑯の欠けに古い土が詰まって、その上へ新しい泥が薄くついてる。布も日焼けしてるのに、芯までは腐ってない」
「では、長いあいだどこかに隠されていて、昨夜の雨で流れた」
「たぶん。留め金は力任せにやると折れる。持ち主に怒られたくなければ、三十分ちょうだい」
「ありがとうございます」
「まだ開けてない」
「先に言っておいたほうが力が出るそうです」
「誰に教わったの」
「今朝の私です」
琴葉は呆れたように笑い、箱を作業台の保護布へ載せた。
貫人は床を拭き、店先の椅子へ座った。携帯電話を見ると、配達依頼が一件増えている。すぐに引き受けると返そうとして、指が止まった。
青い箱の中身を確認し、警察へ届けるまで少なくとも一時間はかかる。
予定を組み替えれば、できる。
そう思った瞬間、琴葉が作業台から言った。
「貫人、今日も詰め込んでるでしょ」
「通常どおりです」
「その返事をする日は、通常より多い」
「大丈夫です」
「聞いてない。多いかどうかを聞いたの」
貫人は返事の代わりに、携帯電話を伏せた。
琴葉はそれ以上追及しなかった。細い油を留め金へ差し、温めた布を当てては冷ます。錆の隙間へ針を入れ、わずかずつ動かしていく。
やがて、かちり、と小さな音がした。
「開いた」
蓋はまだ持ち上げなかった。琴葉は箱の角に刻まれた記号へ目を止めた。
「MS―LP―08……これ、どこかで見た」
「測定番号のようですね」
「祖父の古い図面にあったかも。水緒生活性能データ区域」
その名を口にしたとき、店の空気が一段冷えたように感じられた。
性能データ区域。川沿いに残る十棟の空き家を、町の人は数字町と呼んでいる。子どもの頃、立入禁止の柵の向こうに、巨大な銀色の時計が見えたことを貫人も覚えていた。
「今度、解体される場所ですよね」
「うん。町が倉庫用地にするって」
琴葉は作業台の引き出しから古い紙片を取り出し、刻印を書き写した。
「役場に確認したほうがいい。勝手に開ける前に、この番号が町の所有物かどうかも見てもらおう」
貫人は町役場の防災資料室へ電話をかけた。
十分ほどして、恵唯が店へやってきた。
淡い灰色のシャツに紺のパンツ。雨上がりにもかかわらず、靴のつま先に泥ひとつついていない。片手には透明な資料袋、もう片方には付箋が何色もはみ出したファイルを抱えていた。
「所在を確認する前に触らないでください、と電話で言いましたよね」
「留め金は開けましたが、蓋は開けていません」
琴葉が答える。
「開錠も触ったうちに入ります」
「壊さないために触ったの」
「壊れていないことは、開ける前には確定できません」
「朝から元気だね」
「元気ではなく、確認しています」
恵唯は箱の刻印を見た途端、言葉を止めた。
ファイルを開き、黄色い付箋のついたページをめくる。そこには、箱と同じ形式の番号が並んでいた。
「MSは水緒町、LPは生活性能。末尾の〇八は八号棟です」
「町の所有物ですか」
貫人が尋ねると、恵唯はすぐには答えなかった。
「判断できません。区域内の設備は町へ譲渡されていますが、個人の生活用品は別です。この箱が設備備品か、住民の私物かを確認する必要があります」
「八号棟に住んでいた人は?」
「瀬川澄江さん。当時五十二歳、仕立て屋。公式記録上は単身居住です」
「公式記録上は、という言い方をしたね」
琴葉が聞くと、恵唯はファイルを閉じた。
「三十二年前の洪水資料には欠落があります。電子記録が停止した午前六時九分から、再起動した六時十二分まで。手書きの補足資料も一部見つかっていません」
「解体まで、あとどれくらいですか」
「今日を一日目として、十日目の朝からです。町が発注済みです」
貫人は青い箱を見た。
箱は何も訴えない。それでも、川へ流れ出るまでの三十二年間、誰かが見つけるのを待っていたように貫人には見えた。
店の戸が開いた。
「おはようございます。注文の時計、受け取りに来ました」
黒いシャツ姿の和馬が入ってきた。水緒町で葬祭店を営む男で、琴葉の店へ古い置き時計の修理を頼んでいたらしい。
和馬は作業台へ近づき、青い箱の前で立ち止まった。
「これ、どこにありました」
「川です」
貫人が答えると、和馬は箱へ手を触れず、耳を澄ませるように少し顔を傾けた。
「水の音がします」
「川から拾ったからね」
琴葉が言う。
「そういう音じゃない」
和馬の声は真面目だった。
恵唯が半歩、箱から離れた。
「何が聞こえるんですか」
「濡れた布を、ゆっくり絞っている音。それと……」
和馬は眉を寄せた。
「順番が逆だ、と」
店内の振り子時計が、七時を告げた。
重なる鐘の音に、誰もすぐには言葉を返せなかった。
最初に息を吐いたのは恵唯だった。
「霊感を資料の根拠にはできません」
「根拠にしろとは言っていません」
「では、言わないでください」
「聞こえたことを、聞こえなかったことにはできない」
二人のあいだへ硬い沈黙が落ちた。
貫人は、どちらにも礼を言う場面ではないと判断した。こういうときに「ありがとうございます」と言うと、琴葉から怒られる。
「蓋を開けましょう」
代わりにそう言った。
「町の備品かは確定していません」
恵唯が答える。
「所有者を知るために、中の名前を確認します。四人で立ち会い、写真を撮り、触れた順番も記録する。警察にも連絡します」
「先に警察です」
「電話します」
貫人はその場で交番へ連絡した。事情を説明すると、危険物ではないことを確認したうえで、所有者を特定するため中身を動かさず撮影し、後ほど届け出るよう言われた。
恵唯は電話の内容を時刻とともに書き留めた。
琴葉が手袋を着け、ゆっくりと蓋を持ち上げた。
古い布と金属の匂いが立った。
中には、透明な樹脂で包まれたカードが重ねて入っていた。青い糸で補修された腕時計のような機械。真鍮の鍵。白黒写真。そして、折り畳まれた一枚の紙。
琴葉はまず箱全体を撮影した。恵唯が配置を図へ描く。和馬は少し離れ、貫人は携帯電話で交番へ送るための写真を撮った。
「カードは十枚」
恵唯が数える。
「仕切りは十一枚分ある」
琴葉が箱の内張りを指で示した。
細い布の仕切りが等間隔に縫い付けられている。そのうち最後の一枠だけが空だった。何かが抜け落ちたというより、最初から空間だけを残して作られたように見える。
恵唯は手紙を開いた。
紙は黄ばんでいたが、青いインクの文字は読めた。
「数値ではなく、歩いた順に読んでください。空いている一枚を、なかったことにしないでください。十一人目を、今度こそ町に帰してください」
琴葉が写真を持ち上げた。
十棟の住宅を背景に、靴が一列に並んでいる。革靴、作業靴、布靴、細いパンプス。人の顔は一人も写っていない。
「十一足ある」
和馬が言った。
恵唯が写真を受け取り、最初から数え直した。途中で一度止まり、もう一度数えた。
「十一です」
「八号棟は単身居住だったんだよね」
「十棟すべて、一人ずつの測定契約です。公式居住者は十人。洪水時の避難完了者も十人」
「でも、靴は十一足」
一足だけ、写真の端で泥に半分埋まっていた。小さく見えるが、子どもの靴ではない。よく使い込まれた低い革靴だった。
貫人はカードの一枚へ目を落とした。
表にはパンの印があり、細かな文字が並んでいる。
「朝四時。パンを百二十個焼く人の足は、眠気より先に床の冷たさを覚える」
続きには、右足をかばうこと、荷車の音で近所の犬が起きること、配達先で湯気の立つ茶を出してもらったことが書かれていた。
数値ではない。
歩いた人の息づかいが、紙の向こうに残っている。
「これは性能測定の資料ではありませんね」
貫人が言った。
「少なくとも、町へ提出された正式資料にはありません」
恵唯の指先が、手紙の端を強く押さえていた。
琴葉は腕時計のような機械を、光へかざした。文字盤には普通の時刻目盛りのほか、小さな押しボタンと記録窓がある。針は六時十二分で止まっていた。
「時計じゃない。時刻を合わせて、短い音か信号を残す機械かもしれない」
そのとき、朝日が雲の切れ間から差し込んだ。
機械のガラスが光を跳ね返し、白い筋が店の天井を走った。恵唯がまぶしそうに目を伏せる。光は振り子時計の文字盤をかすめ、壁に掛けられた古い水緒町の地図で止まった。
「眩しい時計」
琴葉がつぶやいた。
「何ですか」
「性能データ区域の中央に、大きな鏡面時計がある。祖父が設計した時計。あれも三十二年前から止まってる」
恵唯は資料袋から洪水当日の設備一覧を取り出した。
指で行を追い、顔を上げる。
「停止時刻は、午前六時十二分」
青い小箱の中の小さな針も、六時十二分。
十棟に対して、十一足の靴。
十枚のカードに対して、空いた一枠。
三十二年前の記録から消えた、三分間。
貫人は箱へ向かい、思わず頭を下げた。
「ここまで無事に届いてくれて、ありがとうございます」
琴葉が横目で見る。
「箱は配達を頼んでないよ」
「ですが、途中で流されず、ここまで来ました」
和馬は青い箱を見つめたまま言った。
「でも、ここへ来たがっていた感じはします」
恵唯だけが、また一歩下がった。
貫人はその様子を見て、笑いそうになった。笑ってよい場面か迷い、結局、声には出さなかった。
携帯電話が震えた。追加の配達依頼だった。
いつもの彼なら、迷わず引き受けていた。
けれど貫人は、青い小箱の中へ残された十一人分の気配を見た。誰かが歩いた道を、誰かが記したカード。空いたままの一枠。
今日、自分一人で抱え込めば、この箱の届け先を見失う気がした。
貫人は依頼主へ電話をかけた。
「申し訳ありません。今朝は予定外の確認が入りました。十時以降なら伺えます。急ぎでしたら、別の配達員を紹介させてください」
言い終えると、胸の奥が落ち着かなかった。
断ったわけではない。助けを頼んだわけでもない。ただ、自分だけで全部を終わらせる時間を手放した。それだけで、ずいぶん大きな選択をしたように感じた。
電話の向こうは、あっさりと了承した。
「ありがとうございます」
今度の礼は、いつもより少しだけ軽かった。
恵唯は資料を閉じた。
「明日、性能データ区域へ入る許可を取ります。八号棟と中央広場を確認します」
「私も行く」
琴葉が即座に言う。
「祖父の図面を持っていく。鍵が大時計のものなら、差し込み口だけ確認したい」
「勝手に回さないでください」
「回さない。壊れ方を見るだけ」
「私は、聞こえた場所を確認します」
和馬が言った。
恵唯は露骨に困った顔をした。
「聞こえた、という表現は調査記録に書きません」
「書かなくていいです。俺が覚えています」
三人が貫人を見る。
「私は」
貫人は、自転車へ戻る予定と、通院の付き添いと、買い物代行を頭に並べた。
どれも大切だった。だが、明日の午前だけなら調整できる。
「皆さんの荷物を運びます」
「調査に来るんじゃなくて荷物係なの?」
琴葉が笑う。
「動ける人が動きます。それと、私も十一足目が誰のものか知りたいです」
青い小箱の蓋は開いたままだった。
空いた一枠へ、朝の光が細く落ちている。
その空白は、何も入っていないはずなのに、十枚のカードより重く見えた。




