第6話 和馬が聞いたのは、幽霊より生きている人の沈黙だった
六日目の夜明け前、性能データ区域は昼より音が多かった。
遠い国道を走る大型車。
川岸へ寄せる水。
空き家の雨樋を抜ける風。
和馬は中央広場の眩しい時計を見上げた。
針は六時十二分のまま止まっている。
琴葉が保護板を取り付けたため、内部へ触れることはできない。真鍮の鍵も、町の保存担当者が封印袋へ入れている。
それでも和馬は、時計の下へ来ると低い響きを感じた。
一度。
少し間を置いて、二度。
最後に、遠くへ渡すような三度目。
金属が鳴ったわけではない。
耳で聞く音より、胸の内側へ触れる感覚に近かった。
「私は先頭ではない」
男の声がした。
「音は後ろへ渡した」
和馬は返事をしなかった。
見えない声へ答えるときは、用心している。声が正しいとは限らない。場所に残った感情が、聞く側の記憶と混ざることもある。
時計基礎の十一個の刻印へ朝露がたまっていた。
そのうち一つを指で拭う。
「誰へ渡したんですか」
問いかけても、次の声はなかった。
背後で砂利を踏む音がした。
「一人で来たんですか」
貫人だった。代車の前かごに、紙袋が二つ入っている。
「夜明け前の時計を確認したくて」
「それは昨日言ってください」
「言ったら、来ましたか」
「来ます」
「だから言わなかったんです」
「そういう気遣いは、昨日やめました」
貫人は一つの紙袋を差し出した。
「朝食です。助けてください。一人では二つ食べられません」
和馬は袋を受け取った。
「使い方が少し違います」
「練習中です」
中身は焼き芋パンだった。
昨日、匂いの地図を見つけた店の商品らしい。
間もなく恵唯と琴葉も到着した。
四人は時計広場の端で朝食を取りながら、若者の印があるカードを確認した。
入江由樹。
洪水当時十八歳。
職業訓練校で機械整備を学び、授業後は商店街の買い物を手伝い、夕方には眩しい時計の住民改造を点検していた。
カードを書いたのは、図書館員の久保田稔。
「朝の訓練校まで歩き、帰りに醤油三本、米五キロ、乾電池を買う。十八歳の腕なら持てると大人は言う。十八歳の怖さなら、もう自分で隠せるとも大人は思う」
恵唯が読み上げる。
余白には、由樹本人のものと思われる書き込みがあった。
「怖いときは冗談を言う。大人が笑えば、まだ大丈夫だと思える」
四人は、由樹が通っていた職業訓練校の旧校舎から商店街までを歩いた。
校舎は現在、町の機材倉庫になっている。門柱だけが当時のまま残り、金属板に雨の筋がついていた。
由樹の一日は、ほかのカードほど身体的な制約が目立たない。
そのため最初は、貫人が首をかしげた。
「何を確かめればいいんでしょう」
「十八歳なのに、町の大人から子どもとして扱われること」
恵唯が答える。
「再現はできませんが、記録に残る場面をたどります」
商店街の乾物店跡には、古い配達簿が保存されていた。
入江様、米五キロ。
瀬川様、醤油三本。
柊様、乾電池。
由樹は自分の家の買い物だけでなく、区域住民の用事をまとめて引き受けていた。
ところが、交換カードには同じ日の会話が書かれている。
「重いだろう。大人を呼びなさい」
「時計は危ない。技師が来るまで触るな」
「避難の話は大人に任せろ」
荷物を運ぶ力は期待される。
判断する力は認められない。
「便利なときだけ大人にされるんですね」
琴葉が言った。
「私も祖父に、工具を取ってこいとは言われたけど、直し方を聞くと子どもは触るなって言われた」
「だから触ったんですか」
恵唯が尋ねる。
「もちろん」
「危険です」
「結果として時計屋になった」
「結果で過程の危険性は消えません」
和馬は二人の声を聞きながら、由樹がどちらに近かったのだろうと考えた。
触るなと言われて、隠れて触った若者。
それとも、頼まれたときだけ触り、自分の判断では動けなかった若者。
答えは、本人に聞かなければ分からない。
恵唯が交通事業者の古い人事記録と、現在の路線情報を照合した結果、由樹は隣県の小さなバス会社で働いていることが分かった。
現在は五十歳。
水緒町から山を二つ越えた路線の運転士だった。
四人は午後、終点の待合所へ向かった。
由樹には事前に手紙を送り、電話でも面会を願った。返事はなかった。
それでも、勤務終了後に待合所へ来る可能性があると、会社の担当者から本人の了承範囲で伝えられていた。
最終便が到着する。
運転席から降りた男性は、背が高く、白い手袋を丁寧に外した。短く刈った髪に白いものが混じっている。
四人を見ると、足を止めた。
「水緒町から来ました」
恵唯が名乗る。
「手紙は読みました」
由樹はそれだけ答え、営業所のほうへ歩き始めた。
和馬は、追わないほうがいいと思った。
話したくない人を止めれば、また由樹から選ぶ権利を奪う。
「帰りましょう」
和馬は三人へ言った。
その声が聞こえたのか、由樹が振り返った。
「それで帰るのか」
和馬は足を止める。
「話したくないのだと思いました」
「俺がそう言ったか」
「言っていません」
「黙って帰るのも、俺が決める前に話を終わらせることになるだろ」
由樹は待合所のベンチを示した。
「十分だけだ」
四人は座った。
由樹だけは立ったままだった。
「十八歳の英雄を探してるなら、もういない」
「英雄を探していません」
恵唯が答える。
「榎本ちとせさんを含む十一人が、どのように避難したのか確認しています」
ちとせの名前を聞いた瞬間、由樹の指が白い手袋を強く握った。
「町の記録には、俺が設備を操作して十人を救ったと書いてある」
「その記録に疑問があります」
「疑問じゃない。嘘だ」
由樹はようやくベンチの端へ座った。
「あの日、俺は怖くて、何をすればいいか分からなかった。ちとせさんが、時計を三回動かせと言ったから動かした。それだけだ」
「手回し発電機で非常灯を点けたんですね」
琴葉が尋ねる。
「停電してたからな。俺が回す。ちとせさんが角度を読む。一回目は自然堤防の坂。二回目はパン工房。三回目は晴一さんの家」
「どうして、その三か所を?」
「交換表があった」
由樹は膝へ視線を落とした。
「朝の訓練で、みんながどこにいるか、ちとせさんだけは分かってた。宗介さんの道を歩く人はパン工房を通る。晴一さんから音の確認を教わった人は、低い音を待つ。澄江さんは途中で薬袋を受け取る予定だった」
「実際の浸水が始まった時点で、訓練用の荷物は捨てた?」
恵唯が確認する。
「全部置いて逃げろって、ちとせさんが叫んだ。目隠しなんか外で使ってない。あれは一号棟の中で、始まる前に終わってた」
由樹の言葉は、残っていた運営メモと一致した。
「晴一さんは、どのように音を送ったんですか」
和馬が尋ねる。
「鍋の蓋とピアノ線。高い音は雨で消えた。低い音を三回鳴らして、後ろの人へ渡した。聞こえた人が次の人へ声を掛けた」
夜明け前、時計の下で聞いた言葉が戻ってくる。
私は先頭ではない。
音は後ろへ渡した。
和馬は、それを証言としては口にしなかった。由樹の話を、自分の感覚で飾りたくなかった。
「歩けない人は?」
貫人が聞く。
「パン工房の荷車を使った。宗介さんの一日を借りてた人が、置き場所を知ってた。澄江さんは荷車に乗りながら、別の人の薬袋を抱えてた」
「ちとせさんは?」
「中央広場と八号棟を行ったり来たりしてた。最後まで、誰がどこにいるか数えてた」
由樹は笑うような息を吐いた。
「俺は英雄じゃない。発電機を回した腕が痛くて、もう無理だって何度も言った」
「それでも回した」
和馬が言う。
「ちとせさんが、あと十回だけって言うんだ。十回終わると、あと十回。あの人、待つのはうまいのに、数え方は卑怯だった」
由樹の口元が少し緩んだ。
「一回目の光がずれて、町長の親父さんの家へ入った」
「当時の町長ですか」
「いや、今の町長の父親。朝飯を食ってた。反射光が目玉焼きだけを照らしてな」
由樹は両手で丸を作った。
「真っ暗な部屋で、目玉焼きだけが金色に光ったらしい。避難したあとも、神様が逃げろと言ったって騒いでた」
貫人が吹き出した。
琴葉も笑う。
恵唯は笑いをこらえながら、「証言記録へ入れますか」と尋ねた。
「入れるな」
「災害時の光路を示す補足になります」
「目玉焼きは補足しなくていい」
三十二年ぶりに当時の話で笑ったのだろうか。
由樹は笑い終えると、白い手袋をゆっくりたたんだ。
「洪水のあと、会社は俺だけを前へ出した。十八歳の機転で設備を操作したって。新聞にも載った」
「ちとせさんの名前は?」
「なかった」
「訂正を求めなかったのですか」
恵唯の問いに、由樹は長く黙った。
待合所の時計が一分進む。
和馬は、その沈黙を壊さないようにした。
しかし、何も聞かずに終えることが、由樹のためなのか、自分が拒絶されないためなのか、分からなくなる。
「聞いてもいいですか」
和馬が言った。
「何を」
「訂正を求めなかった理由を」
「責めるのか」
「知りたいです。答えたくなければ、そう言ってください」
由樹は手袋を握った。
「怖かったからだ」
声は小さかった。
「会社の人が、ちとせさんは住んでなかったことにすると言った。俺は嘘だと言った。でも、俺が勝手に設備を壊したことにすれば、住民への金は出ないとも言われた」
「補償が止まると?」
「そう聞かされた。ちとせさんは、何も言うなって俺に言った。自分が署名すれば、みんなの仮住居と治療費が先に出るからって」
「確認書の内容を見ましたか」
「見た。区域内に居住していなかった、朝は外から来たって書いてあった。嘘だ。俺は何度も、八号棟の台所であの人の朝飯を食った」
「ちとせさんは署名した」
「した。俺は止められなかった」
由樹は顔を上げた。
「そのあと、俺だけ英雄にされた。否定すれば、ちとせさんが署名した意味までなくなる気がした。肯定すれば、あの人を消す。何も言えなくなった」
和馬は、見えない声の沈黙なら待てる。
返事がなくても、自分が拒まれたとは思わないからだ。
生きている人の沈黙は違う。言葉を一つ誤れば、目の前の関係が切れてしまう気がする。
だから和馬は、相手を尊重して待っているように見せながら、拒まれる前に自分から距離を取ってきた。
「来週、続きを聞きに来てもいいですか」
和馬は尋ねた。
由樹が眉を寄せる。
「また話したくなったら、じゃないのか」
「それでは、約束を由樹さんだけへ預けることになります」
「来週も仕事だ」
「何曜日なら休みですか」
「木曜」
「木曜の午後二時に来ます」
「勝手に決めるな」
「では、二時でいいですか」
由樹は少し考えた。
「十五分だけだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、来てからにしろ」
貫人が和馬の隣で小さくうなずいた。
帰り際、由樹は一枚の古い紙を渡した。
洪水後、住宅会社の説明会で配られた確認事項の控えだった。欄外に、若い字で「ちとせさんは住んでいた」と何度も書かれている。
「役に立つかどうかは、俺には判断できない」
「判断はあとでします。今は預からせてください」
和馬は答えた。
水緒町へ戻る車内で、恵唯の携帯電話が鳴った。
資料室の整理を手伝っていた職員からだった。
母、奈緒子の私物箱から、薄い手帳が見つかったという。
四人は役場へ直行した。
手帳は、恵唯が生まれる直前まで使われていたものだった。買い物の予定、検診日、勤務時間。その中に、洪水後の日付がある。
恵唯は声に出さず、指で一行を追った。
「何と書いてありますか」
琴葉が尋ねる。
恵唯は一度目を閉じた。
「彼女を消したのは私ではない。けれど、止められなかった」
母が何をしたのかは、まだ分からない。
何を止められなかったのかも、確定していない。
ただ、その一文は、由樹の言葉と同じ場所を指していた。
自分が消したのではない。
けれど、消えるところを見ていた。
和馬は資料室の壁を見た。
青、黄、赤、白の付箋が枝分かれしている。
人の人生は、一本の線にならない。
由樹は怖かった。
ちとせは署名した。
奈緒子は止められなかった。
誰も一人では、すべてを選べなかった。
その夜、和馬は自宅の食卓へ四人分の湯飲みを出した。
まだ誰も招いていない。
次に会う理由が調査だけにならないよう、先に場所を作った。
見えない声へ返事をするより、生きている三人へ連絡するほうが、少しだけ勇気が要った。
「明日の夜、ここで食事をしませんか」
送信すると、貫人から一秒で返事が来た。
「助かります。ありがとうございます」
琴葉からは、時計の絵。
恵唯からは、「十九時なら可能です。十五分前に連絡してください」と届いた。
和馬は笑い、三つ目の湯飲みを少し内側へ寄せた。
時計の下で聞いた声は、晴一だったのかもしれない。
ただの風かもしれない。
確かなのは、由樹が自分の声で語ったことだった。
聞くべきだったのは、幽霊の続きではない。三十二年間、話す相手を失っていた、生きている人の沈黙だった。




