53.お別れ
「はい。そしたら背中をこっちに向けてもらっていいですか?」
「こう?」
くるりと東風さんが背を向けると、東風さんの栗色のふわふわした髪と一緒に、ひと房の透明な後ろ髪もさらりと揺れる。
透明なのに確かにそこにあるとわかるのは、改めて考えると不思議な感じだ。
重さは感じない。
後ろ髪は、なにかに絡まる時にはどこまでも伸びるけれど、ほどけた時には地面に届くかどうかの長さまで短くなる。
おれたち髪切りに見える後ろ髪とは、そういうものだ。
おれは濡れてしまった手袋の代わりに巻いていた包帯をはずした。
さらさらと揺れる透明な髪をじっと見る。
ここだ。
すっと、指を薙いだ。
ふわりと、自由になった後ろ髪が舞い上がる。
ずん、と急激に両肩にかかる疲労を押し隠して、おれは東風さんに声をかける。
「もういいですよ」
「終わったの?」
「ええ。なんてことないでしょう。ほんの、おまじないです」
切り落された後ろ髪が、黄泉への道を浮き上がらせる。
庭から空へと伸びる坂道。
「この道を歩いてゆけば、無事着けます」
「さいごまでありがとう」
「やりたくて、やってることですから」
それじゃあ、と東風さんが坂道へ一歩を踏み出す。
するすると上ってゆく後ろ姿を見送っていると「お母さん!」という声が聞こえた。
見ると二階の部屋からこなたちゃんが身を乗り出している。
「こなた……」
「お母さん! お母さん!」
「元気でね、こなた」
「お母さん、行かないでぇ。行かないでよぉ」
こなたちゃんの目から大粒の涙がこぼれていた。
いつもの大人びた口調とは違う、子どもらしい口調で叫ぶ。
一瞬東風さんが足を止め、それからめいっぱいの笑顔で微笑んだ。
「ありがとう、こなた。でも、さよならよ」
「いや。いやだぁ。やっぱりいやだよ。大丈夫なんてウソだよ。だからお母さん帰って来て。ずっとこなたと一緒にいてよ。運動会で踊るダンス、めちゃくちゃ練習してるんだよ。それに学芸会ではお芝居をやるよ。こなた、がんばって主役狙おうかな。誕生日プレゼントも、クリスマスプレゼントも、お母さんがいてくれたらそれでいい。お年玉もいらない。春になったら中学校の制服着て見せてあげる。だから……だから行かないでぇ!」
うわぁぁぁぁん、というこなたちゃんの鳴き声が胸をえぐる。
そうだよな。まだ小学生だもんな。
もっともっと、お母さんと一緒に話をしたり、でかけたりしたかったよな。
「ごめんね。でも、お母さん、こなたのお母さんでよかった。一緒に暮らした十一年半、とってもとっても楽しかったわ。こなた、生まれてきてくれてありがとう」
ばいばい、と東風さんは手を振ると、再び坂道を歩きはじめる。
「おかあさん、おかあさん、おかあさあぁぁん」
もう、こなたちゃんが呼んでも振り返らない。
「おかあさん、おかあさん、おかさぁん……、おかあさ……」
ううぅ……とこなたちゃんが俯く。
「こなたちゃん」
名前を呼ぶと、こなたちゃんが庭にいるおれに気づいた。
うん、とおれはこなたちゃんの目を見つめながらひとつ頷く。
こなたちゃんは、わかってるはずだ。
ゆかちゃんをきちんと笑顔で送れたんだから。
はっとしたように瞬きをすると、こなたちゃんはがばっと顔を上げた。
「お母さん!」
東風さんはやっぱりもうこなたちゃんを見ない。それでも。
「お母さん、わたしからもありがとう! ありがとうお母さん。ごめんなさい!」
東風さんは振り向かないまま、軽く手を上げた。
「ありがとう!」
そのまま東風さんの姿は朝の光の中に消えていった。
東風さんの姿が見えなくなるのと同時に、うっ、うっ、とこなたちゃんの鳴き声が降ってきた。騒ぎに
気づいた大家さんが、こなたちゃんを抱き占めているのが見える。
おれは大家さんに一礼して、自分の部屋へ戻った。
部屋に一歩踏み込んだところで、そのまま床に倒れ込む。
ああ、終わった。
一度倒れてしまえば、もう体をぴくりとも動かすことができなかった。
意識が朦朧としてくる。
それでも、東風さんをきちんと送ることができてよかった、と思う。
後悔はしてない。
ただ……。
天音さんの顔が瞼の裏に浮かぶ。
大和くん。
天音さんがおれを呼ぶ声が耳に甦る。
もしこのまま起き上がれなかったら、ごめん。
ずっと一緒にいたかったけど……。




