51.東風さん
山加外神社を出たのは、空が白み始めた頃だった。
途中、神社のすぐ隣にある天音さんの実家(つまり梨花さんの家。普段はキヨが適当に出入りしているらしい)でシャワーを浴び、以前なにかの時に八上が置いていったままになっていたという服に着替えたりしたものの、髪が乾く間もなく酔っぱらって呼びに来た尋さんに社務所まで強制連行され、気がつけばこんな時間だった。
尋さんと八上とは鳥居の前で別れた。
梨花さんは日野さんがうつらうつらしている隙を見計らって、夜中のうちに出立してしまった。
キヨとつっちーは社務所でまだ酒を酌み交わしているので、放っておくことにした。
アパートに帰り着くと、いつものように階段の下で天音さんと別れる。
階段をのぼる天音さんの後ろ姿を目に焼きつけながら、いつの間にかこんなに近くにいられるようになっていたんだなぁ、と気づく。
一緒に帰ってきて、じゃあまた、と言ってそれぞれの部屋へ入るのが『いつも』のことになっていた幸せ。
「天音さん」
思わず名前を呼んでしまって、自分でも驚く。
なに呼び止めてんだ、おれ。
「ん?」
階段の途中で振り向いた天音さんが、小首を傾げておれを見下ろす。
さらりと揺れる黒髪。長いまつ毛に縁どられた、大きくて黒目がちの瞳。
白い頬と、柔らかそうな唇。
「……ごめん、なんでもないよ。おやすみ」
思わず見とれてしまって、それから慌てて謝る。
不自然に思われたかな、と少し不安になる。
「大和くん、わたしの言ったこと、覚えてる?」
少しの間を置いて、突然天音さんがおれに訊いた。
天音さんの言ったこと。
不意の質問に、どれのことだろう、と一瞬考える。
「ごめん、なんでもない。おやすみなさい」
あっ……。
おれが考えているあいだに、天音さんはさっと踵を返して階段を駆け上がってしまった。
庭へまわると、垣根の向こうで朝焼けの空を見上げている東風さんの姿を見つけた。
「おはようございます」
声をかけると、ゆっくりと東風さんがこちらへ顔を向けた。
「おはよう。狭霧くん。こなたのこと、どうもありがとう」
「いえ。無事でよかったです。おれが連れて帰るって約束したのに、日野さんたちにお願いすることになってしまって……すみませんでした」
「謝らないで。こなたのためにがんばってくれたんでしょ? 聞いたわ」
「結局キヨに助けてもらうことになっちゃったんですけどね」
キヨが来てくれなければ、こなたちゃんの命も危なかった。
「それでも、こなたを助けるために海に入ってくれたんでしょう? それに、こなたに、お友だちを笑顔で送らせてやってくれたこと、本当に感謝してるわ」
「おれが、やりたくてやったことですから」
空が色づき始めている。
朝焼けの下で、東風さんが少し寂しそうに笑う。
「わたしね、本当にダメな母親なの。こなたを振り回してばかり。今回のことだって、わたしのせいなの」
「東風さんのせいじゃ、ないですよ」
東風さんが、ううん、と首を横に振った。
「狭霧くんは、もう気づいているんでしょう? わたしが、本当は死んでるんだって」
「……はい。でも、最初はちっともわからなかったんですよ」
こなたちゃんも東風さんも普通に互いの話をしていたから、おかしいなんて思わなかった。
こなたちゃんも死者を見ることができるなんて知らなかったし。
でもこなたちゃんが失踪した時、おれの中で違和感がふくらんだ。
こなたちゃんがいなくなったら、東風さんなら真っ先に捜しまくるはずだ。
電話だって、大家さんに任せずに自分で何回もかけるだろう。
東風さんは、そうしたくてもできなかったんだ。
「離婚して出戻ってきたんだけど、仕事で忙しくてこなたと一緒に過ごす時間がなかなかとれなくてね。ようやくとれた休みに、遊園地に出かけたのよ。こなた、すごく喜んでくれて、嬉しかったな。お母さんお母さんって手を引っ張ってくれてね、全部の乗り物に乗るんだって言って、ひとつ乗り終わったら走って移動するの。お昼は奮発して普段なら食べないような高いセットを頼んで、おやつもソフトクリームを何種類も食べたりして、閉園までめいっぱい遊んで……。ほんと、楽しかったなぁ」
こなたちゃんが嬉しそうに駆け回る姿が目に浮かぶ。
「でもね、帰りの高速で事故にあって、わたし、死んじゃったの。突然のことだったからなにがなんだちっともわからなくて、でもこなたのことが心配で、気がついたらここに戻ってたわ。
でもなんでかしら、外へ出ることができないの。だから、わたしがいられるのはこの家の中と庭だけ。お母さんにはわたしが見えないんだけど、こなたはほら、見える子だから、最初はすごく驚いてたけど、でもすぐ一緒に暮らすのに慣れてきてね。
わたしもこなたの傍にいられるのが嬉しくて、ついつい長居しちゃったなぁ」
東風さんの目が、家の二階へと向けられる。
そこはたぶん、こなたちゃんの部屋だ。
ああ、東風さんは決めたんだ。
東風さんの表情から、おれはそれを悟った。




