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20.母さんの思い

 ひやり、と額に冷たさを感じてうっすらと目を開けると、人影が見えた。


「母さん……」


 子どもの頃、熱を出すといつも母さんが濡らしたタオルを交換してくれて……。


 ぼんやりとする頭でそこまで考えて、あれ母さんとはなにかが違う、と気づく。


 瞬きを繰り返したところで焦点が合い、おれを覗き込んでいた目と視線がぶつかった。


「……こっ、こなたちゃん!?」

「残念ながら、ね。お母さんじゃないわ。ごめんなさい」

「ごめん! あの、違うんだこれはちょっと朦朧としてて今と昔の記憶が混乱してたからそれで……」


「別にいいわよ。うちのお母さんも、こなたが熱を出した時よくこうしてくれたから、それの真似をしてみただけ。それより具合はどう? 帰りにアミーガに寄ったら日野さんが狭霧のこと教えてくれたの。これ、日野さんからの差し入れよ」


 首を捻って見ると、果物やらスポーツドリンクやらがどっさり入ったアミーガのレジ袋がでん、と畳の上に置かれていた。


「具合……は、うん、朝より少し楽になったかな」


 ひどかった頭痛が幾分おさまっている。

 悪寒ももうしない。


「それはよかったわ」

「ありがとう。差し入れも。こんなにたくさん運ぶの、大変だったでしょ」


「近くまで日野さんが送ってくれたから平気よ。レトルトのおかゆとか入ってるけどどうする? 温めてほしいなら、そのくらいこなたでもできるけど」

「大丈夫。食欲がでてきたら自分でできるよ」


「そう。それじゃ、こなた帰るわね。汗かいてたみたいだから、着替えたほうがいいわよ」

「うん。わかった」


 お大事に、と大人びた挨拶を残して、こなたちゃんは窓から庭へと出て行った。

 ポニーテールが、垣根の隙間を通り抜けて見えなくなる。 


 そういえば玄関の鍵はかけていたけれど、庭へ通じる窓のほうは開けっぱなしだったかもしれない。


 部屋は今朝洗濯機をまわしているあいだに掃除をしたばかりだったので、見られて困るような状態でなかったのは幸いだった。


 外は、朝まで雨が降っていたけれど、今はやんでいるようだ。

 ただ空にはまだ灰色の雲が広がっていて、いつ雨粒が落ちてきてもおかしくなさそうだった。




 体育館裏での一件のあと、なんでこんな思いをしてまで学校に通わなくちゃいけないんだ、とおれは母さんに詰め寄った。


 もう学校へなんて行かない、と部屋に引きこもった。


 そのまま中学を卒業し、高校へは通っていない。

 高等学校卒業程度認定試験を受けて大学受験をした。


 何故、大学へ進学する気になったのか。


 それが、母さんのたっての願いだったからだ。


『妖怪だって人間だって、ひとりだけでは生きていけないの。人間の中で生きてゆく術を身につけないと、妖怪だって生きてはいけないのよ』


 母さんはいつもそう言っていた。


 確かに、母さんの交友関係を見ていても妖怪は少なく、ほとんどが人間だったように思う。

 そして母さん自身があえて人間たちの中での生活を選んでいるようだった。


 母さんの仕事はウェブデザイナーで、仕事はほとんど自室でやっていたから住む場所は別にあんな街中でなくてもよかったはずだ。


 それなのに、母さんは都心にほど近いあの場所に住み続けて、頻繁に外出していた。


 そして母さんはこうも言っていた。


『ひとりでは知ることのできないことが、たくさんあるの。狭霧はこれまでにそれらをたくさん学んできたし、これからもっと多くのことをわかることができるわ。辛いことが多いかもしれない。でもそれ以上に幸せなこともきっとあるのよ。お母さんは、狭霧にたくさんのことを知ってほしいわ』


 そう言って笑っていた母さんは、おれが山加外に来る一週間前に亡くなった。


 母さんはおれが大学に合格したことをとても喜んでくれていた。

 この地で、おれがうまくやっていくことを望んでいた。


 おれもできるところまで精一杯やろうと思っていた。

 けれど、ダメだった。


 おれは昔となにも変わっていない。変われていない。


 バイトを休んでから三日目。


 体の具合はだいぶんよくなっていたけれど、おれは布団から出ることができずにいた。


 ごめん、母さん。


 おれは母さんの期待に応えられそうにないよ。


 鼻の奥がつんとして、おれは布団の中に頭ごともぐりこんだ。 

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