16.雨降る音の怪
グローブは、はめていた。
それなのに、おれは……。
天音さんを包むつっちーの腕をただ眺めながら、唇を噛む。
「天音、大丈夫か!?」
「天音っち、大丈夫よ!」
そこへ八上と尋さんが駆け込んできた。
椅子と一緒になって倒れるおれを見てふたりは驚いた顔をしたけれど、尋さんはすぐ天音さんへと視線を移した。
八上がテーブルへ近づき、PCのモニター上へ目を走らせる。
「恙?」
小さく頷く八上の隣に立った尋さんもモニターでなにかを確認すると、すぐにPCをシャットダウンする。
そのあいだも、つっちーはずっと天音さんを抱いたまま声をかけ続けている。
「つっちー、代わるわ」
「だが――。わかった、頼む」
天音さんから離れたつっちーに代わって、尋さんがふわりと天音さんを包み込む。
「天音っち、聞こえる? 大丈夫よ。ここにはみんないるし、怖いものはもうどこにもないわ。安心して。大丈夫、大丈夫よ」
尋さんがぽんぽんと天音さんの背中を優しく叩きながら言う。
ぼんやりとしていたおれの前に、にゅっと手が差し出される。
「大丈夫か?」
八上の声が降ってくる。
「あ、天音さんは――?」
「ああ。大丈夫だよ。天音は怖がりだからな。でも、尋もいるし、少しすれば落ち着くはずだ」
差し出された手を掴むと、ぐいと八上が引き上げてくれた。
さっきまでと比べて、ざあざあという音が少し小さくなっていることに気づく。
「この音は?」
「ああ、天音は『雨降る音の怪』でさ、哀しみとか恐怖とかっていう負の感情に触発されて、雨の音をさせちまうんだよ。実際に雨を降らせるわけじゃなくて、ただ音がするだけなんだけど、まあ知らなけりゃびっくりするよな」
雨音をさせる妖怪。
その存在は知っていたけれど、それがまさかここまで激しい症状を伴うものだとは考えていなかった。
「おまえどういうつもりだ!」
つっちーが険しい表情でおれに詰め寄る。
「どういうつもり、って……。おれが外から戻ったら天音さんがいて、もうざあざあっていう音がしてた。だからどうしてこんなことになったのか……」
「ふざけるなっ!」
「つっちー、相手が違う。責められるべきなのは、狭霧にきちんと説明しておかなかった俺だ。すまなかった」
「ああおまえにももちろん腹は立っている。こいつがなにも知らなかったことは仕方がないかもしれん。だが、だがこいつは……こいつは、苦しむ天音を前にしてなにもしなかったんだぞ!」
「狭霧はなにもできなかったんだ」
「所詮その程度ということだ。だから天音の容姿に惹かれて近寄ってくる奴らは信用がおけん。わしは許さんからな! 絶対に、許さんからな! とっとと消え失せろ!」
鋭い視線に射すくめられ、おれはなにも言うことができなかった。
つっちーの言うとおりだと思った。
震える天音さんを前に、なにもできなかったのは事実だから。
自分が天音さんに好意を抱いていることは自覚していた。
それなのに、その相手が苦しんでいる時になにもできないなんて。
その程度のくせに、天音さんを好きだなんてよくいえたものだ。
なんて愚かなんだと思った。なんて醜悪なんだと思った。
なにを浮かれてたんだ、おれは。
「ごめん。本当に、ごめん……」
「狭霧……。つっちー、おまえ言い過ぎだぞ」
八上に庇ってもらう価値なんか、おれにはない。
「八上、悪い。おれ、今日はもう……」
「いい加減にしなさいよ」
つっちーに言われるまま部屋を出ようとした時、大きくはないけれど凄味のある尋さんの声が響いた。と同時にめきめきとなにかの壊れる音が聞こえる。
はっとそちらを見ると、部屋の天井に背中をめり込ませるほど巨大化した尋さんが、ぎょろりとこちらを睨みつけていた。
部屋の狭さのせいで不自然な体勢になってしまっていることも相まって、かなり怖い。
顔立ちは変わらない。
巨大化にあたって容姿が変化するわけではなく、ただ単純にサイズが大きくなるだけのようだった。
けれど怒りを湛えたその表情は、それだけで充分に迫力を備えている。
狭苦しそうに背中を丸め、首を曲げる尋さんのぐんと伸びた腕の中で、天音さんが目を丸くしている。
巨大化した尋さんの体に押しやられるように傾いたテーブルの上から、ノートPCが滑り落ちて嫌な音を立てた。
「狭霧のは不可抗力だったかもしれない。でもつっちー、今のあなたの言葉が天音っちにどんな影響を与えるか、あなたはもちろんわかっているわよね?」
低く響く尋さんの声が、空気を震わせる。
がたがたと窓ガラスが音を立てて震える。
「ひ、尋……。だ、だが……」
「つっちー」
「う、ううぅ……。わ、悪いのはおまえらのほうだ――っ!!」
言うなり、つっちーは部屋を飛び出していってしまった。
それを見送って、恙がため息を吐く。
「やれやれ。それにしても、尋。おまえ天音を抱えたまま巨大化すんじゃねーよ。つっちーの言葉云々の前に、天音を下敷きにして窒息死させるつもりかよ」
「し、失礼ね! そんなことしないわよ」
「現に、天音びっくりしすぎて、既に怯えるどころじゃなくなってんじゃねーか」
八上に指摘されて腕の中の天音さんの様子を確認した尋さんは、瞬く間にしゅるしゅると小さくなって、元のサイズに戻った。
「ご、ごめんね、天音っち」
しゅんとして謝る尋さんを前に、天音さんはぶんぶんと首を横に振る。
「ううん。わたしこそ、騒がせてごめんなさい」
さっきまでと比べてだいぶん落ち着きを取り戻してきているようで、ほっとする。
けれど次の瞬間、自分の身勝手さに呆れる。
天音さんが震えている時になにもしなかったおれには、安堵する資格なんてないのに。
気づくと室内から聞こえていたざあざあという音はすっかり消えていたけれど、今度は外で降りだした大粒の雨が窓を激しく鳴らしていた。




