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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第一章 展示

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9/22

第009話 二字

国立人類保全園 第七園

物品販売実績(五月分)


作成 広報課

売店 正門横・第一売店


一、総括


五月の売上は前年同月比で一割二分の増となった。来園者数の増は〇割四分であった。一人あたりの購入額が伸びた。


二、品目別


 品目       数量    単価   備考

 縫いぐるみ(大) 千二百四十 千八百円 A-0114

 縫いぐるみ(小) 二千八十  九百円  A-0114

 縫いぐるみ(小) 三百十一  九百円  M-0091

 絵葉書(十枚組) 千五百六  六百円  園内風景

 手拭       四百二   五百円  園章

 菓子(缶入)   九百八十  千二百円 園章

 個体紹介冊子   二百十四  四百円  全個体


三、個体を意匠に用いた物品


意匠に個体を用いた物品は、現在二名分を製作した。A-0114 と M-0091 にあたる。


A-0114 の縫いぐるみは、大小あわせて三千三百二十点を販売した。物品全体の売上に占める割合は六割一分であった。


M-0091 の縫いぐるみは三百十一点であった。前年同月は四百四点であり、二割三分の減となった。


四、製作


縫いぐるみの製作は外部に委託した。委託先は令和二百六年から変更していない。


生産の単位は五百点とした。A-0114 の大は月に二回、小は月に五回の発注が続いている。月の合計は七回であり、委託先の生産能力である月三千五百点に等しい。


大は販売が生産を上回る月が続いている。小は下回る月が続いている。発注の回数は令和二百十年から変更していない。


五、在庫


縫いぐるみ(大)の在庫は二百点を下回った。小は千点を上回っている。


在庫の置場は売店の裏とした。置場の面積が不足しており、通路に積んだ分がある。


六、来園者の反応


売店の記録では、縫いぐるみを購入した来園者の三割ほどが、購入の前にふれあい広場を利用している。


利用の後に購入する例が多い。逆の順で購入した例は集計していない。


購入者には手提袋を無償で渡した。袋の消費は五月で四千百枚であった。


七、留意


品目のうち、返品の申し出は本年度で二件あった。いずれも縫いぐるみに係る。理由の欄は「思っていたものと違う」であった。


返品はいずれも受けた。受けた品は売場へ戻さず、売店の裏へ置いた。


八、次月


六月は行事の予定が無い。売上は五月と同程度を見込んだ。


追加の生産について別に伺う。


(作成 広報課/写し 総務・飼育部門)


──────────────────


 土曜は五人で出る。

 五人が横に並ぶ。並ぶ順は当番表ではなく、朝に係員が決める。真ん中と端では手の数が違う。


 広場は朝のうちに水を撒く。撒くのは係員で、撒いた後はマットの匂いが上がる。

 合成の繊維で出来ているのに、濡れると土に近い匂いを出す。乾くまでの一時間ほどが、この場所で一番匂う時間になる。


 撒くのは如雨露ではなく、柵の外の栓に繋いだ管でやる。管は太い。係員は片手で持って、もう片方を腰に当てて立つ。

 水は端まで掛からない。真ん中が一番濡れて、柵に近いほど乾いている。乾き方が輪になって、午後まで残る。

 柵は腰の高さで、上に平たい木が渡してある。来館者はそこに凭れる。木は手の脂で色が変わっていて、変わっている高さが何処も同じになる。


 当番表は前の週の木曜に貼り出される。貼る場所は控室の扉の内側で、画鋲を四つ使う。四つのうち一つはいつも曲がっている。

 自分の番号を探す時、上から順に見る人と下から見る人がいる。私は下から見る。Jは下のほうにある。


 今日は端から二番目だった。

 真ん中はA-0114だ。私はこの人を知っている。園の中でこの人を知らない人はいない。話したことはない。


「よろしく」

「よろしくお願いします」

 そう言って、マットへ先に座る。座り方が速い。慣れている。


「番号、なんだっけ」

「J-0037です」

「あー、はいはい。洗濯の人だ」

「洗濯もやります」

「知ってる。前に袋くれたでしょ。あれ助かった」

 覚えていない。私はいろいろな人に袋を渡している。

「ありがとう、あの時」

 その人は座ったなりで頭を下げる。下げてから、また前を向いた。


 五人の間は二メートルずつ空ける。空ける距離は決まっていない。

 係員が来て、私のマットを少し動かした。動いた分を、私は歩数で測った。半歩ある。半歩ぶん、私は端へ寄ったことになる。


「今日、真ん中じゃないんだ」

 その人が言った。私は頷いた。

「前は?」

「先月に一度あります」

「そう」

 それ以上は聞かない。聞かないで、自分の膝の上を払った。


 開場の前に、係員が名札を確かめる。

 名札は背中に付ける。確かめる時、係員は後ろへ回る。回った係員の指が、留め金のところで一度止まる。曲がっていると直す。今日は直された。


 十時に開場する。

 柵の外の列が動き出す。列は入口で一本になって、中で散る。散った先が五人ぶんある。


 私のほうへ来る人は少ない。

 少ない理由は分かっている。端は入口から遠い。遠いところまで歩く人は、歩くと決めてから来る。


 入口で係員が説明をしている。声はこちらまで届かないが、話の長さで内容が分かる。長い時は初めての人が多い日だ。

 今日は長い。土曜はいつも長い。


 説明の言葉は決まっている。強く押さえない。頭と首は控えめに。食物は与えない。写真は光らせないこと。

 最後に一つ足す日がある。「声を掛けても構いません」と言う日だ。言う日と言わない日があって、決め方は分からない。今日は言った。

 言った日は来館者が喋る。喋られると、手より先に返事が要る。返事のぶんだけ数が飛ぶ。


 数え方は決めてある。一つ触られたら一つ数える。同じ人が二度触れば二つ数える。


 最初の一人が来る。

 中年の男の人で、片手だけ出した。もう片方は鞄を持っている。持ったまま触るので、姿勢が斜めになる。

 途中で鞄を足元へ置いた。置いてから両手になった。両手になると、触る速さが変わる。速くなるのではなく、間が長くなる。


 次は若い女の人だった。手を出す前に、私の後ろを覗こうとした。覗ける角度ではない。係員に何か聞いて、係員が番号を答えた。

 触るのは指先だけになる。手のひらは使わない。触っていた時間より、膝に手を置いていた時間のほうが長い。私の顔ではなく肩のあたりを見ている。


 次に男の子と、母親らしい人が来る。子どもは触らない。触らないと決めている顔で、後ろに立っている。

 母親らしい人が私の手を取って、子どものほうへ引いた。引かれた手の先で、子どもは一歩下がる。

 母親らしい人は「ごめんなさい」と言った。私は「はい」と言った。子どもは最後まで来ない。


 真ん中は途切れない。

 その人の前には、常に人が立っている。立っている人の後ろに、次の人が半歩ずれて待つ。半歩ずれるので、列に見えない。列に見えないものを係員は切らない。


 来る人はまず名前を呼ぶ。呼んでから手を出す。

 呼ばれる度に、その人は同じ返事をする。同じ高さで、同じ長さの返事だ。午前のうちに何度になるかは数えられない。数えようとして、四十を過ぎたところで自分の分と混ざった。


 真ん中の側にも形がある。前に立つ人ほど荷物が少ない。荷物の多い人は後ろで、鞄を足の間に挟んで待つ。

 一人が写真を撮る。光った。係員が来て、その人は光らせない設定に直してから、もう一度撮った。

 別の一人は縫いぐるみを持っていた。売店の袋のまま持ってきて、袋から出して、その人の膝の横に並べて置いた。置いてから自分の手を出した。

 その人は膝の横のそれを見ない。見ないで、来館者の手のほうを見ている。


 私の午前は十九だった。

 真ん中の日は午前だけで二百を超える。先月の一度がそうだった。


 人の手には匂いがある。石鹸の匂いの人と、そうでない人がいる。外から来た人の手は、園の中の誰とも違う匂いをしている。

 何の匂いなのかは分からない。分からないでいるうちに薄くなって、それでも夕方まで残る。

 真ん中では、それが途切れずに重なる。重なると濃さだけが増える。


「ごめんね」

 昼の休みに入って、その人が言った。

「何がですか」

「こっちばっかりで。そっち、暇でしょ」

「暇です」

「だよね」

 その人は笑う。笑うと目が細くなる。細くなってから、戻るまでが長い。

 前歯の右が一本、隣より前へ出ている。笑うとそこだけ先に見える。頬に触られた跡が薄く赤く残っていて、午前のぶんが消えないうちに午後が乗る。

 髪は縫いぐるみのほうが短い。実物は肩を越えて、束ねずに垂らしてある。垂らしたままにしておく理由を私は知らない。


 座った姿勢で両手を膝の上へ置いて、開いて閉じた。三度やって、やめた。

 私も同じことをする日がある。触られた後の手は、自分の手のように動かない。動かないというより、動かし方を思い出すのに少しかかる。


 控室までの廊下は、広場から二十七歩ある。数えたのは前の当番の日だ。

 その人は歩くのが速い。速いのに歩幅は小さい。私は歩幅を合わせずに、いつも通り歩いた。着いたのはほとんど同時になる。


 休みは四十分ある。控室で皿を受け取る。

 皿は下から温い。上の面は室温に近い。掬うと、下のほうから湯気に近いものが出る。出るのは最初の三口までになる。

 私のは四三〇。その人のは四〇〇だ。

 卓は二人で一つ使う。ほかの当番は別の時間に入るので、この時間は二人しかいない。


「五二・四でしょ」

 その人が言った。

「え」

「体重。火曜に聞いてる。あんた四十番目」

「はい」

「私は八番目。前のほうだから、後ろの番号も全部聞こえる」

「覚えてるんですか」

「覚えてない。聞いてるだけ」


 聞いているだけで覚えていない、というのがどういうことか、私には分からない。

 聞いた数は残るものだと思っていた。残らない人がいる。


「四〇・二」

 その人が続けて言った。

「何がですか」

「私の。先週から〇・一減った」

「はい」

「言っとかないと不公平でしょ。そっちの数だけ知ってるの」

 この人は不公平という語を使った。私はその語をあまり聞かない。


 完全栄養食の匂いが控室に籠もる。蒸れた甘さだ。窓が一つしかないので、抜けるのに時間がかかる。

 皿を半分ほどで一度置いた。置いてから、匙で表面を平らにならした。ならしてから、また食べ始める。

「それ、癖ですか」

「え。あー、うん。なんか、見た目が」

「見た目」

「食べかけの見た目が嫌なの。誰も見てないんだけどね」

 その人は笑った。私も少し笑った。


 卓は木の色をした樹脂で、真ん中に細い溝が一本ある。二人で使う時は、その溝が境になる。決まりではない。誰も言わないのに、皿はどちらも溝の手前へ置く。

 その人の皿は四〇〇で、私のは四三〇ある。三十グラムの差は、皿の上では見て取れない。盛りの高さも同じに見える。

「三十しか違わないんだね」

「はい」

「体重は十二違うのに」

 自分の皿と私の皿を見比べてから、匙で自分のほうを少し寄せた。寄せただけで、移しはしない。


「そっち、何個だった」

「十九です」

「数えてんの」

「数えます」

「私も昔は数えてた。今は無理」

 その人は指を二本立てて、それから下ろした。

「途中で分かんなくなるの。分かんなくなると、なんか、減った気がする」

 減らない。数えなくても手は同じだけ来ている。

 言わなかった。言う代わりに、私は自分の十九をもう一度頭で並べた。


 昼の間に、その人が鞄から何か出した。

 鞄と言っても布の袋だ。持って歩く人は少ない。

 中から出てきたのは、小さいものだった。


 縫いぐるみだった。

 人の形をしている。座った形で、膝を折ってある。頭が大きい。髪は茶色で、肩のところで切ってある。


「これ、私」

 卓の上に置かれた。

 私は見た。似ているかどうかは、すぐには分からない。目の位置が実物より下にある。

 それでもこの人だと分かる。分かるように作ってある。


「触っていいですか」

「いいよ」

「ありがとうございます」

 その人は少し驚いた顔をした。それから、いいよ、ともう一度言った。


 持ち上げる。軽い。四三〇の皿より軽い。

 布は温い。二か月ぶんの温さではなく、袋の中にあった一日ぶんの温さだ。手のひらに乗せていると、私の温さのほうが勝つ。勝つまでに二分ほどかかった。

 中身は綿だと思う。押すと沈む。沈んだところは、手を離すとゆっくり戻る。戻りきる前にもう一度押すと、二度目のほうが早く沈む。


 縫い目を指でなぞる。

 背中に一本、真っ直ぐ通っている。糸は布と同じ色で、目立たない。

 なぞると柔らかい。柔らかいのに、そこだけ少し硬い。糸のぶんだけ厚くなっている。


 頭の後ろに継ぎ目がある。首の付け根から髪の生え際まで、糸が二列で走っている。

 二列のうち、外側の一列は縫い目が細かい。内側は粗い。作る順序が違うのだと思う。

 腕は胴に縫い付けてある。動かない。持ち上げても下がらない。膝も同じで、折ったまま固まっている。


 足の裏に、別の色の布が一枚当ててある。灰色で、そこだけ厚い。押しても沈まない。中に厚紙が入っているのだと思う。

 立たせようとした。立たない。膝が折れているので、座らせる以外の置き方が無い。

 目は糸ではない。硬いものが二つ埋めてある。爪で軽く叩くと、皿を叩いた時に近い音がした。低い音だ。

 髪は布ではなく、細い糸を束ねて頭へ縫い込んである。指を入れると通る。通した指を抜くと、糸の並びが元へ戻らない。何度か指で揃えた。揃えても、さっきと同じにはならない。


 柔らかいものをこの手で持つのは、久しぶりだった。何年ぶりかは覚えていない。

 膝に載せてみた。重さが分からない。載っているのに、載っている感じがしない。四三〇の皿を膝へ置くと膝が押される。これは押されない。


「顔、似てる?」

 その人が聞いた。

「似ています」

「ほんと? 目の位置が違うって言われたことあるんだけど」

「違います」

「違うんかい」

 その人は声を出して笑った。控室ではないので、笑い声が広場のほうまで届いた。係員が振り向いた。振り向いてから、何も言わずに戻った。


「売店で売ってる」

「知っています」

「見たことある?」

「窓から」

 売店は正門の横にある。ふれあい広場からは、通路の窓越しに看板だけが見える。中は見えない。


「千八百円だって。大きいほうが」

「高いんですか」

「高いのか安いのか、私も分かんない」

 その人はそう言って、また笑う。


「これ、どうやってもらったんですか」

 聞いてから、聞き方が悪かったと思った。

 その人は少し黙ってから言った。

「もらったっていうか。持ってきてくれた人がいる」

「係員の人ですか」

「うん。名前は言わない」

「はい」

「怒られるかもしれないから」


 誰が怒るのかは聞かない。

 その人は縫いぐるみを卓の真ん中へ戻す。二人の間に置く形になる。


 布は新しい匂いがした。園の中の布はどれも洗濯洗剤の匂いだが、これは違う。

 外の匂いだと思う。作った場所の匂いが残っているのだと思う。何度か嗅いだ。嗅いでいるのを見られて、その人はまた笑った。

「変な匂いする?」

「新しい匂いです」

「そう? もう二か月あるけど」

「二か月でもです」


「重さ、量ったことある?」

「縫いぐるみのですか」

「うん」

「ありません」

「私もない。量る台、あれ人しか乗せちゃだめなんだって」

「そうなんですか」

「聞いた。ほんとかは知らない」

 私は縫いぐるみを持ち上げて、上下に少し振ってみた。振っても音がしない。中に硬いものは入っていない。


 午後が始まる。

 午前と午後の間で、係員がマットを拭きに来る。布は二枚で、拭いて、乾かす。順序は廊下の当番と同じだ。

 拭いた後のマットは冷たい。座ると腿の裏から来る。温まるまでに七分ほどかかる。


 午後は人が減る。土曜でも、昼を過ぎると来館者は資料の建物のほうへ行くらしい。

 真ん中はそれでも途切れない。私のほうは二人だった。


 一人は子どもで、手が小さい。触る時に、指を全部使わずに人差し指だけで来る。

 もう一人は年配の女の人で、手を握って、それから離した。離す時に「ありがとうね」と言った。

 私は「はい」と言った。ほかに言う言葉を持っていない。


 子どものほうは、触った後で自分の手を見た。何かが付いていないかを確かめる顔だ。

 付いていない。何も付かない。それでもその子は二度見た。

 年配の女の人の手は温かい。握られている間だけ、私の指の先まで温かくなる。離すと、離したところから冷める。冷めきるまでが握られていた時間より長い。


 午後は誰も来ない時間のほうが長い。

 広場の時計は入口の柱に掛かっている。私の位置からは文字盤の下半分しか見えない。上半分は柱の影に入る。

 長い針が柱から出て、また隠れるまでが十五分になる。午後はそれを九回数えた。


 九回のうち、四回は手が一つも来ない。

 来ない回のほうが、来る回より短く感じる。数えているのは針のほうで、手のほうではないからだと思う。

 来ない間は柵を見ている。柵の内側のマットは、朝に撒いた水がもう乾いている。乾くと匂いも消える。


 柵の外を係員が二度通った。一度目は台車を押していて、二度目は手ぶらだった。手ぶらの時のほうが歩くのが遅い。

 真ん中では、その間に三人が入れ替わっている。名前を呼ぶ声が三度した。三度とも違う声で、返事は同じ声だった。


 三時を過ぎて、また休みが入る。

 その人はマットの上で膝を抱えて、天井を見ている。


「疲れましたか」

「疲れた」

「はい」

「あんたは?」

「私はそんなに」

「だろうね。十九だもん」

 言ってから、その人は自分で吹き出した。

「ごめん、今の嫌な言い方」

「いえ」

「ほんとに。悪気ないんだけど、たまに出る」

「はい」

 私も少し笑った。笑ってから、笑ってよかったのかどうかを考えた。考えている間に、その人はもう別のことを話し始めていた。


 その人は喋る。喋り続ける。

 喋る内容はほとんど何でもない。昨日の給餌がぬるかった。居室の隣の人が寝言を言う。C区画には窓の大きい部屋があるらしい。

 C区画の窓の話は長かった。窓が大きくて、朝は寝台の足のほうまで日が入るらしい。誰かに聞いた話で、その人自身は見ていない。

「見に行ったことないんですか」

「区画って、勝手に行けないでしょ」

「はい」

「でも、いつか行くかもね」

 いつか行く、という言い方をこの人はよくする。今日だけで三度聞いた。


 私は聞いている。聞いているだけで、返す言葉は「はい」と「そうですか」で足りる。足りるのに、その人は喋り続ける。


「あんた、あんまり喋んないね」

 私は自分の膝を見た。

「嫌?」

「嫌じゃないです」

「そう」

 少し考えてから言う。

「私も、ほんとは喋んなくていいんだけどね」

「そうなんですか」

「喋ってると、なんか、続いてる感じがするでしょ」


 何が続いているのかは聞かなかった。

 その人もそれ以上は言わない。


「あんた、名前ある?」

 突然そう聞かれた。

「あります」

「そう。じゃあ今度教えて」

「はい」

 その人はそれ以上聞かない。聞かないでいる間、私のほうを少し見ていた。

 見られている間、私は自分の手を見ていた。手は膝の上にある。


 四時。当番が終わる。

 係員が来て、名札を確認する。二人分の番号を読み上げる。

「A-0114」

「はい」

「J-0037」

「はい」

 それで終わりだ。


 控室へ戻る途中で、その人が別の当番とすれ違った。

「すず、お疲れ」

「お疲れ」

 片手が上がって、それで答えになる。


 名前で呼ばれた。

 園の中で名前を呼ばれる人はいる。多くはない。私の知っている範囲では四人だ。この人はその一人になる。


 控室には誰もいない。四時に終わる当番は今日は二人だけだ。

 窓は西を向いている。この時刻だけ日が入る。入る時間は三十分ほどで、床の同じところが明るくなる。明るいところの床だけ、色が薄い。


 その人は日の入っている場所へ椅子を引いた。引いてから、手のひらを上へ向けて日に当てる。

「あったかい」

「はい」

「ここだけね」

 手を裏返す。甲のほうにも当てる。当てている間、何も喋らない。

 私も手を出した。日の当たっているところは三十度ほどある。外したところは室温に戻る。戻るのは早い。


 控室で、縫いぐるみをもう一度見せてもらった。

「札、ついてる」

 その人が首の後ろをめくる。細い布の札が縫い付けてある。

 字が刷ってある。


 す、ず。二字だ。


 字は薄い青で刷ってある。布に直接刷ってあるので、糸の目に沿って少し滲んでいる。

 滲んでいても読める。二字とも読める。


 私はそれを見た。指で押さえると、糸の目のぶんだけ字が沈む。離すと戻る。


「読める?」

「読めます」

「なんて書いてある」

「すず、です」

「そう。それ、私の名前」

 札を指で押さえる。押さえてから、離した。


「裏にも書いてあるの。小さいやつ」

 札をひっくり返す。

 裏の字はもっと小さい。行が三つある。近づけないと読めない。


「読める?」

「少し待ってください」

 札を目の高さまで持ち上げる。控室の照明は明るくない。角度を変えて、字が影にならないところを探した。


 一行目は意匠の年だ。令和二百八年とある。

 二行目は委託先の名前らしい。読めない字が二つある。

 三行目を読んだ。


「名称に関する権利の帰属は別に定めます」


 声に出して読む。読み終わってから、もう一度、今度は目だけでなぞった。


「なにそれ」

「分かりません」

「私も分かんない」

 その人は札から手を離す。縫いぐるみは膝の上にある。


「ねえ」

「はい」

「これ、あんたにあげようか」

「いえ」

「いいよ、別に。私、まだもらえるかもしれないし」

「いえ」

 二度断った。三度目は言われなかった。


 縫いぐるみは袋へ戻る。戻す時に、頭のところを一度だけ撫でた。

 撫でる手つきは、来館者が広場でやっていた形と同じになる。親指だけが動かない。


「じゃあ、また」

「はい」

 その人が立ち上がる。袋の口を閉めながら言った。


「でも、私の名前でしょ」


 私は答えなかった。

 その人は袋を抱えて出ていく。廊下で誰かがまた名前で呼んだ。返事が聞こえた。


 夕方の給餌で、三八〇の人の隣に座った。

 この人は今日も三口分を私の皿へ移した。移す時に匙の腹を滑らせる。音は出ない。

「今日、A-0114と一緒でした」

「そう」

「縫いぐるみを持っていました」

 三八〇の人は少し手を止めた。止めてから、また食べ始める。

「知ってる」

「見たことありますか」

「売店の前を通った時にね。窓に並んでるよ」

 私は窓から看板を見ただけになる。並んでいるところは見たことがない。


「あの人と喋った?」

「はい」

「喋る人だからね」

「はい」

 三八〇の人はそれ以上言わない。言わないで、皿の縁を匙でならしている。ならし方はA-0114と同じだ。誰かが始めて、誰かが真似たのだと思う。どちらが先かは分からない。


 居室へ戻る廊下に、洗濯物の袋が四つ積んであった。土曜は洗濯の当番が休みになるので、月曜まで置かれる。

 四つのうち一番上の袋は口が開いている。閉めた。閉めるのは私の当番ではない。


 洗濯室の前を通った。土曜は電気が落ちている。

 扉の硝子越しに、干し場の紐が見える。紐は空で、端に洗濯挟みが四つ残っている。四つは間隔が違う。使った人が最後に外した順に残る。


 私は指の腹を擦り合わせた。まだ布の匂いがする。

 匂いは指の側にあるのではなく、擦り合わせる動きのほうに付いている。動かすと出て、止めると分からなくなる。


 もう一度、擦った。


──────────────────


国立人類保全園 第七園

意匠および名称の使用に関する伺い


起案 広報課

起案日 令和二百十二年六月十二日

決裁 園長

件名 A-0114 に係る意匠物品の追加生産について


一、経緯


A-0114 を意匠に用いた縫いぐるみは、令和二百八年から製作してきた。五月の販売は大小あわせて三千三百二十点であった。物品全体の売上に占める割合は六割一分であった。


二、追加の生産


第三四半期の三か月について、通常の発注に代えて大を三千点、小を五千点としたい。月あたり二千六百六十七点にあたり、委託先の生産能力である月三千五百点の内側になる。


大の増は在庫の減による。小の増は次年度の意匠更新を見送る前提によった。


三、意匠の更新


意匠は令和二百八年の作成物を継続して用いてきた。当該個体は当時十三歳であった。


更新については、実物との差異に関する申し出が本年度で二件あった。いずれも髪の色に関する申し出であった。ただし現行の意匠による売上は伸びており、更新の必要は認めない。


四、名称の使用


縫札には当該個体の名称を刷った。名称の表記は現行のとおりとする。


名称に関する権利の帰属については、記録管理室の定めによる。当該の定めは個体記録票の第六欄に記載がある。物品への使用は当該の定めの内側にある。


五、見本の取り扱い


各生産分から見本を一点ずつ受領した。本年度に A-0114 の分として受領したものは累計で十四点であった。M-0091 の分は別に四点である。見本は広報課で保管する。


保管中の見本のうち二点は、所在の確認が取れていない。確認は次期の物品点検で行う。


見本の当該個体への交付は行わない。過去に交付した例は無かった。


六、経費


意匠の更新を行う場合、作成の費用は一件あたり四十万円を見込んだ。本年度の予算には計上していない。


七、留意


M-0091 を意匠に用いた縫いぐるみは、前年同月比で二割三分の減となった。生産の縮小について別途伺う。


(起案 広報課)

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