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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第一章 展示

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第006話 常同行動

国立人類保全園 第七園

行動観察要領(様式第十一号 記入要領)


制定 令和二百四年

最終改正 令和二百十年


一、目的


飼育下の個体には、野生下で認められない反復の行動が現れる。本要領はその把握と低減を目的として制定した。


二、定義


本要領において常同行動とは、明らかな目的を伴わずに反復される一連の動作をいう。次のものを含む。


同一経路の往復

身体の一部を規則的に接触させる動作

発声または口の動きの反復

物品の並べ替えの反復


三、観察の方法


走査法によることとした。五分を一区間とし、区間の開始時点における各個体の行動を一度だけ記録する。区間の途中に生じた行動は記録しない。


一日あたり十二区間を標準とした。連続する三日を一組として実施する。


四、記号


発現を〇、非発現を/、視認し得ない場合を空欄と定めた。個体が観察者の視野から外れた場合も空欄とした。推定による記入は認めない。


五、観察者の位置


観察は個体に気づかれない位置から行う。観察者は白衣を着用しない。記録板は個体から見えない角度に保つこととした。


観察されていることを個体が認識すると、行動の発現率が変動する。前回の観察では、認識後の発現率が認識前を二割下回った。


六、判定


一日の発現率が四割を超えた個体を要改善とした。三日の平均が四割を超えた場合は、改善計画の対象に繰り入れる。


七、改善


改善は環境の付加による。用具の追加、日課の追加、収容位置の変更のいずれかを用いた。


用具の追加を第一の手段とした。効果が認められない場合に日課の追加へ移り、なお認められない場合に収容位置の変更を行う。


八、記録の保存


観察記録は五年間保存すると定めた。改善計画の対象となった個体については、対象を外れた後も継続して記録する。


九、他区画との関係


観察は区画ごとに三年を目安として巡回した。前回のE区画の観察は令和二百九年である。


区画の間で発現率を比較することはしない。収容の密度と日課が異なるためである。ただし全園の平均は年次で算出した。


十、用具


用具の内容は令和二百四年の制定時に定めた。以後の改定は行っていない。


配付は箱を単位とする。箱には使用の説明を貼付した。説明の読み上げは職員の業務に含めない。


十一、備考


本要領は令和二百十年に改正した。改正前は「異常行動」の語を用いていた。語を改めた理由は議事に残っていない。


判定の線を四割としたのは令和二百四年の制定時である。線の根拠となった資料は現存しない。


改善の効果について、対象を外れた個体の割合は前期で三割であった。残る七割は対象のまま継続している。


(所管 飼育部門/写し 記録管理室)


──────────────────


 雨が続いている。三日目だ。

 廊下にワックスの匂いがする。雨の日は強い。乾いている日は床から匂わないのに、湿ると匂いが上がってくる。


 雨が三日続くと、指の関節が動きにくくなる。朝が一番動かない。

 寝台から起きて、まず手を握って開く。五回やると元に戻る。誰に習ったのでもない。冬の朝からそうしている。

 湿った空気は皮膚に薄く貼りつく。腕を上げると袖が肌から離れにくい。


 六時十分に廊下へ出る。点灯から十分後だ。この時刻の廊下には、まだ三人か四人しかいない。

 H-0009はもういる。


 この人は毎朝、廊下の端から端まで歩く。右手を壁につけて歩く。

 壁の下半分はタイルで、上半分は塗ってある。手はタイルのほうに置かれている。歩く速さは変わらない。端まで行くと向きを変えて、また戻る。


 私はこの人を六年見ている。E区画へ来た年から見ている。

 いつからやっているのかは知らない。私が来た時にはもうやっていた。

 やめた日があるのかどうかは知らない。


 タイルは百四十二枚ある。

 私も数えたことがある。二年ほど前だ。数えて、それきり数え直していない。数え直さなくても数は変わらないはずだ。


 H-0009の指は、タイルの上をなぞらない。触れて、離して、また触れる。

 一歩に一度だけ触る。触る位置は上から二段目で、いつも同じだ。歩く速さと触る間隔が合っているので、指は跳ねて見えない。

 使うのは中指と薬指の二本になる。人差し指は少し浮いている。爪は短い。短いというより、先のほうが平らになっている。


 服の右の袖口が、他のところより薄い。擦れたのだと思う。

 靴も右のほうが減っている。踵の外側が斜めに落ちて、左は落ちていない。

 私はこの人の左側を歩いたことがない。廊下は狭く、壁につく側を空けて歩くのが決まりのようになっている。決めた人はいない。


 私はこの廊下を毎日二度は通る。壁に手をつけたことはない。白くて、掴むところが無い。


 七時に給餌の鐘が鳴る。四点。

 鐘が鳴っても、この人はすぐには止めない。端まで行ってから止める。途中では止めない。

 止まった時に、右手はいったん壁に残る。それから下りる。下りるまでに少し間がある。


 食堂で私の前に座ることがある。今日は座らなかった。二つ隣に座って、皿を見ている。

 皿の縁の数字は三八〇だ。E-0044と同じ帯になる。


 食堂の卓は四人掛けだ。今日は三人しかいない席が二つある。雨が続くと、食堂へ来る人が少し減る。

 減った分だけ皿が余る。余った皿は配膳台に伏せて置かれ、昼にまた使われる。数は毎日合う。合わない日があるという話は聞いたことがない。


 給餌が終わって、廊下に戻った。

 廊下の端に人が立っている。園の服だが、係員の胸章が無い。板を持っている。


 背は高くない。年は分からない。園の人の年は顔に出にくいと思う。

 立ち方が係員と違う。係員は歩く途中で止まって立つ。この人は最初から立つために立っている。足の幅が肩と同じで、動かない。


 その人は壁のほうを向いていた。壁には何も無い。

 しばらくして、少しだけこちらへ体を向けた。向けてから、また壁へ戻した。手首だけが動く。板の上で何か書いている。


 五分ほど経って、手首が動いた。

 それからまた五分ほど経って、また動いた。

 左の親指を、人差し指から小指まで順に押す。一巡が四だ。四を三度と、あと二つ。それだけの間に手首が二度動いた。

 十二まで押したところで、その人は板を下ろして壁に凭れた。以後の手首は動かない。


 板は胸の前にある。面は廊下のほうを向いていない。斜め下を向いている。

 書く時、その人は目を板へ落とさない。落とさずに書く。書き終わってから一度だけ見る。


 鉛筆を使っている。園の書類は油性の筆記具だと聞いたことがあるが、この板の上では鉛筆になるらしい。書く音は聞こえない。距離があるからだと思う。


 廊下を歩く人の速さが変わった。

 誰も何も言わない。何も言わずに、少しずつ変わる。いつもより歩幅が広い人がいる。壁に手をつかずに歩く人がいる。立ち止まっていた人が立ち止まらなくなる。

 変わっていないのはH-0009だけだ。


 私は寝台の縁に座って、膝の上に手を置いた。

 左の親指が人差し指の付け根に当たっている。当てたきりで、しばらく動かさない。


 K-0212が廊下の中ほどにいる。この人はいつも同じ言葉を繰り返す。言葉というより音に近い。三つの音を、決まった順で出す。

 今日はその音が小さい。口は動いているが、こちらまで届かない。

 私の前を通る時に一度だけはっきり出た。出てから、自分で口を押さえた。押さえたのを見たのは初めてだ。


 K-0212の音は、聞き取ろうとすると聞こえなくなる。聞かずにいると入ってくる。

 三つの音のうち、最後の一つだけが少し長い。長いところで息が切れる。切れると最初へ戻る。


 E-0044は自分の居室の前で洗濯袋をたたんでいる。たたんで、開いて、またたたむ。角の合わせ方が毎回同じだ。

 この人は記録板の人のほうを見ない。見ないようにしているのではなく、本当に見ていないのだと思う。手元しか見ていない。


 G-0508は廊下へ出てこない。今日は一度も見ていないことになる。


 立っているほうの足が、途中で一度だけ位置を替えた。左右を入れ替えて、また同じ幅に戻す。


 私は自分の居室の入口に立って、廊下を見ていた。

 中へ入って、寝台に座った。


 扉は開けたままにしてある。開けたままだと廊下が見える。

 板の人は同じ場所にいる。壁を見ている。壁には本当に何も無い。


 八時を過ぎて、私は居室の中を片づけた。片づけるものはほとんどない。

 毛布をたたみ直す。二枚あるうちの一枚は使っていない。使っていないほうも、月に一度は広げて畳み直すことにしている。畳んだままでいると、折り目のところだけ薄くなる。

 棚の上を手で拭く。埃は少ししか取れない。取れた分は指先につく。


 九時ごろに雨が強くなった。

 屋根の音が変わる。E区画は上の階が張り出しているので、雨の音は直接には来ない。何処か遠くで太くなる音が、廊下の空気を通ってくる。


 板の人が場所を替えた。廊下の反対の端へ移る。

 移る時にH-0009とすれ違った。H-0009は右手を壁につけて歩いていた。すれ違うために手を離すかと思ったが、離さない。記録板の人のほうが壁から離れた。


 十時に交代があった。

 別の人が来て、記録板を受け取る。二人は短く話す。話している間、両方とも廊下のほうを見ない。

 交代した人は前の人より背が高い。板を持つ位置も高くなる。板の面は今度、少しこちらを向いている。

 向いた分だけ、書いてある字の並びが見えた。字までは読めない。行の数だけ分かる。上から下まで、行はたくさんある。


 九時半ごろ、E-0044が洗濯袋を抱えて廊下を通った。たたみ終わった分を運ぶらしい。

 板の人の前を通る時、その人は袋の位置を変えなかった。抱え方も歩き方も同じだ。見られていることを気にする様子が無い。

 私はその後ろ姿を見ていた。袋の角が肩から出ている。出た角が壁に当たりそうになって、当たらずに通った。


 十一時を過ぎて、廊下の照明が一段明るくなった。E区画は日が入らないので、時刻で明るさを変える。

 明るくなると、床の拭き残りが見える。朝に拭いたところに筋が二本ある。斜めに走っている。私が拭いた筋ではない。

 板の人は明るさが変わっても動かない。手首だけが五分ごとに動く。


 E-0044が私の皿へ三口分を移した。移す時に匙の腹を皿に付けて滑らせる。音は出ない。

 礼を言うと、その人は頷いて自分の皿へ戻った。板の人は反対の端にいる。この動きが十二の区間のどれかに入ったのかどうかは、私には分からない。


 昼の給餌で、私はH-0009の隣に座った。

 空いていたからだ。空いていたので座った。それ以上の理由は無い。


 この人の食べ方は速くない。匙を口へ入れてから、置く。置いてから噛む。噛み終わってから、また取る。

 一度に一つずつしかやらない。だから時間がかかる。それでも途中で休むことはない。


「あの人、何を書いてるんでしょうね」

 私は言った。声は小さくしたつもりだった。

 H-0009は皿を見たきりだ。少し間を置いてから言う。

「俺のことだよ」

「そうなんですか」

「三年に一度くらい来る。前は三年前だ」

「三年前」

「あの時は二日で終わった。今年は三日目だ」


 この人の声を聞くのは久しぶりだ。低い。喉の何処かが鳴っている。

「何を数えてるんですか」

 数えているとは、私が勝手に思っていることだった。


「数えてない」

「はい」

「数えてたら、もっと早く歩く」

 どういう意味なのかは分からない。分からないでいるうちに「はい」と言った。


「タイルは百四十二枚ですよね」

 私は言った。

 H-0009は匙を止めた。止めて、それからこちらを見た。この人と目が合ったのは初めてだと思う。目は白いところが黄色い。


「数えたのか」

「二年前に」

「一回か」

「一回です」

「じゃあ百四十二だ」


 それだけ言って、この人はまた食べ始めた。

 しばらくして、独り言のように言った。

「一回だけ、百四十三あった」


 周りの二人が顔を上げた。数の話だと分かる程度には聞こえたらしい。

 私は待った。それ以上は言わない。

 向かいに座っていた人が笑う。数え間違えたんでしょ、と言う。

 H-0009も笑った。笑うと肩が上下する。声はほとんど出ていない。

「そうかもな」

 そう言って、まだ笑っている。私も笑った。


「いつですか」

「覚えてない」

「一回だけですか」

「一回だけだ」

「数え直しましたか」

「した。次の日は百四十二だった」

「じゃあ間違いですね」

「かもな」

 この人は否定しない。肯定もしない。匙を持ち直して、皿の底を掬った。

 この人はそれきり何も言わなかった。皿を空にして、置いて、立ち上がる。立ち上がる時に卓に手をついた。ついた場所が、他より少し光っている。


 立ち上がった後、この人は皿を返しに行った。返す時に、皿の縁を左手の親指で押さえている。

 押さえる位置は数字のところだ。三八〇の刻みの上に指が乗る。乗せたまま台まで運んで、そこで離す。


 食堂を出る時、配膳台の前で列が止まった。前の人が皿を置く位置を直している。縁の数字を手前へ向けて置き直した。

 向きを揃える決まりは無い。それでも揃っている日のほうが多い。


 E-0044は先に席を立った。立つ時に卓の縁へ手をついて、少し待ってから体を起こす。

 私が皿を返しに行くと、その人の皿はもう伏せてあった。伏せた皿は縁の数字が見えない。三八〇も四三〇も、伏せれば同じ形になる。


 午後は廊下の当番だった。

 拭くのは床だけで、壁は含まれない。壁の担当は別にいる。

 水を張った桶と、布が二枚渡される。一枚で拭いて、もう一枚で乾かす。順序が逆になると跡が残る。

 水は冷たい。手を入れていると指の先から順に感じなくなる。感じなくなってから、また熱く思える時が来る。


 桶の水は替えていい。替える場所は廊下の端の流しになる。一度替えると、次に替えるまでの間に十歩ぶんくらい進む。

 今日は水が早く濁った。雨の日は靴の裏の土が多い。土は外から来る。外へ出る人はいないのに、土は毎日入ってくる。


 床を拭きながら壁のタイルを見た。

 上から二段目だ。触られている段はそこになる。

 近くで見ると目地の色が違う。触られている段の目地だけ、他より濃い。手の脂だと思う。


 タイルの角を見た。

 どの角も直角に近い。焼いた後で削ったのだと思う。触ると少しざらつく。

 五枚だけ、角が丸い。


 丸い五枚は続いていない。廊下の途中に一枚、その先に二枚、端の近くに二枚ある。

 指で触ると引っ掛からない。ほかのタイルは爪が止まる。この五枚では止まらずに通り抜ける。


 間隔を数えた。一枚目から二枚目までは三十七枚ある。二枚目と三枚目の間は一枚だけだ。三枚目から四枚目までは六十枚あり、四枚目と五枚目は隣り合っている。

 並びに決まりは無い。決まりが無いことを確かめるために、廊下を二度往復した。二度目は数えずに歩く。それでも指は五枚のところで止まった。


 私は五枚の位置を覚えた。

 覚えた後で、床を拭き直した。桶の水はもう濁っている。


 同じ当番の人がもう一人いる。反対側から拭いてきて、途中で合う。

 合ったところで少し話す。壁の話はしない。天気の話をして、それから雨の日は膝が痛いという話になった。この人は膝で天気が分かるらしい。当たるかと聞くと、半分だと言う。

「半分なら、当たってないのと同じですね」

「そうだよ」

 その人は笑った。私も笑った。


 布を替える。一枚目は絞ると水が落ちる。二枚目は乾いたままだ。乾いた布で拭くと、床の色が一段濃くなって、それから元へ戻る。

 濃いままでいる時間は、雨の日のほうが長い。


 二時過ぎに係員が二人来た。

 箱を持っている。段ボールではない。樹脂の箱で、蓋が付いている。

 H-0009の居室の前で止まった。扉を叩いて、開けて、中へ入る。私のところからは中が見えない。


 しばらくして出てきた。箱は置いてきたらしい。手ぶらで出てきた。

 係員の一人が言うのが聞こえた。

「使い方は書いてありますから」


 箱を配ったのはH-0009の部屋だけではないらしい。三つ先の扉の前にも、同じ樹脂の箱が置いてあった。

 こちらは蓋が閉まっている。閉まったまま廊下に出してある。中の人が出したのか、係員が置いたままなのかは分からない。

 夕方までそこにあった。誰も跨がずに、皆が少し外側を回って歩く。


 夕方、H-0009の居室の扉が開いていた。

 通りかかったので中が見えた。箱は寝台の横の床に置いてある。蓋は開いている。


 中身は三つあった。

 木の輪が一つ。手のひらより大きい。表面が磨いてある。持つと重い。木の重さだ。

 布の袋が一つ。中に何か入っていて、握ると形が変わる音がする。乾いた粒の音だ。

 それから札が何枚か。札には数字が書いてある。一から十まであるらしい。


 箱の内側の底に、薄い緩衝の紙が敷いてある。三つの物のあった場所だけ、紙がへこんでいない。

 H-0009は三つとも箱から出していない。出していないのに、輪の場所と袋の場所は分かる。形が違うからだ。


 箱の蓋の裏に紙が貼ってある。

 字が並んでいる。私は読んだ。


「本用具は手指の動作を分散させることを目的とする。輪は片手で回す。袋は握る。札は並べ替える」


 声に出して読んだ。読んでから、勝手に読んだことに気づいた。

 H-0009は寝台に座って、箱を見ていた。手は膝の上にある。私が読んでも顔を上げない。


「読めるのか」

「はい」

「もう一回」

 私はもう一度読んだ。今度は少し遅く読んだ。

 H-0009は最後まで聞いてから、頷いた。


「分散、っていうのはどういうことだ」

「分けるということだと思います」

「何を」

「手の動きをです」

「分けてどうなる」

 私は答えられなかった。紙にはそこまで書いていない。


「書いてないです」

「そうか」

 この人はそれで納得したらしい。納得したというより、そこで聞くのをやめた。


「あんた、俺のを数えたな」

 突然そう言われた。

「歩数です」

「八十九か」

「はい」

「合ってる」

 私は何も聞かない。黙っていると、この人のほうから言った。

「触ってる時は九十一だ」

「二歩ちがいますね」

「そうだ」

 二歩が何処で増えるのかは言わない。私も聞かなかった。


「いるか」

「いえ」

「持ってっていいぞ」

「いえ」

 この人は笑わない。笑わずに、また箱を見る。


 木の輪を持ってみていいかと聞いた。この人は顎で頷いた。

 持ち上げると重い。片手で回すと書いてあったので、指に掛けて回してみる。二回で手首が止まる。輪の重さが手首の外へ出ていく。三回目で落とした。畳ではないので音が大きい。

 拾って箱へ戻す。戻す時に木が箱の縁へ当たる。


 札も見た。一から十まで、十枚ある。数字は片面だけに刷ってある。裏は白い。

 並べ替えると書いてあったので、一から順に床へ並べた。並べ終わってから、順に並べるのは並べ替えたことになるのかどうかが分からなくなった。

 H-0009は見ていない。私は札を集めて箱へ戻した。


 出る前に、蓋を閉めるかどうかを聞いた。

「開けといてくれ」

「はい」

「閉めると、中を思い出さない」

 この人はそう言って、寝台の上で膝を組み替えた。組み替えるのに時間がかかる。片方の膝が上がりきらない。


 私は出た。出る時に紙をもう一度見た。

 紙の下のほうに小さい字で日付が刷ってある。令和二百四年とある。八年前だ。紙の角は茶色くなっている。


 夕方の点呼は普通に終わった。番号は四番目だ。前に立つK-0212は、今日は音を出さなかった。

 出さない日は前にもあった。何日ぶりかは覚えていない。


 用具の箱を持っている人を、この日から廊下でときどき見るようになった。

 持っているだけの人が多い。抱えて歩いて、部屋へ入って、それきり出てこない。中で使っているのかどうかは分からない。

 箱の色は全部同じだ。並べて置いてあるところを見ると、どれが誰のものか分からなくなる。


 消灯の前に廊下へ出た。

 H-0009は歩いていた。端から端まで、いつもの速さで。

 右手は下がっている。壁についていない。


 歩幅は変わらない。端で向きを変える位置も同じだ。触らないだけになる。

 私は数えた。端から端まで、この人の歩数は八十九だった。

 戻りも八十九だった。


 途中で一度、右手が上がりかけた。肘の高さまで来て、そこで止まる。止まってから下りた。

 下りた先で指が二回動いた。壁には触っていない。空を二回押した。


 三往復目で、右手が完全に下りたままになった。

 四往復目も同じだ。指も動かない。ただ歩いている。


 H-0009は五往復して部屋へ入った。入る時に扉の枠へ手をついた。ついた場所は肩より少し下だ。

 枠のその高さだけ、塗りが薄くなっている。今日ついた分は見えない。見えないが、増えたはずだ。


 五往復目の途中で、H-0009は一度だけ壁のほうへ顔を向けた。手は上げない。顔だけ向けて、また前へ戻す。

 向けた先に何かがあるわけではない。上から二段目の、目地の濃いところだ。


 消灯の放送が鳴る前に、係員が廊下へ来た。

 点呼ではない。名簿を持っている。名簿を見て、扉の番号を確かめて歩く。

 私の扉の前で止まった。

 この係員は昼にはいなかった人だ。夜の当番になる。名簿の紙は上の端が反っている。指で押さえながら見ている。


「J-0037」

「はい」

「来月から、E区画も改善の対象に入ります」

「はい」

「用具が配られます。使わなくても構いません」

「はい」


 係員は名簿に何かを書いた。書いてから顔を上げる。

「あの人は、部屋が替わるんですか」

「まだ決まっていません。用具から始めます」

「はい」


 係員は名簿を閉じかけて、途中で止めた。

 それからもう一度開いて、指で一行をたどった。たどってから言う。


「あなたも入ってますよ」


 私は「はい」と答えた。

 係員は次の扉へ歩いていった。


 係員の靴の音が遠くなる。番号を呼ぶ声が二つ先の扉から聞こえた。名前ではなく番号だ。

 番号は廊下でよく通る。壁は白くて硬い。


 廊下の端で、板の人が二人とも帰り支度をしていた。板を重ねて脇に挟む。三日ぶんが一つになる。

 重ねると厚みは指の関節ほどだ。持って歩くところを見ていたが、重そうには見えない。


 居室に戻って、寝台に座る。

 膝の上で左手を見た。人差し指の付け根が赤い。今日の分だ。


 左手を膝の上に戻した。親指を人差し指から小指へ、順に押していく。一巡が四だ。

 今日この人が廊下を往復した数を、私は数えていた。数え終わってからも押していた。押す先が無くなっても、指のほうが先へ行く。

 手を開いた。開いて、また閉じる。朝と同じ動きになる。五回やって、やめた。


 用具はまだ来ていない。来月からだと言われた。来月がいつ始まるのかは、こちらでは決められない。


 毛布を出す前に、扉のところまで行って廊下を見た。

 H-0009はもういない。廊下には誰もいない。床は乾いた。午後に拭いたところから先に乾く。

 拭いた筋は消えている。斜めの二本も消えた。明日の朝には、また別の筋が付く。


 壁の上から二段目に、目地の濃いところが続いている。

 濃いところは、明日にはまた増える。


──────────────────


行動観察記録


観察期間 令和二百十二年五月二十四日から五月二十六日まで(三日)

観察区画 E区画 一階廊下および居室前

観察者 飼育部門 一名

方法 走査法(五分区間・一日十二区間)


三日目の記録


 個体番号 H-0009 観察区間 十二 発現 十一 発現率 九割二分 行動の種別 同一経路の往復・接触 備考 三日平均 九割二分

 個体番号 E-0044 観察区間 十二 発現 二 発現率 一割七分 行動の種別 物品の並べ替え

 個体番号 K-0212 観察区間 十二 発現 四 発現率 三割三分 行動の種別 発声の反復 備考 前回は五割

 個体番号 G-0508 観察区間 三 発現 〇 発現率 〇 備考 九区間は視認できず

 個体番号 J-0037 観察区間 十二 発現 五 発現率 四割二分 行動の種別 計数様の動作(指) 備考 新規

 個体番号 A-0330 観察区間 十一 発現 三 発現率 二割七分 行動の種別 同一経路の往復 備考 一区間は視認できず


所見


一、H-0009について、三日の平均が九割を超えた。判定の線を大きく上回る。改善計画の対象に繰り入れた。用具を五月二十六日に配付した。効果の確認は六月十日を予定する。


二、J-0037について、本観察で計数様の動作を確認した。左手の指を順に押す。三日平均は四割二分であり、判定の線を上回る。


三、E区画全体の平均発現率は三割五分であった。前回(令和二百九年)は二割一分であった。増加の要因は特定していない。


四、観察者の位置について、二日目以降、複数の個体が観察者の方向を注視する場面があった。要領五にいう認識が生じたと見られる。ただし発現率の低下は認められなかった。二日目から三日目にかけて全体の発現率は微増した。


五、観察者は二日目まで一名とした。三日目は交代を挟んで二名が担当した。担当の交代で記入の傾向が変わる点について要領に定めが無い。次回の改正で検討を要する。


六、H-0009の居室について、収容位置の変更を求める意見が担当者から出た。用具の効果を確認するまで保留とする。前回の観察でも同じ意見が出た。その時も保留とした。


備考


本記録の対象は在籍する六名とした。当日の在室が確認できた個体に限る。


本記録は五年間保存すると定めた。改善計画の対象となった個体の記録は、対象を外れた後も継続した。


(記録 飼育部門)

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