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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第一章 展示

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第005話 生息環境展示

国立人類保全園 第七園

環境エンリッチメント実施計画書(第二期)


計画番号 エ〇七

起案 飼育部門

決裁 園長

実施期間 令和二百十二年四月一日から令和二百十二年九月三十日まで


一、目的


本種は道具と居住空間に強く依存する。単純な収容環境では本来の行動の多くが発現しない。発現しない行動は観察に掛からない。観察に掛からない行動は記録に残らない。


本計画では旧来の居住空間を再現した施設を用いる。行動が自ら発現するのを促す目的で整備した。


二、施設


E区画の北側に三室を設けた。いずれも令和二百六年の改修時に整備した。


第一室 住居(居間・台所・寝室・玄関)

第二室 教室(机十二・黒板・教壇)

第三室 店舗(陳列棚・計算台・冷蔵設備)


三室は内部で繋がっている。外部へ通じる扉は職員用の一箇所に限った。


三、実施


原則として週に一回とした。一回あたり二時間とする。実施は開館前の七時から九時までに定めた。


来館者の在館中は実施しない。前期の記録では観覧に供する時間帯の発現率が開館前を大きく下回った。理由は特定していない。


実施の時間帯は第一給餌に掛かる。給餌は室内で行う。摂食も観察の対象に含めた。


四、対象個体


一回あたり五名から八名とする。同一の組み合わせを三回まで続けた。以後は入れ替える。


年齢と就業の別は問わない。ただし体調に変調のある個体は除いた。


五、職員の関与


職員は実施中に室内へ立ち入らない。行動が自ら発現するのを妨げないためである。


観察は第三室の外側に設けた小窓から行う。小窓は室内側を鏡とした。


六、備品


卓袱台 一

座布団 八

掛時計 一(電池を入れていない)

食器類 一式

黒板 一

白墨 一箱

出席簿 一

携帯電話端末 三台(通信機能を停止したもの)

包装済み空箱 三十

陳列用の籠 六


七、期待される行動


調理様の行動と就寝様の行動を期待する。通話様の行動と板書も併せて期待する。複数個体による役割の分担も対象に含めた。


前期において調理様の行動の発現は八割を超えた。通話様の行動は六割であった。板書は二割に満たない。読み書きを習得していない個体が多いためと考えられる。


八、記録


実施ごとに観察記録を作成する。備品は実施の都度に点検簿で確認する。


九、予算


行動エンリッチメント費として計上した。第二期の配分額は前期と同額に据え置いた。


十、実施上の留意


第一室の窓は開放しない。改修時に枠ごと固定した。採光のみを目的とした。


台所の給水は使用し得る状態に保つ。前期において飲用の申し出は無かった。


冷蔵設備には通電しない。開閉の動作そのものを行動として記録の対象に含めたためである。


第三室の計算台は動作しない状態のまま設置した。金銭の授受を伴う行動は本計画の対象から外した。


十一、備考


第一室の玄関では扉の開閉が繰り返し記録されている。前期の記録では一回の実施につき平均で十一回の開閉があった。用途は特定していない。


第二室の教壇について、前期に交換の要望が出た。要望の理由は記録に残していない。交換は行っていない。


(起案 飼育部門/写し 記録管理室)


──────────────────


 朝の点呼で五人が別に呼ばれる。私はその中に入っている。

 番号を呼ばれた順に廊下の端へ寄る。呼ばれなかった人はそのまま食堂へ行く。分けられる時はいつも、分けられた側のほうが人数が少ない。


 列の三番目にE-0044がいる。三八〇の人だ。

 朝からここにいるということは、今日は洗濯の当番ではないらしい。並んでいる間に一度こちらを見て、それだけだ。


 係員が言う。

「北の三室です。七時から九時まで」

「はい」

「入ったら好きにしてください。時間になったら呼びに来ます」


 好きにしてください、というのは展示の日にも聞いた。同じ言葉が別の場所で出ると少し違って聞こえる。あちらは見られる部屋で、こちらは見られない部屋だ。

 見られないと言われたわけではない。ただ通路が付いていない。


 五人のうち、私が一番後ろになる。前の四人の背中を順に見て歩く。

 最年長の女は背が低く、歩幅が小さいのに遅れない。四十くらいの男は肩が片方だけ下がっている。若い人は膝から先が長い。E-0044は右の踵をあまり上げずに歩く。

 四人とも背中の幅が違う。


 北の三室へは居室棟から真っ直ぐ行ける。渡り廊下を使わない。

 途中に段が二つある。段の手前で係員が止まり、五人が追いつくのを待つ。追いついてから、また歩き出す。

 E-0044は段で少し遅れる。上がる時に右手が壁を探す。壁は白くて掴むところがない。それでも手を当てる。


 扉は一枚だ。展示側のような二重ではない。

 開けると匂いが変わる。畳の匂いだ。樹脂で出来ているのに、乾いた草に似た匂いがする。芝と似ているが、こちらのほうが甘い。


 第一室は住居ということになっている。

 入って左が台所で、右が居間だ。居間には卓袱台が一つ置いてある。低い机で、脚が畳めるようになっている。座布団が八枚積んである。

 奥に襖があって、その向こうが寝室だ。襖は開けたままになっている。閉めていいのかどうかは聞いていない。


 壁に掛時計がある。針は十時十五分を指したまま動かない。

 私は最初にそれを見る。動かない時計を見るのは初めてだ。園の時計はどれも動いている。動いていない時計は、見ていても何も起きない。


「座っていいらしいよ」

 最年長の女が座布団を配る。八枚あって五人なので三枚が余る。

 余った三枚を、その人は卓袱台の向こう側に並べる。誰も座らない側に、座る場所だけがある。


 私は座る。畳は硬い。座ると膝の裏に畳の目が当たる。目の向きは部屋の長いほうに揃っている。

 しばらく誰も何も言わない。五人で黙って座っていると、部屋が広く感じる。

 窓がある。すりガラスで、外は見えない。明るさだけが入ってくる。開けようとしたら開かなかった、と若い人が言う。私も引いてみる。動かない。枠と壁が同じ色で塗り潰してある。


「お茶でも入れましょうか」

 台所のほうから声がする。四十くらいの男だ。

 急須を持ち上げて傾ける。中には何も入っていない。それでも湯呑に注ぐ手つきをして、五つ並べる。


「熱いから気をつけて」

「はい」

 私は湯呑を持つ。冷たい。陶器は室温より少し冷たい。

 口に近づけて傾ける。何も来ない。それでも飲み込む形を作る。


「どう」

「おいしいです」

 声が思ったより大きく出た。

 誰も笑わない。皆それぞれの湯呑を持って、同じことをしている。E-0044も持っている。両手で包んで、しばらく置かない。


「ありがとう」

 E-0044が男に言う。男は頭を下げる。下げ方が丁寧すぎて、そこで一人が吹き出す。

 吹き出した人につられて私も笑う。


 七時二十分に食事が来る。

 皿は扉の外から入れられる。五枚。私のは四三〇だ。E-0044のは三八〇。数字は皿の縁に刻んである。

 私たちは卓袱台の周りに座る。五人で一つの机を囲んで食べるのは初めてだ。食堂では一人に一つの席があって、机は長い。


 卓袱台の脚が一本、畳から浮いている。皿を置くと傾く。傾いた側へ中身が寄る。

 匙が四つ当たる音がする。四つと、少し遅れてもう一つ。E-0044は遅い。

 卓袱台は低いので、皿を持ち上げないと口まで届かない。皿を持つと、両手が塞がる。塞がった手のままでは、隣の人に何も渡せない。

 食堂の机は高い。高い机では皿を置いたまま食べられる。

 完全栄養食の匂いは蒸れた甘さだ。食堂で嗅ぐのと同じはずなのに、この部屋では少し違って感じる。畳の匂いが混ざっている。


「こうやって食べるもんなんだろうな」

 男が言う。誰も答えない。

 答えないまま皆が食べ続ける。答えないのは同意とは違う。ただ口が塞がっている。


 E-0044が匙を置いて、私の皿を少し自分のほうへ寄せた。

 自分の分から三口を移す。移す間、その人は誰の顔も見ない。音が出ないように匙の腹を皿に付けて滑らせる。

 済むと皿を戻して、また食べ始めた。私の腹はその分だけ楽になる。


 食べ終わって皿を積む。積むのは五枚だ。積むと縁の数字が重なって、一番上の四三〇だけが見える。

 積んだ皿を扉の外へ出す。出すのは若い人がやった。出してから内側の取っ手を引いて、二度確かめる。


 台所には流しがある。蛇口を捻ると水が出る。ここの水は出る。

 冷蔵庫もある。開けると中は空だ。棚だけがあって、光が点かない。

 男が空の冷蔵庫を覗き込む。しばらく黙ってから閉める。閉めて、また開ける。二度目も空だ。


「玉子がないな」

「玉子って何ですか」

 若い人が聞く。私より下だと思う。

「鳥の子だよ。丸くて、割ると中が黄色い」

「食べるんですか」

「食べる。焼くとうまい」

 その人は空の冷蔵庫を見て、それから男を見る。

「見たことあるんですか」

「ない」

 また笑いが起きる。男も笑っている。笑いの途中でもう一度冷蔵庫を閉める。


 台所の引き出しを開けてみる。四段ある。

 上の二段は空だ。三段目に匙が六本入っている。園のものより柄が長い。持つと重心の位置が違う。

 四段目は開かない。取っ手を引くと途中で止まる。指を掛けて力を入れると、中で何かが引っ掛かる音がする。それ以上は動かない。


 E-0044は湯呑を持ったまま襖の向こうを見ていた。寝室のほうだ。

 私も見た。畳と、押入れの襖と、それだけしかない。何を見ているのかは聞かなかった。

 しばらくして、その人は湯呑を卓袱台に置いた。置く時に底が鳴る。誰も何も入れていない湯呑でも、置けば音はする。


 第二室は教室だ。

 机が十二ある。同じ形で、同じ間隔で並んでいる。全部が同じ方を向いている。向いた先に黒板があって、その手前が一段高い。

 黒板は緑に近い黒だ。表面に細かい傷がある。傷は横方向に多い。


 白墨の箱が教壇に置いてある。開けると粉の匂いがする。

 乾いた匂いだ。次亜塩素酸とは違う。鼻の奥ではなく、鼻の前のほうに残る。


 机の天板にも傷がある。黒板と同じで横方向が多い。ただし一つだけ、縦に深いものがある。

 指でなぞると爪が引っ掛かる。彫ってあるのだ。字だ。

 A-0206、と読める。数字の部分が特に深い。何度も同じところを、なぞり返したのだと思う。


 隣の机にも同じような傷がある。こちらは途中で終わっている。Kの一字と、それから横棒が一本。その先には何もない。

 十二の机を全部見た。五つに字がある。番号は全部違う。同じ番号は一つも無い。

 彫った道具は分からない。白墨では無理だ。匙の柄なら彫れるかも知れない。


 私は自分の番号を彫らなかった。彫るものを持っていない。

 持っていたとして、彫るかどうかは分からない。机は十二あって、空いているのは七つになる。


「先生やって」

 誰かが言う。

 最年長の女が教壇に上がる。上がってから少し笑って、それから真顔になる。


「起立」

 全員が立つ。

「礼」

 全員が頭を下げる。

「着席」

 全員が座る。


 誰も間違えない。

 私はこの三つを習っていない。習っていないのに体が先に動いた。ほかの四人も同じ速さで動いている。

 誰から聞いたのかを、その場では思い出せない。あとで考えても出てこない。


「これ、誰に教わりました」

 私は聞いた。教壇の女は少し考える。

「知らない。前からできた」

「前って」

「前だよ。ここへ来る前じゃなくて、覚えてる前」

 男が横から言う。

「俺は誰かがやってるのを見た。誰かは覚えてない」

 若い人は首を振る。習っていないのに立てる、と言って自分で笑う。

 誰も答えを持っていない。それでも次に「起立」と言われれば、また全員が立つ。


「日直、いますか」

 女が言った。誰も手を挙げない。

「じゃあ、今日は私がやります」

 女は教壇の隅に立って、そこにある何かを持つ手つきをした。持っているものは無い。

 しばらくして、その手を下ろす。下ろしてから、少しだけ首を傾げた。手は何も持たないまま下りた。


「出席を取ります」

 女が出席簿を開く。中は白紙だ。線だけが引いてある。

 女は白紙を見ながら一人ずつの番号を読み上げる。番号は合っている。誰も教えていないのに合っている。


「はい」

「はい」

 返事をする度に、女は白紙に何も書かない。書く手つきだけをする。

 私の番号が呼ばれた時、私も「はい」と言った。言ってから少し待つ。次の番号が呼ばれるまでに一拍ある。


「じゃあ誰か、黒板に何か書いて」

 誰も動かない。

 机の上に指で何か書く人はいる。書いても何も残らないので、書いたかどうかは書いた本人しか知らない。


「書けます」

 白墨を持っている。持ってから、自分が立っているのが分かった。持つと指に粉が付く。細い棒で、片方の端が丸くなっている。前に使った人がいる。


 黒板に線を引く。真っ直ぐは引けない。少し上へ上がる。

 書いたのはJ-0037だ。自分の番号を書いた。字は大きくなりすぎて、黒板の三分の一を使う。


「名前書きなよ」

 若い人が言う。

「それ名前じゃないでしょ」

 私は白墨を持って黒板を見ている。返事はしない。返事の代わりに、その下へもう一つ書く。


 E-0044と書いた。


 部屋が少し静かになる。静かというより、音の量が変わる。

 E-0044が立ち上がって黒板の前まで来る。歩くのが遅い。近づいてから、書いた字の高さに顔を合わせる。


 しばらく見ている。

 それから袖を伸ばして字を消す。腕を横に動かす。一度では消えない。三度動かして、それでも消えきらない。


「ありがとうね」

 その人はそう言って席へ戻る。

 戻る途中で一度立ち止まり、袖の内側を見た。白墨の粉が付いている。指で払うと、粉は落ちずに布へ入っていった。

 それきり、その人の顔は黒板のほうを向かない。教室を出る時も、廊下へ入ってからも同じだった。


 私は黒板の消えたところに指を置く。

 消した跡は、字より少し白い。


 指でなぞると白いところが広がる。なぞるのをやめて手を下ろす。


 白墨を箱へ戻す時に、短くなった一本と、まだ長い一本が並んだ。長さが違うと、置く向きも変わる。短いほうは転がって箱の隅で止まる。


 E-0044が私の横へ来た。座り直す時に膝が鳴る。

「さっきの字ね」

「はい」

「上手だった」

「線が曲がりました」

「曲がってたね」

 その人は笑う。笑うと目のところの皺が深くなる。深いところに影が入る。

「私は書けないの。読むのも半分」

「半分」

「半分。数字は読める。字は形で覚えてる」

「形で読めれば読めます」

「そうかね」

 その人はそう言って、もう一度笑った。それから机に手をついて立ち上がる。立つのに時間がかかる。私は肘のところを支えた。支えると、腕が思ったより細い。


「うまいね、字」

 男が言う。

「六歳で習いました」

「俺は習ってない。読むのは少し出来る」

「教えましょうか」

「いいよ。今から覚えても使わない」

 男はそう言って笑う。笑い方が短い。息を一つ出して終わる笑い方をする。


「使うかも知れませんよ」

 男は何も言わずに教壇の椅子に座った。座ると机が低い。膝が机の裏に当たる。


 教壇の机の上に、丸い穴が一つ開いている。指が入るくらいの穴だ。

 覗いても下は見えない。何かを差し込むための穴だと思う。差し込むものは無い。


 第三室は店舗だ。

 陳列棚が三列ある。棚には箱が並んでいる。箱は全部空だ。持ち上げると軽く、振っても音がしない。

 包装には字と絵が刷ってある。読める字もあるが、意味の分からない語が多い。


 計算台には機械が置いてある。数字の並んだ板が付いていて、押すと下がる。下がるだけで何も出ない。

 若い人が計算台の内側に入る。


「いらっしゃいませ」

「これください」

 男が空の箱を持ってくる。

「はい。えっと」

 若い人は板を見て、それから男を見る。

「いくらですか」

「こっちが聞いてるんですけど」

 二人が同時に黙る。少しして若い人が言う。

「三百です」

「高いな」

「じゃあ二百」

「安くなるんだ」

 二人とも笑う。私も笑う。E-0044は棚のほうを見て、肩だけが少し動いている。


 私は棚の箱を一つ手に取る。裏に小さな字が並んでいる。数字と、それから知らない語だ。

 箱の底に折り目がある。開けた跡だ。開けて、また閉じてある。中は空だった。


 入口のところに籠が積んである。六つある。持つと手に食い込む。

 最年長の女が一つ取って、棚の間を歩き出す。歩きながら箱を入れる。三つ入れて、四つ目で止まる。

 止まってから、入れた三つを元の棚へ戻した。戻す位置は元と同じではない。少しずれる。

「あれ、どこだったかな」

 女はそう言って笑う。私も棚を見るが、どの箱が何処にあったかは覚えていない。

 籠は入口へ戻された。積むと六つになる。


 八時十分ごろ、係員が入ってくる。

 卓袱台の脚のところへ真っ直ぐ来た。皿を出した時に誰も何も言っていない。扉は皿の出し入れの二度しか開いていない。

 脚の付け根を回して、押して、また回す。それだけをして出ていく。何も言わずに出ていったので、こちらも黙っていた。

 入ってきた時から出ていくまで、係員は誰の顔も見ない。見ないで直せる高さに、卓袱台の脚はある。


 直ったあとの卓袱台は傾かない。湯呑を置いても音がしなくなった。


 八時半を過ぎて、若い人が寝室から何かを持ってくる。

 薄い板だ。手のひらより少し大きい。片面が黒くて、押しても何も起きない。

「これ、電話だって」

「電話」

「耳に当てて話すやつ。前に教わった」


 もう一つ、同じものが台所の棚にある。二つを卓袱台の上に並べる。

 E-0044は端末を見ない。二つとも卓袱台の上にあるのに、その人だけが畳のほうを向いている。

 男が一つを取って耳に当てる。


「もしもし」

 誰も答えない。当たり前だ。

「ああ、うん。こっちは元気だよ」

 男は少し黙って、それから頷く。頷いてから、また話し出す。

「そっちは寒くないか」


 私は男の口を見ている。間の置き方が、人と話している時と変わらない。

 男が電話を下ろす。


「はい、次」

 電話が回ってくる。二つあるので二人ずつ回る。

 若い人は笑って喋る。ずっと笑っていて、何を言っているのか分からない。最年長の女は「はい、はい」とだけ言う。三回言って下ろす。


 E-0044は受け取らない。手を振って隣へ回す。

 隣は私だ。


 板は冷たい。薄いのに、握っても温まらない。

 耳に当てる。当てると自分の耳の音が聞こえる。血の音だと思う。


「もしもし」

 言ってから続きが出てこない。

 誰に掛けているのかを、まだ決めていなかった。相手が決まらないと、話す内容も決まらない。皆が待っている。待たれると余計に出てこない。


「誰でもいいんだよ」

 男が言う。

「いない人でいい」


 いない人。

 私はもう一度「もしもし」と言う。それから黙る。黙って、耳に当てたままでいる。

 十を数えるくらいの間そうしている。数えていたわけではない。


「はい、元気です」

 最後にそう言って下ろした。

 誰も何も聞かない。若い人が「長かったね」と言って、それで終わる。


 電話は卓袱台の真ん中に戻される。二つとも黒い面を上にして置いてある。

 置かれたところの畳が少しへこんでいる。前にも同じ場所に置かれたのだと思う。


「何て言ってたの」

 若い人が私に聞いた。

「元気ですって言いました」

「そうじゃなくて、最後の前。ずっと黙ってたでしょ」

 私は答えなかった。答えないでいると、若い人はそれ以上聞かずに電話のほうを見た。

 男が横から言う。

「聞かないの、そういうのは」

「なんでですか」

「なんでかは知らない」

 若い人は分かったとも分からないとも言わずに頷いた。頷いてから、卓袱台の縁を指で叩く。二回叩いて、やめた。


 寝室の畳は、居間の畳より色が薄い。日が当たらない部屋のほうが薄くなるらしい。

 縁のところを指で押すと、居間より柔らかい。踏まれた回数が少ないのだと思う。


 九時が近い。

 最年長の女が掛時計の前に立つ。それから手を伸ばして針を掴む。

 針は回る。長い針を二周させて、短い針を進める。時計は九時十五分から夜になった。


「もう夜だから、寝ましょう」

 女が言う。

 誰も逆らわない。五人で寝室へ行って畳の上に横になる。布団はない。畳だけだ。


 寝室には押入れがある。襖を引くと二段に分かれている。

 上の段は空だ。下の段に薄い布が一枚たたんで置いてある。持ち上げると軽い。広げると人が一人ぶん寝られる大きさになる。

 広げてから、たたみ直した。たたむ順序を覚えていないので、元の形にはならない。角の合わないまま押し込んで襖を閉める。


 横になると天井が見える。天井にも板が張ってある。板の継ぎ目が三本あって、そのうち一本だけが少し曲がっている。

 誰も喋らない。目を閉じている人もいる。

 畳は硬い。硬いのに、背中の下で少しずつ温まる。温まるのは畳のほうではなく、こちらの背中のほうだと思う。


 三分ほど経って若い人が吹き出す。

 こらえていたのだと思う。吹き出したあと慌てて口を押さえる。押さえても止まらない。

 男が笑う。最年長の女も笑う。E-0044は横になったまま肩を揺らしている。

 私も笑った。天井を見て笑った。


 笑いが収まるまでに少しかかる。

 収まってからも誰も起き上がらない。


「呼びに来るまでは、夜でいいことにしよう」

 誰かが言う。誰が言ったのかは天井を見ていたので分からない。


「本当の夜って、暗いらしいですよ」

 若い人が言った。

「暗いよ」と男が言う。「消灯したら暗いだろ」

「そうじゃなくて、外の夜です。もっと暗いって」

「もっとって、どのくらい」

「知りません」

 誰も答えを持っていない。それでも、しばらくその話が続いた。手を顔の前に持ってきて、見えるか見えないかを試す人がいる。私も試した。天井の光の下では、指は何処までも見える。


 係員が呼びに来たのは、それから十分ほどあとだ。

 起き上がって座布団を積み直す。角を揃えて重ねると、来た時より低くなった。

 急須を棚へ戻す時に、中を覗いた。乾いている。長いこと何も入っていない乾き方だ。

 男が横から言った。

「それ、洗わなくていいよ」

「はい」

「何も入れてないんだから」

 そう言って、男は自分で蓋を閉めた。陶器同士の当たる、短くて高い音がした。


 時計の針は女が戻す。戻す時に十時十五分を過ぎて、少し行き過ぎたところで止まった。

「まあ、いいか」

 女はそう言って手を下ろす。十時十五分より少し先で、時計はまた止まったままになる。


 冷蔵庫の扉は閉まっている。最後に閉めたのは男だ。取っ手のところに、手の跡が薄く残っている。


 教室の黒板を私はもう一度見る。

 消した跡はまだ白い。近くで見ると字の形がぼんやり残っている。J-0037のほうは消していないので、そのままある。

 私は自分の番号のほうを手のひらで消した。粉が手首まで来る。J の縦の線だけが残った。


 白墨の箱を閉める。指に粉が残っている。手を擦り合わせると粉は落ちる。

 落ちた粉は教壇の上に溜まる。溜まったところを息で吹くと、飛んで見えなくなった。


 出る前に第一室の玄関を見る。

 土間があって、その先に扉がある。木の扉で取っ手が付いている。

 この扉を誰も開けなかった。二時間の間、誰も触らない。


 取っ手に手を掛ける。冷たい。握っている間だけ冷たくて、離すとすぐに指の温さへ戻る。

 引くと開いた。鍵はかかっていない。蝶番が一度だけ鳴った。


 内側と同じ色の壁が、扉一枚ぶん向こうにある。

 壁までは指を伸ばせば届く。届く距離に壁がある。

 土間に砂が少し撒いてある。上がるところの段は、私の膝より低い。


 扉を閉めた。閉めると、また玄関になる。


──────────────────


備品点検簿


点検日 令和二百十二年五月二十三日

点検者 飼育部門

対象 E区画北側三室


 品目     数量    状態  備考

 卓袱台    一     良   脚の緩みを実施中に調整

 座布団    八     良   五枚に使用の跡

 掛時計    一     良   針の位置が前回と異なる

 食器類    一式    良   湯呑五。洗浄の跡なし

 黒板     一     要清掃 消し残りあり

 白墨     一箱    減   一本が短くなっている

 出席簿    一     良   記入なし

 携帯電話端末 三のうち二 不足  一点所在不明

 包装済み空箱 三十    良   配置の乱れあり

 陳列用の籠  六     良   異状なし


所見


一、卓袱台の脚に緩みを認めた。実施中に調整した。使用に支障はない。


二、携帯電話端末の所在不明は前回点検時から続いた。捜索は行っていない。所在不明の一点は令和二百十二年三月の点検から計上した。補充の要否について指示を仰ぐ。


三、黒板の消し残りを認めた。次回実施までに清掃する。前期にも同様の記載が三回あった。いずれも板書の後に生じている。


四、玄関扉の開閉は本日一回であった。前期の平均を大きく下回っている。


五、第二室の机の天板に、彫刻の跡を五点認めた。うち四点は判読が可能で、いずれも個体番号の形をとる。残る一点は途中で終わっている。机は施設の付帯設備であり備品に計上していない。したがって本簿の対象外とした。


六、前項について、天板の交換の要否は施設担当の所管となる。本簿からの申し送りは行わない。


七、本日の実施は五名で行った。定数の下限にあたる。第二期に入ってから、五名での実施は三回目である。


備考


本簿は月次で飼育部門に保管した。行動観察記録は別紙とした。


点検は実施の都度に行った。前回は五月十六日である。次回は五月三十日を予定する。


(点検 飼育部門)

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