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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第一章 展示

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第004話 ガラスの向こう

国立人類保全園 第七園

展示解説板 E区画 第三号


  ヒト


分類 哺乳綱 サル目 ヒト科 ヒト属

生息域 かつて全大陸。現在は保全施設のみ

体長 成体で一四〇から一八〇センチメートル

体重 成体で四〇から八〇キログラム

寿命 施設内で七〇年から九〇年


からだ


前あしを歩行に使いません。二本のあしで立ち、前あしは物をつかむことに使います。指は五本。そのうち一本が他の指と向かい合っている形です。この形のおかげで、細かいものをつまむことができました。


からだの毛は頭のほかにほとんどありません。汗をかいて体温を下げる仕組みです。長い距離を走り続けることに向いた体でした。


くらし


群れを作りました。群れの大きさは十から百ほどでした。当園でも複数の個体をまとめて飼育しています。声で知らせ合い、道具を使い、火を扱いました。


食べ物は植物も動物も食べる雑食です。当園では完全栄養食を一日三回与えています。


こそだて


一度に一頭を産みます。子が自分で歩けるようになるまで一年ほどかかりました。親以外の個体も子育てに関わったと記録されています。


みなさんへのおねがい


・大きな声を出さないでください。ガラス越しの音は個体に届きます。

・ガラスをたたかないでください。

・本種は正面から視線を合わせることを好みません。個体がこちらを見ないのは、自然な行動です。

・食べ物を見せないでください。

・観覧はひと区画あたり十分をめやすにしてください。うしろの方がお待ちになることがあります。


このへや


E区画第三号は、ふだんの居室に近い作りにしてあります。寝台と机のほかに物を置いていないのは、置き場所を個体が自分で決められるようにするためです。


中にいる個体は日によって替わります。同じ個体が続けて入ることはありません。個体が見あたらない場合は、寝ているか、通路から見えない位置にいます。しばらくお待ちください。


よくあるしつもん


「頭」と数えるのには理由がありますか。

保全の対象となる動物は、種類にかかわらず頭で数えます。当園でも同じように数えています。


名前はありますか。

個体には番号があります。名前についてのお問い合わせは総合案内へお願いします。


ほごのじょうきょう


種の保存法 第四種指定

野に放つことを禁じられた種です。世界のすべての保全施設をあわせて、およそ三千頭が飼育されています。


この解説板は令和二百九年に作り直しました。前の板は専門の用語が多いという声を受けたものです。項目の順序も入れ替えました。以前は「ほごのじょうきょう」を最初に置いていました。


前の板には「野生下での記録」という項目がありました。この項目は残していません。記録そのものが少なく、書けることが限られていたためです。


(掲示 E区画観覧通路/掲示更新 広報課)


──────────────────


 合成芝の匂いがする。雨が降ったからだ。

 昨日の夜に降って、朝には止んでいる。止んでも匂いは残る。芝は樹脂で出来ているのに、濡れると土に似た匂いを出す。土の匂いは園芸の当番で知った。


 朝の点呼で番号を呼ばれた。番号のあとに区画の名がつく日は、居室棟を出る日だ。

 E区画。ふれあいではない。展示だ。

 ふれあいの日は手を膝に置いて動かさない。展示の日にその決まりは無い。決まりが無いほうが、朝のうちは落ち着かなかった。


 展示は今年に入って三度目だ。一度目は一月で、二度目は三月だった。呼ばれる間隔に決まりは無いらしい。

 同じ区画に六年いる人でも、一度も呼ばれない人がいる。呼ばれる人と呼ばれない人が何処で分かれるのかを、私は聞いたことがない。


 七時の給餌。皿は四三〇。

 食べているうちに指の先が冷えているのに気づいた。雨の翌朝はいつもそうだ。皿の縁を握って温める。皿のほうが先に冷める。


 移動には係員が二人つく。前と後ろに一人ずつ歩く。

 居室棟からE区画の展示側までは、屋根のある渡り廊下を通る。途中で外に出る短い区間があって、そこだけ雨の残りが床に溜まっている。溜まりを踏むと靴の裏が鳴る。

 前の係員が振り返らずに言う。

「そこ、滑ります」

「はい」

 滑らなかった。滑らなかったことは誰も見ていない。


 渡り廊下の右側に、低い柵で囲った四角い区画がある。土が入っていて、何も植わっていない。雨で土が黒くなっている。

 前にここへ何かを植えると聞いた気がするが、いつ聞いたのかも、誰が言ったのかも思い出せない。土は掘り返した形のまま乾いて、また濡れて、そのままになっている。

 後ろの係員が私の歩みに合わせて速さを変える。私が遅れると遅くなり、私が速くなると速くなる。抜かされたことは一度もない。


 展示側の扉は二重になっている。一枚目を開けて、閉めてから二枚目を開ける。二枚が同時に開くことはない。

 二枚の間は一畳ほどの広さで、天井で換気の音がしている。ここで待つ時間が毎回少しある。何を待っているのかは知らない。

 次亜塩素酸の匂いが濃い。床が濡れている。掃除の直後らしい。匂いは鼻の奥に残って、しばらく他の匂いを消す。合成芝の匂いも消えた。

 係員が壁の箱に札のようなものを当てた。短い音がする。入る時と出る時に一度ずつ鳴るらしい。私は何も当てない。当てるものを持っていない。


 部屋は居室より広い。寝台が二つあって、机が一つある。机の上には何も置いていない。

 今日は一人だ。使わないほうの寝台にも布が敷いてある。皺が無い。

 窓は無い。窓の代わりにガラスがある。壁の一面が全部ガラスで、その向こうが通路になる。

 厚さは指の関節ほどある。触ると冷たい。手を離しても、しばらく冷たさが指に残る。


 係員が入口のところで紙を読み上げる。展示の日には毎回これがある。

「一、通路から見える範囲にいること。二、来館者に向けて声を出さないこと。三、ガラスに継続して触れないこと。四、体調に変化があれば呼び鈴を押すこと」

 呼び鈴は扉の横にある。赤い。押したことはない。

「六時間です。十時から四時まで。昼に食事を入れます」

「はい」

「することは決まっていません。座っていても、歩いていても、寝ていてもいいです」

「はい」

 寝ていてもいいと言われて、本当に寝る人がいるのかは知らない。


 係員が出ていく。扉の閉まる音は二回する。一枚目と二枚目だ。二回目のほうが低い。


 部屋に時計は無い。通路側の壁に一つあるが、私からは文字盤の裏しか見えない。丸い板の縁だけが見える。

 時刻は靴音と照明で分かる。開場、閉場。その間は当てているだけだ。入る前に係員が九時四十五分と言ったので、そこから数えている。


 九時五十分。まだ誰も来ない。

 ガラスの下の縁に、細い線が入っている。傷ではなく、汚れが溜まった線だ。拭いても縁の内側までは布が届かない。

 膝をついて覗く。線の中に埃と、それから何か白い粉のようなものがある。指でなぞった。指の腹には何も付かない。爪を立てても取れない。

 立ち上がると膝に床の目が付いている。押された形がしばらく残って、それから消える。


 ガラスは一枚ではない。三枚を横に並べてある。継ぎ目が二本、床から天井まで通っている。

 継ぎ目には透明な樹脂が詰めてある。指で押すと少しへこむ。ガラスの部分は押してもへこまない。

 継ぎ目の前に立つと、向こうの通路が二重に見える。半歩ずれると直る。二重に見える幅は、私の靴の幅より狭い。

 継ぎ目のところだけ、外の音が少し違って届く。低い音がよく通る。理由は分からない。


 十時。

 通路の照明が明るくなった。天井の列が二段階で点く。一段目より二段目のほうが白い。

 最初の靴音が来る。速い。通路の端から端まで一直線に歩いて、こちらを見ずに行った。開場すぐの人は急いでいることが多い。何かを先に見に行くのだと思う。


 二人目は止まった。

 中年の女の人で、通路の真ん中に立ってこちらを見ている。私は寝台に腰かけたままでいる。動くと目立つし、動かないのも目立つ。どちらでも同じなら、動かないほうが楽だ。

 女の人は口を動かした。ガラスの向こうで声が出ている。


「──ほんとに、いる」


 声は水の中から来るように聞こえる。

 「ほんとに」の「ほ」は届かない。届いたのは「んとに」から先だ。足りないところは口の動きで埋める。


 連れの人が来て、二人で何か話した。二人の声は混ざる。混ざると、どちらの口が動いているのか分からなくなる。

 二人は三十秒ほどで行った。行く前に、片方がガラスに手を当てた。手のひら全部だ。当てて、離した。

 跡が残る。五本の指と、手のひらの形。


 跡は消えない。

 通路側は毎朝拭くと聞いた。拭いても、その日のうちにまた付く。今の跡の周りには、前からの跡がいくつも重なっている。

 私はガラスの内側から、同じ場所に手を当ててみる。厚みの分だけ、私の手と外の手はずれる。指を動かして重ねようとすると、どちらかがはみ出す。

 手を離す。内側にも跡が付いた。


 内側を拭く布は、この部屋にない。

 袖で拭いてみた。脂は伸びるだけで取れない。伸びたところは光の当たり方が変わって、かえって目につく。私は手を下ろした。


 十一時を過ぎると人が増えた。

 三人。五人。一度に七人来た時は、通路が詰まって足が止まる。止まった人はこちらを見る。見る時間は、通り過ぎる人の三倍ほどになる。

 七人のうち一番後ろの人は、前の人の肩越しに見ていた。背が届かないので爪先で立つ。爪先で立っている間だけ、その人の顔が見える。降りると見えなくなる。

 立ち止まる人と、通り過ぎる人がいる。止まる人のほうが少ない。私は止まる人のほうがいい。


 止まった人の数を、頭の中で数える。指は動かさない。動かすと通路から見える。

 左の親指を、人差し指から小指まで順に押していく。小指まで行ったら四だ。四が二度で八になる。

 十時から十一時までで十四人。人差し指の付け根が四つぶん赤い。


 通路には人数を数える機械があると聞いた。入口の上のあたりだ。ここからは見えない。


 声はいくつか届いた。


「大きいね」

「そう? もっと小さいかと」

「板に書いてあるよ」


 板は通路側にある。私からは背中しか見えない。何が書いてあるかは知らないが、来館者はよく板を読んでから、また私を見る。

 読んでから見る人の目は、読む前と少し違う。何が違うのかは言えない。長さが変わる、という感じが近い。


 板の前で足を止めて、最後まで読む人は少ない。多くは上のほうだけ見て、それから顔を上げる。上のほうに何が書いてあるのかも知らない。

 一度だけ、板を声に出して読んでいる人がいた。子どもに読ませているらしい。子どもの声は高いので、こちらには届かない。読み終わる度に大人が繰り返す。繰り返した分だけ低くなって、切れ切れに届く。


「こそ、だて」

「じゅうから、ひゃく」


 その二つだけ聞こえた。あとは聞こえない。

 二人は途中で行った。最後まで読んだのかどうかは分からない。

 板は私の前にある。前にあって、見えるのは背中だけだ。


 十一時半ごろ、老人が一人で来て、通路の壁に背をつけて立った。

 こちらを見ない。斜め下を見ている。杖を持っていて、その先で床を二度叩いた。それから動かない。

 十分ほどそうしていた。親指が小指の上で止まっている。押すかどうかを決めかねて、押さずにいる。爪はまだ食い込んでいない。

 行きかけて、老人はまた戻ってきた。同じ場所に立つ。私は親指を人差し指へ戻した。


 老人は最後に一度だけ顔を上げた。目が合ったのかどうかは分からない。距離があると、見ているのか見ていないのかの境目が消える。

 顔を上げたまま口を動かさずに行った。杖の音は通路の先まで聞こえた。だんだん間が広くなる。


 正午の少し前に、若い男が二人で来た。片方が指の背でガラスを叩いた。二回。

 音は思ったより小さい。厚みのせいだ。叩いた本人は音がしたと思っている顔をしている。

 すぐに通路の端から係員が来た。通路側にも係員がいる。私からは腰から下しか見えない位置に立っている。

 係員が何か言った。男は手を上げて、それから下げた。二人は行った。

 係員はしばらく残って、叩かれたあたりを布で拭いた。上から下へ三回。拭いた跡は縦に三本残る。今日の跡が全部消えたわけではない。指の跡は拭かれた分だけ薄くなって、薄いまま残った。


 通路の壁際に、腰かけの台が一つある。低い台で、背もたれは無い。

 昼に近づくと、そこに座って何かを食べる人が出てくる。台は板の反対側にあるので、座った人は板に背を向けることになる。

 私からは食べているのが見える。何を食べているのかまでは見えない。包みの色だけ分かる。二人が並んで座って、片方が包みを半分に割って渡した。渡された側は受け取って、それから包みを開かずに膝に置いた。


 正午の鐘は聞こえない。この部屋には鐘が届かない。届かないので、昼は皿が来た時に始まる。


 昼に係員が来た。扉は通路と反対側にある。

 皿を持ってきて、机に置いた。四三〇。展示の当番の日も、量は同じだ。

「そこで食べてください」

「ここでですか」

「ええ。見えるところで」

「はい」


 机は通路に向いていない。横を向いている。横を向いて食べると、口の動きが通路から見える。正面を向けば見えにくい。机を回してよいとは言われていない。

 回さなかった。


 食べるところを見られる。手が止まりそうになったが、止めるとかえって長くなる。速く食べた。

 三人ほどが立ち止まった。一人が携帯を出して、こちらへ向けた。光らない。撮影は許されていて、光るものは使えない。

 匙を口に運ぶ間、私は板のあるあたりを見ていた。板は見えない。見えないほうを見ていれば、目は合わない。


 空になった皿の縁を指でなぞる。机の縁もなぞる。机には継ぎ目があって、そこだけ少し高い。

 皿を下げに来るまで十五分ほどある。その間、皿は机に置いたままにする。空の皿を前にして座っている時間は、食べている時間より長く感じた。

 係員が来て皿を持ち上げた。持ち上げる前に少し傾けて、中を見る。残っていないことを見ている。

「はい、結構です」

 結構です、と言われた。何が結構なのかは言われない。皿は扉の向こうへ出ていって、扉は二回閉まった。


 午後の初めに脚が痺れた。腿の外側から来て、膝の裏で止まる。

 立って足踏みをすれば抜ける。足踏みは通路から見える。見えてもいいと言われてはいる。

 寝台の上で膝を立て、踵を布に押し付けた。押し付けると速く抜ける。抜けるまでの間、通路には誰もいなかった。


 厠は部屋の中にはない。扉の外だ。

 行きたくなった時に呼び鈴を押してよいのかは聞いていない。呼び鈴は体調の変化のためのものだと言われた。

 朝から水は控えている。舌の裏が乾いて、飲み込む回数が増えた。


 昼を過ぎて、指を最初へ戻した。午前は十四と二十六。二つを並べたまま置いておく。

 足すのは全部終わってからにする。


 一時を過ぎて、天井から放送が流れた。

 言葉は分からない。壁と天井に当たって、母音だけになって届く。長さからすると三つか四つの文だ。最後だけ調子が上がる。

 通路の人が一斉に同じ方を向いた。向いた先には何も無い。放送が終わると、みんな元の向きに戻った。

 部屋の中には放送が入らない。入らないのか、聞こえないだけなのかは分からない。


 背中をガラスに向けている時間が長いと、そこだけ熱を持つ。手を当てると他と同じ温さだ。

 向きを変えると背中が軽くなる。軽くなってから、また元に戻す。


 午後は雨がまた降り出した。

 通路の人が減る。減ると、一人あたりが長くなる。通り過ぎる人がいないので、来た人は最後まで見ていく。

 二時ごろ、男の子が一人で来た。八歳か九歳くらい。連れは通路の先にいて、こちらを見ていない。

 男の子はガラスに顔を近づけた。近すぎて、鼻の先が潰れている。息でガラスが曇る。曇ったところに指で何か書いた。


 こちら側からは、字が裏返って見える。読めない。

 男の子は書いてから、私を見た。読めたかどうかを確かめる顔だ。

 私は首を横に振る。動いた、と気づいたのは振った後になる。


 男の子が口を開けて笑う。声は届かない。笑っているのは分かる。

 もう一度書く。今度は大きく、ゆっくり書いている。それでも裏返しは裏返しだ。読めない。

 私はまた首を振る。男の子はもっと笑った。ガラスを手のひらで叩きそうになって、途中でやめた。叩いてはいけないと知っているらしい。


 三度目は自分の側から見て裏返しになるように書こうとした。指が途中で止まる。どちらへ曲げれば裏返しになるのかが分からないらしい。宙で二回、往復した。

 結局そのまま書いた。同じ字だ。読めない。

 私は笑った。声は出さない。出しても届かない。


 連れの人が来て、男の子の腕を引いた。何か言っている。腕を引かれても男の子はこちらを向いていた。向いたまま口を大きく動かす。三音か四音だ。読めない。

 二人が行ったあと、曇りの跡だけが残った。字の形が水の筋になって下へ流れていく。流れきると何も残らない。


 ガラスに顔を寄せると、脂の匂いがする。人の手の脂だ。外側に付いているはずなのに、こちら側まで匂う。厚みの分だけ隔たっているのだから匂わないはずだと思うが、匂う。私の手の脂かも知れない。


 私も息を吹きかけてみた。

 こちら側が曇る。曇りは小さい。息の届く範囲しかない。

 指で数字を書いた。午前の後ろの一時間ぶんだ。二十六と書くと、曇りの端まで届いた。

 書いてから、この字はこちら側から読めるのだと気づいた。通路側から見れば裏返しになる。

 通路には誰もいない。

 曇りは端から消えていく。横の線が先に消えて、縦の線が残った。残った線も、見ているうちに細くなって消えた。

 息では跡が残らない。手なら残る。


 三時。雨が強くなった。

 通路には誰もいない。誰もいない時のガラスは、向こう側が暗く見える。照明はついているのに暗い。人がいないと明るさが変わるのだと思う。

 私は立って、ガラスの前まで歩いた。四歩ある。近づくと自分の顔が映る。映るのは私だけで、通路は見えなくなる。


 顔を見た。左の耳の上に手をやる。髪をどけると、細い筋がある。

 これを見るのは初めてだ。触って知っていた形と、映って見える形が違う。指では真っ直ぐだと思っていた。映ったものは端が下へ曲がっている。

 もう一度触った。触ると真っ直ぐに戻る。髪を戻した。


 映った顔の向こうに、通路の照明がぼんやりと重なっている。顔と照明が同じ場所にある。どちらかを見ようとすると、どちらかが薄くなる。

 半歩ずれて継ぎ目の前に立った。顔が二つになる。二つは少しずれていて、ずれた分だけ片方の目が広い。

 もう半歩ずれると一つに戻った。


 三時四十分、また人が来た。

 女の人が二人。片方が私を見て、それから連れの腕を叩いた。

 二人ともこちらを見ている。私はガラスの前に立ったままだった。座るのが遅れた。


「見て」

「え、なに」

「こっち見てる」


 こっち見てる、と聞こえた。今度はよく聞こえた。近いからだ。

 私は目を動かさなかった。動かせばよかったのかも知れない。

 二人はしばらくいて、それから行った。行く時に、片方がもう一度振り返った。

 振り返った人の分を、私は親指で押した。


 三時五十分ごろ、通路の照明が一段落ちた。二段目が消えて、一段目だけになる。

 白いほうが消えたので、通路の色が少し黄色くなった。閉場の合図らしい。人はもういない。

 黄色い光の中では、ガラスの跡がよく見える。手の形が斜めに並んでいる。高いところの跡は大人で、低いところの跡は子どもだ。低いほうが数が多い。

 一番低い跡は、床から三十センチほどのところにある。私の膝より下だ。どうやって付けたのかは分からない。


 四時。交代の時刻になる。

 係員が扉を開けて、「終わりです」と言う。私は寝台から立つ。

「今日は雨で少なかったですね」

「はい」

「明日は晴れるらしいですよ」

「はい」

 係員は部屋の中を見回した。机の上、寝台の上、床。何も置いていないので、見回すのはすぐ終わる。

 使わなかったほうの寝台に、布の皺が寄っている。朝はなかった。いつ寄ったのかは分からない。係員はそこも見て、何も言わなかった。


 出る前に呼び鈴を見た。赤いままだ。押していないのだから赤いままに決まっている。それでも見た。

 喉が渇いている。居室に戻るまでは水場が無い。朝から控えていた分を、これから飲むことになる。


 通路を通って戻る。展示側の扉ではなく、裏の通路だ。

 裏の通路は狭い。壁の色は同じ白だが、こちらは塗り直しの跡がある。段になっているところがあって、そこだけ影が濃い。

 扉が等間隔に並んでいる。どの扉にも番号の札が付いている。一号、二号、三号。私が出てきたのは三号だ。四号から先は札だけあって、扉の枠が板で塞がれている。塞いだ板は壁と同じ色に塗ってあるが、塗りが新しいので少し白い。

 係員は四号の前で立ち止まらない。私も立ち止まらなかった。

 四号の板は縦に三枚張ってある。継ぎ目に細い隙がある。隙に耳を寄せると、向こう側の音が少し違って聞こえた。

 五号にも六号にも同じ板が張ってある。塗りの新しさはどれも同じで、同じ日に塞いだのだと分かる。札だけが古い。札の縁が反って、留めの穴が一つ欠けている。


 二号の扉の前を通る時、中で水の音がした。誰かが手を洗っているような音だ。展示の当番は今日は私だけだと聞いた気がするが、聞き違いかも知れない。扉には窓が無い。

 係員は歩く速さを変えなかった。


 通路の先で、床を拭いている人がいた。膝をついて、扉の下の隙間のところを拭いている。

 私が通るので、その人は布を持ったまま脇へ寄った。寄る時に膝が鳴った。

「すみません」

「いいよ」

 それだけだ。通り過ぎる。拭いていたのは扉の下だけで、ほかの床は乾いていた。

 この人の顔は知っている。番号は知らない。三号の裏を拭く当番があることも、今日まで知らなかった。


 裏の通路は途中で一度折れる。折れた先は少し登りで、床の目地が斜めに入る。斜めの目地を踏むと、靴の裏の当たり方が変わる。

 登りきったところの壁に、消火の器具を掛ける金具が二つ出ている。掛かっているものは無い。金具の先だけ塗りが剥げて、下の色が出ている。

 歩きながら手を握って開いた。ガラスの冷たさはもう抜けている。

 手の甲を鼻に近づけると、まだ脂の匂いがする。匂いは薄い。薄いのに、ガラスに寄せた時と同じ匂いだと分かる。


 居室に戻って、寝台に横になった。天井は居室のほうが低い。低いほうが落ち着く。

 左の親指の付け根が赤い。押した回数の分だけ赤い。

 午前の十四と二十六に、午後の分を足した。四十七になった。

 もう一度足すと四十五になる。どちらが正しいのかを決める方法が無い。

 三度目は数えなかった。


 枕の横に手を入れて、そこにあるものを二枚とも触った。角の欠けているほうが下だ。順番は先週から変えていない。


 夕方の点呼のあと、係員に聞いた。

「あの」

「はい」

「あのガラスの向こうは、外ですか」


 係員は手元の紙を見た。紙には何も関係のないことが書いてあるはずだ。それから顔を上げて、少し考えた。

 考えている間に、後ろの列が一人ぶん詰まった。


「あそこは、まだ園の中です」


 私は「はい」と答えた。係員は次の番号を呼んだ。


──────────────────


苦情受付票


受付日 令和二百十二年五月十九日

受付時刻 十一時三十五分

受付 総合案内

区分 展示に関するもの


申出者 来館者(女性・二名連れの一名)

申出の方法 口頭


内容


E区画第三号の個体について。観覧中、当該個体が通路側を注視していた。目が合った状態が続き、落ち着いて観覧できなかった。解説板には視線を合わせることを好まないと書かれているが、実際は異なるのではないか。板の記述と個体の行動が違うのであれば、どちらかを直してほしい。


対応


受付者が謝意を述べ、個体の行動には個体差がある旨を説明した。申出者は了解し、その場を辞した。所要は約四分であった。


処理


一、E区画担当へ連絡した。該当個体へ指導したとの回答を得た。指導の内容は記載を要しない。


二、解説板の記述について、広報課へ照会した。記述は令和二百九年の改定時に、当時の観察記録に基づいて作成した。改定にあたっては来館者に試読を求め、読了までの所要を計測している。「くらし」の項目は平均五二秒を要し、改定後は三四秒に短縮した。記述の内容そのものについては、改定以降の見直しを行っていない。


三、同種の申出は本年度で三件目となる。前の二件はいずれも別個体に関するものであった。三件とも「見返してくる」旨の内容である。前の二件の受付時刻はいずれも午後であった。


四、本票の写しをE区画の当番表に添付した。当番表は月末に更新するため、次回の更新をもって写しは差し替えとなる。


備考


本票は月次で広報課および飼育部門へ回付する。


本年度の展示に関する申出は四件である。うち三件が本区分にあたる。残る一件は通路の混雑に関するものであった。


なお、当日の来園者数は四百十二名であった。雨天のため平年の半数に満たない。滞留時間は平年より長い傾向が見られた。滞留の長い日に本区分の申出が増える傾向について、統計上の関連を検討中である。


(受付 総合案内 佐久間)

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