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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第一章 展示

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第003話 個体記録票 J-0037

国立人類保全園 第七園

個体記録票(様式第二号)


管理番号 J-0037

発行 令和二百八年四月一日

最終更新 令和二百十二年五月三日


一、基本事項


出生区分 園内出生

生年月日 令和百九十六年 月日不詳

性別 雌

現収容区画 E

担当獣医師 香月


二、由来


母個体  ―

父個体  ―

系統   

収容経緯 該当なし


三、身体


初回計測時体重 二・八キログラム

最終計測時体重 五二・四キログラム(令和二百十二年四月二十七日)

既往 左耳上部に縫合痕。発生時期不詳

特記 なし


四、就業


配属 ふれあい部門(令和二百七年より)

兼務 洗濯・園芸

就業評価 良


五、適性


展示適性 本年度審査予定

繁殖適性 未判定


六、備考


本票は年一回、五月に更新する。更新は担当係員が個体の面前で行い、記載事項の確認を求める。確認は口頭による。個体の署名は要しない。


名称については広報課の管理とし、本票には記載しない。名称に関する権利の帰属は別に定める。


第二欄「系統」について、本個体は記載を欠く。記載を欠く場合の取り扱いは、記録管理室の内規による。内規は令和二百年に改定された。改定前の運用について、記録は残っていない。


七、更新の履歴


令和二百八年 新様式へ移記した。旧様式の原本は規定により廃棄した。

令和二百九年 体重の更新のみ。他欄の異動は無い。

令和二百十年 体重の更新のみ。

令和二百十一年 体重を更新した。就業評価を可から良へ改めた。

令和二百十二年 体重の更新のみ。


第二欄については、いずれの年も追記を行わなかった。追記の要否を照会した記録も無い。


八、確認の記録


確認は令和二百八年から二百十年まで、いずれも口頭で得た。二百十一年は書面処理とし、個体への確認を行っていない。本年は口頭で得た。


書面処理は、当該年度に係員の欠員が生じたことによる。欠員の期間は四十一日であった。同期間の確認は全区画で省略した。省略について、上位への報告は行わなかった。報告を要する旨の定めが無かったためである。


九、写しの取り扱い


本票の写しは飼育部門が保持する。写しは年一回の更新時に差し替えた。差し替えた旧写しは当該年度末に廃棄した。


令和二百八年の移記に際し、写しの作成が一部の区画で遅れた。E区画の写しが揃ったのは同年九月であった。遅延の理由は記録に残していない。


十、本票の保管


本票は記録管理室が箱で保管する。箱は区画ごとに分け、番号順に立てて収めた。


令和二百五年までは綴じ具で留めていた。留め具の使用は同年に取りやめた。抜き差しの際に用紙が傷むためである。取りやめた後、すでに開いた孔は塞いでいない。


十一、記入の要領


記入は黒の油性筆記具による。記載を欠く欄は空欄のまま残すこととした。該当の無い欄には横線を引く。両者を取り違えないこと。


訂正は二重線とし、余白に訂正者の印を押す。訂正前の記載を判読し得ない状態にすることは認めていない。


用紙の折り曲げを禁じた。折り目のある票は差し替えの対象とする。差し替えを行った例は、当区画では無い。


(保管 記録管理室/写し 飼育部門)


──────────────────


 廊下を来る音がする。台車ではない。靴だけだ。

 二人分の靴が並んで来て、三つ手前の部屋の前で止まった。扉は開かない。廊下で話しているのが聞こえるが、言葉までは分からない。

 私は寝台の縁に座って待つ。待つように言われている。膝の上で手を組んで、指を組み替える。組み替えると、その分だけ時間が減る。


 朝から水を飲みすぎた。待つ日は水を飲む。飲むと時刻が区切れる。

 下腹が寝台の縁に当たる。当たる位置を少しずらすと、しばらくは楽になる。


 五月三日は晴れている。窓は高い位置にあるので、空しか見えない。

 朝の給餌は普通どおりだった。今日は当番が無い。当番の無い日は、時間の減り方が遅い。

 部屋には物が少ない。寝台と、マットと、棚が一つ。棚に置いてあるのは毛布の予備だけだ。


 違うのは手だ。広場では手を膝に置いて動かさない。ここでは動かしてよい。動かしてよいと分かっていても、何をしていいのかが分からない。


 窓の桟に埃が溜まっている。指で押すと筋が残る。残った筋は、次に誰かが拭くまで消えない。

 拭くのは月に一度だ。誰が拭いているのかは見たことがない。私が広場にいる時刻にやっているのだと思う。


 膝の裏が痛くなってきた。寝台の縁は硬い。座面との境目に骨が当たる。

 少し前へ出て座り直すと、今度は足の裏が床に着かない。着かないでいると、しばらくして足首が重くなる。

 両方を交互にやる。交互にやっている間は、待っているという感じが薄い。


 票の日は年に一度だ。去年も同じように座っていた。扉は開かなかった。


 隣の部屋の扉が開いた。

 声が聞こえる。「確認します」と言っている。それから、紙をめくる音がした。二度で終わった。

 二度でよいらしい。私は自分の番になったら何度めくられるのかを考える。考えても分からないので、指を組み替えた。


 部屋の前で靴が止まる。二人分だ。片方は爪先を先に下ろす歩き方をする。

 紙の擦れる音がして、それから扉に手が掛かる。かかってから開くまでに、一拍ある。中に人がいる部屋は、そこで一度止まる決まりらしい。


 待っている間に一度だけ、廊下を別の靴が通った。速い。止まらずに行ってしまう。

 確認の二人ではない。この時刻に廊下を急ぐ人がいるのは珍しい。何があったのかは、こちらには来ない。


 廊下の音が近づく間、私は指を止めていた。組み替えるのをやめると、時間の減り方が分からなくなる。

 分からないまま二十ほど数えた。数え終わる前に音が止まった。


 扉が開く。

 係員が二人。前の人は紙ばさみを持ち、後ろの人は箱を抱えている。箱には紙が立てて並んでいる。番号の順だと思う。

 前の人は午後の当番でよく見る顔だ。後ろの人は知らない。記録管理室の人だと、前の人が言った。


「J-0037。記録票の更新です」

「はい」

「確認だけしますので、そのまま座っていてください」

「はい」


 後ろの人が箱から一枚を抜いた。抜く時に、隣の紙が擦れる音がする。乾いた音だ。

 紙は私が思っていたより厚い。二つ折りではなく、一枚のままだ。表に線が引いてあって、線の間に字が並んでいる。

 私の番号が一番上にある。J-0037。刷ってあるのではなく、書いてある。ペンの跡が少し盛り上がっている。


 箱の中の紙は、上に行くほど白い。下のほうは少し灰色がかっている。触られた回数の差だと思う。

 私の紙は真ん中より少し上にあった。上でも下でもない位置だ。


 前の人が寝台の脇に立ち、後ろの人は扉の近くに残った。二人の距離は変わらない。

 部屋が狭いので、三人が入ると壁までが近い。近いと声が大きく聞こえる。実際の声は普通の大きさだ。


「読み上げますので、違うところがあれば言ってください」

「はい」

「出生区分、園内出生。生年月日、令和百九十六年、月日不詳」

「はい」

「性別、雌。現収容区画、E」

「はい」

「担当獣医師、香月」

「はい」


 係員は速い。区切りが同じ長さで来る。息継ぎの位置も毎回同じで、四つ読むごとに一度切る。

 この読み方は覚えられそうだと思った。覚えても使う場面はない。


 聞いている間、私は息を浅くしていた。深く吸うと肩が動く。肩が動くと、読み上げが止まりそうな気がする。

 実際には止まらない。止まらないと分かってからも、息は浅いままだった。


 紙の上のほうに、押した跡のような丸い凹みが二つある。留め具の跡だと思う。

 箱の中の紙にも同じ位置に凹みがある。全部の紙が同じ場所で留められていた時期があるらしい。今は留めていない。

 凹みの底は表よりわずかに光る。二つとも同じ深さで、同じ間隔で並んでいる。留めていた道具の幅が、そこに残っている。


「初回計測時体重、二・八キログラム」

 二・八という数を、私は今日はじめて聞いた。

 自分がその重さだった時のことは覚えていない。

「最終計測時体重、五二・四キログラム。四月二十七日の計測です」

「はい」

 四月二十七日は火曜だった。あの日は朝から並んで、台に乗って、降りた。降りる時に数字は見えなかった。

 今、聞いた。


 五二・四は知っていた。火曜に測ったあと、係員が口に出したからだ。

 紙に載るまでに六日かかっている。六日の間、その数は誰かの手元にあった。


 読み上げの途中で、後ろの人が一度だけ咳をした。咳の間、前の人は読むのを止めた。

 止めた場所は欄の途中ではなく、欄と欄の切れ目だった。切れ目を選んで止まる読み方をする人だ。


「既往、左耳上部に縫合痕。発生時期不詳」

 左の耳の上に手をやる。髪の下に、細い筋がある。触れば分かるが、鏡がないので見たことはない。

 いつの傷かは知らない。知らないことも紙に書いてある。書いてあるのは「不詳」だ。

「はい」


「配属、ふれあい部門。令和二百七年より。兼務、洗濯・園芸」

「はい」

「就業評価、良」

 良、と言われた。

 良は良い方だ。上に何があるのかは知らない。優があるのか、それとも良が一番上なのか。聞けば教えてくれるかも知れないが、聞くと評価の話をしていることになる。

「はい」


「展示の適性欄、本年度審査予定」

「はい」

「繁殖の適性欄、未判定」

「はい」


 読み上げが止まった。

 前の人は紙を見たまま少し黙っている。それから票を後ろの人へ渡して、紙ばさみに何か書いた。ペンの先が紙に当たる音が二度した。

「以上です。違うところはありましたか」

「ありません」

「ではこちらに──」

 前の人がそこまで言って、口を閉じた。後ろの人が首を振ったからだ。

「署名は要らないんでした。失礼」

「はい」


 前の人が私の顔を見ずに紙をめくる。めくる指が乾いている。

 後ろの人のほうは、さっきから箱の角を膝に当てて支えている。重いのだと思う。紙だけでは重くならない。箱そのものが重い。


 前の人が扉のほうを見た。次の部屋のことを考えているのだと思う。この人は今日、いくつの部屋を回るのだろう。二十二という数を私はまだ知らない。


 二人は箱を持ち直した。紙を戻そうとして、後ろの人が手を止める。

「見ますか」

 私に言ったのだと分かるまでに、一拍あった。

「見て、いいんですか」

「規定に、見せてはいけないとは書いていないので」

 前の人が何か言いかけて、やめた。


 受け取る前に、手のひらを寝台の布で拭いた。汗は出ていない。それでも拭いた。


 紙が渡される。両手で受け取った。

 思っていたより重い。一枚なのに、指に乗る重さがある。

 冷たい。箱の中は日が当たらないからだと思う。持っているうちに冷たさが減って、しまいには手と同じ温さになった。そうなると、紙を持っている感じが薄い。

 近くで見ると、線は定規で引いてある。まっすぐだが、一本だけ端が少し曲がっている。

 匂いがする。紙とインクの匂いだ。園の中で嗅ぐ匂いとは違う。次亜塩素酸でも洗剤でもない。この匂いのするものを、私は今まで手に持ったことがない。


 持ってみて分かることがある。紙は片側だけ少し反っている。折れてはいない。長く重ねられていた側が、そのまま曲がったのだと思う。

 裏を返した。裏には何も書いていない。線も無い。白いまま一枚ぶんの白がある。


 紙の端を持つと、指の跡が付く。付いたところは少し曇る。息を掛けた窓と同じで、しばらくすると消える。

 この紙を返すのは、跡が消えるより先だ。


 上から順に読む。読み上げられた通りに並んでいる。並び方は同じでも、目で見るほうが声より遅い。遅いぶん、一つずつが長く残る。

 二番目の欄で止まった。


 母個体 ―

 父個体 ―

 系統


 母と父の欄には、横線が一本ずつ引いてある。線は短く、欄の真ん中で終わっている。

 系統の欄には何もない。線も字も入っていない。ほかの欄はどれも埋まっているか、埋まっていなければ線が引いてある。ここだけが白い。


 欄の左端に、ごく細い線の切れ端が残っている。定規の線ではない。長さは爪の半分ほどで、そこで途切れる。

 顔を近づけた。近づけると紙の目が見える。縦の筋が細かく走っていて、切れ端はその筋のどれとも向きが合わない。

 途切れた先には何もない。何もない側のほうが広い。


 白いところに指を置いた。

 紙は乾いている。指の腹をゆっくり動かす。

 指でなぞると、そこだけ紙が薄い。


 紙を持ち上げて、窓のほうへ向けた。空の光は白い。透かすと、薄いところが少しだけ明るい。明るい部分の形は、欄の形とは違う。もっと細長い。

 紙を下ろすと消えた。角度を変えても戻らない。もう一度窓へ向けると、また出る。出る位置は毎回同じだ。


「あの」

「はい」

「ここ、何も書いていないんですね」

 係員が私の手元を覗いた。前の人だ。

「そうですね。系統の欄です」

「なぜ空いているんですか」

 前の人は少し黙ってから言った。

「分からないんですよ。私も」

「そうですか」

「園内で生まれた子は、母親の系統を書くんです。書けない子はほとんどいません」

「ほとんど」

「ええ。たまにいます」


 後ろの人が横から言った。

「三例です。今いるのは、あなただけです」

「二人は何処へ」

「転出です」

「はい」

 一度だけ、二人の番号を聞こうとした。口を開けて、開けたまま閉じた。


 紙の上で、私の目は二番目の欄から動かなかった。動かさないでいると、線の間の白さが少しずつ広く見えてくる。

 目を三番目の欄へ移した。二・八と五二・四が並んでいる。数の並んだ欄は、白い欄より読むのが速い。


 三例、という数を私は覚えた。覚えるだけなら誰にも見えない。

 備考は読み上げられなかった。読み上げは五番で終わっている。私は六番まで読んだ。読んでよいとは言われていないが、渡された紙を読むなという規定も、多分ない。

 六番には名称のことも書いてある。広報課の管理とし、本票には記載しない、とあった。名札のことだと思った。


「この記号は何ですか」

 私は一番上を指した。J-0037のJのところだ。

「管理番号です」

「Jは」

 前の人が後ろの人を見た。後ろの人は箱の持ち手を握り直した。

「Jは……そういう決まりです。区画とは関係ありません」

「はい」

「私も知らないんです。入った時からそうだったので」

 前の人が笑った。困った時の笑い方だ。

「私、五年目ですけど、まだ聞いたことないですよ。誰か知ってる人いるんですかね」

「さあ」

 二人が笑う。私も笑う。前の人は笑いながら箱の縁に手を掛けて、掛けたまま笑い終えた。


「そこ、何かありますか」

 後ろの人が言った。私の指の位置を見ている。

「手触りが違います」

「紙は場所で違いますよ。漉きむらです」

「はい」

 漉きむら、という語を私は知らない。知らない語は覚えておく。


 返す前に、もう一度だけ上から下まで目を通した。字の数を数えようとして、途中でやめた。


「様式が変わったのは、いつですか」

「四年前です。それより前のは、欄の作りが違うんですよ」

「違う」

「昔の様式だと、書くことが無い欄は最初から作らないんです。今のは作って空けておく」

「はい」


 紙を返す。両手で返した。

 後ろの人は受け取って、箱に戻す。戻す時に、私の紙は前から数えて七枚目に入った。前後の紙にも番号が書いてある。見えたのは二つで、どちらもJではなかった。

 二つのうち一つは、上の端が少し破れていた。破れは指の幅ほどで、そこから斜めに折り目が入っている。折った人がいる。

「終わりです。次の更新は来年の五月になります」

「はい」

「それまでに何か変わったら、担当が書き足します」

「書き足す」

「体重とか、就業のこととか。審査の結果も入ります」

「はい」


「来年も、見せてもらえますか」

 後ろの人が前の人を見た。前の人は箱のほうを見ている。

「その時の担当が決めます」

「はい」

「私が来るとは限らないので」

「はい」


 書き足す、と聞いた。

 あの紙には、まだ書ける場所が残っている。来年の五月にもう一度見せてもらえるなら、その時には今日より字が増えているかも知れない。


 箱の蓋は閉めなかった。閉めずに抱えて出ていく。中の紙が少し傾いて、上の三枚だけが手前へ倒れた。

 倒れた紙の番号は見えない。角しか見えなかった。


 二人は出ていった。扉が閉まる。

 廊下の靴の音が、隣へ移る。「確認します」と言う声。紙をめくる音。今度は三度めくった。


 扉が閉まる音は二度する。掛け金が落ちる音が遅れてくるからだ。

 二度目の音を聞いてから、私は立ち上がる。立ってすぐには動かない。膝が伸びるまでに数を三つ数える。


 寝台に座り直した。

 指の腹を見る。何も付いていない。爪の先に細かい粉のようなものがあるが、光の加減かも知れない。爪を合わせて擦ると、それも分からなくなった。

 両手を膝に置く。紙の匂いが指に残った。石鹸の匂いより弱いのに、こちらのほうがはっきりする。


 部屋には紙の匂いだけが残っている。二人が出ていってから、匂いは少しずつ薄くなる。

 匂いの残っているうちに、もう一度指を嗅いだ。部屋より指のほうが濃い。

 薄くなる途中で、廊下の次の部屋から声が聞こえた。「出生区分、園外収容」と読み上げている。

 園外収容という語が、私の票には無い。私のところには園内出生と書いてある。同じ場所に、人によって違う語が入る。


 窓の外で鳥が鳴いた。姿は見えない。空しか見えない窓なので、鳴き声だけが入ってくる。

 二度鳴いて、三度目はなかった。


 寝台の縁に手をついて立つ。布が少し温かい。座っていた分だけ温まっている。

 手を離すと、温かさは布に残った。


 紙の音が耳に残っている。抜く時の擦れる音と、戻す時の音は違う。抜く音のほうが高い。

 箱の中から一枚だけを抜く音を、私は今日はじめて聞いた。


 部屋を出る前に、寝台の布を手で伸ばした。皺は伸びる。伸ばした跡は残らない。

 窓の桟の筋はそのままにした。朝に付けたものだ。拭くのは今月まだ来ていない。


 昼の給餌に出た。

 三八〇の人はいつもの席にいる。今日は先に来ていて、私の席の皿を自分の側へ寄せてあった。寄せてある皿は縁が温かい。手を掛けていたのだと思う。

 礼を言うと、この人は何も言わずに自分の匙を持った。持つ手の甲に、青い筋が浮いている。前に見た時より浮き方が強い。袖が手首で余っている。

 今日は渡す物がない。渡す物がない日は、こちらの皿も空になる。

 食べ終わるまでに、この人は二度、匙を置いて休んだ。休むのは前からだ。回数が増えている。


 食堂を出る時、入口の掲示を見た。角がまだ上を向いている。反ったままだ。誰も直していない。


 昼の食堂で、匙を鼻の下に挟む男が向かいに座った。今日は挟まない。

「票、見た?」

「見ました」

「へえ」

 この人は自分の票の話をしなかった。私も聞かない。皿の縁の数字が四〇〇なのは知っている。それ以上のことは知らないままでいる。


 配膳台の照明の下で、皿の縁の四三〇を指でなぞった。刻みは浅い。それでも指は迷わない。

 紙の欄では指が迷った。迷ったのは今日が初めてだ。


 昼のあとで廊下を歩くと、床がまだ湿っている。朝に洗ったところが、この時刻まで乾かない。

 乾かないのは日の当たらない側だけだ。日の当たる側は昼前に乾く。同じ廊下でも半分ずつ違う。


 午後は洗濯の当番だった。

 袋を運びながら右手の人差し指を親指の腹で擦った。擦ると、あの欄の手触りが少しだけ戻る。戻るのは一瞬で、次の袋を掴むと消える。


 袋は今日で十四枚目だ。十四枚を三度に分けて運ぶ。一度に五枚まで持てるが、五枚だと角が首に当たる。

 四枚と五枚と五枚に分ける。分け方は自分で決めた。決めた通りにやると、終わる時刻がだいたい同じになる。


 壁を触ると指に水が付く。紙に付いた時とは残り方が違う。

 紙は水を吸う。壁のほうは吸わずに、玉にして落とす。


 洗濯室で、畳んでいる人の一人が私に聞いた。

「今日、票の日だったでしょ」

「はい」

「どうだった」

「読み上げてもらいました」

「私の時はね、読み上げないで渡された。読めるでしょって」

 この人は笑って、それから続けた。

「読めるけどさ」

 この人はそこで言葉を切って、次の一枚を広げた。

 何のことか聞こうとして、袋の角が滑った。落ちた袋を拾う。

 拾う時に、この人の足元が見えた。上履きの踵が両方とも潰れている。潰れた踵は畳む時に音がしない。

 立ち上がって、もう一度聞こうとした。声を出す前に、この人は次の一枚を広げていた。広げる音のほうが大きい。


 洗濯室の窓は今日も曇っている。指の跡がいくつか残っていて、そのうちの一つが縦の棒だ。

 昨日と同じ場所にある。高さも同じだ。


 物置の前は今週も土の匂いがする。園芸の当番は無い週だ。

 乾いた土の匂いだ。雨の日は水と一緒に来るので、こちらのほうが細い。


 畳む人の手は速い。速いのに音がしない。

角を合わせて、二つに折って、また二つに折る。四回で一枚が終わる。

 角と角が合う音がしない布は、たたむと厚みだけが増えていく。

 私は運ぶだけなので、四回を横で見ている。見ていると自分の手が動きそうになる。動かさない。当番の外のことをすると、記録に残る種類の話になる。


 運びながら袋の番号を見た。刷ってあるものと、剥がれているものがある。剥がれた袋は数だけで管理していると聞いた。


 夕方の点呼で番号を呼ばれた。四番目だ。

 順番はいつもと同じ。前に立つK-0212が、今日は数を言わなかった。言わない日もある。

 言う日のこの人は、自分の前に何人いるかを声に出す。三、と言ってから前を向く。私はその声で、自分が四番目だと知る。

 今日は言わなかったので、自分で数えた。数は同じだった。


 廊下の突き当たりで、係員が二人分の靴音を残して行った。今日は同じ音が二度した。

 朝と夜で同じ人が歩いているのかは分からない。音だけでは、そこまでは分からない。


 夕方の廊下は朝より暗い。窓が高いので、日が傾くと床まで届かなくなる。

 届かない時刻の廊下を、私は数えて歩く。自分の部屋までは四十二歩だ。


 居室に戻って、名札を外す。夜は外す。

 外した名札を手のひらに乗せた。刷ってある字は同じ形をしている。J-0037。線の太さも、位置も、毎月替わる前と後で変わらない。刷ってあるからだ。

 名札の角は丸い。丸いのは最初からで、擦れて丸くなったのではない。作る時にそうしてある。

 引っかからないようにするためだと聞いた。誰に聞いたのかは覚えていない。


 紙のほうは書いてあった。書いた人がいる。


 名札を枕の横に置く。布の上なので音はしない。

 紙を置く音はもっと長かった。後ろの人が箱へ戻した時、下の紙に触れてから止まるまでに間があった。


 消灯までの時間に、棚の上を拭いた。布は持っていないので手のひらで拭く。埃は少ししか取れない。

 取れた分は指先に付く。指先を寝台の縁で拭う。縁のその場所だけ、少しずつ色が濃くなっている。


 寝る前に、もう一度だけ指の腹を擦り合わせた。何も残っていない。紙の匂いも、もう分からない。


 五月は毛布が一枚でいい。二枚目を出しておくかどうかを、毎年この時期に決める。

 去年は出しておいた。使わなかった。今年も出しておく。使わないと分かっていても、足元にある。

 毛布の下に足を入れる。冷たいのは最初だけだ。


 目を閉じると、欄の形が浮かぶ。白い長方形だ。長さは指二本ぶん、高さは爪の幅ほど。

 その中に、もっと細長い形がある。透かした時に明るく見えたところだ。形は覚えている。

 何の形かは知らない。


──────────────────


記録管理室 作業報告


令和二百十二年五月三日


件名 個体記録票 年次更新(E区画・第二班)


作業者 記録管理室 一名/飼育部門 一名

対象 二十二票

所要 一〇時一〇分から一四時四〇分まで


処理内容


各票について、第一欄から第五欄までを個体の面前で読み上げた。確認は口頭で得た。第六欄は読み上げの対象外とした。二十二票すべてで異議の申し出はなかった。


更新に伴う記載の追加は九票。内訳は体重の更新が七票、就業評価の変更が二票である。


特記


一、J-0037について、個体本人より票の閲覧の申し出があった。作業者の判断でこれを認めた。閲覧を認める規定は無く、禁じる規定も無い。以後の取り扱いについて指示を仰ぐ。


二、同票の第二欄「系統」は空欄のまま保持する。


三、E-0044の票について、第三欄の体重が前年から四・二キログラム減少していた。獣医室へ写しを回した。


四、二十二票のうち三票で、様式第一号(旧様式)の用紙を使用していた。旧様式の廃止は令和二百年である。差し替えの要否を照会する。


五、記録管理室の保管分と飼育部門の写しを照合した。二十二票のうち一票で、写しの第四欄に飼育部門の追記を認めた。原本に反映されていない。反映を行った。当該票はK-0212である。


六、閲覧を認めた個体より、第二欄について質問を受けた。作業者が応答した。応答の内容は記録していない。以後、同種の質問を受けた場合の応答について、統一の要否を照会する。


七、様式第一号の廃止は令和二百年、様式第二号の制定は令和二百八年である。その間の八年に用いた様式について、記録管理室に記載が無い。当時の担当者は在職していない。照会の要否を伺う。


備考


第二班の作業は本日で完了した。第三班(A区画)は明日を予定する。

用紙の在庫は残り四十枚。次回更新までに補充を要する。


(記録管理室)

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