第003話 個体記録票 J-0037
国立人類保全園 第七園
個体記録票(様式第二号)
管理番号 J-0037
発行 令和二百八年四月一日
最終更新 令和二百十二年五月三日
一、基本事項
出生区分 園内出生
生年月日 令和百九十六年 月日不詳
性別 雌
現収容区画 E
担当獣医師 香月
二、由来
母個体 ―
父個体 ―
系統
収容経緯 該当なし
三、身体
初回計測時体重 二・八キログラム
最終計測時体重 五二・四キログラム(令和二百十二年四月二十七日)
既往 左耳上部に縫合痕。発生時期不詳
特記 なし
四、就業
配属 ふれあい部門(令和二百七年より)
兼務 洗濯・園芸
就業評価 良
五、適性
展示適性 本年度審査予定
繁殖適性 未判定
六、備考
本票は年一回、五月に更新する。更新は担当係員が個体の面前で行い、記載事項の確認を求める。確認は口頭による。個体の署名は要しない。
名称については広報課の管理とし、本票には記載しない。名称に関する権利の帰属は別に定める。
第二欄「系統」について、本個体は記載を欠く。記載を欠く場合の取り扱いは、記録管理室の内規による。内規は令和二百年に改定された。改定前の運用について、記録は残っていない。
七、更新の履歴
令和二百八年 新様式へ移記した。旧様式の原本は規定により廃棄した。
令和二百九年 体重の更新のみ。他欄の異動は無い。
令和二百十年 体重の更新のみ。
令和二百十一年 体重を更新した。就業評価を可から良へ改めた。
令和二百十二年 体重の更新のみ。
第二欄については、いずれの年も追記を行わなかった。追記の要否を照会した記録も無い。
八、確認の記録
確認は令和二百八年から二百十年まで、いずれも口頭で得た。二百十一年は書面処理とし、個体への確認を行っていない。本年は口頭で得た。
書面処理は、当該年度に係員の欠員が生じたことによる。欠員の期間は四十一日であった。同期間の確認は全区画で省略した。省略について、上位への報告は行わなかった。報告を要する旨の定めが無かったためである。
九、写しの取り扱い
本票の写しは飼育部門が保持する。写しは年一回の更新時に差し替えた。差し替えた旧写しは当該年度末に廃棄した。
令和二百八年の移記に際し、写しの作成が一部の区画で遅れた。E区画の写しが揃ったのは同年九月であった。遅延の理由は記録に残していない。
十、本票の保管
本票は記録管理室が箱で保管する。箱は区画ごとに分け、番号順に立てて収めた。
令和二百五年までは綴じ具で留めていた。留め具の使用は同年に取りやめた。抜き差しの際に用紙が傷むためである。取りやめた後、すでに開いた孔は塞いでいない。
十一、記入の要領
記入は黒の油性筆記具による。記載を欠く欄は空欄のまま残すこととした。該当の無い欄には横線を引く。両者を取り違えないこと。
訂正は二重線とし、余白に訂正者の印を押す。訂正前の記載を判読し得ない状態にすることは認めていない。
用紙の折り曲げを禁じた。折り目のある票は差し替えの対象とする。差し替えを行った例は、当区画では無い。
(保管 記録管理室/写し 飼育部門)
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廊下を来る音がする。台車ではない。靴だけだ。
二人分の靴が並んで来て、三つ手前の部屋の前で止まった。扉は開かない。廊下で話しているのが聞こえるが、言葉までは分からない。
私は寝台の縁に座って待つ。待つように言われている。膝の上で手を組んで、指を組み替える。組み替えると、その分だけ時間が減る。
朝から水を飲みすぎた。待つ日は水を飲む。飲むと時刻が区切れる。
下腹が寝台の縁に当たる。当たる位置を少しずらすと、しばらくは楽になる。
五月三日は晴れている。窓は高い位置にあるので、空しか見えない。
朝の給餌は普通どおりだった。今日は当番が無い。当番の無い日は、時間の減り方が遅い。
部屋には物が少ない。寝台と、マットと、棚が一つ。棚に置いてあるのは毛布の予備だけだ。
違うのは手だ。広場では手を膝に置いて動かさない。ここでは動かしてよい。動かしてよいと分かっていても、何をしていいのかが分からない。
窓の桟に埃が溜まっている。指で押すと筋が残る。残った筋は、次に誰かが拭くまで消えない。
拭くのは月に一度だ。誰が拭いているのかは見たことがない。私が広場にいる時刻にやっているのだと思う。
膝の裏が痛くなってきた。寝台の縁は硬い。座面との境目に骨が当たる。
少し前へ出て座り直すと、今度は足の裏が床に着かない。着かないでいると、しばらくして足首が重くなる。
両方を交互にやる。交互にやっている間は、待っているという感じが薄い。
票の日は年に一度だ。去年も同じように座っていた。扉は開かなかった。
隣の部屋の扉が開いた。
声が聞こえる。「確認します」と言っている。それから、紙をめくる音がした。二度で終わった。
二度でよいらしい。私は自分の番になったら何度めくられるのかを考える。考えても分からないので、指を組み替えた。
部屋の前で靴が止まる。二人分だ。片方は爪先を先に下ろす歩き方をする。
紙の擦れる音がして、それから扉に手が掛かる。かかってから開くまでに、一拍ある。中に人がいる部屋は、そこで一度止まる決まりらしい。
待っている間に一度だけ、廊下を別の靴が通った。速い。止まらずに行ってしまう。
確認の二人ではない。この時刻に廊下を急ぐ人がいるのは珍しい。何があったのかは、こちらには来ない。
廊下の音が近づく間、私は指を止めていた。組み替えるのをやめると、時間の減り方が分からなくなる。
分からないまま二十ほど数えた。数え終わる前に音が止まった。
扉が開く。
係員が二人。前の人は紙ばさみを持ち、後ろの人は箱を抱えている。箱には紙が立てて並んでいる。番号の順だと思う。
前の人は午後の当番でよく見る顔だ。後ろの人は知らない。記録管理室の人だと、前の人が言った。
「J-0037。記録票の更新です」
「はい」
「確認だけしますので、そのまま座っていてください」
「はい」
後ろの人が箱から一枚を抜いた。抜く時に、隣の紙が擦れる音がする。乾いた音だ。
紙は私が思っていたより厚い。二つ折りではなく、一枚のままだ。表に線が引いてあって、線の間に字が並んでいる。
私の番号が一番上にある。J-0037。刷ってあるのではなく、書いてある。ペンの跡が少し盛り上がっている。
箱の中の紙は、上に行くほど白い。下のほうは少し灰色がかっている。触られた回数の差だと思う。
私の紙は真ん中より少し上にあった。上でも下でもない位置だ。
前の人が寝台の脇に立ち、後ろの人は扉の近くに残った。二人の距離は変わらない。
部屋が狭いので、三人が入ると壁までが近い。近いと声が大きく聞こえる。実際の声は普通の大きさだ。
「読み上げますので、違うところがあれば言ってください」
「はい」
「出生区分、園内出生。生年月日、令和百九十六年、月日不詳」
「はい」
「性別、雌。現収容区画、E」
「はい」
「担当獣医師、香月」
「はい」
係員は速い。区切りが同じ長さで来る。息継ぎの位置も毎回同じで、四つ読むごとに一度切る。
この読み方は覚えられそうだと思った。覚えても使う場面はない。
聞いている間、私は息を浅くしていた。深く吸うと肩が動く。肩が動くと、読み上げが止まりそうな気がする。
実際には止まらない。止まらないと分かってからも、息は浅いままだった。
紙の上のほうに、押した跡のような丸い凹みが二つある。留め具の跡だと思う。
箱の中の紙にも同じ位置に凹みがある。全部の紙が同じ場所で留められていた時期があるらしい。今は留めていない。
凹みの底は表よりわずかに光る。二つとも同じ深さで、同じ間隔で並んでいる。留めていた道具の幅が、そこに残っている。
「初回計測時体重、二・八キログラム」
二・八という数を、私は今日はじめて聞いた。
自分がその重さだった時のことは覚えていない。
「最終計測時体重、五二・四キログラム。四月二十七日の計測です」
「はい」
四月二十七日は火曜だった。あの日は朝から並んで、台に乗って、降りた。降りる時に数字は見えなかった。
今、聞いた。
五二・四は知っていた。火曜に測ったあと、係員が口に出したからだ。
紙に載るまでに六日かかっている。六日の間、その数は誰かの手元にあった。
読み上げの途中で、後ろの人が一度だけ咳をした。咳の間、前の人は読むのを止めた。
止めた場所は欄の途中ではなく、欄と欄の切れ目だった。切れ目を選んで止まる読み方をする人だ。
「既往、左耳上部に縫合痕。発生時期不詳」
左の耳の上に手をやる。髪の下に、細い筋がある。触れば分かるが、鏡がないので見たことはない。
いつの傷かは知らない。知らないことも紙に書いてある。書いてあるのは「不詳」だ。
「はい」
「配属、ふれあい部門。令和二百七年より。兼務、洗濯・園芸」
「はい」
「就業評価、良」
良、と言われた。
良は良い方だ。上に何があるのかは知らない。優があるのか、それとも良が一番上なのか。聞けば教えてくれるかも知れないが、聞くと評価の話をしていることになる。
「はい」
「展示の適性欄、本年度審査予定」
「はい」
「繁殖の適性欄、未判定」
「はい」
読み上げが止まった。
前の人は紙を見たまま少し黙っている。それから票を後ろの人へ渡して、紙ばさみに何か書いた。ペンの先が紙に当たる音が二度した。
「以上です。違うところはありましたか」
「ありません」
「ではこちらに──」
前の人がそこまで言って、口を閉じた。後ろの人が首を振ったからだ。
「署名は要らないんでした。失礼」
「はい」
前の人が私の顔を見ずに紙をめくる。めくる指が乾いている。
後ろの人のほうは、さっきから箱の角を膝に当てて支えている。重いのだと思う。紙だけでは重くならない。箱そのものが重い。
前の人が扉のほうを見た。次の部屋のことを考えているのだと思う。この人は今日、いくつの部屋を回るのだろう。二十二という数を私はまだ知らない。
二人は箱を持ち直した。紙を戻そうとして、後ろの人が手を止める。
「見ますか」
私に言ったのだと分かるまでに、一拍あった。
「見て、いいんですか」
「規定に、見せてはいけないとは書いていないので」
前の人が何か言いかけて、やめた。
受け取る前に、手のひらを寝台の布で拭いた。汗は出ていない。それでも拭いた。
紙が渡される。両手で受け取った。
思っていたより重い。一枚なのに、指に乗る重さがある。
冷たい。箱の中は日が当たらないからだと思う。持っているうちに冷たさが減って、しまいには手と同じ温さになった。そうなると、紙を持っている感じが薄い。
近くで見ると、線は定規で引いてある。まっすぐだが、一本だけ端が少し曲がっている。
匂いがする。紙とインクの匂いだ。園の中で嗅ぐ匂いとは違う。次亜塩素酸でも洗剤でもない。この匂いのするものを、私は今まで手に持ったことがない。
持ってみて分かることがある。紙は片側だけ少し反っている。折れてはいない。長く重ねられていた側が、そのまま曲がったのだと思う。
裏を返した。裏には何も書いていない。線も無い。白いまま一枚ぶんの白がある。
紙の端を持つと、指の跡が付く。付いたところは少し曇る。息を掛けた窓と同じで、しばらくすると消える。
この紙を返すのは、跡が消えるより先だ。
上から順に読む。読み上げられた通りに並んでいる。並び方は同じでも、目で見るほうが声より遅い。遅いぶん、一つずつが長く残る。
二番目の欄で止まった。
母個体 ―
父個体 ―
系統
母と父の欄には、横線が一本ずつ引いてある。線は短く、欄の真ん中で終わっている。
系統の欄には何もない。線も字も入っていない。ほかの欄はどれも埋まっているか、埋まっていなければ線が引いてある。ここだけが白い。
欄の左端に、ごく細い線の切れ端が残っている。定規の線ではない。長さは爪の半分ほどで、そこで途切れる。
顔を近づけた。近づけると紙の目が見える。縦の筋が細かく走っていて、切れ端はその筋のどれとも向きが合わない。
途切れた先には何もない。何もない側のほうが広い。
白いところに指を置いた。
紙は乾いている。指の腹をゆっくり動かす。
指でなぞると、そこだけ紙が薄い。
紙を持ち上げて、窓のほうへ向けた。空の光は白い。透かすと、薄いところが少しだけ明るい。明るい部分の形は、欄の形とは違う。もっと細長い。
紙を下ろすと消えた。角度を変えても戻らない。もう一度窓へ向けると、また出る。出る位置は毎回同じだ。
「あの」
「はい」
「ここ、何も書いていないんですね」
係員が私の手元を覗いた。前の人だ。
「そうですね。系統の欄です」
「なぜ空いているんですか」
前の人は少し黙ってから言った。
「分からないんですよ。私も」
「そうですか」
「園内で生まれた子は、母親の系統を書くんです。書けない子はほとんどいません」
「ほとんど」
「ええ。たまにいます」
後ろの人が横から言った。
「三例です。今いるのは、あなただけです」
「二人は何処へ」
「転出です」
「はい」
一度だけ、二人の番号を聞こうとした。口を開けて、開けたまま閉じた。
紙の上で、私の目は二番目の欄から動かなかった。動かさないでいると、線の間の白さが少しずつ広く見えてくる。
目を三番目の欄へ移した。二・八と五二・四が並んでいる。数の並んだ欄は、白い欄より読むのが速い。
三例、という数を私は覚えた。覚えるだけなら誰にも見えない。
備考は読み上げられなかった。読み上げは五番で終わっている。私は六番まで読んだ。読んでよいとは言われていないが、渡された紙を読むなという規定も、多分ない。
六番には名称のことも書いてある。広報課の管理とし、本票には記載しない、とあった。名札のことだと思った。
「この記号は何ですか」
私は一番上を指した。J-0037のJのところだ。
「管理番号です」
「Jは」
前の人が後ろの人を見た。後ろの人は箱の持ち手を握り直した。
「Jは……そういう決まりです。区画とは関係ありません」
「はい」
「私も知らないんです。入った時からそうだったので」
前の人が笑った。困った時の笑い方だ。
「私、五年目ですけど、まだ聞いたことないですよ。誰か知ってる人いるんですかね」
「さあ」
二人が笑う。私も笑う。前の人は笑いながら箱の縁に手を掛けて、掛けたまま笑い終えた。
「そこ、何かありますか」
後ろの人が言った。私の指の位置を見ている。
「手触りが違います」
「紙は場所で違いますよ。漉きむらです」
「はい」
漉きむら、という語を私は知らない。知らない語は覚えておく。
返す前に、もう一度だけ上から下まで目を通した。字の数を数えようとして、途中でやめた。
「様式が変わったのは、いつですか」
「四年前です。それより前のは、欄の作りが違うんですよ」
「違う」
「昔の様式だと、書くことが無い欄は最初から作らないんです。今のは作って空けておく」
「はい」
紙を返す。両手で返した。
後ろの人は受け取って、箱に戻す。戻す時に、私の紙は前から数えて七枚目に入った。前後の紙にも番号が書いてある。見えたのは二つで、どちらもJではなかった。
二つのうち一つは、上の端が少し破れていた。破れは指の幅ほどで、そこから斜めに折り目が入っている。折った人がいる。
「終わりです。次の更新は来年の五月になります」
「はい」
「それまでに何か変わったら、担当が書き足します」
「書き足す」
「体重とか、就業のこととか。審査の結果も入ります」
「はい」
「来年も、見せてもらえますか」
後ろの人が前の人を見た。前の人は箱のほうを見ている。
「その時の担当が決めます」
「はい」
「私が来るとは限らないので」
「はい」
書き足す、と聞いた。
あの紙には、まだ書ける場所が残っている。来年の五月にもう一度見せてもらえるなら、その時には今日より字が増えているかも知れない。
箱の蓋は閉めなかった。閉めずに抱えて出ていく。中の紙が少し傾いて、上の三枚だけが手前へ倒れた。
倒れた紙の番号は見えない。角しか見えなかった。
二人は出ていった。扉が閉まる。
廊下の靴の音が、隣へ移る。「確認します」と言う声。紙をめくる音。今度は三度めくった。
扉が閉まる音は二度する。掛け金が落ちる音が遅れてくるからだ。
二度目の音を聞いてから、私は立ち上がる。立ってすぐには動かない。膝が伸びるまでに数を三つ数える。
寝台に座り直した。
指の腹を見る。何も付いていない。爪の先に細かい粉のようなものがあるが、光の加減かも知れない。爪を合わせて擦ると、それも分からなくなった。
両手を膝に置く。紙の匂いが指に残った。石鹸の匂いより弱いのに、こちらのほうがはっきりする。
部屋には紙の匂いだけが残っている。二人が出ていってから、匂いは少しずつ薄くなる。
匂いの残っているうちに、もう一度指を嗅いだ。部屋より指のほうが濃い。
薄くなる途中で、廊下の次の部屋から声が聞こえた。「出生区分、園外収容」と読み上げている。
園外収容という語が、私の票には無い。私のところには園内出生と書いてある。同じ場所に、人によって違う語が入る。
窓の外で鳥が鳴いた。姿は見えない。空しか見えない窓なので、鳴き声だけが入ってくる。
二度鳴いて、三度目はなかった。
寝台の縁に手をついて立つ。布が少し温かい。座っていた分だけ温まっている。
手を離すと、温かさは布に残った。
紙の音が耳に残っている。抜く時の擦れる音と、戻す時の音は違う。抜く音のほうが高い。
箱の中から一枚だけを抜く音を、私は今日はじめて聞いた。
部屋を出る前に、寝台の布を手で伸ばした。皺は伸びる。伸ばした跡は残らない。
窓の桟の筋はそのままにした。朝に付けたものだ。拭くのは今月まだ来ていない。
昼の給餌に出た。
三八〇の人はいつもの席にいる。今日は先に来ていて、私の席の皿を自分の側へ寄せてあった。寄せてある皿は縁が温かい。手を掛けていたのだと思う。
礼を言うと、この人は何も言わずに自分の匙を持った。持つ手の甲に、青い筋が浮いている。前に見た時より浮き方が強い。袖が手首で余っている。
今日は渡す物がない。渡す物がない日は、こちらの皿も空になる。
食べ終わるまでに、この人は二度、匙を置いて休んだ。休むのは前からだ。回数が増えている。
食堂を出る時、入口の掲示を見た。角がまだ上を向いている。反ったままだ。誰も直していない。
昼の食堂で、匙を鼻の下に挟む男が向かいに座った。今日は挟まない。
「票、見た?」
「見ました」
「へえ」
この人は自分の票の話をしなかった。私も聞かない。皿の縁の数字が四〇〇なのは知っている。それ以上のことは知らないままでいる。
配膳台の照明の下で、皿の縁の四三〇を指でなぞった。刻みは浅い。それでも指は迷わない。
紙の欄では指が迷った。迷ったのは今日が初めてだ。
昼のあとで廊下を歩くと、床がまだ湿っている。朝に洗ったところが、この時刻まで乾かない。
乾かないのは日の当たらない側だけだ。日の当たる側は昼前に乾く。同じ廊下でも半分ずつ違う。
午後は洗濯の当番だった。
袋を運びながら右手の人差し指を親指の腹で擦った。擦ると、あの欄の手触りが少しだけ戻る。戻るのは一瞬で、次の袋を掴むと消える。
袋は今日で十四枚目だ。十四枚を三度に分けて運ぶ。一度に五枚まで持てるが、五枚だと角が首に当たる。
四枚と五枚と五枚に分ける。分け方は自分で決めた。決めた通りにやると、終わる時刻がだいたい同じになる。
壁を触ると指に水が付く。紙に付いた時とは残り方が違う。
紙は水を吸う。壁のほうは吸わずに、玉にして落とす。
洗濯室で、畳んでいる人の一人が私に聞いた。
「今日、票の日だったでしょ」
「はい」
「どうだった」
「読み上げてもらいました」
「私の時はね、読み上げないで渡された。読めるでしょって」
この人は笑って、それから続けた。
「読めるけどさ」
この人はそこで言葉を切って、次の一枚を広げた。
何のことか聞こうとして、袋の角が滑った。落ちた袋を拾う。
拾う時に、この人の足元が見えた。上履きの踵が両方とも潰れている。潰れた踵は畳む時に音がしない。
立ち上がって、もう一度聞こうとした。声を出す前に、この人は次の一枚を広げていた。広げる音のほうが大きい。
洗濯室の窓は今日も曇っている。指の跡がいくつか残っていて、そのうちの一つが縦の棒だ。
昨日と同じ場所にある。高さも同じだ。
物置の前は今週も土の匂いがする。園芸の当番は無い週だ。
乾いた土の匂いだ。雨の日は水と一緒に来るので、こちらのほうが細い。
畳む人の手は速い。速いのに音がしない。
角を合わせて、二つに折って、また二つに折る。四回で一枚が終わる。
角と角が合う音がしない布は、たたむと厚みだけが増えていく。
私は運ぶだけなので、四回を横で見ている。見ていると自分の手が動きそうになる。動かさない。当番の外のことをすると、記録に残る種類の話になる。
運びながら袋の番号を見た。刷ってあるものと、剥がれているものがある。剥がれた袋は数だけで管理していると聞いた。
夕方の点呼で番号を呼ばれた。四番目だ。
順番はいつもと同じ。前に立つK-0212が、今日は数を言わなかった。言わない日もある。
言う日のこの人は、自分の前に何人いるかを声に出す。三、と言ってから前を向く。私はその声で、自分が四番目だと知る。
今日は言わなかったので、自分で数えた。数は同じだった。
廊下の突き当たりで、係員が二人分の靴音を残して行った。今日は同じ音が二度した。
朝と夜で同じ人が歩いているのかは分からない。音だけでは、そこまでは分からない。
夕方の廊下は朝より暗い。窓が高いので、日が傾くと床まで届かなくなる。
届かない時刻の廊下を、私は数えて歩く。自分の部屋までは四十二歩だ。
居室に戻って、名札を外す。夜は外す。
外した名札を手のひらに乗せた。刷ってある字は同じ形をしている。J-0037。線の太さも、位置も、毎月替わる前と後で変わらない。刷ってあるからだ。
名札の角は丸い。丸いのは最初からで、擦れて丸くなったのではない。作る時にそうしてある。
引っかからないようにするためだと聞いた。誰に聞いたのかは覚えていない。
紙のほうは書いてあった。書いた人がいる。
名札を枕の横に置く。布の上なので音はしない。
紙を置く音はもっと長かった。後ろの人が箱へ戻した時、下の紙に触れてから止まるまでに間があった。
消灯までの時間に、棚の上を拭いた。布は持っていないので手のひらで拭く。埃は少ししか取れない。
取れた分は指先に付く。指先を寝台の縁で拭う。縁のその場所だけ、少しずつ色が濃くなっている。
寝る前に、もう一度だけ指の腹を擦り合わせた。何も残っていない。紙の匂いも、もう分からない。
五月は毛布が一枚でいい。二枚目を出しておくかどうかを、毎年この時期に決める。
去年は出しておいた。使わなかった。今年も出しておく。使わないと分かっていても、足元にある。
毛布の下に足を入れる。冷たいのは最初だけだ。
目を閉じると、欄の形が浮かぶ。白い長方形だ。長さは指二本ぶん、高さは爪の幅ほど。
その中に、もっと細長い形がある。透かした時に明るく見えたところだ。形は覚えている。
何の形かは知らない。
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記録管理室 作業報告
令和二百十二年五月三日
件名 個体記録票 年次更新(E区画・第二班)
作業者 記録管理室 一名/飼育部門 一名
対象 二十二票
所要 一〇時一〇分から一四時四〇分まで
処理内容
各票について、第一欄から第五欄までを個体の面前で読み上げた。確認は口頭で得た。第六欄は読み上げの対象外とした。二十二票すべてで異議の申し出はなかった。
更新に伴う記載の追加は九票。内訳は体重の更新が七票、就業評価の変更が二票である。
特記
一、J-0037について、個体本人より票の閲覧の申し出があった。作業者の判断でこれを認めた。閲覧を認める規定は無く、禁じる規定も無い。以後の取り扱いについて指示を仰ぐ。
二、同票の第二欄「系統」は空欄のまま保持する。
三、E-0044の票について、第三欄の体重が前年から四・二キログラム減少していた。獣医室へ写しを回した。
四、二十二票のうち三票で、様式第一号(旧様式)の用紙を使用していた。旧様式の廃止は令和二百年である。差し替えの要否を照会する。
五、記録管理室の保管分と飼育部門の写しを照合した。二十二票のうち一票で、写しの第四欄に飼育部門の追記を認めた。原本に反映されていない。反映を行った。当該票はK-0212である。
六、閲覧を認めた個体より、第二欄について質問を受けた。作業者が応答した。応答の内容は記録していない。以後、同種の質問を受けた場合の応答について、統一の要否を照会する。
七、様式第一号の廃止は令和二百年、様式第二号の制定は令和二百八年である。その間の八年に用いた様式について、記録管理室に記載が無い。当時の担当者は在職していない。照会の要否を伺う。
備考
第二班の作業は本日で完了した。第三班(A区画)は明日を予定する。
用紙の在庫は残り四十枚。次回更新までに補充を要する。
(記録管理室)




