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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第一章 展示

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第002話 給餌

国立人類保全園 第七園

栄養管理課 通達 第四十二号


給餌基準の一部改定について


一、完全栄養食の給与量は、個体の体重に応じて算定する。算定は別表による。

二、給与は一日二回とする。第一給餌は午前七時、第二給餌は正午とする。

三、給餌の開始は鐘四点をもって報せる。

四、残食は個体ごとに計量し、給餌記録へ記入する。

五、残食率が三日続けて二割を超えた個体については、担当獣医師へ報告する。

六、個体間での食物の授受を認めない。


本通達は令和二百十一年十二月一日より施行した。


改定の経緯


本通達の起案は前々年度に遡る。当時、栄養管理課は個体ごとの摂取量を正確に把握する必要があると判断した。その根拠は、体重の推移と給与量が一致しない個体が複数存在したことであった。


前年度、残食率の記録に大きな幅が生じた。同一個体で、日により零割から四割まで振れる例が複数あった。栄養管理課はこれを計量の誤差と判断し、計量器を新型へ更新した。更新後も幅は縮まらなかった。


そこで第六項を新設した。個体間で食物が動いていれば、個体ごとの記録は意味を持たない。施行後三月の残食率は、全個体で二割を下回っている。第六項の効果と認められる。


施行前後の比較


施行前三月 当園全体の残食率 平均一割一分

施行後三月 同        平均〇割三分


区画別では、E区画の下がり幅が最も大きかった。同区画は高齢の個体を多く収容しており、施行前は残食率が二割を超える日が月に八日あった。施行後は一日も無い。


なお、施行の直後に一件の申し出があった。E区画の係員から、第六項の実効を確かめる方法が無いという趣旨のものであった。栄養管理課はこれに対し、残食率の推移をもって効果を判定すると回答した。申し出はそれ以降なかった。


別表(抄)


体重四十キログラム未満    三百八十グラム

体重四十以上五十未満     四百グラム

体重五十以上六十未満     四百三十グラム

体重六十以上         四百六十グラム


高齢個体については、担当獣医師の指示により減量することが出来る。減量の記録は給餌記録の備考欄へ記入する。


給餌室の運用


配膳は係員二名で行う。人員の都合により一名とする場合は、日報へ記入する。皿は個体番号の順に並べる。皿の縁には規定量を刻む。食器の識別はこの刻印のみによる。

食後の皿は回収台へ重ねる。洗浄は外部の事業者へ委託している。


計量の手順


残食は個体ごとに皿のまま計量する。皿の風袋は一律とし、個別には差し引かない。皿の重量差は最大で六グラムであった。栄養管理課はこれを許容範囲と判断した。判断の記録は課内で保管した。


計量は配膳係が行った。獣医室の立ち会いは要しないものとした。前年度、立ち会いを求める意見が出たが、人員の都合により見送った。


備考


第一給餌の開始が遅れる日がある。前年度は十七日あった。いずれも鐘の不具合による。鐘は開設時から同じものを使用しており、部品の在庫が無い。更新の可否を検討している。


本通達に関する問い合わせは、前年度に四件あった。いずれも第六項の運用に関するものであった。栄養管理課は書面で回答した。回答の写しは課内に保管した。


(配付:飼育部門各課/栄養管理課/獣医室)


──────────────────


 空腹で目が覚める。点灯より早い。

 腹が鳴るのではなく、耳の後ろが冷たくなる。冷たさは首の横まで下りてきて、そこで止まる。止まったまま点灯を待つ。

 六時に明かりが入る。天井の一列が先に点いて、少し遅れて廊下側が点く。二つの間には二秒ほどある。その二秒の間、部屋の隅がまだ暗い。

 起きて、毛布を畳む。畳んだ毛布からは洗濯洗剤の匂いがする。寝ている間は分からない。畳んで顔に近づけた時だけ分かる。


 空腹には順番がある。まず耳の後ろ、それから喉の奥、最後に腹だ。腹まで来ると鐘が近い。

 腹まで来ない朝もある。来ない日は前の日によく食べている。よく食べた日は、たいてい誰かが残した日だ。


 昨日の夜、天井の線を見てから眠った。線は今朝も同じ場所にある。

 朝に最初に見るのも同じ線だ。夜と朝で白さの見え方が違う。夜は右のほうが白く、朝は左のほうが白い。明かりの入る向きが変わるからだと思う。


 鐘が鳴る。

 四回鳴る。三回でも五回でもない。一回目のあとが少し長く、二回目から四回目までは詰まっている。詰まり方まで毎日同じだ。

 鐘の音は上から来る。廊下の天井に金物の箱があって、その中で鳴っているらしい。中を見た者はいない。

 何故四回なのかを、私は聞いたことがない。聞いても答えられる人がいるかどうか、そこも怪しい。四回鳴れば食堂へ行く。それだけは全員が知っている。


 鐘が鳴らなかった日が去年に何日かあった。鳴らないと誰も動かない。

 時計を見れば七時だと分かる。分かっていても動かない。動いてよいのは鐘が鳴ってからだと決まっている。決めた人がいるはずだが、その人の名前を私は知らない。

 あの日は十分ほど遅れて係員が来て、口で「七時です」と言った。言われてから全員が立った。鐘の代わりに人が言えば、それで足りた。


 鐘のあとで、廊下に足音が増える。部屋の扉が順に開く音がして、それから足が出てくる。

 扉の開く順は毎日ちがう。早い日と遅い日がある人がいて、私はいつも真ん中あたりだ。真ん中でいるのが楽だと、いつからか思っている。


 部屋を出る前に、名札を付ける。夜の間は枕の横に置いてある。

 付ける向きは決まっている。字が外を向く。自分では読めない向きだ。読めなくてよいものを、私は毎朝身につける。


 食堂までは廊下を三十歩ほど。歩くと足の裏が冷たい。床は毎朝、鐘より前に洗われる。洗ったあとの床は次亜塩素酸の匂いがして、その上を歩くと靴下が湿る。

 廊下の突き当たりに、鉄の枠が置いてある。傘立てのような形で、中は空だ。

 毎日そこを通る。通る度に一度は見る。見ても中は空のままで、去年からずっと空だ。何を入れるものかを聞いたことはない。


 列に並ぶ。番号の順だ。私の前には二人いて、後ろには四人いる。前の二人は私より若く、後ろの四人は年上だ。番号は年齢の順ではない。何の順なのかは知らない。


 列の形は毎朝ほとんど同じだ。前の二人は喋らない。後ろの四人のうち一人だけがよく喋る。喋る人は毎朝ちがう話をするが、話し終わる位置は同じだ。配膳台の三歩手前で終わる。

 三歩手前から先は誰も喋らない。決まりではなく、誰かが決めたわけでもない。ただ、その辺りで声が止まる。


 配膳台の前で列が一度止まる。止まるのは前の人が皿を受け取る間だ。受け取ると進む。進むとまた止まる。

 止まっている時間は数秒ずつで、全部足すと二分ほどだ。数えたことがある。数えて、それきり数えていない。数えても皿の中身は変わらない。


 皿が並んでいる。

 縁に数字が刻んである。四三〇。私の皿だ。数字は皿ごとに違う。三八〇の皿もあれば、四六〇の皿もある。

 刻印は浅い。指でなぞると引っかかる。毎日なぞる。なぞらなければ自分の皿か確かめられない。名前も番号も書いていない。書いてあるのは量だけだ。


 四三〇の帯は、体重五十以上六十未満と決まっている。上の帯は六十からで、そこへ動けば皿が四六〇だ。

 三十グラムがどれくらいかは、皿を並べれば分かる。四六〇の皿は縁の高さが同じで、中の窪みが少しだけ深い。深さの違いは並べて見ないと分からない。私は毎朝、配膳台の端で並んだ皿を見ている。

 私の帯が動くには、あと何キログラムか要る。要る量を自分で計る道具はない。


 皿は四十枚ほど並ぶ。並べる順は番号だが、間が空いているところがある。

 空いているのは、その番号の個体がいない日だ。いない理由は書かれていない。翌日に戻っている人もいれば、戻らない人もいる。

 戻らなかった皿は、しばらく端に置かれる。置かれたまま二週間ほど経って、いつのまにか無くなる。無くなる場面を私は見ていない。


 配膳の係員は二名。一人が皿を出し、一人が数える。

 数えるほうの人は、皿を出す度に指を動かす。声には出さない。前に一度、数え間違えて皿が一つ余ったことがある。余った皿は下げられた。下げられた皿の縁は四〇〇だった。

 その日、四〇〇の個体は食べていない。記録がどうなったのかは知らない。


 配膳台の上には照明が一つある。皿の並びの真上で、そこだけ明るい。明るいところに皿が置かれ、受け取ると手元は暗くなる。

 だから皿の数字は、受け取る前が一番読みやすい。読みやすいのは数秒しかない。数秒で読んで、あとは指でなぞる。


 私の前の二人は、受け取ると同じ席へ行く。同じ席が空いていない日は、少し立ち止まってから別の席へ行く。立ち止まる時間は毎回同じくらいだ。

 席は決まっていない。決まっていないのに、みな同じところへ座る。座らないと落ち着かないらしい。私も同じで、窓に近い側の三つ目に座る。


 受け取る時、係員の手と私の手が近づく。触れることはない。触れないように皿を置いて、置いてから離す。

 ふれあい広場では手が来る。食堂では来ない。


 完全栄養食は温めると甘くなる。蒸れた甘さで、匂いは食堂の入口まで届く。

 味は毎日同じ。舌の上では少し違う気がして、飲み込むと同じところへ落ちる。

 私は速く食べる。あとの時間が長くなるからだ。長くしたところで何をするわけでもない。


 食堂の音は硬い。匙が皿に当たる音、椅子の脚が床を擦る音。誰かが咳をすると壁で跳ね返って戻ってくる。

 朝は喋る人が少ない。喋るのは食べ終えた者だけになる。


 匙は一本ずつ配られる。柄の長さは同じだが、先の丸みが少しずつ違う。使い込むと丸みが減る。

 私の匙は先が平らに近い。この匙をもう二年使っている。替えてもらうことは出来るが、替えると量の感じが変わる。同じ量でも、匙が違うと口の数が変わる。


 食堂には時計が無い。時刻は係員が言う。言われないと分からない。

 分からなくても困らない。次に動く合図は鐘か、係員の声か、前の人が立つことだ。どれかは必ず来る。


 朝の食堂には、ふれあいの当番でない者も来る。来る者と来ない者は日によって入れ替わる。

 入れ替わっても席の埋まり方は似ている。窓側から埋まり、入口側は最後まで空いている。入口側は扉が開く度に風が入るからだ。


 私の斜め前に、年上の女の人が座る。E区画の人だ。皿の縁は三八〇。

 この人は食べるのが遅い。遅いというより、途中で止まる。止まってから、また少し食べる。半分ほど残して、匙を置く。

 呼ばれた人がどうなるかを、私は見たことがない。ただ、呼ばれた人はしばらく食堂で見かけなくなる。


 この人の手は震えない。震えないのに遅い。匙を持ち上げる速さと、口へ運ぶ速さが違う。持ち上げるのは普通で、運ぶのが遅い。

 何故遅いのかを私は聞いていない。聞いてよいことなのかが分からない。園では聞かないほうがいいことのほうが多い。

 前に一度、この人が匙を落としたことがある。落ちた匙を私が拾って渡した。渡す時に指が触れた。指は冷たかった。私の指のほうが温かい。


 この人の座る位置は、私の斜め前で固定されている。固定したのは私のほうだ。

 最初は別の席にいた。ある日から私が斜め後ろへ移った。移った理由を聞かれたことはない。席は決まっていないので、移っても記録に残らない。


 係員が入口の方を向いた時、この人が私を見る。

 私は自分の皿を少し前に出す。この人が匙で自分の分を移す。三口分くらい。移し終わると匙を置いて、また前を向く。

 時間にして四秒か五秒。会話はない。目も合わない。合わせると気づかれる。

 掲示は食堂の入口にある。読める位置にある。


 最初に渡したのは去年の冬だった。あの日は私がこの人の皿を見て、この人が私の皿を見た。それだけで済んだ。

 言葉は使っていない。使えば誰かが聞く。聞かれた言葉は記録になることがある。


 だから私たちは、係員が入口を向く時刻を覚えた。

 配膳の二人は、七時十二分ごろに一度だけ入口を見る。次の便の台車が来るからだ。台車の車輪は鳴る。鳴ってから扉が開くまでに、八秒ある。

 八秒は三口分に足りる。足りると分かるまでに、二か月かかった。


 三口分が増えると、私の腹はその分だけ楽になる。楽になった代わりに、皿は空だ。

 この人の皿も空になる。空の皿が二つ並ぶ。並んだ皿は同じに見える。


 残食は計量される。皿ごと秤に載せる。載せる人は数字を読み上げず、紙に書く。書いてから次の皿を取る。

 私の皿はいつも零だ。この人の皿も零になる。零が並ぶと、書く人の手が速くなる。速くなった手は、途中から数字を見ないで書いている。


 食べ終わる時刻は人によって違う。私は早い。この人は遅い。

 早い者が先に立つと、遅い者の皿が目立つ。だから私は少し待つ。待つ間は匙を持ったまま何もしない。何もしていないのを係員が見ても、何も言われない。食べ終えた者が座っていることに規定は無い。


 食べ終えた者から回収台へ皿を運ぶ。

 回収台は入口の脇にあって、そこに皿を重ねる。三枚も重ねれば、下の縁はもう読めない。洗う人はそのほうが早い。

 洗うのは外の事業者だと聞いた。戻ってきた皿の縁には、同じ数字が刻んである。


 食べ終えると口の中が甘い。水を飲むと薄まるが、消えない。消えるのは昼の前あたりだ。

 甘さが消えた頃に、また鐘が鳴る。鳴ると口の中がもう一度甘くなると分かっていて、それでも腹は減っている。


 食堂を出る時、後ろで誰かが笑った。

 振り向くと、私より二つ年上の男が匙を鼻の下に挟んで立っている。落ちないように口をすぼめている。前に一度、これで係員に注意された人だ。注意されてもやめない。

「見て」

「見てます」

「三十秒いける」

「無理です」

「賭ける?」

「何を賭けます」

 男は考えて、それから匙を落とした。

「賭けるものが無いな」

 私は少し笑う。男も笑う。笑ってから、匙を回収台へ持っていった。

 この人には名前がある。私も知っている。ここでは呼ばない。呼ぶと誰かが振り向くからだ。


 回収台の脇に、割れた皿を入れる箱がある。今は三枚入っている。

 縁の数字は四〇〇と三八〇。もう一枚は割れ方が悪くて読めない。


 読めない皿は、もう誰の皿でもない。


 回収台の高さは私の腰より少し上だ。背の低い人は爪先立ちで皿を置く。置く時に音が鳴る。

 音が大きいと係員が振り向く。振り向かれても叱られはしない。ただ、振り向かれた人は次から静かに置く。


 朝の食堂を出る時、入口の掲示をもう一度見た。紙が少し反っていて、角が四つとも上を向いている。

 貼り替えた者がいるはずだが、いつ替わったのかは分からない。前に読んだ時と字の並びは同じだ。


 第二給餌は正午だ。

 昼の分は朝より少ない気がするが、皿の縁の数字は同じ四三〇だ。少なく感じるのは、朝より長く待つからだと思う。

 昼は係員が一人しかいない。一人だと入口を向く回数が増える。増えるので、朝より楽に渡せる。

 三八〇の人は昼のほうがよく残す。今日は四口分を移してきた。四口は八秒に入らない。だから二度に分けた。


 昼の食堂は朝より人が少ない。午前がふれあいの当番でない者は、昼を早めに済ませて出ていく。

 残る者は決まっている。遅い人と、遅い人の近くに座る者だ。近くに座るのは私を含めて三人いる。三人とも同じことをしている。


 昼の皿は朝より温い。朝は湯気が立つが、昼は立たない。同じ温度で出しているはずだと係員が言っていた。

 言われても、手のひらで分かる。朝の皿は持ったところが熱くて、少し持ち替える。昼はそのまま運べる。


 昼が終わると食堂の照明が半分落ちる。落ちると配膳台の上だけが残る。

 残った明かりの下で、係員が紙を書いている。書き終えると照明を全部消して出ていく。消えた食堂の匂いは、しばらく残る。


 昼の三八〇の人は、朝より少し速く食べる。速いというより、止まる回数が少ない。

 止まる回数は数えている。朝は六回か七回、昼は四回ほどだ。回数が減った日は、その週のうちに一度だけ多く残す日が来る。順番が決まっているように見えるが、決まっているのかは分からない。


 昼が終わると、三八〇の人は先に立つ。皿を回収台へ置いて、振り返らずに出ていく。

 私はその後で立つ。二枚を重ねると、下の縁は見えない。上の皿の四三〇だけが残る。


 配膳台の下に、使わない皿が伏せて積んである。数は数えていない。数えるのは自分の分だけだと決めてある。


 午後は洗濯の当番だった。

 寝具を集めて、袋に詰めて、洗濯室まで運ぶ。袋は重い。重いというより、持つ場所がない。角を持つと縫い目が食い込む。

 洗濯室は湿っている。壁を触ると指に水が付く。ここで働く人は三人いて、みな私より年上だ。喋りながら畳む。畳む速さは喋っていない時と変わらない。

 私は運ぶだけで、畳むのには入らない。入るには申請が要る。申請すればトークンが増える。増えるけれど洗濯の当番は毎日ある。毎日あるものに申請を出すと、他のことが出来なくなる。


 洗濯室の人たちは、干す時に歌を歌う。歌詞は聞き取れない。同じところで全員が声を揃えるので、そこだけ分かる。

「せーの、で持ち上げるやつ」

 そう説明された。説明になっていないが、聞いていると持ち上げる場所は分かる。私は歌わない。歌わないまま角を持つ。


 洗濯室の窓は曇っている。拭いても内側からまた曇る。曇ったところに指で字を書く人がいる。

 今日は縦の棒が一本だけ引いてあった。誰が書いたのかは分からない。乾けば消える。消える前に、また誰かが何か書く。


 洗濯室から出ると、腕に洗剤の匂いが移っている。石鹸とは違う匂いだ。

 この匂いは夜まで残る。寝具からするのと同じ匂いなので、毛布を顔に近づけた時に自分の腕なのか毛布なのか分からなくなる。


 当番を終えて廊下へ出ると、日が傾いている。窓の高さが変わるわけではないのに、光の入る角度で床の明るい場所が動く。

 朝は壁際が明るく、夕は真ん中が明るい。明るいところを選んで歩く癖が、いつのまにか付いている。


 洗濯室の壁には棚があって、そこに使わなくなった袋が積んである。数えると十一枚。

 袋には番号が刷ってあるが、剥がれているものが多い。剥がれた袋は、もう誰の寝具を入れるものでもない。


 袋を運ぶ道で、K-0212とすれ違った。この人は畳む側に入っている。申請を出したのだと思う。

 すれ違う時に袋の角が当たった。当たっても、二人とも足を止めない。


 夕方、売店の前を通った。

 売店は資料館の手前にある。窓が一つ開いていて、そこで菓子と交換する。並んでいるのは三種類。硬いのと、柔らかいのと、粉のやつだ。粉のやつは一番安い。

 私は交換しない。並んでいる人を見て、それから通り過ぎる。通り過ぎる時に匂いがする。甘い匂いだが、完全栄養食の甘さとは違う。違うのは分かるが、何が違うのかは言えない。


 売店の窓の内側には棚があって、菓子の袋が並んでいる。袋には絵が刷ってある。果物の絵だ。

 果物というものを私は見たことがない。絵は見たことがある。絵と実物が同じ形をしているのかどうかは、確かめる方法がない。


 売店の前には椅子が二つある。買った者がそこで食べる。持ち帰る者もいるが、多くはその場で開ける。

 袋を開ける音は硬い。硬い音がすると、通りかかった者が一度だけそちらを見る。見てから、また歩く。私も見た。


 廊下で係員に呼び止められた。

「あ、あなた──」

 係員はそこで止まって、手元の紙を見た。見てから言い直した。

「J-0037。明日の当番は洗濯ではありません。園芸です」

「はい」

「上着を持ってきてください。外に出ます」

「はい」

 外、と言われた。園芸は塀の内側だ。それでも建物の外に出る。建物の外は外なのかどうかを、私はその場で聞かなかった。聞ける形の言葉が出てこなかった。


 紙に書いてあるのは番号だ。紙を見れば、番号が出る。


 園芸の当番は月に二度ほど回ってくる。土を触る仕事で、手袋が支給される。手袋は薄い。薄いので土の冷たさが分かる。

 冷たいのは表面だけだ。指を入れると、下のほうは少し温かい。何故そうなるのかを教わったことはない。


 園芸の当番になると、朝の給餌が繰り上がると聞いた。出発が早いからだ。

 繰り上がると、三八〇の人と時刻がずれる。ずれた日は渡せない。渡せない日の翌日に、この人はよく残す。残した日は記録される。

 だから当番の前の日は、この人が少し多めに移す。多い日の翌朝は、鐘が鳴るまで耳の後ろが冷たくならない。


 園芸の道具は物置に置いてある。物置の前を通ると土の匂いがする。雨の日は強い。

 今日は降っていない。それでも扉の隙間から少し出ている。中で乾ききっていないものがあるのだと思う。


 居室に戻る。

 マットに座ると、朝の冷たさはもう無い。昼の間に日が入る部屋ではないが、それでも夜より温い。

 園芸の手袋は二種類ある。厚いのと薄いのだ。薄いほうが数が少ない。

 早く行けば薄いほうを取れる。取れた日は土の温度が分かる。分かったところで何も変わらないが、私は早く行く。


 腹に少し残っている感じがある。三口分と四口分。合わせて七口。

 七口が何グラムなのかは知らない。皿には量が刻んであるが、口には刻んでいない。

 それでも毎日七口ずつ増えていけば、いつか帯は動く。動けば皿は四六〇だ。四六〇になった日から、私はこの人に七口を渡す側へ回る。


 寝る前に匙のことを考えた。私の匙は先が平らで、この人の匙は丸い。丸いほうが一口が多い。

 だから三口分と言っても、私の三口とこの人の三口は同じではない。同じでないまま二人とも三口と数えてきた。


 夕方の点呼で、三八〇の人は四番目より前に呼ばれる。私は四番目だ。呼ばれる順は番号順ではない。

 この人が「はい」と答える声は小さい。小さいので、係員が二度呼ぶ日がある。二度目でようやく届く。

 今日は一度で届いた。届いた日は、たいてい昼をよく食べている。


 毛布は二枚のうち一枚だけ使う。四月はそれで足りる。

 使わないほうの一枚は、畳んで足元に置く。置いておくと、夜中に足が冷えた時にすぐ届く。


 寝る前に、皿の縁の刻みを指で思い出す。四三〇の四は、上の横棒が少し短い。

 毎日なぞっているので、目を閉じても順に出てくる。四、三、〇。ここまでが私の一日分だ。


 消灯の少し前、廊下に係員が来た。

 部屋の前で止まって、扉を開けずに言った。

「連絡です。来月の三日、個体記録票の更新があります」

「はい」

「全員、系統欄の確認をします。当日は居室で待機してください」

「はい」

 同じ知らせを、去年も聞いた。去年の更新の日は居室で待っていて、結局誰も来なかった。

 あとで聞いたら、記録票の更新は書面の上だけで済んだらしい。居室で待つ必要はなかった。


 係員は次の部屋へ行った。同じことを言っている。声は同じ高さで、間の取り方も同じだ。

 言い終えると、係員は紙に何か書いた。廊下で立ったまま書いて、それから次へ行った。

 書いていたのは、私が返事をしたという印だと思う。返事をしなかった部屋があれば、そこは印が付かない。


 系統欄、という語を私は知っている。記録票の上のほうにある欄だ。自分の票を見たのは、ずいぶん前になる。

 確認をします、と係員は言った。確認というのは、何かが書いてある時にするものだと思っていた。


──────────────────


給餌記録 令和二百十二年四月十日(土)


第一給餌 開始 〇七時〇〇分/終了 〇七時三四分

第二給餌 開始 一二時〇〇分/終了 一二時三一分

配膳担当 第一 二名/第二 一名


E区画 残食計量


 個体  規定量  残食  残食率

 E-0044 三八〇g 〇g  〇割

 G-0508 四六〇g 〇g  〇割

 J-0037 四三〇g 〇g  〇割

 K-0212 四三〇g 〇g  〇割

 M-0144 四〇〇g 〇g  〇割

 S-0071 四三〇g 〇g  〇割


備考 減量指示なし。


第二給餌の残食は、E-0044について当初〇・五グラムを計量した。皿の風袋差の範囲内であるため、記録は〇グラムとした。栄養管理課の手順に従った処理である。


回収台の移設後、皿の破損が三枚あった。いずれも縁が欠けたもので、うち一枚は刻印が読めない。読めない皿は使用しない。補充を請求した。


所見


本日も全個体で残食零を記録した。第四十二号通達の施行以降、当区画の残食率は零割で推移した。前年度同期は平均一割二分であった。


第一給餌の所要は三十四分であった。前週の平均は三十六分であり、二分短縮された。第二給餌は三十一分で、前週と同じであった。所要の短縮は、回収台の位置を入口寄りへ移した効果と思われる。移設は先月末に行った。


明日の第一給餌は、園芸当番の出発に合わせて十五分繰り上げる。対象はJ-0037ほか三名とした。


計量器の更新と第六項の新設が、いずれも効果を上げたものと考える。栄養管理課へ月次で報告する。


E-0044については、前年度に残食率が三日連続で二割を超えた記録が二度ある。いずれも通達の施行前であった。施行後は該当がない。担当獣医師への報告は要しない。


第一給餌の開始に遅れはなかった。鐘は四点とも正常に鳴った。前年度に遅延した十七日については、いずれも部品の摩耗が原因であったと記録されている。


(記録者 配膳係 高梨)

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