表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第一章 展示

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/18

第001話 ふれあい広場

国立人類保全園 第七園

ふれあい広場 利用案内(改定第七版)


一、開場は午前十時とする。閉場は午後四時とする。

二、接触は一個体につき一日三十分を上限とする。

三、接触の前後に手指の消毒を行う。消毒液は入口に備えた。

四、個体に食物を与えてはならない。給餌は所定の時刻に行う。

五、個体を強く押さえてはならない。座位を保てない場合は係員を呼ぶ。

六、頭部および頸部への接触は控える。

七、撮影は可とする。ただし発光装置の使用を禁じる。


本案内は令和二百十二年四月一日に改定した。第六版からの変更点は次のとおりであった。


・第二項の上限を四十分から三十分に改めた。個体の健康管理上の措置である。

・第六項を新設した。前年度に寄せられた来館者の要望を踏まえた。

・「触れ合い」の表記を「ふれあい」に統一した。広報課の申し出を受けて処理した。


係員心得(抄)


一、接触の開始時刻と終了時刻を記録すること。

二、個体の姿勢が崩れた場合は速やかに交代させること。

三、来館者に対し、個体の系統を説明しないこと。説明は展示解説板に委ねる。

四、個体の名を来館者に教えないこと。呼称は個体番号を用いる。

五、日報は閉場後三十分以内に提出すること。


記録様式について


接触実績は日報の所定欄に記入する。所要時間は個体一名につき一日三十分と定めた。よって欄には「三〇分」と記入する。実測値の記入は要しない。延べ接触者数は係員の目視により概算する。厳密な計数は業務に支障を来すため求めない。


前年度、一部の係員から実測値を併記したいとの申し出があった。集計様式が部門間で統一されている。これを理由に見送った。様式の変更は本部の所管である。


同様の申し出は五年前にもあった。当時の記録によれば、実測を行った週の数値が上限を大きく超えた。よって様式ではなく運用を見直すこととした。見直しの内容は当該年度の綴りに残っていない。綴り自体が保存年限を過ぎている。


前年度の実績


来園者数は延べ三十八万一千名であった。ふれあい広場の利用率は七割を超えた。当部門は当園の入場者数に最も寄与する。個体の健康管理を優先しつつ、接触機会の確保に努めるものとした。


苦情の受付は年間で十九件であった。内訳は次のとおりである。


・待ち時間が長い 九件

・個体が動かない 四件

・匂いが気になる 三件

・子どもが触れる高さに個体がいない 二件

・その他 一件


「個体が動かない」との申し出については、係員が当該個体の癖を説明して了解を得た。四件とも再度の申し出はなかった。匂いについては清掃回数を週三回から週五回に増やした。翌月以降の受付は零件となった。


係員の配置


開場中は入口に一名、広場内に二名を置く。うち一名は交代要請に対応する。待機列が三十分を超えた場合は、入口の一名が列の後方へ移り、待ち時間の目安を伝える。前年度、この措置を行った日数は百十二日であった。


なお、第二項の上限短縮に伴い、待機列の滞留が生じている。整理券の導入を検討中である。導入の可否は来月の部門会議に諮ることとした。


(掲示:ふれあい広場入口/資料館前/正門内側)


──────────────────


 金物が鳴る。柵に手が掛かった音だ。

 それから髪を分けられる。左から右へ、指が四本。

 爪が硬い。短く切ってある。地肌に当たって、そのまま耳の上まで来る。そこで止まる。止まってから、また戻る。

 指の温度は私より高い。手のひらは湿っている。汗ではなく、消毒液が乾ききっていないのだと思う。

 もう一つの手が来る。こちらは小さい。力の加減を知らない。髪を掴んで引き、それから離す。離す時に何本か抜ける。抜けた分の重さは量れない。

 匂いがする。石鹸と、その下に別の匂い。人の手には、洗っても残るものがある。何の匂いかは分からない。一日で二百も三百も重なると、濃さだけが増える。


 数えている。今は百七十のあたり。

 合成繊維のマットに座っている。朝一番は冷たい。座って三十分もすると私の体温で温まる。交代の時刻には、次の者が温かい面に座る。

 ふれあい広場は午前十時に開く。開く前に係員が入口の消毒液を補充する。押す度に、しゅ、と音がする。その音が四百回ほど続くと昼が来る。

 背中に名札が付いている。J-0037と刷ってある。触る人からは見えない位置にある。触るのに番号は要らない。


 開場までの十五分、私たちは柵の内側で待つ。

 待つ間は座っていてよい。立っていてもよい。どちらでもよいと言われているが、立つ者はいない。立てば来館者から見えるのが早くなる。早く見えても、触られる時刻は変わらない。

 柵の外では列がもう出来ている。先頭の人は毎回ちがう顔だが、待ち方は似ている。柵に手を掛けて、少し前かがみになる。


 小さい手が、また来る。

「ママ、これ、あったかい」

「そうよ。生きてるからね」

「うごく?」

「動くわ。でもね、あんまり強くしちゃだめ。痛いから」

 痛い、という語が出る。私は動かない。動かないのが正しい。姿勢が崩れると係員が呼ばれる。

「にんげん、さわった」

 子どもがそう言う。母親が笑う。

「そう。人間さわったね。おうちで話しなさい」

 手が離れる。次が来るまでに二秒か三秒ある。その間だけ私の頭の上には何もない。


 点灯は六時。目が覚めるのはもう少し前だ。

 覚めてから起きるまでの間に、体の何処が痛むかを確かめる。今日は左の肩。昨日は腰。痛む場所は毎日変わる。変わらない日は、たいてい前の日に端へ座らされている。

 顔を洗う。水は冷たい。冷たさで指の関節が固くなり、開場までに戻る。戻らない朝もある。手が思うように動かないまま開場を迎える。座るだけなら支障はない。


 座る場所は毎日決まらない。真ん中の日と、端の日がある。決めるのは係員だ。

 真ん中は手が多い。端は少ない。今日は真ん中だった。

 多い日は数が伸びる。伸びた日は、係員が私の欄に何かを書き足す。書き足された日の次も、たいてい真ん中に座れる。だから私は多いほうがいい。

 端の日は肩から力が抜ける。抜けたまま四時間座ると、夜に背中が痛む。


 数え方は決めてある。一つ触られたら一つ数える。同じ人が二度触れば二つ数える。


 接触の前後に消毒をする。するのは来館者で、私ではない。

 入口の容器を押すのは彼らの手だ。押した手が乾ききらないまま私に届く。私の髪には、毎日その液が少しずつ移る。


 靴底が硬いと大人。走る音は子ども。ゆっくり来て止まる音は、たいてい触らずに見るだけで帰る。

 柵は三度に一度、鳴らない。鳴らない人は柵から離れて立っている。離れて立つ人の手は、届いても軽い。


 百を過ぎた頃、髪の分け目が変わる。

 同じ側から触られ続けると髪が寝る。寝た髪には指が入りにくい。来館者は少し強く押す。首が動くと係員が見る。

 だから私は時々わざと座り直す。座り直せば分け目が戻る。この工夫を覚えるのに三年かかった。誰にも教わっていない。

 係員は入口に立つ。時計を見ない。列を見ている。列が長い間は時計を見なくてよいものらしい。


 午前の途中で、係員が私の肩に手を置く。押し下げるように置く。私は肩を下げる。

 下げると背中が伸びて、頭の位置が二センチほど落ちる。子どもの手が届きやすい高さだ。

 置かれるのは一日に二度か三度。置かれた回数を私は数えていない。


 時計は入口の柱にかかっている。私の位置からは文字盤の下半分しか見えない。上半分は柱の影に入る。

 金物の縁と、針の付け根の小さな輪だけが光る。

 正確な時刻は、影から出てくる針で数える。長い針が柱から出て、また隠れるまでが十五分。四回で一時間。今日はそれを十八回数えた。


 置くだけの手がある。触れたところで止まって、それから離れる。撫でる手は前から後ろへ動く。これが一番多い。掴む手は子どもに多く、掴んでから、掴んだことに気づいて緩める。

 三つに入らない手が、去年の秋に一度だけあった。その人は私の耳の後ろに指を当てて、そのまま動かさずに二十数えた。脈を見ていたのだと思う。何も言わずに離れて、それきり来ていない。


 男の人が二人で来て、片方だけが触った。

「思ったより硬いな」

「そう?」

「髪が。もっと柔らかいと思ってた」

 触らなかったほうが写真を撮り、触ったほうが手を消毒し直した。容器を二度押していた。

 二度押す人は多い。一度では足りないと感じるらしい。


 年配の女の人が来て、私の手のひらを上に向けさせた。

「あら、あったかい」

 そう言ってから、自分の手を私の手のひらに重ねた。重ねただけで、動かさない。三十数える間そのままでいて、それから離した。

 離す時に「ありがとうね」と言った。

 礼を言われたのは、今年で多分二度目だ。一度目は正月だった。


 私の右で、別の個体が同じように座っている。K-0212という。私より二つ年上で、髪が長い。長い髪は手が多く来る。

 この人は今日、二度だけ首を動かした。二度とも係員が来て、来館者に何か言った。来館者は手を引っ込め、少し離れ、それからまた近づいた。近づく速さのほうが、離れる速さより遅い。

 私はまだ一度も呼ばれていない。呼ばれないほうがいい。呼ばれた回数は書かれる。


 K-0212の髪は私より二十センチ長い。長い分だけ手が重ならないので、列の進みが速い。速い日はこの人の数が私より伸びる。

 今日は伸びなかったらしい。首を動かした分だけ止まったからだと思う。


 十一時三十分に、いったん外される。

 控室と呼ばれている部屋に戻る。椅子が六脚。流しが一つ。石鹸は固形で、真ん中がへこんでいる。窓は高い位置にあって、空は見えるが地面は見えない。

 手を洗う。三度洗う。四度目はしない。石鹸が減るのが早いと補充までが空く。空いた週があって、その時は全員が水だけで洗った。水だけでは落ちない。

 水が冷たい。四月の水はまだ冷たい。腕を出したまま数えると二十まで我慢出来る。二十一で引っ込める。今日は二十三まで我慢した。誰も見ていない。


 控室には他にも人がいる。六脚の椅子はいつも埋まらない。四人の日が多く、五人の日はまれだ。

 誰も多くは喋らない。午後にまた声を使うからだ。


 流しの縁に水の跡が残っている。輪の形で、乾くと白く残る。拭く布は掛かっていない。

 誰かが手で拭った跡が、輪の一部だけ切れている。切れた側から次の輪が重なる。


 窓の下に椅子が二脚ある。そこは午前だけ日が当たる。午前は私たちが広場にいるので、座る者はいない。座れる時刻には日が回ってしまう。


 それでも誰かが毎日、その椅子の向きを窓のほうへ直す。私は直す人を見たことがない。


 座り続けた日は、腰の下のあたりが重い。重いというより、そこに何かが溜まる。立つとしばらく残り、歩くと薄れる。薄れきる前に、また座る時刻が来る。

 昨日はよく眠れた。眠れた日は数を数えやすい。眠れない日は途中で分からなくなり、最初からやり直す。やり直した日の数は少なめに出る。

 空腹は十一時ごろに来る。耳の後ろのあたりが少し冷たくなる。外されるまでの三十分は、その冷たさを数えて過ごす。


 隣で年上の男が洗っている。この人はよく笑う。洗いながら笑い、水を止めてからも笑っている。

「今日は多いね」

「多いです」

「多い日は早い」

 早い、というのが何のことか私は聞かない。聞かなくても、この人は次を言う。

「トークン、貯めてるんだろ」

「はい」

「何買うの」

「まだ決めてません」

 私は決めている。

「言わないってことは、決まってるってことだよ」

 当てられた。私は口を閉じたまま少し笑う。この人も笑う。いつも笑っているので、私が笑ったことに気づいたかどうかは分からない。

「内緒にしとくよ」

「はい」

 この人は手を拭かない。振って乾かす。振ると水が飛ぶ。飛んだ水が私の腕にかかる。かかっても謝らない。笑っている。

 出ていく時、この人は扉のところで一度止まる。止まって、私のほうを見る。見てから何も言わずに出る。毎日そうする。何を言おうとして止まるのかを、私は三年前から知らない。


 名札は月に一度、新しいものに替わる。替えるのは印字が薄くなるからだと聞いた。

 薄くなるのは背中が擦れるためで、擦れるのはマットに寄りかかるためだ。寄りかかるなとは言われていない。


 昼の給餌は十二時に始まる。

 食堂に入ると、蒸れた甘い匂いがする。完全栄養食は温めると甘くなる。甘いけれど、砂糖の甘さとは違う。何度食べても、これが何の味なのかを言葉に出来ない。それを毎日二回食べている。

 私の分は四百三十グラム。皿の縁に数字が刻んである。刻んであるのは配る人のためで、食べる人のためではない。それでも私は毎回その数字を見る。

 食べ終わると、また手を洗う。三度。


 食堂は音が響く。皿を置く音。椅子を引く音。誰かが咳をすると端まで届く。

 私は窓に近い席に座る。窓は高くて外は見えないが、光は入る。皿の縁の数字が、その光で少しだけ読みやすい。


 午後の分が始まる。

 午後は子どもが増える。学校が終わる時刻と重なるからだと係員が言っていた。学校というものは、生息環境展示の教室を見て知っている。机が並び、黒い板がある。あれは私たちが入る場所ではない。ガラスの外から見られる場所だ。

 午後の列は柵を二度折り返す。折り返すと進みが遅い。同じ一時間でも、朝より触る人の数は伸びない。

 午後の手は朝より小さい。小さい手は力が読めない。撫でるつもりで掴むし、掴むつもりで撫でる。加減を覚えるまでに何年かかかるのだと思う。


 午後の係員は、朝と別の人に替わる。替わると呼び方も変わる。朝の人は番号で呼ぶ。午後の人は「あなた」と呼ぶ。どちらでも返事は出来るが、番号のほうが早く反応出来る。

 名前で呼ばれることもある。滅多にない。名前で呼ぶのは規則で決まっていないからだと、前に聞いた。決まっていないことは、する人としない人がいる。

 名前で呼ばれた日は数えている。今年に入って四回。四回とも午後の人だった。


 来館者は私を名前で呼ばない。呼べない。教えてはいけないことになっている。

 だから柵の向こうから来る声は、いつも「これ」か「この子」だ。番号を読める位置に名札はない。


 名前で呼ばれた四回のうち、三回は雨だった。

 雨の日は来館者が少ない。人が少ないと係員に余裕が出るのだと思う。

 残る一回は晴れていた。何が違ったのかは分からない。分からないので、その日のことを一番よく覚えている。


 小さい子を肩に乗せた人が来た。乗せたまま柵に寄る。子どもの足が私の肩の高さに来る。

「さわってごらん」

 子どもは手を出さなかった。出さないまましばらく私を見ていた。

 見るだけの子は、たまにいる。見るだけの子のほうを、私はよく覚えている。


 二時ごろ、同じ色の服を着た子どもが二十人ほど来た。前が止まると後ろが詰まる。詰まると引率の人が数を数える。二十二まで数えて、もう一度最初から数え直していた。

 二十人はよく喋る。喋りながら触る。触りながら別の子の名前を呼ぶ。呼ばれた子が振り向くと、手だけが私の頭に残る。残った手は動かない。動かない手は重い。

 引率の人が「順番に」と何度も言った。順番は子どもたちの間にある。


 二百五十を過ぎたあたりで、写真を撮る人が来た。

 撮影は許されている。光るものは使えない。だから薄暗い日は、みな近づいて撮る。近づくと息がかかる。息は手より温かい。

 撮った人は画面を見て、少し首をかしげ、もう一度撮る。二度目の時、連れが「もっと寄ってもらえば」と言った。寄る、というのが私に向けられた語なのかどうか分からなかった。動いてよいという合図が出るまで、私は動かない。

 結局その人は自分のほうが寄って、それで済ませた。外に出た私の写真は、私より先に外を見る。


 二百八十を過ぎると、頭皮の感覚が鈍る。

 触られているのは分かるが、何処を触られているかが分かりにくい。左右の区別が遅れる。遅れると数え間違えそうになるので、その頃はいっそう気をつける。

 鈍った感覚は夜までに戻る。戻る途中が一番痒い。


 三百を過ぎた頃、手が止まる。

 止まったのは、触っていた子どもがしゃがんだからだった。私の顔と同じ高さに来る。目が合う。目が合うのは珍しい。たいていの人は髪か肩を見ている。

「おねえちゃん、そとから きたの?」

 私は答えない。答えてよいかどうかを知らない。

 係員が来る。

「この子はね、ここで生まれたんですよ」

「ここで?」

「そう。ここで生まれて、ここで大きくなったの」

 子どもは私を見たままでいる。

「じゃあ、そと、しらないの」

 母親が来て、子どもの肩に手を置く。

「そういうことは、あとでね」

「そとって、どこ?」

「あとで」

 母親は子どもを立たせる。立たせてから私のほうへ会釈をする。私も頭を下げる。下げてよいのかは分からないが、下げないと係員が見る。

 母親の手は、子どもの肩に置かれたままだった。置いてから一度も動いていない。

 子どもの靴は片方だけ紐がほどけている。ほどけたまま歩いていった。


 二人は行ってしまう。次の手が来る。


 閉場の十分前に、係員が入口の板を裏返す。裏には「本日の受付は終了しました」と書いてある。

 裏返された後も、柵の外に何人か残る。残った人は板を読み、それから私のほうを見て、少し待って帰る。

 待つ時間は人によって違う。長い人で二分ほど。短い人はすぐに背を向ける。私はその二分を数えている。数えても、待っていた人が戻ってきたことは一度もない。


 柵の外で、その子が一度だけ振り返った。母親はもう歩いている。子どもは足を止めずに首だけ回した。

 それから前を向いた。首を回した時間は、二秒に足りない。


 外、という語が耳に残る。

 その語を私は知っている。放送で聞き、書類の表紙で見る。来館者は毎日そこから来て、そこへ帰る。

 時刻は来る。外は来ない。


 四時が近づくと、係員が列の後ろを切る。切られた人はそこで帰る。

 切られる直前に駆け込む人がいる。駆け込んだ手は速い。速い手には加減がない。今日は三人いた。


 最後の十分は手が減る。減ると柵の音のほうがよく聞こえる。金物が鳴って、誰も来ない。

 鳴ってから何も来ない回数を、私は数えていない。数えるのは触られた数だけだと決めてある。


 三百四十二で終わった。

 係員が「はい、終わりです」と言う。私は立つ。立つ時に膝が鳴る。鳴ったのは今日で二度目。

 時計を見る。四時七分。

 開場が十時で、私の分が始まったのも十時ちょうど。昼の休みが一時間半。上限は三十分だと入口の板に書いてある。


 立ち上がってから最初の三歩は、足の裏が痺れている。痺れは階段の手前で抜ける。

 抜けたあとの数歩が一番歩きやすい。その数歩の間だけ、私は自分の速さで歩く。廊下には誰もいない。


 立ち上がる時、マットに私の形が残っている。窪みは浅い。次の当番が座るまでに戻る。


 控室に戻って、また洗う。三度。

 石鹸は朝より減っている。真ん中のへこみが深い。触ると指の跡がそのまま残る。明日の朝には、この跡は消えている。夜のうちに誰かが均すのか、それとも石鹸が自分で戻るのか、私は知らない。

 係員が入ってきて、板ばさみに何か書く。私たちのほうは見ない。書いて、出ていく。

 板ばさみの紙は一枚ではない。上から順に何枚も重なっていて、係員はいつも二枚目に書く。一枚目には何も書かない。一枚目は表紙なのだと思う。

 表紙に印刷された字は、遠くて読めない。


 廊下の途中で、K-0212とすれ違った。この人は先に外されている。

 髪が濡れていた。洗ってきたのだと思う。すれ違う時、爪の先が私の腕に当たった。当たっただけで、二人とも何も言わない。


 夕方の点呼がある。

 番号を順に呼ばれ、呼ばれた者は「はい」と答える。答えない者がいると、係員がもう一度呼ぶ。二度呼んでも答えない時は、居室を見に行く。去年、それが一度あった。見に行った係員は戻ってきて、点呼を最初からやり直した。何があったのかは説明されない。

 私の番号は前から四番目に呼ばれる。番号順ではない。呼ばれる順が何で決まっているのかは、六年経っても分からない。

 点呼の間、K-0212が私の前に立つ。首を二度動かした人だ。その話はしない。私も聞かない。

 代わりに、この人は毎日一つだけ数を言う。今日は「六」と言った。何の六なのかは教えてくれない。数を言うのは私だけではないらしい。


 K-0212は数を言うだけで、私が何を数えているかは聞かない。聞かれたら答えるかどうかを、私はまだ決めていない。


 居室へ戻る。

 私の部屋は廊下の突き当たりにある。E区画の廊下は少し傾いていて、突き当たりが一番低い。傘立てのような形の鉄の枠が置いてあるが、何を入れるものかは知らない。

 部屋のマットは冷たくなっている。朝と同じ冷たさに戻っている。誰も座らなかったからだ。私が温めるまで、あと三十分ほどかかる。

 壁に手をつくと、廊下側のほうが少し温かい。人が通るからだと思う。夜が深くなると、その差は消える。


 廊下の照明は点呼のあとで半分落ちる。落ちると壁の色が変わる。昼は白いが、夜は少し灰色に見える。

 同じ壁だと分かっているのに、毎晩そう見える。


 寝る前にもう一度手を嗅ぐ。石鹸の匂いがする。その下にまだ別の匂いがある。三度洗っても残る。四度洗えば落ちるのかも知れない。試したことはない。

 爪の先が白い。水に長く入れた日はそうなる。押すと戻る。戻るまでの時間が、去年より少し長い。

 毛布は二枚ある。一枚は薄い。四月は薄いほうだけで足りる。それでも二枚とも出しておく。出しておけば、寒くなった夜に起きて取りに行かなくて済む。

 枕の横にトークンを二枚置いてある。売店で菓子と交換出来る。私は交換しない。貯めている。何枚になったかは覚えている。覚えているが書いてはいない。書く紙がない。紙は申請すれば出るが、申請の理由を書く紙が要る。


 枕の下に手を入れると、そこだけ冷たい。頭で温めた面を裏返すと、また冷たい面が来る。何度裏返しても冷たい面はなくならない。

 一日の終わりに、指を握って開く。開く時、関節が少し引っかかる。前は頭皮のほうが先に疲れるのだと思っていた。今は両方だと思っている。


 天井に細い線が一本走っている。塗り直した跡だと思う。線の右と左で白さが違う。昼はほとんど分からないが、弱い明かりでは分かる。

 毎晩それを見てから目を閉じる。線が消えることはない。塗り直した人は、多分もうこの区画にいない。


 布団に入る前に、名札を外して枕の横に置く。外すのは夜だけだ。朝は起きてすぐ付ける。

 付ける時、印字の面が自分のほうを向く。向いたところで読めはしない。字は外側にある。


 目を閉じる前に、今日の数をもう一度思い出す。

 三百四十二。朝の百七十に、午後の百七十二を足した数だ。間違えていない。私は数を間違えない。


 係員の板ばさみには別の数が書かれている。中身は知らされない。

 針は十八回数えた。入口の板には、三十分と書いてある。


──────────────────


ふれあい部門 日報


令和二百十二年四月九日(金) 天候 晴 気温 十八度


開場 一〇時〇〇分/閉場 一六時〇〇分

来園者数 千四十二名


出勤個体 G-0508、J-0037、K-0212、A-0330、M-0144、S-0071(計六名)


接触実績


 個体  所要  延べ接触者数 交代要請

 G-0508 三〇分 三百四十一名 なし

 J-0037 三〇分 三百十八名  なし

 K-0212 三〇分 二百九十七名 二件

 A-0330 三〇分 三百二名   なし

 M-0144 三〇分 二百八十四名 なし

 S-0071 三〇分 三百十一名  一件


備品 消毒液 二本補充。石鹸 一個補充。

待機列 最長四十分。


特記事項 なし


所見


来園者数は前週の同曜日を上回った。天候によるものと思われる。J-0037は姿勢の保持が良好であり、交代要請がなかった。当該個体は今年度の審査の対象である。引き続き記録を蓄積することとした。


K-0212の交代要請二件は、いずれも来館者が頸部に触れたことによる。第六項の周知が不十分である。入口の掲示を拡大することを提案した。


待機列の滞留について、来館者三名から申し出があった。うち一名は上限短縮の経緯を尋ねた。係員は健康管理上の措置である旨を説明し、了解を得た。残る二名には整理券の導入を検討中である旨を伝えた。整理券の要望として二件を計上する。


閉場後にG-0508が居室へ戻る際、段差でつまずいた。負傷はなかった。在籍二十年であり、下肢の筋力低下を疑う。次回の定期検診で確認する旨を獣医師へ申し送った。


備品の消毒液は、四月一日から本日までの九日間で十一本を使用した。前年の同期間は七本であった。清掃回数の増加によるものと思われる。次月の請求に反映する。


本日の実測所要は記入を要しないため、記載していない。前年度の申し送りに従い、様式のとおり処理した。


翌日の出勤は五名とする。A-0330は獣医室の指示により休止する。理由の記載は求められていない。


J-0037は明日、当部門の当番から外れる。給餌後は洗濯へ回す。当該個体については、来月の審査に向けて所見欄の記載を厚くするよう部門長から指示があった。


(記録者 戸波)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ