第019話 ふれあい実習・初日
国立人類保全園 第七園
教育普及係
ふれあい実習 実施要領(学校団体用)
一、目的
児童および生徒が、ヒトという種の保全について理解を深めることを目的とした。
理解の程度は、引率者からの所感により把握する。
二、対象
小学校第三学年以上とした。第二学年以下については、平成二百四年度から受け入れを行っていない。
行っていない理由は、当時の記録に残っていない。
三、実施の時間
一団体につき九十分とした。内訳は解説三十分、館内の見学四十分、ふれあい二十分である。
ふれあいの時間は、団体の人数にかかわらず二十分とした。
四、ふれあいの方法
児童一名につき一回とした。一回の時間は三十秒を上限とした。
順番は担任が指示する。並び直しは担任の判断による。
触れてよい部位は、頭、肩、腕とした。顔および背は避けるよう指導する。指導は口頭による。
五、個体について
従事する個体は、当日の就業の割当による。氏名は伝えない。個体番号を伝えることも行っていない。
児童から個体の名を尋ねられた場合は、「番号で呼んでいます」と答える。番号を教えるか否かは、その場の係員による。
六、事前の指導
引率者は、事前に次の三点を児童へ指導する。
・大きな声を出さないこと
・光る撮影を行わないこと
・食べ物を与えないこと
三点目については、園内に食べ物の持ち込みが無いため、実際に生じた事例は無い。
七、記録
実施の後に教育普及係が実施報告を作成した。児童名簿は学校が保管した。園は写しを受け取っていない。
受け取らない扱いは平成百九十八年度から続いた。開始の経緯を記載した文書は残っていない。
実施報告に個体番号は記載しないこととした。記載を要する旨の定めを設けていない。
学校側の記録に個体番号が残るか否かについて、園は把握していない。学校側の記録は学校の所管である。
八、実施の実績
前年度の実施は二十七団体であった。児童および生徒の総数は千三百九名であった。
同一校の複数年の申込が多い。前年度の二十七団体のうち二十二団体が前々年度にも申し込んだ。
九、備考
本要領は年度ごとに見直すこととした。前年度からの変更は無い。
変更が無い年度が十一年続いた。
(作成 教育普及係/配付 各申込校)
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バスの窓は開かない。開かないので、外の音は聞こえない。聞こえるのはバスの中の音だけだ。
うしろの席がうるさい。うるさいのは、うしろの席が好きな人がうしろに座っているからだ。
ぼくは前から三番目の、窓ぎわに座っている。
席は先生が決めた。決めた紙が黒板に貼ってあって、みんな朝それを見る。ぼくの名前は右の列にあった。
中西悠人。三年二組。出席番号は二十一番。
窓の外は畑と、家と、また畑だ。同じものが何回も出てくる。
同じに見えるだけで、本当は違うんだと思う。前に父さんがそう言っていた。畑にも種類があるらしい。
バスの座席は古い匂いがする。布の匂いで、洗っていない感じの匂いだ。
顔を近づけると強くなる。近づけなければしない。ぼくは一回だけ近づけて、すぐやめる。
前の席の背中に網が付いていて、紙が入っている。取ってみると、この会社のバスの案内だった。
字が小さい。読めるところだけ読む。座席は四十五あると書いてある。ぼくのクラスは二十六人だから、二クラスでちょうどいい。
紙の裏に地図が刷ってある。線が何本もあって、どれがどれだか見分けが付かない。
真ん中あたりに丸が付いていて、その横に字が書いてある。字は小さくて読めない。読めないままで、ぼくは紙を網に戻す。
朝、家を出る時に母さんが「気をつけて」と言った。
何に気をつけるのかは言わなかった。いつも言わない。ぼくも聞かない。聞くと出るのが遅くなる。
先生が前に立って、マイクで話す。マイクは少し割れた音がする。
「みなさん、今日行くところは何をするところですか」
「どうぶつえん」
うしろの誰かが言う。みんなが笑う。ぼくも笑う。
「ちがいます。保全園です」
先生はそう言う。声はおこっていない。おこっていない時の先生は、言い直すだけで済ませる。
「ほぜんえん。守るところです。数が少なくなった生き物を、絶えないように守るところ」
絶えないという言葉は、前に習った。国語ではなく社会で習った。
絶えるというのは、いなくなって、もう出てこないことだ。もう出てこないというのがどのくらいのことかは、教科書に書いていない。
「今日会うのは、ヒトです」
先生がそう言うと、うしろがまた少しうるさくなる。
「知ってる」
「テレビで見た」
「うちのお母さん行ったことある」
「静かに。座って聞いてください」
先生は待つ。待つと静かだ。先生はいつもそうする。待っている間、先生はマイクを口から離している。
「ヒトは第四種指定の生き物です。第四種というのは、野に放してはいけないと決められた種類のことです」
放すというのが、外に出すことになる。金魚を池に放すと言うのと同じ言い方だ。
「なぜ放してはいけないのですか」
先生がそう聞く。手が三つ上がる。ぼくは上げない。
「はい、佐々木さん」
「かわいそうだから」
「そうですね。ほかにありますか」
「あぶないから」
「それもあります。でも一番の理由は、外では生きていけないからです」
外で生きていけない生き物を、中で守る。だから園がある。
ぼくはそれを聞いて、そうなんだと思う。ちゃんとしている、とも思う。ちゃんとしているものは、だいたい理由が一つで足りる。
バスが止まる。着いたらしい。窓の外に高い壁が見える。
正門は高い。門というより壁みたいで、真ん中に人が通るところがある。
通るところの横に看板が立っている。白い板で、字が書いてある。板の縁は少し茶色い。
字はぜんぶひらがなだ。
ここは まもるための ばしょです。
ぼくは読める。読めるように書いてあるからだ。
三年生ならみんな読める。一年生でも読めると思う。読めないのは、まだ字を習っていない子だけだ。
「先生、これなんでひらがななの」
ぼくは聞く。
「小さい子でも読めるようにでしょうね」
「ふうん」
その下にもう一行あって、そっちもひらがなだ。
なかの ひとたちに、おおきな こえを かけないで ください。
なかの ひとたち、と書いてある。ぼくはそこを二回読む。
二回読んでから、列に戻る。二回読んでも字は同じだった。同じなのに、二回目のほうが長くかかる。
看板の下に、小さい箱が置いてある。中に紙が入っていて、一部ずつお取りくださいと書いてある。
ぼくは一枚取った。取ってから、みんなが取っていないことに気がついた。気がついたけれど、戻さなかった。
中に入ると涼しい。外は暑かったのに、入ったとたんに涼しくなる。
匂いが変わる。プールの匂いに似ているけれど、水の匂いではない。もっとかたい匂いだ。鼻の奥のほうまで来る。
入口のところで、係の人が人数を数えていた。
指を折らずに、顔を見ながら数える。数える速さが速い。ぼくのところで一度止まって、それからまた進んだ。
止まったのは、ぼくが紙を持っていたからだと思う。
持っていてはいけないとは言われなかった。言われなかったので、ぼくはそのまま持っている。
床は平らで、靴の音がよく響く。五十一人が歩くと、音が一つにならない。
前のほうと後ろのほうで、音がずれて聞こえる。ずれるのは列が長いからだと思う。
天井が高い。学校の体育館くらい高い。高いところに窓があって、そこから光が入る。
入った光は床まで届かない。途中で薄くなる。薄くなったところに埃が見える。
壁の所々に扉がある。扉には字が書いてあって、関係者以外立入禁止と読める。
関係者というのが誰なのかは、書いていない。ぼくたちは関係者ではないのだと思う。今日来たばかりだからだ。
最初は解説だった。三十分ある。
大きい部屋に椅子が並んでいて、前に画面がある。画面に園の中が映る。椅子はぼくの学校のより柔らかい。
係の人が話す。先生ではなく、園の人だ。名札を胸に付けている。
「みなさん、ヒトを見たことはありますか」
手が全部上がる。ぼくも上げる。テレビで見たことがあるからだ。
「本物はありますか」
手が減る。残ったのは六人くらいだった。
「今日、初めての人が多いですね」
係の人は画面を変える。骨の絵が出る。骨は白くて、頭のところが丸い。
「ヒトは哺乳綱のサル目、ヒト科ヒト属です。二本の足で歩きます」
二本の足で歩くのは知っている。テレビで歩いていたからだ。
「世界中の保全施設を合わせて、およそ三千頭がいます」
三千。ぼくの学校は全部で四百人くらいだ。三千だと学校が七つとちょっとだ。
少ないのか多いのか、ぼくには決められない。少ないから守っているのだから、少ないのだと思う。
「当園には四百十二頭います」
四百十二。学校とだいたい同じ数だ。
学校とだいたい同じ数の生き物が、この中にいる。ぼくはそれを聞いて、へえ、と思う。
画面がまた変わって、食べ物の写真が出る。白いものが皿に入っている。
「完全栄養食といいます。これだけで足ります」
「おいしいんですか」
誰かが聞く。係の人は少し笑った。
「食べたことがないので、分かりません」
みんなが笑う。ぼくも笑う。係の人も笑っている。
笑ってから、係の人は次の画面に進んだ。次は寝ているところの写真だった。
次は見学だった。四十分ある。
通路をぐるっと回る。順路は一方通行で、戻ってはいけないと言われる。戻りたい人がいたらどうするのかは、聞かなかった。
ガラスの部屋がいくつかある。中に人がいる。
最初の部屋には二人いた。座っている。こっちを見ていない。
「見てないね」
となりの佐々木さんが言う。
「見てないな」
「テレビだと見てた」
テレビだと見ていた。テレビの中の人は、こっちを向いて何かしていた。
ここの人は向いていない。向いていないほうが本当なのだと思う。テレビは撮る人がいるからだ。
二つ目の部屋には一人いた。その人は立っていて、こっちを見る。
目が合う。合ってから、その人はよそを見る。よそを見てから、また少しこっちを見る。
ぼくは手を振る。振ったけれど、返ってこない。
係の人が「ガラスを叩かないでください」と言う。ぼくは叩いていない。振っただけだ。それでも言われたのは、ぼくたちのほうだったと思う。
ガラスは厚い。手を当てると冷たい。
冷たいのは、向こうが涼しいからではなくて、ガラスがそういうものだからだと思う。夏でもガラスは冷たい。
部屋の前に板があって、字が書いてある。
こっちの字はひらがなではない。漢字がまざっている。ぼくには読めないところがあった。
「先生、これ読めない」
「どれ」
「これ」
「ざっしょく。何でも食べるってこと」
「ふうん」
板には数字も書いてある。数字は読める。
寿命の欄に、七十八年と書いてあった。七十八年は長い。おじいちゃんが七十歳だから、それより長い。
妊娠期間の欄もある。二百六十六日と書いてある。
二百六十六日は一年より少ない。犬より長いのかどうかは、ぼくには分からない。犬の日数を知らないからだ。
通路の途中に階段がある。上に別の建物が見える。石でできていて、窓が細い。
「あれは資料館です。今日は行きません」
係の人がそう言う。行かない理由は言わない。ぼくは聞かなかった。時間が無いのだと思う。
ふれあいの前に、もう一度手を洗うように言われた。
洗うところは通路の途中にある。石鹸は液体で、押すと出る。押す音がみんなの分で続く。
洗ってから、係の人が一人ずつ手を見た。見るだけで、何も言わない。
見終わると次の人だ。ぼくの番も何も言われなかった。何も言われないのが普通なのだと思う。
最後はふれあいの時間だ。二十分ある。
広場は明るい。天井から光が入る。床にマットが敷いてあって、その上に人が座っている。
五人いた。横に一列に並んで座っている。座り方はみんな同じで、足を前に出している。
先生が言う。
「一人一回です。三十秒まで。頭か、肩か、腕を触ります。顔と背中はだめです」
「なんで顔だめなの」
「決まりです」
列が出来る。ぼくは前から十二番目だった。
前の人が触っているのを見ている。みんな頭を触る。頭が一番触りやすいからだと思う。
五人のうち、一番右の人は大人の男の人だ。ずっと笑っている。
その人の前が一番混んでいる。笑っている人のところに、みんな行きたがるからだ。ぼくもそっちに並ぼうとして、やめた。混んでいると三十秒より待つことになる。
ぼくは右から二番目の人のところに並ぶ。
その人は女の人で、高校生くらいに見える。大人ではないと思う。大人の人は前のほうの二人だ。
その人の後ろに、小さい札が付いている。背中のところだ。
字が書いてあるけれど、遠くて読めない。近づけば読めると思う。
前の人が触っている間、その人は同じ格好で座っている。
背中は動かない。触られているのは頭なのに、背中が動かないのがふしぎだ。ぼくなら少し動くと思う。
係の人が横に立っている。立っているだけで、何もしていない。
何もしていないけれど、いなくなりはしない。ずっと同じところに立っている。
順番が来る。
近くで見ると、髪が細い。分け目が右にある。分け目のところだけ、地の色が見える。
ぼくは手を出す。出してから、置く場所を迷う。頭にした。
あたたかい。思っていたより、あたたかい。
ぼくの手のほうが冷たいくらいだ。バスの中は涼しかったから、そのせいかも知れない。
髪はかたい。テレビで見た時は柔らかそうだったのに、触るとかたい。
なでると、指が引っかかるところがある。引っかかるところは真ん中ではなく、右のほうだ。分け目のあたりだ。
三十秒はけっこう長い。
係の人が横で数えている。声には出していない。指を折っている。折り方は五本ずつではなくて、一本ずつだ。
その人は動かない。ぼくが触っている間、首も肩も動かない。
息はしている。息をすると肩が上がる。上がる幅は小さい。小さいけれど、見ていれば分かる。
目は何も見ていない。前を向いているけれど、前に何も無い。
前にあるのは、並んでいるぼくたちだ。ぼくたちは何かではないのだと思う。見ていないのだから、そうなる。
ぼくは横に立っているので、その人の横顔が見える。横顔はまっすぐで、口は閉じている。閉じた口の端が少し下がっている。
下がっているのは、一番右の人と逆だ。あっちの人はずっと上がっている。
同じところに座っているのに、二人は違う顔をしている。同じ顔なのだと思っていた。
二十秒くらいで、ぼくはもう触るところが無くなった。
頭は一回なでれば終わる。二回なでても同じだ。三回目からは、なでているだけだ。
うしろの人が待っている。待っている人がいると、早く終わらせたくなる。
でも三十秒までいいと言われた。いいと言われた分は使いたい。ぼくは手を置いたままにした。
置いたままにしていると、手のひらの温度がその人と同じになってくる。
同じになると、あたたかいのか分からなくなる。分からなくなってから、ぼくは手を動かした。
ぼくは手を離す。離してから、言う。
「ありがとうございました」
言ったのは、そう習ったからだ。学校で、何かしてもらったらお礼を言いなさいと習った。
でもこれは、してもらったのかどうか分からない。分からないけれど、言った。
「はい」
お礼を言ったら、返事がきた。
ぼくは立ったままで、その人を見る。その人はこっちを見ている。
目が合っている。合ったままで、どちらも動かない。動かないのは、動いてはいけないからかも知れない。
「はい、次の人」
係の人が言う。ぼくは横へどく。
どいてから、ぼくは列のうしろへ戻る。
戻ったのは、もう一回やりたかったからだ。並び直してはいけないとは言われていない。
列は短くなっている。うしろのほうの人はもう触り終わっている。
だから二回目はすぐに来た。並んでから一分もかからなかったと思う。
二回目の順番が来る。
同じ人のところへ行く。その人はさっきと同じ場所に座っている。座り方も同じだ。
ぼくは頭を触る。さっきと同じところだ。
さっきより短くやめる。やめてから、また言う。
「ありがとうございました」
「はい」
返事は同じだった。同じ言い方で、同じ大きさだ。
ぼくはそれを聞いて、少しへんな感じがする。へんな感じというのは、うまく言えない。言えないので、そのままにしておく。
三回目も並ぶ。
三回目の時、うしろの佐々木さんが「また?」と言う。
「また」
「なんで」
「なんとなく」
なんとなく、と言ったのは、理由が無かったからだ。
理由が無いことを、ぼくは今まであまり言わない。いつもは何か言う。今日は出てこなかった。
三回目は頭ではなく、腕にした。
腕はもっとあたたかい。頭より熱い。腕には細かい毛が生えていて、触ると寝る。手を離すと戻る。
戻るのを見ていたら、係の人が「はい、時間です」と言う。
ぼくは離す。離してから、言うのを忘れた。
言い忘れたことに気がついたのは、列から出たあとだった。
戻って言おうかと思ったけれど、もう次の人が触っている。次の人は女の子で、頭を両手で触っていた。両手はだめだとは言われていない。
その女の子も、終わってから何か言った。何と言ったのかは聞こえない。
でもその人は、また「はい」と言ったと思う。口の形がさっきと同じだったからだ。
ぼくは列の外から見ていた。見ていると、みんな同じことをしている。
手を出して置いて、離してから何か言う。言わない子もいる。言わない子のほうが早く終わる。
二十分が終わる。
先生が「集合」と言って、みんな出口のところに並ぶ。並ぶ時、また出席番号の順になった。
出る時、ぼくはもう一回だけ振り返る。
五人はまだ座っていた。次の学校が来るのかも知れない。来ないなら、五人はあのままで座っているのだと思う。
出口の手前に、手を洗うところがあった。
係の人が「洗ってください」と言う。全員が洗う。石鹸は液体で、押すと出る。ぼくは二回押した。
洗いながら佐々木さんが言う。
「なんで洗うのかな」
「決まりじゃない」
「あっちも洗うのかな」
「洗うと思う」
洗うと思ったのは、洗わないと汚いからだ。
汚いというのは、ぼくたちの手が汚いということになる。どっちが汚いのかは、看板にも板にも書いていなかった。
バスに戻ると、中があつくなっている。
窓は開かない。開かないので、しばらくあついままだ。座席の布の匂いが、朝より強い。
先生がマイクで話す。
「今日のことを、来週の作文に書いてもらいます。何を書いてもいいです」
「なんでもいいの」
「なんでもいいです。思ったことを書いてください」
思ったこと。
ぼくが思ったのは、あたたかかったということだ。それと、髪がかたかったこと。
もう一つは、返事があったことになる。
でもそれは書きにくい。書くと、返事があってふしぎだったみたいだ。ふしぎだったわけではない。ふしぎだったのなら、その場で何か聞いたはずだ。
ぼくは何も聞かなかった。聞かなかったのに、今こうして思い出している。
思い出しているのは、覚えているからだ。覚えているものは、作文に書ける気がする。
それを書けばいいのかな、と思う。
でも作文にするには短い気がする。原稿用紙は二枚あるからだ。二枚は四百字だ。あたたかかったと髪がかたかったで、四百字にはならない。
手を見る。手はもう冷たくない。バスの中があついからだ。
それでも、触った時の感じは残っている。残っているのは指の腹のところで、そこだけまだ何かある感じがする。
佐々木さんが横から言う。
「三回触ったの、先生に言った?」
「言ってない」
「怒られるかな」
「怒られないと思う」
怒られないと思ったのは、だめだと言われていないからだ。
だめだと言われていないことは、やっていいことだ。ぼくはそう思っている。今までそれで怒られたことがない。
バスが動き出す。窓の外がまた畑だ。
朝と同じ畑のはずだけれど、向きが逆なので違って見える。同じものでも、逆から見ると違う。
しばらくして、前のほうで先生が名前を呼び始めた。人数を数えているらしい。
番号順に呼ばれる。ぼくは二十一番なので、二十一番目に呼ばれる。呼ばれたら「はい」と言う。
「二十一番、中西」
「はい」
全員が呼ばれて、全員が返事をした。先生は紙に何か書いて、それから座った。
五十一人いて、五十一の返事があった。数が合っているから、誰も残っていない。
合っていなかったらどうするのかは、考えたことがない。
考えたことがないのは、今まで合わなかったことがないからだ。
うしろの席がまた少しうるさくなる。先生は今度は何も言わない。
帰りは言わないことが多い。行きだけ言う。理由は聞いていない。
家に帰って、母さんに話す。
「どうだった」
「あたたかかった」
「そう。よかったね」
「髪がかたかった」
「そうなの」
母さんは台所で何かしながら聞いている。こっちを見ていない。
見ていないけれど、聞いている。「ふうん」とか「へえ」とか言うからだ。
「あのね、ありがとうって言ったら、返事した」
母さんが手を止める。止めて、こっちを見る。
「そう」
「うん」
「なんて言ってた」
「はい、って」
母さんはまた手を動かす。動かし始めるまでに少し間があった。
「そうなの。じゃあ、ちゃんとお礼が言えたのね」
「うん」
「あちらは、何か言ってた?」
「はい、って」
「それだけ?」
「それだけ」
母さんは「そう」と言った。そう、と言う時、母さんは前より少し低い声だ。
低い声はいつもの声より短くなる。短いので、続きが来るのかどうかが分からない。今日は来なかった。
ぼくは水を飲んだ。飲んでから、台所を出た。
出る時にもう一度振り返ると、母さんはまだ同じところに立っていた。手は動いている。
ぼくは自分の部屋へ行く。
机の上に原稿用紙を出して、置く。まだ書かない。来週までに書けばいい。
カバンから、もらった紙を出した。園でもらった紙で、絵が刷ってある。
絵はヒトの絵だ。写真ではなくて、描いた絵だ。描いた絵のほうが、今日見た人より笑っている。
紙の下のほうに小さい字がある。読める字と読めない字がまざっている。
読めるところだけ読むと、たいせつに、と書いてあった。前と後ろは読めない。
ぼくは紙を机の端に置いた。捨てるところではないから、置いておく。
置いておくと、そのうち下のほうに埋もれる。埋もれた紙は、そのうち無くなる。無くなる時のことは覚えていない。
鉛筆で、一行だけ書いてみる。
きょう、ほぜんえんに いきました。
書いてから、消した。
消したのは、ひらがなが多すぎると思ったからだ。三年生はもっと漢字を使う。先生にもそう言われている。
書き直す。
今日、保全園に行きました。
保全という字は、正門の看板には無かった。看板はひらがなだった。
なんで看板だけひらがななのだろう、とまた思う。思っただけで、聞く人がいない。母さんは台所にいる。
ぼくは鉛筆を置く。
置いて、自分の手をもう一回見る。指の腹のところは、もう何も無い。
窓の外はもう暗い。外の音が少し入ってくる。車の音と、犬の声だ。
犬は近所のうちのやつで、毎日この時間に鳴く。鳴く回数は決まっていない。数えたことはない。
明日も学校がある。明日は算数がある。
作文は来週だから、まだ書かなくていい。書かなくていいものは、だいたい忘れる。
でも今日のは多分忘れないと思う。忘れないと思う理由は、うまく言えない。
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国立人類保全園 第七園
ふれあい実習 実施報告
作成 教育普及係
実施日 令和二百十二年八月十八日
団体 市立第三小学校 第三学年(二学級)
一、実施
要領のとおり実施した。所要は九十分であった。
内訳は解説三十分、館内の見学四十分、ふれあい二十分である。時間の超過は無かった。
二、児童
児童は五十一名であった。引率は教員三名である。
児童名簿は学校が保管する。園は写しを受け取っていない。
三、ふれあい
児童一名につき一回とした。接触は五十一回である。
要領第四項のとおりであった。並び直しの事例について、担任からの申し出は無かった。
四、従事した個体
五名である。個体番号は本報告に記載しない。記載を要する旨の定めが無いためである。
従事の割当は当日の就業による。前日までに確定していない。
五、指導
事前の三点について、引率者から指導が行われた旨の報告を受けた。
館内において、撮影に係る注意を二件行った。いずれも光を伴う撮影であった。児童によるものではない。
六、所見
児童からの質問は、解説の時間に七件、見学の時間に四件あった。内容の記録は取っていない。
ふれあいの時間中の質問は無かった。
正門の掲示について、引率者から一件の申し出があった。内容は「児童が読んでいた」であった。
当該の申し出に対する対応は行っていない。申し出は口頭であり、受けた者の記憶による。
七、次回
本校の次回の申込は、来年度の同時期を予定している旨の連絡を受けた。
八、備考
当日の児童は三十一名であった。計数器は一台であるため、児童ごとの数は個体の側にのみ残る。
当日の当該五名に係る接触の総数は、飼育部門の日報によれば三百二回であった。
本実習に係る分の内訳は集計していない。




