第020話 唾液コルチゾール
機構 保全課
動物福祉指標調査 実施計画(第七園分)
計画年度 令和二百十二年度
実施 年二回(八月・二月)
一、目的
飼育下個体の福祉の状態を、生理指標により把握することとした。
把握した結果の用途は、本計画に定めなかった。
二、指標
唾液中のコルチゾール濃度によることとした。採取は綿棒法とした。
血中の測定は行わないこととした。採血が測定値そのものに影響するためである。
三、採取の方法
滅菌済の綿棒を舌の下に置き、三十秒保持することとした。保持の後、専用の容器へ移す。
容器には個体番号を貼付することとした。氏名は用いない。
採取に先立つ飲食の制限は定めなかった。第一給餌の後に採取することとなるが、この点についての記載は本計画に無い。
四、採取の時刻
コルチゾールは日内変動が大きい。したがって採取の時刻を固定する必要がある。
採取は午前九時から九時三十分の間に、一律に行うこと。この時間帯を外れた検体は、比較の対象としない。
五、採取の順序
保定その他の拘束に先立って採取すること。拘束による上昇は十五分から三十分の後に現れるため、拘束の後に採取した検体は、当日の状態を正しく示さない。
区画ごとの実施順は各園が定めることとした。定めた順序の記録は求めない。
六、検体の取り扱い
採取した検体は当日中に機構検査室へ送付することとした。冷蔵の要否は容器の種別による。
送付の様式は別紙の送付票とする。
七、結果の取り扱い
結果は機構 保全課が集計することとした。園への通知は年度末の総括をもって行う。
個体への通知は行わない。通知を要する旨の定めが無い。
八、前年度の実績
前年度の全機構の採取数は三万四千百件であった。うち再採取は千九百二十七件である。
再採取の理由別の内訳は集計していない。
九、費用
本調査に係る費用は機構が負担した。園の予算には計上しなかった。
綿棒および容器は機構から配付する。配付数は在籍数に一割を加えた数とした。一割は再採取の見込みによる。
前年度、配付数を超えて再採取が生じた園が二園あった。当該の二園については、翌日に持ち越して採取した。持ち越した分の取り扱いについて、定めは無い。
十、備考
本計画は前年度と同一であった。同一とした理由の記載は無い。
見直しの要否について、令和二百八年に検討した記録がある。検討の結論は記載されていない。
(保全課/配付 各園 獣医室)
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八月二十五日。水曜だ。
朝の給餌は普通に出た。四三〇の皿だ。食べる速さも普通にした。
八月の終わりは、朝だけ少し涼しい。
床に足を付けると、先週より冷たい。といっても、冷えているわけではない。温くない、という言い方が合う。
顔を洗う水も、少しだけ冷たくなった。
洗った後に顔の水が乾く速さが、先週より速い。それで季節が分かる。分かっても、暦は見られない。廊下に暦は貼っていない。
食堂の入口に紙が貼ってある。四隅を留めてあるのは画鋲で、右上の一つだけ色が違う。出たのは昨日だ。
紙には検査の日だと書いてある。何の検査かは無い。あるのは日付と、朝の給餌の後に廊下へ並ぶことだけだ。
「口のやつだって」
列で前の人が言った。
「口ですか」
「綿を入れるの。舐めるんじゃなくて、下に入れるんだって」
下、というのが舌の下だと分かったのは、廊下へ出てからだった。
九時に廊下へ並ぶ。壁から扉までの間は十二歩ぶんある。私はその半分のところに立った。順は居室のとおりだ。私は七番目だ。
採血の日と同じ順だ。それで、前に立つ人も変わらない。私の前はH-0009だ。
列は動かない。
九時になって並んで、九時十分になっても動かない。先を見ると、扉が閉まっている。
誰も何も言わない。口を開いても列が動かないからだ。
H-0009は壁に手を付けている。そのまま動かない。指も止まっている。列の中では動かさないと決めているのだと思う。
九時三十分になった。扉はまだ閉まっている。
私は口の中のことを考えていた。
朝の給餌の後、水を一度飲んだ。飲んでから三十分ほど経つ。口の中は乾いていない。舌を動かすと、まだ水がある。
それは食堂の隅の器で飲む。器は共用で、口を付けない飲み方をする。そのやり方は教わっていない。前の人がそうしているのを見て覚えた。
舌を上顎に付けて、離す。その時に音が出る。小さい音で、自分にしか聞こえない。
三度やった。三度とも同じ音だ。四度目で音が変わった。離す速さが違ったからだと思う。
十時に扉が開いた。列が動く。
前の三人分だけで、そこでまた止まる。そこからが長い。
「前の区画が押してるらしいよ」
後ろの人が言った。声は小さい。
「どこですか」
「D。Dの前がCで、Cの前がBでしょ」
「はい」
「上から順にやるから、下は最後になるの」
上から順にやる。E区画は一番下にある。だから最後だ。
坂の下にあるからだ。そこと、上から順にやることは、別のことのはずだと思う。ただそれだけで、並びは変わらない。
立っている時間が長くなると、足の裏の当たり方が変わる。
最初は踵に体重が乗る。しばらくすると外側へ移る。外側が痛くなると、今度は内側へ移す。その度に少し楽になって、また戻る。
私は片足ずつ、体重を移し替えた。数えると、十時から十時四十分までに十九回移している。
周りの人も同じことをしている。移す音がする。履物の裏が床を擦る音で、乾いた短い音だ。
それは列の中でばらばらに来る。重なることはない。合わせている人はいないので、当たり前だと思う。
前の人の背中を見ていると、肩の高さが少しずつ下がる。
そして、あるところで一度上がる。それから、また下がり始める。上がるのは息を大きく吸った時だ。
H-0009の肩は下がらない。壁に手を付けているからだと思う。
付けている手は、指の先だけが壁に触れている。手のひらは離れている。だから支えにはならないはずだ。それでも肩は下がらない。
口の中が乾いてきた。
始まりは上からだ。上顎の前が先に乾いて、それから舌の上が乾く。舌の下はまだ濡れている。
舌の下に指を入れて確かめるわけにはいかない。列の中で口に手を入れる人はいない。
だから舌で確かめる。舌の先を下の歯茎の裏へ当てると、そこはまだ濡れている。湿った面と乾いた面の境は、舌の真ん中あたりにある。
境は動く。十分ごとに確かめると、少しずつ前へ来る。
それは乾いている面積が増えるということになる。速さは一定ではない。喋った後は速い。
私は喋っていない。それでも乾く。
息をするだけで乾く。口を閉じていても、鼻から入った空気が奥を通る。そこで持っていく。
閉じたままでいると、こんどは唾が溜まる。溜まると飲む。飲むと減る。
飲まずに置いておくと、口の中に何かがある感じになって落ち着かない。それで飲む。
飲んだ分は戻ってくる。その速さも一定ではない。
朝の給餌の直後は速かった。今は遅い。朝から何も口に入れていないからだと思う。
十時五十分に、また列が動いた。
今度は長い。前の十人ほどが進む。そこまで来ると、扉の中の音が聞こえる。
中では番号が呼ばれている。一つから次までが短い。一人あたり一分もかかっていない。
短いのに、外の列は長い時間止まる。止まっている理由は、中の速さとは別のところにあるらしい。
止まっている間、扉の中から紙をめくる音がする。
それは連続しない。一枚めくって、しばらく置いて、また一枚めくる。置いている時間が長い。
番号を呼ぶ声は二種類ある。低いほうと、高いほうだ。
低いほうが多い。高いほうは、たまに間に入る。その時は番号ではなく短い言葉を言っている。中身はこの距離では取れない。
列の中で、一人が座り込んだ。
私の四つ後ろの人で、年上の女の人だった。膝を立てて、背中を壁に付けている。
誰も何も言わない。係員は列の先頭にいて、こちらを見ていない。
しばらくして、その人は自分で立った。壁を押して起き上がる。手の跡が壁に残る。跡は白い壁の上で、少し暗い色だ。
跡は乾くと消える。そこまでを私は見ていない。次に列が動いたからだ。
H-0009が呼ばれた。
この人は壁から手を離して、扉へ歩いていった。その間、手のやり場が無くなって、両手を体の横に付けている。
私は次だった。
中は獣医室の前室だ。診察室ではない。
机が二つあって、それぞれに人が座っている。片方が香月獣医師で、もう片方は知らない係員だった。
部屋の匂いは綿のものだ。窓は一つあって、閉まっている。硝子に指の跡が二つ付いていた。乾いた綿で、消毒のそれとは別になる。
鼻の先で止まる匂いだ。奥まで来ない。それなのに、部屋を出てからしばらく残る。
「J-0037」
「はい」
「座って」
私は椅子に座った。座面は硬くて、縁が膝の裏に当たる。脚の一本に紙が噛ませてある。机を挟んで向かい合う形にはならない。斜めだ。
香月獣医師は体をこちらへ向けている。書く時も体勢を変えない。背中は今日も見えない。
「口、開けて。舌を上げて」
私は開けた。この人は中を見る。光は当てない。見るだけだ。
「はい」
この人は袋から綿棒を出した。袋は個包装で、開ける時に音がする。
綿棒は普通のより太い。先の綿が長い。そのぶん、白いところが多く見える。
袋は机の脇の箱に捨てる。箱は膝の高さで、口が開いたままになる。縁に袋の切れ端が一つ引っかかっていた。箱の中には同じ袋が溜まっている。
積み方は平らではない。真ん中が高い。上から落とすからだと思う。
机の上には綿棒の入った箱がもう一つあって、そちらはまだ開けていない。
その側面に数が刷ってある。百と書いてあった。今日は四百以上採る。四つ以上要ることになる。
「口の中、渇いてない?」
この人が聞いた。
「渇いています」
「そうよね。今日は渇いてない人のほうが少ないと思う」
「はい」
「渇いてると出ないの。出ないと採り直しになる」
この人はそう言って、机の紙を一度見た。見て、何も書かなかった。
「舌の下に入れます。三十秒そのまま。噛まないでね」
「はい」
舌の下に入る。置かれた時は何も感じない。冷たくもない。
少し経つと、そこだけ何かがあることが分かる。というより、舌がそこを避けようとした。逃げると余計に当たる。
三十秒を係員が数えている。声には出していない。机の上の秒針を見ている。
私も数えた。三十秒は口の中で長い。
十秒までは何も起きない。綿がそこにあるだけだ。
十秒を過ぎると、舌の付け根のあたりが動く。自分で動かしているのではない。
二十秒を過ぎたあたりで、口の中の唾が動いた。
というより、出てきた。綿が置いてあるところへ集まってくる。そうなると、舌の下が急に濡れる。
出てくるのは、綿があるからだと思う。
綿が無ければ出てこない。無いものを測ることは出来ない。だから綿を入れる。そうすると出る。
入れる前の口の中と、入れた後の口の中は違う。
後のものを取っている。前のものを取る方法は、私には思い付かない。
三十秒で抜かれた。
その時、綿が歯茎の裏に少し当たった。当たっても痛くはない。
香月獣医師は綿棒を容れ物へ入れた。容れ物には番号が貼ってある。J-0037。
貼ってある紙は細い。上から巻いてあって、巻いた端が少し浮いている。採血の時のものと同じ形だ。
「はい、終わり。もう動かしていい」
「はい」
「今日はどれくらい待った」
この人がそう聞いた。
「一時間五十分です」
「そう。長いわね。今日は上から順にやってるから」
この人は書かなかった。入れる欄が無いのだと思う。紙は机の上にあって、表になっている。
番号が縦に並んでいて、その横に欄が二つある。どちらも小さい。
「時刻は書かないんですか」
私は聞いた。
「書くところが無いのよ。刷ってあるから」
「刷ってある」
「九時から九時半って、最初から入ってるの。だから書けない」
この人は紙の上を指した。その場所は私からは読めない。ただ、指の下に字があるのは見えた。
「じゃあ、何時でも同じですか」
「同じにはならないでしょうね」
この人はそう言って、少し黙る。それから、次を言った。
「なるはずがないの。朝と昼で違うから測る意味があるのに、書けないんじゃ意味が出ない」
私は返事をしなかった。その形が出てこない。
「はい、次の人」
係員がそう言う。私は立った。
立つ時、机の端の箱が見えた。
箱の中に容れ物が並んでいる。数えた。私のを入れて三十一本ある。
E区画は二百四十一名いる。三十一本は、まだ八分の一にもならない。
残りの人は今も廊下に立っている。数は二百を超える。その間、口は乾いていく。
廊下へ出ると、列がさっきより長く見えた。
長くなったのではなく、私が列の外に出たからだと思う。外から見ると、列は端が見えない。
H-0009が壁際に立っていた。手はもう壁に付いていない。終わった人は反対側の壁で待つことになっている。理由は言われていない。
「終わりましたか」
「終わった」
「口、乾きましたか」
「乾いた」
「どのくらい」
この人は少し考えた。
「歩数で言うと、三百くらい」
私はその言い方を覚えた。この人は時間を歩数で持っている。
そうすると、待った長さが距離になる。形が変わると、あとで思い出しやすいのかも知れない。
「いつも数えてるんですか」
「歩く時は数える」
「立っている時は」
「立ってる時は、乾くのを数える」
乾くのを数える、というのがどういう数え方なのかを、私は聞かなかった。
この人が壁のほうを向いてしまったからだ。そうなった後は、たいてい話が終わる。
三百歩というのは、片道八十九歩で三往復と少しだ。廊下を三往復する間、この人は口が乾くのを数えていたことになる。
昼の十二時を過ぎて、まだ列は続いていた。
給餌は後回しになった。そう告げられたのではなく、そういう順になっただけだ。
私は食堂へ行った。終わった人から順に食べてよいと言われた。
皿は四三〇で、いつもと同じだ。ただ、口の中がまだ変だった。綿が当たっていたところに、何か残っている感じがする。
最初の一口で消えた。
その後はもう、そこに何かがあったことも思い出せない。
食堂は今日、いつもより静かだった。
終わった人が食べていて、まだの人は水だけを前に置いている。水だけの人が多い。
水だけの人は黙っている。喋ると乾くからだ。
喋らない人が多いので、食器の音が大きく聞こえる。匙が皿に当たる音が、一つずつ分かれて聞こえる。
卓の向こうで、一人が咳をした。その人は後で口を押さえて水を飲んだ。
咳も喋るのと同じだと思ったのだと思う。同じかどうかは、掲示にも紙にも書いていない。
三八〇の人は午後の組だった。
「まだなんですか」
「まだ。二百番より後ろなの」
「二百」
「並び順だから、動かないのよ」
この人は水を飲んでいた。乾くと採り直しになると聞いたからだと言う。
「採り直しがあるんですか」
「あるって。染みないと、もう一回やるの」
「もう一回」
「一回目の後ろにまた並ぶのよ」
私はそこで一度、頭の中で並べた。指は使わない。列の中で指を動かすと、数えているのが分かる。
待つと乾く。乾くと綿に染みない。染みないと採り直しだ。
もう一度になった人は、一回目の列の後ろへ回る。回るとまた待つ。待つとまた乾く。
輪になっている。入口と出口が同じところにある。その中に入った人は、二回目のほうが乾いている。
輪から出る方法は、一回目で染みることだけだ。
そのためには、乾いていない必要がある。乾いていないためには、待っていない必要がある。
待たないためには、番号の並びが前でなければならない。並びは入った順で決まっていて、動かせない。
私は七番目だった。だから一回目で終わった。
乾いていなかったからで、そうでなかったのは七番目だったからだ。
これを、私は誰にも言わなかった。話す相手がいない。
三八〇の人には言えない。この人は二百番より後ろにいる。
「あんた、何時だった」
「十一時五十分です」
「早いのね」
「七番目だからです」
「並びで決まるのよね。それだけよね」
この人は自分の番号を言わなかった。E区画で二百番より後ろだということだけを言った。
二百番より後ろというのは、居室の並びのことになる。それは入った順で、年ではない。
三八〇の人は水を飲み続けている。器を置く音が卓に三度した。飲みすぎると腹が重くなる。それでも飲む。
「飲むと出るのよ」
「出ますか」
「出るでしょ。水を入れたぶんは」
出るかどうかを、私は確かめる方法を持っていない。
それで、この人が飲むのを見ているだけだ。飲む速さは一定で、二口ずつ置いて、また二口飲む。
午後、洗濯の当番へ行った。袋は七枚ある。
運びながら口の中を確かめた。舌を上顎に付けて離す。音は朝と同じに戻っていた。
洗濯室の窓は今日も曇っている。指の跡は四つあった。
そのうち三つは同じ高さにある。似た背丈の人が付けたからだと思う。四つ目は低い。
窓の下の枠に、白い粉が薄く溜まっている。指で拭くと跡が残った。
私は硝子の下に手を当てた。そうすると曇りが取れて、手のひらの形が残る。
それは周りから埋まってくる。速さは八月より遅い。窓が温かいからだと思う。
洗濯室の人たちは、今日は歌わなかった。
三人とも午後の組で、まだ採っていない。喋ると乾くと知っているのだと思う。知っているのに、誰かに聞いたわけではない。
歌わないので、干す時の合図が手だけになる。片方が挙げて、もう片方が持ち上げる。
合図は速い。歌より短い。それなのに、干し終わる時刻は昨日と同じだった。
二時に、私は掲示板の前を通った。
就業配置の紙はまだ貼ってある。掲示の期間は改定日から一月なので、月末までは残る。
順位表の九十七番目に、私の番号がある。
今月の展示は、今日までにまだ来ていない。月の残りは六日だ。それで九十七番目まで下りてくるかどうかは、上の人が何人残っているかによる。
私は数えなかった。数えると、来なかった時に数が残る。
それは消えない。増やさずに済むものだと、私は今日決めた。
三時ごろ、廊下を通ると、まだ列があった。
朝と場所は同じで、向きが逆になっている。長さは朝の半分ほどだ。扉の反対側から並び始めたからだと思う。
列の壁側に、白い跡が点々と付いていた。
手のものだ。高さは腰から胸のあたりで、大きさはまちまちだ。乾いていない跡は少し暗い。
跡の数を数えようとして、途中でやめた。
やめたのは、跡が重なっているところがあって、一つか二つか決められなかったからだ。そういうものを数えると、数が意味を持たなくなる。
列の先のほうに、H-0031がいた。この人は朝から並んでいない。午後の組だ。
「ねえ」
「はい」
「終わった?」
「終わりました」
「何時だった」
「十一時五十分です」
H-0031は前を向いたままで言う。
「私は二時から並んでる」
「一時間ですか」
「まだ動いてない」
この人はそれ以上言わない。私も言わなかった。
列の中の人に話しかけると、その人の口が乾くからだ。喋ると乾く。乾くと採り直しだ。
私はそれを、今日初めて知った。誰も教えてくれなかった。
列の中が静かなのは、決まりではない。
朝の列でも同じだった。誰も喋らなかった。
乾くと知っている人が黙っていて、知らない人がそれを見て黙ったからだ。私は知らない側だった。
知らない側の人は、知っている側の真似をする。そうすると同じ結果だ。
同じ結果になるので、知らないままで済む。私も今日まで済んでいた。
済まなくなったのは、三八〇の人が水を飲んでいるところを見たからだ。
それだけで、この人は説明していない。教わらないままのものを、私は今日一つ増やした。
四時に、廊下の列がまた止まった。
中で何かがあったからだと後で聞く。中身は訊かなかった。訊いても、列に並んでいない私には確かめようがない。
止まっている間に、E-0044が列から出てきた。
というより、外された。係員が名前ではなく番号を呼んで、列の横へ寄らせた。
「どうしましたか」
私は近くまで行った。
「二回目なの」
「染みなかったんですか」
「うん。三十秒やって、白いままだった」
この人は自分の口を指した。それから、下ろす。
「もう一回。後ろに並び直し」
列の後ろは、ここから見えないところにある。
この人はそちらへ歩いていく。速さはいつもと同じだった。速くも遅くもなっていない。
私は水を持っていなかった。届ける先も知らない。
食堂の水は食堂にある。列の途中で持ち出してよいかどうかを、私は誰にも聞いたことがない。
夕方の給餌で、五郎さんを見た。
ふれあいの控室ではなく、食堂だった。この人は端の卓にいて、一人で食べている。
「終わりましたか」
私は聞いた。
「終わったよ。三回やった」
「三回」
「二回染みなかったんだよ。三回目でようやくね」
この人は笑っている。そのまま口を開けて、舌を出してみせた。
「乾いてんだよ、ずっと。喋る仕事だから」
私も少し笑った。笑ってから、この人の舌の色を思い出した。
残っていたのは、白かったということだけだ。ほかの人のを私は見たことがない。自分のも鏡では見にくい。
「三回目は染みたんですね」
「染みた。水を三杯飲んだから」
「飲んでいいんですか」
「だめとは言われてないよ」
だめとは言われていない。
禁じられていないなら、やっていいことになる。この人はそう言って、また笑った。
消灯の前に、廊下をもう一度通った。
列はもう無い。床に履物の跡が幾つか付いていて、乾ききっていない。壁の跡だけが残っている。乾いたものは白く、まだ乾いていないものは暗い。そちらが少ない。
扉は閉まっていた。中の明かりは消えている。
扉の下から光は漏れていない。だから中に人はいないことになる。
扉の横に、綿棒の袋が一つ落ちていた。
拾ってみると、開けてある。中は空だ。開けた時の切れ目が斜めになっている。片手で開けたからだと思う。
袋の内側に、繊維が一本だけ残っていた。白くて、短い。
振っても落ちない。指で取ろうとすると、指のほうに付いた。そうなると、今度は指から落ちない。
私はそれを箱へ入れようとして、箱が見当たらなかった。
廊下に箱は無い。箱は中にある。そちらの扉は閉まっている。
袋は指の腹より軽い。中の紙は一枚で、折り目が一本ある。
私は袋を元のところへ戻した。持っていても置き場が無いからだ。
戻す時、床の同じ場所に置いた。合っているかどうかは、明日になれば分かる。
夜、居室で天井の線を見た。
線は右のほうが白い。八月の終わりでも変わらない。
口の中は普通に戻っている。
舌の下に指を入れて触ってみた。濡れている。朝と同じかどうかは、比べる道具が無い。
枕の下は百二十七枚のままだ。
今月の展示はまだ来ていない。順位表の九十七番目まで、あと何人かのところで月が終わりそうだ。
寝る前に、私は三十秒を数えた。
口の中で数えると長い。目を閉じて数えると、もっと長い。
三十秒を三度数えた。三度とも同じ速さで数えられたかどうかは、比べる道具が無い。
それで、三度数えたことだけが残る。
今日、私の口から出たものは容れ物に入って、箱に入って、外へ出た。
その先で何になるのかは、七月の分と同じだ。七月の分がどうなったかを、私はまだ聞いていない。
舌の下は乾いていない。
今が夜だからで、朝から数えて十二時間が経っているからだ。時間が経つと戻る。そこまでの長さは、誰も測っていない。
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国立人類保全園 第七園
唾液検体 送付票(控)
送付 獣医室
宛先 機構検査室 第二分室
送付日 令和二百十二年八月二十五日
一、検体
唾液(綿棒法) 四百十二件
採取時刻 〇九時〜〇九時三〇分
二、区画別
区画 件数 再採取
A 三十一 〇
B 六十四 二
C 三十九 三
D 三十七 四
E 二百四十一 三十八
三、再採取
再採取は四十七件であった。理由の記載は求められていない。
再採取分の採取時刻についても、上記のとおり記載した。
四、所要
開始は〇九時、終了は一七時四十分であった。所要は八時間四十分である。
所要を記載する欄は送付票に無い。本欄は余白に記した。
五、留意
採取の順序について、実施計画 五は保定に先立って行うことを求めている。
本園において保定は行っていない。列に並ばせたうえで順に採取した。列に並ぶことが保定にあたるか否かについて、実施計画に定めは無い。
並んでいた時間は記録していない。記録を求める欄が無いためである。
なお、区画別の実施順は上位の区画から行った。実施順の記録は求められていない。上位から行う根拠は、本園の内規にも実施計画にも無い。従前の例による。
六、配付数
綿棒の配付は四百五十三本であった。使用は四百五十九本である。六本が不足した。
不足分は前回の残りを充てた。前回の残りは冷所ではない場所に保管していた。保管の場所を定めた文書は無い。
七、備考
前回(本年二月)の送付は四百十三件であった。再採取は四十一件である。
前回と本回の間に、当園の在籍は一名減じた。減は転出による。
(送付 獣医室)




