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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第二章 等級

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第020話 唾液コルチゾール

機構 保全課

動物福祉指標調査 実施計画(第七園分)


計画年度 令和二百十二年度

実施 年二回(八月・二月)


一、目的


飼育下個体の福祉の状態を、生理指標により把握することとした。


把握した結果の用途は、本計画に定めなかった。


二、指標


唾液中のコルチゾール濃度によることとした。採取は綿棒法とした。


血中の測定は行わないこととした。採血が測定値そのものに影響するためである。


三、採取の方法


滅菌済の綿棒を舌の下に置き、三十秒保持することとした。保持の後、専用の容器へ移す。


容器には個体番号を貼付することとした。氏名は用いない。


採取に先立つ飲食の制限は定めなかった。第一給餌の後に採取することとなるが、この点についての記載は本計画に無い。


四、採取の時刻


コルチゾールは日内変動が大きい。したがって採取の時刻を固定する必要がある。


採取は午前九時から九時三十分の間に、一律に行うこと。この時間帯を外れた検体は、比較の対象としない。


五、採取の順序


保定その他の拘束に先立って採取すること。拘束による上昇は十五分から三十分の後に現れるため、拘束の後に採取した検体は、当日の状態を正しく示さない。


区画ごとの実施順は各園が定めることとした。定めた順序の記録は求めない。


六、検体の取り扱い


採取した検体は当日中に機構検査室へ送付することとした。冷蔵の要否は容器の種別による。


送付の様式は別紙の送付票とする。


七、結果の取り扱い


結果は機構 保全課が集計することとした。園への通知は年度末の総括をもって行う。


個体への通知は行わない。通知を要する旨の定めが無い。


八、前年度の実績


前年度の全機構の採取数は三万四千百件であった。うち再採取は千九百二十七件である。


再採取の理由別の内訳は集計していない。


九、費用


本調査に係る費用は機構が負担した。園の予算には計上しなかった。


綿棒および容器は機構から配付する。配付数は在籍数に一割を加えた数とした。一割は再採取の見込みによる。


前年度、配付数を超えて再採取が生じた園が二園あった。当該の二園については、翌日に持ち越して採取した。持ち越した分の取り扱いについて、定めは無い。


十、備考


本計画は前年度と同一であった。同一とした理由の記載は無い。


見直しの要否について、令和二百八年に検討した記録がある。検討の結論は記載されていない。


(保全課/配付 各園 獣医室)


──────────────────


 八月二十五日。水曜だ。

 朝の給餌は普通に出た。四三〇の皿だ。食べる速さも普通にした。


 八月の終わりは、朝だけ少し涼しい。

 床に足を付けると、先週より冷たい。といっても、冷えているわけではない。温くない、という言い方が合う。


 顔を洗う水も、少しだけ冷たくなった。

 洗った後に顔の水が乾く速さが、先週より速い。それで季節が分かる。分かっても、暦は見られない。廊下に暦は貼っていない。


 食堂の入口に紙が貼ってある。四隅を留めてあるのは画鋲で、右上の一つだけ色が違う。出たのは昨日だ。

 紙には検査の日だと書いてある。何の検査かは無い。あるのは日付と、朝の給餌の後に廊下へ並ぶことだけだ。


「口のやつだって」

 列で前の人が言った。

「口ですか」

「綿を入れるの。舐めるんじゃなくて、下に入れるんだって」


 下、というのが舌の下だと分かったのは、廊下へ出てからだった。


 九時に廊下へ並ぶ。壁から扉までの間は十二歩ぶんある。私はその半分のところに立った。順は居室のとおりだ。私は七番目だ。

 採血の日と同じ順だ。それで、前に立つ人も変わらない。私の前はH-0009だ。


 列は動かない。

 九時になって並んで、九時十分になっても動かない。先を見ると、扉が閉まっている。


 誰も何も言わない。口を開いても列が動かないからだ。

 H-0009は壁に手を付けている。そのまま動かない。指も止まっている。列の中では動かさないと決めているのだと思う。


 九時三十分になった。扉はまだ閉まっている。


 私は口の中のことを考えていた。

 朝の給餌の後、水を一度飲んだ。飲んでから三十分ほど経つ。口の中は乾いていない。舌を動かすと、まだ水がある。

 それは食堂の隅の器で飲む。器は共用で、口を付けない飲み方をする。そのやり方は教わっていない。前の人がそうしているのを見て覚えた。


 舌を上顎に付けて、離す。その時に音が出る。小さい音で、自分にしか聞こえない。

 三度やった。三度とも同じ音だ。四度目で音が変わった。離す速さが違ったからだと思う。


 十時に扉が開いた。列が動く。

 前の三人分だけで、そこでまた止まる。そこからが長い。


「前の区画が押してるらしいよ」

 後ろの人が言った。声は小さい。

「どこですか」

「D。Dの前がCで、Cの前がBでしょ」

「はい」

「上から順にやるから、下は最後になるの」


 上から順にやる。E区画は一番下にある。だから最後だ。

 坂の下にあるからだ。そこと、上から順にやることは、別のことのはずだと思う。ただそれだけで、並びは変わらない。


 立っている時間が長くなると、足の裏の当たり方が変わる。

 最初は踵に体重が乗る。しばらくすると外側へ移る。外側が痛くなると、今度は内側へ移す。その度に少し楽になって、また戻る。


 私は片足ずつ、体重を移し替えた。数えると、十時から十時四十分までに十九回移している。


 周りの人も同じことをしている。移す音がする。履物の裏が床を擦る音で、乾いた短い音だ。

 それは列の中でばらばらに来る。重なることはない。合わせている人はいないので、当たり前だと思う。


 前の人の背中を見ていると、肩の高さが少しずつ下がる。

 そして、あるところで一度上がる。それから、また下がり始める。上がるのは息を大きく吸った時だ。


 H-0009の肩は下がらない。壁に手を付けているからだと思う。

 付けている手は、指の先だけが壁に触れている。手のひらは離れている。だから支えにはならないはずだ。それでも肩は下がらない。

 口の中が乾いてきた。

 始まりは上からだ。上顎の前が先に乾いて、それから舌の上が乾く。舌の下はまだ濡れている。


 舌の下に指を入れて確かめるわけにはいかない。列の中で口に手を入れる人はいない。

 だから舌で確かめる。舌の先を下の歯茎の裏へ当てると、そこはまだ濡れている。湿った面と乾いた面の境は、舌の真ん中あたりにある。


 境は動く。十分ごとに確かめると、少しずつ前へ来る。

 それは乾いている面積が増えるということになる。速さは一定ではない。喋った後は速い。


 私は喋っていない。それでも乾く。

 息をするだけで乾く。口を閉じていても、鼻から入った空気が奥を通る。そこで持っていく。

 閉じたままでいると、こんどは唾が溜まる。溜まると飲む。飲むと減る。

 飲まずに置いておくと、口の中に何かがある感じになって落ち着かない。それで飲む。


 飲んだ分は戻ってくる。その速さも一定ではない。

 朝の給餌の直後は速かった。今は遅い。朝から何も口に入れていないからだと思う。


 十時五十分に、また列が動いた。

 今度は長い。前の十人ほどが進む。そこまで来ると、扉の中の音が聞こえる。


 中では番号が呼ばれている。一つから次までが短い。一人あたり一分もかかっていない。

 短いのに、外の列は長い時間止まる。止まっている理由は、中の速さとは別のところにあるらしい。


 止まっている間、扉の中から紙をめくる音がする。

 それは連続しない。一枚めくって、しばらく置いて、また一枚めくる。置いている時間が長い。

 番号を呼ぶ声は二種類ある。低いほうと、高いほうだ。

 低いほうが多い。高いほうは、たまに間に入る。その時は番号ではなく短い言葉を言っている。中身はこの距離では取れない。


 列の中で、一人が座り込んだ。

 私の四つ後ろの人で、年上の女の人だった。膝を立てて、背中を壁に付けている。


 誰も何も言わない。係員は列の先頭にいて、こちらを見ていない。

 しばらくして、その人は自分で立った。壁を押して起き上がる。手の跡が壁に残る。跡は白い壁の上で、少し暗い色だ。


 跡は乾くと消える。そこまでを私は見ていない。次に列が動いたからだ。


 H-0009が呼ばれた。

 この人は壁から手を離して、扉へ歩いていった。その間、手のやり場が無くなって、両手を体の横に付けている。


 私は次だった。

 中は獣医室の前室だ。診察室ではない。

 机が二つあって、それぞれに人が座っている。片方が香月獣医師で、もう片方は知らない係員だった。


 部屋の匂いは綿のものだ。窓は一つあって、閉まっている。硝子に指の跡が二つ付いていた。乾いた綿で、消毒のそれとは別になる。

 鼻の先で止まる匂いだ。奥まで来ない。それなのに、部屋を出てからしばらく残る。


「J-0037」

「はい」

「座って」


 私は椅子に座った。座面は硬くて、縁が膝の裏に当たる。脚の一本に紙が噛ませてある。机を挟んで向かい合う形にはならない。斜めだ。

 香月獣医師は体をこちらへ向けている。書く時も体勢を変えない。背中は今日も見えない。


「口、開けて。舌を上げて」


 私は開けた。この人は中を見る。光は当てない。見るだけだ。

「はい」


 この人は袋から綿棒を出した。袋は個包装で、開ける時に音がする。

 綿棒は普通のより太い。先の綿が長い。そのぶん、白いところが多く見える。


 袋は机の脇の箱に捨てる。箱は膝の高さで、口が開いたままになる。縁に袋の切れ端が一つ引っかかっていた。箱の中には同じ袋が溜まっている。

 積み方は平らではない。真ん中が高い。上から落とすからだと思う。


 机の上には綿棒の入った箱がもう一つあって、そちらはまだ開けていない。

 その側面に数が刷ってある。百と書いてあった。今日は四百以上採る。四つ以上要ることになる。


「口の中、渇いてない?」


 この人が聞いた。


「渇いています」

「そうよね。今日は渇いてない人のほうが少ないと思う」

「はい」

「渇いてると出ないの。出ないと採り直しになる」


 この人はそう言って、机の紙を一度見た。見て、何も書かなかった。


「舌の下に入れます。三十秒そのまま。噛まないでね」

「はい」


 舌の下に入る。置かれた時は何も感じない。冷たくもない。

 少し経つと、そこだけ何かがあることが分かる。というより、舌がそこを避けようとした。逃げると余計に当たる。

 三十秒を係員が数えている。声には出していない。机の上の秒針を見ている。

 私も数えた。三十秒は口の中で長い。


 十秒までは何も起きない。綿がそこにあるだけだ。

 十秒を過ぎると、舌の付け根のあたりが動く。自分で動かしているのではない。


 二十秒を過ぎたあたりで、口の中の唾が動いた。

 というより、出てきた。綿が置いてあるところへ集まってくる。そうなると、舌の下が急に濡れる。


 出てくるのは、綿があるからだと思う。

 綿が無ければ出てこない。無いものを測ることは出来ない。だから綿を入れる。そうすると出る。


 入れる前の口の中と、入れた後の口の中は違う。

 後のものを取っている。前のものを取る方法は、私には思い付かない。


 三十秒で抜かれた。

 その時、綿が歯茎の裏に少し当たった。当たっても痛くはない。


 香月獣医師は綿棒を容れ物へ入れた。容れ物には番号が貼ってある。J-0037。

 貼ってある紙は細い。上から巻いてあって、巻いた端が少し浮いている。採血の時のものと同じ形だ。


「はい、終わり。もう動かしていい」

「はい」


「今日はどれくらい待った」

 この人がそう聞いた。

「一時間五十分です」

「そう。長いわね。今日は上から順にやってるから」


 この人は書かなかった。入れる欄が無いのだと思う。紙は机の上にあって、表になっている。

 番号が縦に並んでいて、その横に欄が二つある。どちらも小さい。


「時刻は書かないんですか」

 私は聞いた。

「書くところが無いのよ。刷ってあるから」


「刷ってある」

「九時から九時半って、最初から入ってるの。だから書けない」


 この人は紙の上を指した。その場所は私からは読めない。ただ、指の下に字があるのは見えた。


「じゃあ、何時でも同じですか」

「同じにはならないでしょうね」


 この人はそう言って、少し黙る。それから、次を言った。


「なるはずがないの。朝と昼で違うから測る意味があるのに、書けないんじゃ意味が出ない」


 私は返事をしなかった。その形が出てこない。


「はい、次の人」

 係員がそう言う。私は立った。


 立つ時、机の端の箱が見えた。

 箱の中に容れ物が並んでいる。数えた。私のを入れて三十一本ある。


 E区画は二百四十一名いる。三十一本は、まだ八分の一にもならない。

 残りの人は今も廊下に立っている。数は二百を超える。その間、口は乾いていく。


 廊下へ出ると、列がさっきより長く見えた。

 長くなったのではなく、私が列の外に出たからだと思う。外から見ると、列は端が見えない。


 H-0009が壁際に立っていた。手はもう壁に付いていない。終わった人は反対側の壁で待つことになっている。理由は言われていない。


「終わりましたか」

「終わった」

「口、乾きましたか」

「乾いた」


「どのくらい」


 この人は少し考えた。

「歩数で言うと、三百くらい」


 私はその言い方を覚えた。この人は時間を歩数で持っている。

 そうすると、待った長さが距離になる。形が変わると、あとで思い出しやすいのかも知れない。


「いつも数えてるんですか」

「歩く時は数える」

「立っている時は」

「立ってる時は、乾くのを数える」


 乾くのを数える、というのがどういう数え方なのかを、私は聞かなかった。

 この人が壁のほうを向いてしまったからだ。そうなった後は、たいてい話が終わる。

 三百歩というのは、片道八十九歩で三往復と少しだ。廊下を三往復する間、この人は口が乾くのを数えていたことになる。


 昼の十二時を過ぎて、まだ列は続いていた。

 給餌は後回しになった。そう告げられたのではなく、そういう順になっただけだ。


 私は食堂へ行った。終わった人から順に食べてよいと言われた。

 皿は四三〇で、いつもと同じだ。ただ、口の中がまだ変だった。綿が当たっていたところに、何か残っている感じがする。


 最初の一口で消えた。

 その後はもう、そこに何かがあったことも思い出せない。


 食堂は今日、いつもより静かだった。

 終わった人が食べていて、まだの人は水だけを前に置いている。水だけの人が多い。


 水だけの人は黙っている。喋ると乾くからだ。

 喋らない人が多いので、食器の音が大きく聞こえる。匙が皿に当たる音が、一つずつ分かれて聞こえる。


 卓の向こうで、一人が咳をした。その人は後で口を押さえて水を飲んだ。

 咳も喋るのと同じだと思ったのだと思う。同じかどうかは、掲示にも紙にも書いていない。


 三八〇の人は午後の組だった。

「まだなんですか」

「まだ。二百番より後ろなの」

「二百」

「並び順だから、動かないのよ」


 この人は水を飲んでいた。乾くと採り直しになると聞いたからだと言う。


「採り直しがあるんですか」


「あるって。染みないと、もう一回やるの」

「もう一回」

「一回目の後ろにまた並ぶのよ」


 私はそこで一度、頭の中で並べた。指は使わない。列の中で指を動かすと、数えているのが分かる。


 待つと乾く。乾くと綿に染みない。染みないと採り直しだ。

 もう一度になった人は、一回目の列の後ろへ回る。回るとまた待つ。待つとまた乾く。


 輪になっている。入口と出口が同じところにある。その中に入った人は、二回目のほうが乾いている。


 輪から出る方法は、一回目で染みることだけだ。

 そのためには、乾いていない必要がある。乾いていないためには、待っていない必要がある。

 待たないためには、番号の並びが前でなければならない。並びは入った順で決まっていて、動かせない。


 私は七番目だった。だから一回目で終わった。

 乾いていなかったからで、そうでなかったのは七番目だったからだ。


 これを、私は誰にも言わなかった。話す相手がいない。

 三八〇の人には言えない。この人は二百番より後ろにいる。


「あんた、何時だった」

「十一時五十分です」

「早いのね」

「七番目だからです」

「並びで決まるのよね。それだけよね」


 この人は自分の番号を言わなかった。E区画で二百番より後ろだということだけを言った。

 二百番より後ろというのは、居室の並びのことになる。それは入った順で、年ではない。


 三八〇の人は水を飲み続けている。器を置く音が卓に三度した。飲みすぎると腹が重くなる。それでも飲む。

「飲むと出るのよ」

「出ますか」

「出るでしょ。水を入れたぶんは」


 出るかどうかを、私は確かめる方法を持っていない。

 それで、この人が飲むのを見ているだけだ。飲む速さは一定で、二口ずつ置いて、また二口飲む。

 午後、洗濯の当番へ行った。袋は七枚ある。

 運びながら口の中を確かめた。舌を上顎に付けて離す。音は朝と同じに戻っていた。


 洗濯室の窓は今日も曇っている。指の跡は四つあった。

 そのうち三つは同じ高さにある。似た背丈の人が付けたからだと思う。四つ目は低い。

 窓の下の枠に、白い粉が薄く溜まっている。指で拭くと跡が残った。

 私は硝子の下に手を当てた。そうすると曇りが取れて、手のひらの形が残る。

 それは周りから埋まってくる。速さは八月より遅い。窓が温かいからだと思う。


 洗濯室の人たちは、今日は歌わなかった。

 三人とも午後の組で、まだ採っていない。喋ると乾くと知っているのだと思う。知っているのに、誰かに聞いたわけではない。


 歌わないので、干す時の合図が手だけになる。片方が挙げて、もう片方が持ち上げる。

 合図は速い。歌より短い。それなのに、干し終わる時刻は昨日と同じだった。

 二時に、私は掲示板の前を通った。

 就業配置の紙はまだ貼ってある。掲示の期間は改定日から一月なので、月末までは残る。


 順位表の九十七番目に、私の番号がある。

 今月の展示は、今日までにまだ来ていない。月の残りは六日だ。それで九十七番目まで下りてくるかどうかは、上の人が何人残っているかによる。


 私は数えなかった。数えると、来なかった時に数が残る。

 それは消えない。増やさずに済むものだと、私は今日決めた。

 三時ごろ、廊下を通ると、まだ列があった。

 朝と場所は同じで、向きが逆になっている。長さは朝の半分ほどだ。扉の反対側から並び始めたからだと思う。


 列の壁側に、白い跡が点々と付いていた。

 手のものだ。高さは腰から胸のあたりで、大きさはまちまちだ。乾いていない跡は少し暗い。


 跡の数を数えようとして、途中でやめた。


 やめたのは、跡が重なっているところがあって、一つか二つか決められなかったからだ。そういうものを数えると、数が意味を持たなくなる。

 列の先のほうに、H-0031がいた。この人は朝から並んでいない。午後の組だ。


「ねえ」

「はい」


「終わった?」

「終わりました」

「何時だった」

「十一時五十分です」


 H-0031は前を向いたままで言う。

「私は二時から並んでる」

「一時間ですか」

「まだ動いてない」


 この人はそれ以上言わない。私も言わなかった。

 列の中の人に話しかけると、その人の口が乾くからだ。喋ると乾く。乾くと採り直しだ。


 私はそれを、今日初めて知った。誰も教えてくれなかった。

 列の中が静かなのは、決まりではない。


 朝の列でも同じだった。誰も喋らなかった。

 乾くと知っている人が黙っていて、知らない人がそれを見て黙ったからだ。私は知らない側だった。


 知らない側の人は、知っている側の真似をする。そうすると同じ結果だ。

 同じ結果になるので、知らないままで済む。私も今日まで済んでいた。


 済まなくなったのは、三八〇の人が水を飲んでいるところを見たからだ。

 それだけで、この人は説明していない。教わらないままのものを、私は今日一つ増やした。


 四時に、廊下の列がまた止まった。

 中で何かがあったからだと後で聞く。中身は訊かなかった。訊いても、列に並んでいない私には確かめようがない。

 止まっている間に、E-0044が列から出てきた。

 というより、外された。係員が名前ではなく番号を呼んで、列の横へ寄らせた。


「どうしましたか」

 私は近くまで行った。

「二回目なの」

「染みなかったんですか」


「うん。三十秒やって、白いままだった」


 この人は自分の口を指した。それから、下ろす。

「もう一回。後ろに並び直し」


 列の後ろは、ここから見えないところにある。

 この人はそちらへ歩いていく。速さはいつもと同じだった。速くも遅くもなっていない。


 私は水を持っていなかった。届ける先も知らない。

 食堂の水は食堂にある。列の途中で持ち出してよいかどうかを、私は誰にも聞いたことがない。


 夕方の給餌で、五郎さんを見た。

 ふれあいの控室ではなく、食堂だった。この人は端の卓にいて、一人で食べている。


「終わりましたか」

 私は聞いた。

「終わったよ。三回やった」


「三回」

「二回染みなかったんだよ。三回目でようやくね」


 この人は笑っている。そのまま口を開けて、舌を出してみせた。

「乾いてんだよ、ずっと。喋る仕事だから」


 私も少し笑った。笑ってから、この人の舌の色を思い出した。

 残っていたのは、白かったということだけだ。ほかの人のを私は見たことがない。自分のも鏡では見にくい。


「三回目は染みたんですね」

「染みた。水を三杯飲んだから」

「飲んでいいんですか」

「だめとは言われてないよ」


 だめとは言われていない。

 禁じられていないなら、やっていいことになる。この人はそう言って、また笑った。

 消灯の前に、廊下をもう一度通った。

 列はもう無い。床に履物の跡が幾つか付いていて、乾ききっていない。壁の跡だけが残っている。乾いたものは白く、まだ乾いていないものは暗い。そちらが少ない。


 扉は閉まっていた。中の明かりは消えている。

 扉の下から光は漏れていない。だから中に人はいないことになる。


 扉の横に、綿棒の袋が一つ落ちていた。

 拾ってみると、開けてある。中は空だ。開けた時の切れ目が斜めになっている。片手で開けたからだと思う。


 袋の内側に、繊維が一本だけ残っていた。白くて、短い。

 振っても落ちない。指で取ろうとすると、指のほうに付いた。そうなると、今度は指から落ちない。


 私はそれを箱へ入れようとして、箱が見当たらなかった。

 廊下に箱は無い。箱は中にある。そちらの扉は閉まっている。


 袋は指の腹より軽い。中の紙は一枚で、折り目が一本ある。

 私は袋を元のところへ戻した。持っていても置き場が無いからだ。

 戻す時、床の同じ場所に置いた。合っているかどうかは、明日になれば分かる。


 夜、居室で天井の線を見た。

 線は右のほうが白い。八月の終わりでも変わらない。


 口の中は普通に戻っている。

 舌の下に指を入れて触ってみた。濡れている。朝と同じかどうかは、比べる道具が無い。


 枕の下は百二十七枚のままだ。

 今月の展示はまだ来ていない。順位表の九十七番目まで、あと何人かのところで月が終わりそうだ。

 寝る前に、私は三十秒を数えた。

 口の中で数えると長い。目を閉じて数えると、もっと長い。


 三十秒を三度数えた。三度とも同じ速さで数えられたかどうかは、比べる道具が無い。

 それで、三度数えたことだけが残る。


 今日、私の口から出たものは容れ物に入って、箱に入って、外へ出た。

 その先で何になるのかは、七月の分と同じだ。七月の分がどうなったかを、私はまだ聞いていない。

 舌の下は乾いていない。

 今が夜だからで、朝から数えて十二時間が経っているからだ。時間が経つと戻る。そこまでの長さは、誰も測っていない。


──────────────────


国立人類保全園 第七園

唾液検体 送付票(控)


送付 獣医室

宛先 機構検査室 第二分室

送付日 令和二百十二年八月二十五日


一、検体


唾液(綿棒法) 四百十二件


採取時刻 〇九時〜〇九時三〇分


二、区画別


 区画 件数    再採取

 A   三十一   〇

 B   六十四   二

 C   三十九   三

 D   三十七   四

 E   二百四十一 三十八


三、再採取


再採取は四十七件であった。理由の記載は求められていない。


再採取分の採取時刻についても、上記のとおり記載した。


四、所要


開始は〇九時、終了は一七時四十分であった。所要は八時間四十分である。


所要を記載する欄は送付票に無い。本欄は余白に記した。


五、留意


採取の順序について、実施計画 五は保定に先立って行うことを求めている。


本園において保定は行っていない。列に並ばせたうえで順に採取した。列に並ぶことが保定にあたるか否かについて、実施計画に定めは無い。


並んでいた時間は記録していない。記録を求める欄が無いためである。


なお、区画別の実施順は上位の区画から行った。実施順の記録は求められていない。上位から行う根拠は、本園の内規にも実施計画にも無い。従前の例による。


六、配付数


綿棒の配付は四百五十三本であった。使用は四百五十九本である。六本が不足した。


不足分は前回の残りを充てた。前回の残りは冷所ではない場所に保管していた。保管の場所を定めた文書は無い。


七、備考


前回(本年二月)の送付は四百十三件であった。再採取は四十一件である。


前回と本回の間に、当園の在籍は一名減じた。減は転出による。


(送付 獣医室)

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