第016話 A区画とE区画
国立人類保全園 第七園
営繕係 修繕要望 処理経過(抄)
対象 E区画 排水設備
作成 総務課 営繕係
作成日 令和二百十二年七月
一、経過
年度 要望の内容 処理
令和百九十四年 側溝の勾配の是正 次年度検討
令和百九十五年 同上 次年度検討
令和百九十八年 側溝の勾配の是正、集水桝の増設 次年度検討
令和二百二年 同上 次年度検討
令和二百五年 集水桝の増設 次年度検討
令和二百八年 集水桝の増設、泥の搬出路の整備 次年度検討
令和二百十年 同上 次年度検討
令和二百十一年 同上 次年度検討
二、処理の内容
いずれの年度についても、次年度の予算要求に含めるものとした。
含めた実績は、令和百九十四年度から令和二百十一年度までの十八年度のうち、四年度であった。四年度とも、査定の段階で減額の対象となった。
減額の理由の記載は、査定の資料に残っていない。査定の資料の保存年限は五年であった。五年を超えた分は廃棄した。
要望の提出者は、いずれもE区画の担当であった。担当は同期間に六回替わった。替わるごとに要望の文面が短くなっている。令和百九十四年の文面は四百字を超えていたが、令和二百十一年は三十一字であった。
なお、令和二百年に一度だけ、現地の確認を行った。確認の記録は「滞留を認めた」の一行である。深さの記載は無かった。
三、施設の状況
E区画は園内で最も低い位置にある。A区画との高低差は十一メートルである。
A区画からD区画までの雨水は、区画ごとの側溝を経てE区画の南側へ集まる。E区画の側溝はそこで一本になる。
一本になった後の勾配は千分の二である。設計時の基準は千分の五であった。基準を下回った経緯について、設計図の余白に記載がある。記載は「用地の制約による」である。制約の内容は書かれていない。
四、降雨時の対応
降雨により側溝に滞留が生じた場合は、区画の担当が対応する。対応の方法は当日の判断による。
滞留の深さが五センチメートルに達した場合は、営繕係へ報告する。五センチメートル未満は報告を要しない。
五センチメートルとした根拠は、制定時の資料に無い。制定は令和百六十一年である。
五、泥の搬出
側溝から搬出した泥は、E区画の裏の空地へ置く。置き場は用途の定めのない土地である。
搬出した泥の処分について、定めがある年度と無い年度があった。定めのある年度は、令和百八十八年から令和百九十二年までの五年であった。当該の五年は、年に一度、外部の事業者へ搬出を委託していた。
委託は令和百九十三年に取りやめた。取りやめの理由は、当該年度の予算の組み替えによるものであった。組み替えの後、搬出に係る科目は設けていない。
置いた分の量について、記録は作成していない。
六、本年度
本年度の要望の提出は、本経過の作成時点で確認していない。
(作成 総務課 営繕係/写し 施設課)
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夜のうちに雨が降った。
音で分かる。E区画の屋根は薄いので、降り始めが一番よく聞こえる。降り出して十分ほどで音が均される。均されると、あとは朝まで同じ音だ。
同じ音は聞いているうちに聞こえなくなる。私は途中で寝た。
六時の点灯で目が覚めた。天井の線は昨日と同じ場所にある。
起きて、床に足を付けた。床が湿っている。樹脂の床は雨の日だけ、踏むと足の裏に薄く貼り付く。歩くと剥がれる音が小さくする。
廊下は明るさが違った。
窓の外が白い。晴れの日の白さではなく、輪郭の無い白さだ。窓の下の方に水滴が並んでいて、並び方は昨日の跡と重なっていない。
朝の給餌の前に、廊下の突き当たりまで歩いた。
鉄の枠は今日も空だ。傘立てのような形をしていて、雨の日でも何も入っていない。
食堂へ行く途中で、匂いが変わった。
E区画の南の側は、雨の翌朝に匂う。水の匂いではない。水が引いた後の泥から出る匂いだ。
濡れている間は出ない。引き始めてから出る。表面が乾いて、下がまだ濡れている時が一番強い。
匂いは重い。廊下の低いところに溜まって、腰から下にある。
立っていると鼻まで来ない。屈むと来る。だから朝、履物を直そうとして屈んだ人が、一度だけ顔を上げる。
匂いには段がある。奥の方が濃くて、扉のあたりで薄くなる。
濃いところと薄いところの境目は、廊下の三本目の継ぎ目のあたりにある。境目は毎回そこにある。継ぎ目に何かがあるわけではない。
匂いは服に付く。付くのは布の折り目のところで、脇と肘の内側が長く残る。
洗えば落ちる。洗濯は三日に一度なので、雨の翌日に着たものは二日そのままだ。二日目のほうが薄いが、消えてはいない。
付いた側は自分では分からなくなる。分からなくなってから、廊下ですれ違った人が一度だけ鼻を動かす。
動かしてから、その人は何も言わずに行く。言われたことは一度も無い。
「今日、掃除だって」
列で前の人が言った。
「側溝ですか」
「そう。乙の人と、あと何人か」
朝の給餌は普通に出た。四三〇の皿だ。
三八〇の人は今日、私の斜め前にいた。この人は今日から丙の日課だ。改定は八月一日からだが、洗濯と清掃と園芸は今もやっている。
「変わった?」
「まだです」
「そうよね。八月からだものね」
「はい」
この人は三口分を私の皿へ移した。移す時に匙の腹を滑らせる。音は出ない。
九時に、裏へ出た。
出たのは十四人だ。乙が九人、丙が五人だ。丙の五人は先に来ていた。
係員が二人と、作業の人が一人いる。作業の人は年配のほうだった。
照明の取り替えの時に、私に座っていいよと言ったのは若いほうで、その時に三十年やっていると言ったのがこの人だ。今日は巻き尺を持っていない。
丙の五人のうちの一人はH-0009だった。この人は壁のあるところにいる。側溝の壁でも手を付ける。
付けたまま作業をするのは無理なので、道具を持つ時だけ離す。離している間、この人の左手は行き場を探すように少しだけ動く。動く幅は指二本ぶんだ。
あとの四人は年上の人たちだ。四人とも、来た時にはもう軍手をはめていた。
乙の九人は、裏へ出てから配られた。配る順は番号順ではない。前に立った人から順だ。
「J-0037」
「はい」
「これ持って」
渡されたのは柄の長い掻き板だ。柄の先が擦れていて、手を置く場所が黒くなっている。黒いところは滑らない。
軍手は薄い。薄いので、柄の擦れたところが指に分かる。
右の親指の付け根に、最初の十分で赤い線が出た。線は柄と同じ向きに付く。押さえると痛くて、離すと痛くない。
側溝はE区画の南の壁に沿って走っている。長さは百二十メートルほどある。
蓋は鉄で、一枚が七十センチ。数えると百七十一枚あった。数えたのは歩きながらで、途中で一度戻って数え直した。
蓋を外す。外すと下から出る。
出るのは水ではなく匂いだ。蓋の隙間から出ていた分より濃い。濃いというより、種類が違う。隙間から出ていたのは乾いた側の匂いで、蓋を外して出るのは下の側の匂いだ。
私は一度、口で息をした。口でしても入る。
入るところが違うだけだ。鼻で吸うと上のほうに残って、口で吸うと喉の奥に残る。残る時間は口のほうが長い。
中に水が溜まっている。
水の上に膜が張っている。薄い膜で、光が当たると色が付く。掻き板を入れると割れて、割れた縁からまた閉じる。閉じるまでに四秒かかる。
泥は水の下にある。掻き板で寄せると、まとまって動く。
まとまるのは、泥が泥に付くからだ。一度まとまったものは、袋に入れるまで崩れない。崩れないので運びやすい。運びやすいぶん重い。
袋は口の広いもので、二人で持つ。
持つ時に、持つ側の腕が下がる。下がる側が右になる人と左になる人がいて、私は右だ。右で持つと、泥の重さが右の肩から首の付け根まで来る。
掻き板の入れ方には向きがある。
側溝の壁に沿って入れると、板が壁を擦って音が鳴る。真ん中から入れると鳴らない。鳴らないほうが早い。
早いのに、みな壁に沿って入れる。壁際に泥が寄っているからだ。寄っているところを先に取ると、真ん中の分が寄ってくる。寄ってくるのを待つ時間がある。
待つ間、私は水の面を見ていた。膜はまた張っている。
張るのは掻き板を抜いてから七秒ほど後だ。四秒で閉じて、七秒で全体に戻る。三秒の差が何処から来るのかを、見ているだけでは取れない。
匂いには慣れなかった。
三十分やっても薄くならない。薄くなるのは自分の側で、匂いの側は変わらない。屈んでいる時間が長いほど、立った時に一度濃く来る。
立って、また屈む。屈む度に、初めのひと嗅ぎだけが強い。
途中から、初めのひと嗅ぎが来なくなった。来なくなったのは、屈む間隔が短くなったからだと思う。
H-0009は側溝の壁に手を付けて掘っていた。片手で掻き板を持って、もう片手を壁に当てる。
当てているほうの手は、板を動かす度に少し滑る。滑って、また戻す。戻す位置は毎回同じところだ。
「歩数、数えてますか」
「今は数えてない」
「掘る時は」
「掘る時は数えない」
この人はそれきり言わない。私も聞かない。
聞かなかったのは、掘る音が続いていて、切れ目が来なかったからだ。切れ目の無いところに声を入れると、二人とも手が止まる。
九時半から十一時まで掘った。二時間で二十七袋だ。
一袋にかかるのは三分と少しだ。十四人でやって三分だから、一人あたりで割ると意味の無い数だ。私は割るのをやめた。
袋は裏の空地へ積む。積む場所は決まっていない。決まっていないのに、みな同じところへ置く。前の人が置いたところの隣に置く。
十一時に、係員が水の高さを見た。
朝より下がっている。下がっているが、南の端のところだけ下がっていない。
「上のほうが詰まってるかもな」
年配のほうがそう言う。
「上って」
「B。もっと上かも」
「行けますか」
「行くよ。道具持って」
私は掻き板を持った。持って、坂を上がった。
E区画からB区画までは、坂を上がる。
坂は舗装してある。舗装は途中で二度、色が変わる。変わるところで年度が違うのだと思う。上のほうほど新しい。
途中で息が上がった。私は毎日この坂を上がらない。上がる用が無い。
上がる用が出来たのは今日で、今日が初めてだ。
坂の左に側溝がある。
側溝は坂と同じ勾配で下りている。中を覗くと、水が流れている。流れる音は聞こえない。聞こえない速さで動いている。
D区画の脇を通った。
D区画の建物はE区画と同じ形をしている。同じ形で、屋根の色だけが違う。E区画は灰色で、D区画は薄い緑だ。
D区画の前庭には、遊具のようなものが二つ置いてある。E区画には無い。
二つとも金属で、片方は動く。動くほうは今日は動いていない。雨で濡れているからかも知れないし、使う人がいないからかも知れない。
C区画も同じ形だった。屋根はまた別の色だ。
C区画の窓は、E区画より少しだけ大きい。少しなので、並べて比べないと分からない。私は並べて比べられない。上がってきた順に見ているだけだ。
B区画で形が変わった。窓が大きい。窓が大きいと、外から中が見える。中には人がいて、こちらを見ていない。
見えるのは肩から上だ。三人いて、三人とも座っている。座っている高さが揃っている。椅子の高さが同じなのだと思う。
E区画の居室に椅子は無い。座るのは寝台の縁か床だ。
椅子があると座る高さが揃う。揃うと、窓の外から見た時に三人が一つの並びに見える。
B区画の側溝を見た。
水が流れている。E区画のより浅い。まだ集まっていないからだと思う。
年配のほうは蓋を一枚外した。中に葉が溜まっている。樹脂の葉だ。四月に交換した桜の分が、まだ出てくる。
葉を掻き出す。掻き出した葉は袋に入れずに、脇へ寄せた。乾いているものは袋に入れないらしい。
「まだ上かな」
「Aですか」
「そうだな」
A区画は坂の一番上にある。
上がりきると、平らだ。平らなところが広い。E区画の前庭より広くて、真ん中に木が植えてある。樹脂ではない。触っていないので確かめていないが、幹の色が場所によって違う。
地面は土ではない。細かい石が敷いてある。踏むと音が鳴る。
鳴るので、歩くと自分の足の数が分かる。私は木のところまでを数えなかった。数えると立ち止まることになる。
上は風がある。E区画の前庭には風が来ない。建物が三方を囲んでいるからだ。
風が来ると、汗の乾く場所が変わる。E区画では首の後ろから乾く。ここでは腕の外側から乾いた。
空気に匂いが無い。
無いというより、何かの匂いがしていて、それが私の知らない匂いだ。雨の後の匂いのはずだが、下のものとは別のものだ。
私は二度嗅いだ。二度目でも名前が付かない。名前の付かないものは鼻の奥に残らずに抜けていく。
建物の窓は、B区画より大きい。日が当たっている。
当たっているのが分かるのは、窓枠の影が地面に落ちているからだ。E区画の窓枠の影は、午前中は落ちない。建物が坂の陰に入っている。
影の中に、窓の桟の形が出ている。桟は縦が三本、横が二本ある。
E区画の窓の桟は縦が二本で、横が一本だ。数が違うのは大きさが違うからで、それ以上のことは分からない。
A区画の側溝は乾いている。
乾いていることは、蓋を外す前に分かった。蓋の隙間に土が入っていない。
外してみると、底に細かい砂が薄く敷いてあるだけだった。指で押すと乾いた感触がする。粒が指に付いて、払うと落ちる。
年配のほうは蓋を戻した。
「詰まってない」
「はい」
「ここは勾配が付いてる」
私は側溝の向きを見た。
A区画の側溝は東へ落ちている。落ちた先はB区画の側溝に繋がる。B区画のはC区画へ、C区画のはD区画へ落ちる。
繋ぎ目は坂の途中にあって、そこだけ蓋が二枚分外れている。外れているのではなく、初めから無い。
無いところから中が見える。中では二本が一本になっている。合わさったところで水の面が少し上がって、それからまた下がる。上がる幅は指一本ぶんもない。
上がる幅は小さいが、繋ぎ目は四つある。四つとも同じだけ上がる。
四つとも同じ向きだ。同じ向きで、一番下がE区画だ。
図面を見ていない。足で上がってきた順を逆にすれば、そのまま水の順だ。
平らなところの端から下を見た。
E区画の屋根が見える。灰色の面が四つ並んでいて、その南側に細い線が一本走っている。線が側溝だ。ここから見ると、線は建物の縁とほとんど重なっている。
十一メートル下がると、屋根が四つに見える。上からだと屋根しか見えない。
人の声がした。
振り向くと、木の下に二人立っている。片方はA-0114だった。もう一方は知らない人で、A-0114より背が低い。
二人は話している。声は届く距離にあるが、内容は取れない。
A-0114が何か言って、もう一方が笑った。笑ってからA-0114も笑う。その笑い方は広場で隣に並んで座った日と同じ形をしている。ただし今日は私に向いていない。
二人は木の周りを一周した。歩く速さが揃っている。
揃っているのは、どちらかが合わせているからだ。合わせているほうがどちらかは、この距離では見分けが付かない。
A-0114はこちらを見なかった。
見なかったのは、私が見えなかったからだと思う。私は側溝の脇にいて、屈んでいた。屈んでいると、坂の上からは低木に隠れる。
私は立ち上がらなかった。立ち上がる用が無い。
「戻るぞ」
「はい」
下りは速い。上りの半分の時間で下りた。
下りる時、掻き板の柄が坂に当たって鳴る。上りでは鳴らなかった。持つ角度が変わっている。
下りながら側溝の蓋の数を数えた。A区画からE区画まで、坂の左側だけで二百二十枚ある。
二百二十のうち、隙間に土が入っているのは下から七十五枚ほどだ。上へ行くほど隙間が白い。
七十五枚目のあたりで、隙間の色が変わる。急に変わるのではなく、二、三枚かけて変わる。
変わる場所はD区画とC区画の境目に近い。境目そのものではなく、少し下だ。
その差が何によるのかは、蓋を全部外さないと確かめられない。外す用は無い。
E区画に着くと、匂いがまた来た。
上には無かった。上で嗅いでいたのは樹脂の葉と、砂と、木の匂いだった。下りてくる途中の何処で変わったのか、境目を取れずにいる。
午後も掘った。一時から三時まで、袋が十九だ。
合わせて四十六袋だ。裏の空地に積むと、四段になった。
三時に、係員が深さを測った。
物差しを南の端に立てる。南の端は一番低いところで、水が最後に残る場所だ。
私はその横にいた。目盛が見える位置にいた。
水面は六・二のところにあった。二の目盛の少し上で、三には届いていない。
「六センチ超えてますね」
もう一人の係員がそう言った。
「端でしょ、そこ」
「はい」
「端は数えないんですよ。真ん中で測る」
物差しを抜いて、真ん中へ移した。
真ん中は少し高い。底が高いのではなく、泥が少し残っているのだと思う。掻き板の届かないところに寄っている。
四・八だった。
「四・八。五未満」
「はい」
係員は紙に書いた。書く時に、物差しは水に入れたままだった。
私は南の端をもう一度見た。物差しは無いが、壁に水の跡が残っている。跡は横一本で、目で追うと真ん中より高いところを通っている。
跡は消えない。乾いても白く残る。去年の跡がその上に二本ある。三本目が今日の分だ。
三本のうち、一番上が一番古い。古いものほど白い。新しいものは灰色に近くて、時間をかけて白くなる。
白くなるまでにどれくらいかかるかは、三本しか無いので出せない。四本目が出れば分かるかも知れない。
跡の上のほうに、もっと薄いものが二本ある。数えるかどうか迷った。
迷ったのは、壁の継ぎ目と見分けが付かないからだ。継ぎ目は真っ直ぐで、跡は少し波打つ。二本のうち一本は波打っていた。
私は五本と数えた。数えたことは誰にも言わない。言う場所が無い。
三時半に、香月獣医師が来た。
白衣を着ていない。上に何か羽織っていて、袖を捲っている。首から札を下げていない。
この人は側溝の脇にしゃがんで、水を見た。手は入れない。
「これ、いつから溜まってるの」
「昨日の夜からです」
係員が答えた。
「一日じゃ湧かないんだけどね。虫は。卵からだと一週間はかかるから、今日出てるのは前からいた分。一日では湧かない」
この人は水面を指した。指した先に、細かいものが動いている。私は近づかなかった。
「報告は五センチからです」
「そうね。五センチからでしょうね」
この人はそれ以上言わない。立って、膝の埃を払った。
払ってから、側溝の長さを目で追った。南の端から北の端まで、一度だけ首を動かす。
「ここ、何年こうなの」
「私が来てからは毎年です」
「そう。私が来る前からでしょうね」
係員は答えなかった。答える言葉が用意されていない時の黙り方をしている。
「営繕に上げてないんでしょう。上げても通らないから、そのうち上げなくなるのよ。責める話じゃないけどね」
「はい」
「私も上げていないの。獣医室から出す書式が無い」
この人は自分の袖を見た。捲った袖の縁に、泥が付いていない。しゃがんでいたのに付いていない。
付かない屈み方をしている。膝から先だけを地面に近づけて、袖は体の側に寄せる。
払ってから、私のほうを見た。
「腕、見せて」
私は左腕を出した。今月の一日に採ったところは、もう丸が薄い。
「いや、そっちじゃなくて。手」
私は手を出した。手袋をしていた手だ。外すと、内側の匂いが出る。ゴムと汗の混ざった匂いで、泥の匂いとは別だ。
この人は私の手のひらを見た。見て、指の間を開かせた。
「切れてない。切れてたら来て。ここの水で切ったところは、二日目からになるから」
「二日目ですか」
「一日目は何ともないの。だから一日目に来る人はいない」
この人は行く。行く時に、側溝のほうを一度も振り返らない。
夕方の給餌の前に、手を三度洗った。
一度目で泥が落ちる。二度目で匂いが薄くなる。三度目は変わらない。三度目でも爪の際は残る。
爪の際の色は、洗った直後より乾いてからのほうが濃く見える。水が引くと、残った分の輪郭が出る。
右の親指の付け根の赤い線は、水を当てると痛い。当てなければ痛くない。私は当てないように洗った。
当てないように洗うと、そこだけ落ちない。落ちないので、明日もそこに残る。
匙の男が洗い場にいた。私より二つ年上だ。
「臭いだろ」
「臭いです」
「俺、鼻に入ったぞ」
「入りますか」
「入る。屈むから」
男は自分の鼻を摘んで、口で息をしてみせた。それから摘んだまま喋ろうとして、声が変になって、自分で吹き出した。
私も笑った。笑うと息を吸うので、匂いが入る。入ってから、もう一度笑う。
「笑うと入るな」
「入ります」
「じゃあ笑わないほうがいいな」
男はそう言って、また笑った。
夕方の給餌で、三八〇の人の隣に座った。
「上、行ったんだって」
「行きました」
「どうだった」
「木がありました」
「へえ」
「本物の木です」
この人は匙を止めた。止めてから、また動かした。
「触った?」
「触っていません」
「そう」
「木の下に人がいました」
「A区画の人ね」
「はい」
「私は見たことない」
「上がったことは」
「無いのよ。上がる仕事に当たったことがないの」
この人は匙で皿の表面を平らにならした。ならしてから、三口分を取った。
取った分を私の皿へ移す。移し終わって、匙を置く。
「八月から、洗濯と清掃と園芸になるのよ」
「はい」
「今と同じね」
「はい」
「同じなのに、紙が変わるの」
この人は自分の皿の縁を指でなぞった。三八〇の八のところで止まる。
この人はそれ以上聞かない。私も言わなかった。
言わなかったのは、木のことより先に側溝のことを考えていたからだ。
皿の底が見えた。四三〇の三のところが、裏から見ると一番深い。
居室へ戻る前に、裏へ回った。
空地は暗い。照明が一つあるが、袋のところまで届かない。届く範囲の端に、今日の分が積んである。
今日の分は四段で、四十六ある。数は自分で数えた。
その向こうに、もう一山ある。照明の外なので、輪郭だけが見える。
近づいた。近づくと数が数えられる。四つある。
四つとも袋の色が違っていた。今日の袋は青で、その四つは灰色に近い。もとは青だったのかも知れない。
四つとも口が結んである。
結び目の形が、今日の私たちの結び方と違う。私たちは二重にして端を下へ入れる。四つは一重で、端が上を向いている。
端は立っていない。長い時間そのままだったので、上を向いたまま横へ倒れている。
倒れた向きは四つとも同じだ。風の来る側から来ない側へ倒れている。
一つの袋の腹に、破れがある。破れの縁から中身が少し出ていて、出た分は袋の下で固まっていた。
指で押すと動かない。今日の泥は押すと動く。
照明の光は、四つのうち手前の二つまでしか届かない。奥の二つは形だけだ。
私は四つを数え直した。二度とも四つだった。
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国立人類保全園 第七園
降雨時対応 作業日報(E区画)
作成 E区画担当
作成日 令和二百十二年七月二十三日
一、降雨
前夜二一時ごろから当日〇四時ごろまで降った。降水量の測定は行っていない。測定の器具は当区画に無い。
前回の滞留は六月十一日であった。当該日の測定値は三・一センチメートルであった。
二、作業
側溝の泥の搬出を行った。従事したのは個体十四名(乙九名、丙五名)、係員二名、作業班一名である。
時間は〇九時三〇分から一一時、および一三時から一五時とした。搬出した泥は四十六袋である。
三、滞留の深さ
一五時に測定した。測定値は四・八センチメートルである。
測定は側溝の中央部で行った。南端部は勾配の関係で滞留が集中するため、測定の位置に用いない取り扱いとしている。当該の取り扱いは、担当の間で引き継いできた。
営繕係への報告の線は五センチメートルである。本件は五センチメートル未満であるため、報告を要しないものとした。
四、獣医室
一五時三〇分に獣医室から一名が来所した。要請によるものではない。
滞留水について所見の提示があったが、書面によるものではないため本日報には記載しない。
五、個体の状況
作業中の申し出は無かった。作業後に一名について手指の確認を行った。異状を認めていない。
作業に従事した十四名のうち、九名は本作業に三度目以降の従事であった。従事の回数を記録する欄は、就業の様式に無い。上記の回数は担当が数えた。
六、泥の搬出先
裏の空地へ置いた。段数は運ぶ者の背丈による。本日の分は四段とした。
前年度以前に置いた分の有無は、本日報の作成時点で確認していない。確認は年度末の点検に併せて行う取り扱いとした。
七、従事者の名簿
従事者の名簿は、就業の割当表から作成した。割当表にはK-0212の行が残っている。当該個体は六月末に転出しており、本日の従事者に含まれない。
行の抹消について、割当表の様式に定めが無い。本日の名簿では、当該の行の従事の欄を空欄とした。空欄の取り扱いについても定めは無い。
八、蓋
側溝の蓋は百七十一枚である。作業の後、百七十一枚とも元の位置へ戻した。戻す位置を示す番号は蓋に付いていない。
九、次回
次回の降雨時の対応について、あらかじめ従事者を定める予定は無い。当日の就業の割当による。




