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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第二章 等級

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15/26

第015話 甲乙丙

国立人類保全園 第七園

飼育部門 飼二一四号


発 飼育部門

宛 各区画担当


件名 就業配置の改定について(通知)


標記について、下記のとおり改定します。各区画において掲示のうえ、周知をお願いします。



一 改定の趣旨


これまで展示の割当は、居室の並び順により行ってきました。並び順は入所の順であり、展示適性との関係を持ちません。


本年度の展示適性審査が終わったことから、割当を審査の結果に基づいて行うこととします。


二 割当の順位


甲、乙、丙の順。同一等級の内では、審査の得点の高い順によるものとします。


割当は順位の上位から順に行い、その月の開場日で止めます。翌月は前月の続きから。


三 得点の取り扱い


得点は個体へ通知しません。前年度からの取り扱いを変えていません。


順位は掲示します。順位から得点を逆算し得る旨の指摘が本年度に一件ありましたが、順位そのものは得点ではないため、通知にはあたらないものとしました。


四 区分の基準


 等級  得点

 甲   八十五以上

 乙   六十以上八十五未満

 丙   四十以上六十未満

 無等級 四十未満


五 E区画の配置


 等級  対象    就業                 手当

 甲   〇名    展示(第一順位)           一日三枚

 乙   百六十二名 展示(第二順位)・ふれあい・清掃補助 一日三枚/ふれあいは歩合

 丙   六十八名  洗濯・清掃・園芸           一日一枚

 無等級 十一名


丙については、本改定により展示の割当を行いません。ふれあいの歩合も付かないものとします。


なお、丙から乙への変更は次年度の審査によります。年度の途中での変更は行っていません。


六 展示室


使用するのは一号から三号。四号以降は令和二百七年から閉鎖しています。


四号以降の開放は、甲の在籍が四名に達した場合とします。本年度の甲の在籍は三名。開放の予定はありません。


七 掲示


各区画の食堂前に掲示してください。期間は改定日から一月とします。


読み書きの出来ない個体があるため、掲示の当日に一度、読み上げを行ってください。読み上げの回数について定めはありません。


八 実施日


八月一日。七月中は現行のままとしてください。


九 備考


本改定は、前年度の展示割当に係る記録の点検を受けたものです。点検において、居室の並び順による割当が特定の個体に偏っていた旨の指摘がありました。偏りの大きさについて、数値の記載はありません。


割当の記録は区画ごとに保存しています。保存の年限は三年。三年を超えた分は廃棄しており、前々年度以前との比較は行っていません。


なお、本改定に伴い個体の収容位置を変更する予定はありません。収容位置の変更について照会があった場合は、予定が無い旨をお伝えください。


以上


(発 飼育部門 庶務/写し 総務課)


──────────────────


 紙は昨日の夕方に貼られた。

 糊の匂いがまだ残っている。廊下の匂いとは別のもので、甘くない。鼻の先のところで止まって、奥まで来ない。


 貼られた時、私は洗濯の袋を運んでいた。廊下に人が立っていて、紙は肩と肩の間からしか見えない。

 見えたのは右の端だけだ。罫線が四本引いてあって、四本目の下に何も入っていなかった。それだけを見て、私は袋を持って通り過ぎた。


 七月の夜は、毛布を一枚も使わない。

 使わないので、畳んだ二枚が足元に積んである。積んであると足が伸ばしきれない。膝を少し曲げて寝る形だ。

 曲げていると、朝に膝の裏へ汗が溜まる。溜まった汗は起きる時に流れて、脹脛の外側を伝う。伝う道は毎朝ほとんど同じところを通る。


 昨夜、隣の部屋の人が二度起きた。

 寝返りではない。扉が開いて閉まる音が二度した。二度目のほうが長い。長いほうは閉める時に手を添えたのだと思う。

 私は天井の線を見ていた。夜の線は右のほうが白い。朝になると左が白くなる。四月からずっとそうで、七月でも変わっていない。


 六時に明かりが入る。天井の一列が先に点いて、廊下側が二秒遅れる。

 起きて、床に足を付けた。床は夜の間に温くなる。四月は冷たかった。同じ樹脂で、同じ厚さで、季節で温度だけが動く。


 朝、食堂へ行く前にその前を通った。人が四人立っている。四人とも紙のほうを向く。

 読んでいる人の後ろ姿は似ている。首が少し前に出て、肩が動かない。誰の後ろ姿かは、この距離では見分けが付かない。


 紙は二枚ある。左が通知で、右が表だ。

 通知のほうは字が細かい。八つに分かれていて、番号が漢数字で振ってある。表のほうは太い罫線が引いてあって、字が大きい。


 私は右から読んだ。読みやすいほうから読む癖がある。


 表には四つの段がある。

 一番上が甲で、その下が乙、その下が丙。一番下に無等級とある。

 甲の段には〇名と入っている。乙は百六十二名、丙は六十八名、無等級は十一名だ。


 乙の段には就業が三つ並んでいる。展示、ふれあい、清掃補助。手当の欄には一日三枚とある。

 丙の段の就業は三つ。洗濯と清掃と園芸だ。手当は一日一枚だ。


 無等級の段には、罫線だけが引いてある。

 就業の欄も、手当の欄も、白い。名前も番号も入っていない。段の高さはほかの段と同じで、そこだけ低くも高くもない。


 私は段の高さを目で測った。四つとも同じだ。

 同じなのに、四つ目だけが読むのに時間がかからない。読むものが無いからだと思う。


 通知のほうへ移った。

 一から八まである。


 一に、これまでのやり方が書いてあった。展示の割当は居室の並び順で行ってきた、とある。並び順は入所の順であり、展示適性との関係を持たない、と続く。

 入所の順というのは、私の場合は生まれた順だ。園内で生まれた者は入所という言い方をしない。それでも並びの中には入っている。


 二に、これからのやり方があった。甲、乙、丙の順。同じ等級の中では得点の高い順。上から順に配って、その月の開場日で止める。翌月は前月の続きから。


 私はここを三度読んだ。三度目で、上から順に、という五文字だけが残った。


 三のところで一度止まった。得点は通知しない、と書いてある。順位は掲示する、と続く。


 その先に一行あって、順位から得点を逆算し得るという指摘が本年度に一件あったと書いてある。指摘した人が誰かは書いていない。逆算が出来るかどうかについての答えも書いていない。順位そのものは得点ではないため通知にあたらない、とだけある。


 私はその一行を二度読んだ。二度目のほうが速い。


 六のところに、展示室のことがあった。

 一号から三号を使う。四号から先は閉じている。開放は甲の在籍が四名に達した場合とする。本年度の甲の在籍は三名である。


 三名、と読んだところで、後ろから人が来た。私は場所を空けた。


 空けて、廊下の反対側の壁に凭れた。壁は朝のうちは冷たい。背中の一点だけが冷たくて、そこから左右へ広がらない。

 広がらないので、冷たいのは背骨の当たっているところだけだ。


 食堂の匂いが扉の隙間から来る。蒸れた甘さで、糊の匂いを消す。

 消えると、また掲示の前に立ちたくなる。私は立たなかった。列に並ぶ時刻になっている。


 朝の給餌は普通に出た。四三〇の皿だ。

 三八〇の人は今日、私の斜め前にいない。列の並びが少し違う。掲示を読んでいた人の分だけ、列の入りがずれている。


 食べながら卓の話を聞いていた。

 話しているのは掲示のことだ。読んだ人が読んでいない人に話している。話の順は人によって違う。展示の話から始める人と、手当の話から始める人がいる。


「展示が減るんだって」

「誰の」

「下のほう」

「下って」

「順番の下」


 順番、という語が卓を三つ越えていくのが分かる。越える度に短くなる。三つ目の卓では順番としか言っていない。何の順番かが落ちている。


 落ちるものがある代わりに、増えるものもある。


「一番下は、部屋が替わるらしいよ」

「替わるって、何処に」

「下の棟」

「下って、E区画の下は無いでしょ」

「あるんだって。前に居た人が言ってた」


 私は掲示を読んでいた。下の棟のことは書いていなかった。八つの番号の何処にも、棟の字は無い。

 三つ目の卓に着いた時、下の棟の話は展示の話より先に着いていた。


 言った人は、自分が読んだとは言っていない。前に居た人が言ってた、と言った。前に居た人の番号は出てこない。


 私は自分の皿を見ていた。四三〇の刻印は、いつもどおり指に引っかかる。


 読み上げは九時からだと係員が言った。

 掲示の日に一度だけ読み上げると決まっているらしい。回数の定めは無い、とも言っていた。一度で終わるのは、二度目を言う人がいないからだと思う。


 九時に、食堂前へ人が集まった。

 立つ場所は決まっていない。決まっていないのに、前のほうへ行く人と行かない人がいる。行かない人は壁際にいて、壁に手を付けている人が一人いる。H-0009だ。


 読み上げるのは係員ではなかった。個体の一人だ。

 番号は知っている。R番号の人で、この人はよく読み上げる側に回る。字が読めて、声が通るからだと聞いた。


 その人は紙の前に立って、まず通知のほうを読んだ。

 一から八まで、番号ごとに区切って読む。区切るところで一度息を継ぐ。継ぐ位置は番号の前で、毎回同じだ。


「三、得点の取り扱い。得点は個体へ通知しません」


 通知しません、のところで、後ろのほうから声が上がった。


「じゃあ何で分かるの」

「順位は出るって」

「順位って」

「上から並んでるやつ」


 R番号の人は待った。待ってから続ける。声の高さは変わらない。


 六のところへ来た。

「四号以降の開放は、甲の在籍が四名に達した場合とします。本年度の甲の在籍は三名です」


 三名、ともう一度聞いた。今度は自分の目ではなく、人の声で聞いた。

 人の声で聞くと数が残る。目で読んだ時より残る。理由は言えない。


 通知が終わって、表に移った。

 その人は左手を紙に当てて、段を上から順になぞる。なぞりながら読む。


「甲、〇名。展示、第一順位。手当、一日三枚」

「乙、百六十二名。展示、第二順位。ふれあい、清掃補助。手当、一日三枚。ふれあいは歩合」

「丙、六十八名。洗濯、清掃、園芸。手当、一日一枚」


 そこで、その人は息を吸う。

 吸ってから、言った。


「無等級、十一名」


 それだけだった。就業の欄も手当の欄も読まない。読むものが無いからだ。

 その人は手を紙から離して、下ろした。


 私は息のところを覚えた。

 丙の段を読み終えてから無等級と言うまでに、その人は一度吸っている。ほかの段の前では吸っていない。甲と乙の間でも、乙と丙の間でも吸わなかった。


 読み上げが終わってすぐ、係員が廊下を通った。私は一歩出た。


「順位の元は何ですか」

「得点です」

「得点は教えないと書いてあります」

「そうですね」

「はい」

「担当ではないので」

「はい」


 係員は行った。行く時に、掲示のほうを見なかった。見ないで通ると、掲示は廊下の一部だ。


 私の前に一人、同じことを聞いた人がいたと後で知った。私で二人目だ。

 三人目は丙の人で、手当のことを聞いたらしい。答えは同じだったと聞いた。


 読み上げは八分で終わった。人が散る。

 散り方は集まり方と違う。集まる時は前へ寄って、散る時は横へ広がる。広がると廊下がいっぱいになって、しばらく通れない。


 通れないので、私は壁際に残った。

 残ると、紙が近くなる。近くで見ると、通知の紙は下のほうが少し波打っている。糊が乾く時に縮んだのだと思う。


 順位表はその二枚の右にもう一枚あった。

 朝は人が立っていて見えなかった。今は見える。


 順位表は縦に長い。番号が上から並んでいる。番号だけで、名前も点も入っていない。

 一枚に八十行あって、二枚で百六十行を超える。乙の百六十二名がそこに全部入っている。


 私は上から読んだ。

 自分の番号を探すには上から読むしかない。順位表に索引は付いていない。


 二十番目までは知らない番号が続く。二十一番目にK-0212がある。私はそこで一度止まった。

 止まって、それからまた続けた。


 四十七番目にH-0031がある。六十三番目にR番号の人がいる。読み上げていた人は自分の番号を読み上げていない。読み上げるものが順位表には無かったからだ。順位表は読み上げの対象に入っていない。


 私の番号は、九十七番目にあった。


 紙の上で、私の番号の上に九十六人いる。


 九十六の下に、六十五人いる。合わせて百六十二だ。数は合っている。

 私は指を紙に付けずに数えた。付けると係員が振り向く。振り向かれても叱られはしないが、振り向かれると数える場所が分からなくなる。


 H-0009の番号は、順位表に無かった。

 二枚とも上から下まで見た。無い。無いということは、乙ではないということになる。丙の順位表は貼られていない。丙には割当が無いので、順位を付ける必要が無い。


 H-0009はまだ壁際にいた。手を壁に付けて、動かないでいる。

 私は近くまで行った。行っても、この人は壁のほうを向いたままだ。


「読み上げ、終わりました」

「うん」

「聞こえましたか」

「聞こえた」

「無等級のところ、聞こえましたか」

「聞こえた。十一人」


 この人は指を壁から離さない。離さないまま指を五センチ横へ動かして戻した。一往復に二秒かかる。採血の日の列で数えた時と同じ速さだ。


「歩数、変わりますか」

「変わらない」

「はい」

「歩くのは当番じゃない」


 この人は歩き始めた。片道八十九歩だ。今日は壁に触れているので、九十一だ。

 私は数えなかった。数えなくても、この人が数えている。


 昼の当番は洗濯だった。袋は八枚ある。

 七月の袋は重い。中身の枚数は同じで、重さだけが増える。濡れているのではなく、湿っている。

 湿ると布が布に貼り付いて、角を持った時に形が崩れない。崩れないぶん持ちやすくて、そのぶん重い。


 渡り廊下は屋根があるだけで、壁が無い。歩くと右の腕にだけ日が当たる。

 当たっている側の袖が先に乾く。乾いた側の布は硬くなって、肘の内側で音が鳴る。左側では鳴らない。


 左腕で三枚、右腕で三枚、残りの二枚は二度目に運ぶ。運びながら月の数を数えた。


 割当は上位から順に配って、その月の開場日で止まる。翌月は続きからだ。

 E区画で展示に出るのは一日に二名だ。午前と午後で一名ずつだ。開場日は月に二十六日ある。二十六に二を掛けると五十二だ。


 一月で五十二人。九十七番目の私は、二月目の四十五人目だ。

 二月に一度ではない。百六十二を五十二で割ると三をすこし超える。三月と少しで一巡する。一年は十二月だから、一巡が三回と少しだ。


 私の番は年に四度だ。


 去年は十度あった。数えている。今年は七月までに四度出ている。八月からの分が変わる。

 変われば、年内に残るのは二度だ。


 展示の手当は一日三枚だ。二度なら六枚だ。

 枕の下には百二十七枚ある。券は二百枚だ。あと七十三枚あって、そのうちの六枚が展示から来る。


 六枚は七十三枚の中では小さい。それでも、六枚を貯めるのにほかの当番なら何日かかるかを私は覚えている。


 袋を床へ置いて、一度休んだ。

 置いた袋の上に手を載せると、布越しに中身の形が分かる。今日の畳み方は角が揃っていない。畳んだ人が違うのだと思う。


 洗濯室の窓は今日も曇っている。指の跡は一つだけあった。

 私は下のほうに手を当てた。手のひらの形に曇りが取れて、周りより明るくなる。離すと、周りから戻ってくる。戻る速さは端のほうが速い。


 袋を洗濯室へ置いて、戻る途中で、私は番号を三つ思い出そうとした。

 自分の前の三つだ。九十四、九十五、九十六。順位表で自分のすぐ上にあった番号だ。


 三つとも出てこない。

 出てきたのは二十一番目のK-0212と、四十七番目のH-0031と、六十三番目のR番号の人だ。三つとも知っている人の番号だ。

 知らない番号は、上に九十六あっても一つも残らない。


 残るのは知っている番号だけで、知っている番号は九十六のうち三つしか無い。

 残りの九十三は、紙の上では私の上にいて、私の中では何処にもいない。


 午後、廊下でまた掲示の前を通った。

 人はもういない。紙は三枚とも同じ場所にある。


 私は通知の六をもう一度読んだ。

 甲の在籍は三名。開放は四名に達した場合。


 四号が開けば、部屋が一つ増える。部屋が増えれば、一日に出る人数が増える。

 二名が三名になれば、一月は七十八人だ。百六十二を七十八で割ると、二月と少しだ。一年で五回だ。


 四度が五回だ。差は一度で、一度は三枚だ。


 私は数えるのをやめて、甲の段を見た。

 〇名と入っている。この紙はE区画の紙だ。甲の三名はこの区画にいない。


 三名が四名になるには、誰かが上がる必要がある。

 上がるのは、私より上の九十六人のうちの誰かだ。八十五に届く人が、その中にいるかどうかは私には見えない。見えないが、九十六人いる。


 九十六人のうちの一人が上がれば、部屋が開く。開けば私の番が増える。


 私はそのことを、廊下に立ったまま二度考えた。

 二度目のほうが速かった。


 甲の三名が何処にいるのかは書いていない。

 この紙はE区画の紙だ。ほかの区画にも同じ紙が貼ってあるはずだが、貼ってある場所を私は見たことがない。区画の間は通れない。通る用が無い。

 A区画は坂の上にあると聞いている。上にあるので、雨の日は水が下りてくる。下りてきた水はE区画の裏で溜まる。溜まるところは決まっていて、そこだけ土の色が濃い。


 三名のうちの誰かは、私と同じ月に同じことをされたはずだ。半日いて、板を当てられて、笑うように言われて、十秒そのままでいた。

 されたことは同じで、言われた語だけが違う。


 私は甲の段をもう一度見た。〇名のところに、短い線が一本引いてある。数字の入らない欄には線を引くと決まっているらしい。丙の手当の欄にも同じ線があった。

 無等級の段には、その線が無い。線も引かずに空いている。


 夕方の給餌の前に、食堂の入口でまた人が溜まっていた。

 溜まっているのは掲示の前ではなく、その手前だ。手前に立つと掲示が見えるが、読んでいるようには見えない。


「俺、下から三番目」

 声で分かった。匙を鼻の下に挟む男だ。私より二つ年上だ。


「数えたんですか」

「数えたよ。下から数えたほうが早いだろ」

「早いです」

「上から数えると九十いくつまでいって、まだ半分だ」


 男は指を三本立てた。

「あと二人抜かれたら一番下だ」

「抜かれますか」

「抜かれるよ。そういうもんだ」

「どうしてですか」

「知らない。抜かれる時は抜かれる」


 男は笑った。私も笑った。笑ってから、男は三本の指をそのまま自分の鼻の下へ持っていって、匙を挟む形をした。匙は持っていない。形だけだ。

 形だけでも落ちないように口をすぼめる。すぼめたところで男は自分で吹き出して、形が崩れた。


「駄目だ。物が無いと三十秒もたない」

「物が要るんですね」

「要る。何でも要る」


 男は列のほうへ行った。行く前に一度、掲示のほうを見た。見て、それから行った。


 夕方の給餌で、三八〇の人の隣に座った。

 この人は今日も三口分を私の皿へ移す。移す時に匙の腹を滑らせる。音は出ない。


「読んだ?」

「読みました」

「私は聞いたほうね」

「はい」


 この人は自分の皿を見ている。三八〇の皿だ。

「洗濯と清掃と園芸だって」

「はい」

「三つとも今もやってるのよ。増えないの」

「増えないんですか」

「増えない。減るのは枚数だけ」


 この人の明細のことを、私は今月の第三の週に見ている。ふれあいの行が無くて、繰越の欄が空だった。

 一日一枚になれば、繰越の欄はこれからも空のままだ。


「一枚でも、毎日あるのよ」

「はい」

「毎日あるものは無くならないの」

「はい」

「無くなるのは、あったりなかったりするもののほう」


 この人は匙を置いて、皿の縁を指でなぞった。三八〇の八のところで指が止まる。八の下の輪のほうが、上の輪より深い。

 私も自分の皿の三をなぞった。四三〇の三は、上の曲がりのところが浅い。同じ道具で刻んでいるはずだが、字によって深さが違う。


「二百は遠いよ、私には」

 この人は前にも同じことを言った。今日は言い方が短い。前は少し笑って言った。今日は笑わない。


 私は自分の枚数を言わなかった。言わない理由は自分でも分けられない。


 卓の向こうで、H-0031が座っていた。

 この人の順位は四十七番目だ。私より五十上にいる。


「ねえ」

「はい」

「上のほう、見た?」

「見ました」


 H-0031は短く言う。この人はいつも短い。

「二十一のところ」

「K-0212ですか」

「そう」


 K-0212の番号は、二十一番目にあった。私が一度止まったところだ。


「あの人、もういないよ」

「いないんですか」

「先月の終わりから」


 私は匙を止めた。止めてから、また動かした。


「番号だけは残ってる」

「はい」

「転出だって」

「そう」

 私はそう答えた。答えてから、皿の中を見た。四三〇のうち、まだ半分ある。


 H-0031はそれ以上言わない。この人は自分の皿を食べ終えて、匙を置いて、立つ。立つ時に椅子が鳴った。


 三八〇の人も何も言わない。この人は聞こえていたはずだ。卓は同じで、距離は一人分しかない。


 私は残りを食べた。食べる速さは変わらない。

 変わらないうちに皿の底が見えた。底の中央に、刻印の裏側の窪みがある。四三〇の三のところが、裏から見ると一番深い。


 卓の上には、匙が三本置いてある。H-0031の分と、三八〇の人の分と、私の分だ。

 三本とも先の丸みが違う。一番丸いのが三八〇の人ので、一番平らなのが私のだ。H-0031のはその間にある。

 丸いほうが一口が多い。平らなほうは口の数が増える。同じ量を食べるのに、卓の三人で口の数が違う。


 私は自分の匙を持ち上げて、卓に戻した。戻した位置は元と同じにした。


 順位表の二十一番目には、K-0212の番号が入っている。

 貼られたのは昨日の夕方だ。


 消灯前に、私は廊下の突き当たりまで歩いた。

 鉄の枠は今日も空だ。傘立てのような形をしていて、中には何も入っていない。


 戻る途中で、掲示の前をもう一度通った。

 廊下の照明は夜の高さになっている。夜の高さでは、紙の白さが昼より落ちる。落ちると罫線のほうがよく見える。


 無等級の段の罫線が、三枚のうちで一番よく見えた。

 中に何も入っていないので、線だけが残る。


 紙の右下の角が浮いていた。

 昨日の夕方に貼った時は付いていた。一日で浮いたことになる。糊は端まで塗ってあるはずだが、端は乾くのが速い。


 私は角を押した。押している間は付く。離すとまた浮く。

 三度押して、三度とも同じところが浮いた。


 浮くのは右の下だけだ。左の下は付いている。上の二つの角も付いている。

 右の下は廊下の側にあって、人が通ると風が来る。来る風の向きは、朝と夜で逆だ。朝は食堂から廊下へ、夜は廊下から食堂へ流れる。


 紙の下のほうを指でなぞると、波打ったところが順に指に来る。波は三つある。

 三つとも横向きで、縦の波は無い。糊を横に引いて塗ったのだと思う。塗った人の手の向きが、乾いた形で残っている。

 波の間は指二本ぶんずつ空いている。三つとも同じ幅だ。


──────────────────


国立人類保全園 第七園

E区画 就業配置 実施報告


報告 E区画担当

宛 飼育部門

報告日 令和二百十二年七月二十一日


一、掲示


飼二一四号の通知および区分の基準を、七月二十日の一七時に食堂前へ掲示した。順位表を併せて掲示した。


読み上げは七月二十一日の〇九時に行った。読み上げは個体一名に依頼した。所要は八分であった。依頼に係る手当の支給区分は定めが無いため、支給を行わなかった。


掲示した物は三枚である。通知、配置表、順位表。配置表は通知の五を書き写して作成した。書き写しに誤りが無いかの確認は行っていない。


二、無等級の取り扱い


無等級十一名については、掲示の対象としなかった。掲示の様式に該当の段が無いためである。


なお、当該十一名に対する読み上げの周知も行わなかった。周知の対象を掲示の対象と同一としているためである。


当該十一名の就業は、七月中は現行のとおりとした。八月一日以降の就業について、本報告の時点で指示を受けていない。指示の照会先について、様式に定めが無い。


三、順位表


乙百六十二名の順位を掲示した。丙六十八名については、展示の割当が無いため順位表を作成していない。


順位表には個体番号のみを記載した。得点および等級の記載は行っていない。


順位表のうち、転出により在籍しない個体が一名含まれている。作成の基礎とした名簿が六月末日現在のものであったためである。


当該の一名の行を抹消するか否かについて、様式に定めが無い。本報告の時点では抹消していない。


四、照会


掲示の当日に、個体からの照会が三件あった。内訳は順位の算出方法が二件、丙の手当が一件である。


いずれも「担当ではない」と回答した。回答した者の氏名は記載していない。回答の記録は本報告をもって代える。照会の内容を記載する欄は本報告の様式に無い。上記の内訳は担当者の記憶による。


五、次回


次回の改定は八月一日とする。八月一日の改定において、無等級の取り扱いを定める予定である。


定める予定である旨は、前年度および前々年度の報告にも記載していた。定めた記録は確認できていない。


(報告 E区画担当/写し 総務課)

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