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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第一章 展示

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14/18

第014話 格子

てんじてきせい しんさ について


E区画の みなさんへ


七月十五日(木)に、てんじてきせい しんさ を おこないます。


一、なにを するか


かおと からだを 見て、しゃしんを とります。


けんさ では ありません。ちゅうしゃ も ありません。いたみは ないです。


二、じかん


しんさは 十五分くらいです。ぜんぶで 半日 かかります。


よばれるまで まちあいで まってください。すわって いて かまいません。


まちあいは 第二しょくどうの となりの へやです。いすが 四十二 あります。たりない ぶんは 立って まってください。


三、よばれる じゅんばん


ばんごうの じゅんでは ありません。きょしつの ならびの じゅんに よびます。


じぶんの まえの ひとが よばれたら、ちかくに いてください。


四、もちもの


なにも いりません。


かみは いつも どおりに して きてください。とくべつに することは ありません。


五、ふくそう


いつもの ふくで きてください。そでを まくることが あります。


くつは ぬいでください。ぬいだ くつは かかりの ひとが あずかります。たなに ならべます。


六、しょくじ


あさは いつも どおり たべて ください。ぜっしょく では ありません。


ひるは まちあいで だします。ふだんの 半分です。のこりは しんさの あとに だします。


七、けっか


けっかは かかりの ひとが つたえます。かみは わたしません。


つたえる ひは その日か つぎの日に なります。


八、けっかの つたえかた


かかりの ひとが ばんごうを よびます。よばれたら 入口の ちかくへ きてください。


つたえるのは ひとことです。ききとれなかった ときは、もういちど きいて かまいません。


つたえた あとの せつめいは ありません。


九、しんさの あとに ついて


しんさが おわった ひとは、まちあいに もどってください。すぐに かえっては いけません。


けっかを つたえるまで、まちあいに いてください。まつ じかんは 一時間くらいです。


十、そのほか


しんさは 一年に 一かい です。


ことしは 十五日と 十六日に わけて おこないます。E区画は 十五日です。


わからない ことが あったら、かかりの ひとに きいてください。こたえられない ことも あります。


(けいじ しいくぶもん)


──────────────────


 掲示は三日前から貼ってある。廊下の掲示板の、月報の隣だ。紙は大きい。ほかの掲示の二倍ある。

 留めてあるのは画鋲ではなく糊になる。四隅と、真ん中の上下に付けてある。剥がす予定が無い掲示は糊で貼る。


 字はひらがなが多い。園の中でひらがなの多い字を見るのは、正門の掲示と、給餌口の表示と、この掲示になる。

 私たちに向けた字だけが、こうなる。理由は書いていない。

 ひらがなは読みやすい。読みやすいのに、読むのに時間がかかる。切れ目が字の形で分からないので、間を自分で入れることになる。掲示のほうも、それが分かっているらしい。語と語の間が空けてある。


 糊の匂いがする。貼ったばかりの掲示は端から匂う。糊は白くて、乾くと透明になる。透明になっても匂いは二日ほど残る。

 三日目の今日は、もう匂わない。匂わないので、私は紙のほうへ顔を近づけた。近づけると、紙そのものの匂いがした。


 三日の間に、この掲示の前に人が溜まった。読める人が読んで、読めない人に伝える。伝わる速さは速い。三日目には全員が日付を知っていた。

 伝える人は同じ人ではない。最初は読める人が伝えて、次の日からは聞いた人が伝える。伝わるうちに、字に無いことが混ざる。

 爪も見る、という話が二日目に出た。掲示には書いていない。三日目には、爪を切る音が居室の列のあちこちで鳴った。


 十四日の夜、居室の隣の人が寝返りを打つ音が多かった。

 いつもは三度か四度になる。昨夜は十一度あった。数えたのは、私も眠っていなかったからだ。


 眠らない夜は、体の順番が普段と違う。

 まず足が冷える。次に肩が固くなる。最後に目の奥が乾く。この三つが順に来ると、朝までは眠らない。三つとも来た。

 途中で一度、起きて水を飲んだ。洗面所の水は夜のほうが冷たい。昼より二度ほど低いと思う。測る方法は無い。


 戻って横になると、寝台の温いところがもう冷めている。

 冷めた面に寝ると、温まるまでに三分ほどかかる。三分待って、それから隣の音を数え直した。数え直しても十一度で合っていた。


 朝は普通に食べた。

 絶食ではない。四三〇の皿が出る。出るのに、食べる速さが皆いつもより遅い。

 遅いので、食堂を出る時刻が十分ほど後ろへずれた。その分だけ、待合へ着くのも遅くなる。


 待合は第二食堂の隣の部屋だった。

 普段は使っていない。長机が壁際に寄せてあって、真ん中が空いている。空いたところに椅子が並べてある。


 椅子は三列。一列に十四ある。四十二席になる。

 E区画の対象は五十一名だと係員が言った。九名は立つことになる。立つ人は後から来た人だ。


 私は二列目の端に座った。

 端は壁に近い。壁に近いと、片側だけ人がいない。片側だけなら、腕が当たらない。


 人が集まると匂いが変わる。

 一人ずつの匂いは薄い。集まると濃くなる。濃くなった匂いは、洗剤の匂いではなくなった。人の匂いになる。

 窓は二つある。開いているのは一つだけだ。開いているほうの近くに座った人は、髪が少し動いている。


 三八〇の人は前の列にいる。

 私に気づいて、片手を上げた。私も上げる。上げてから、上げたのは初めてかも知れないと思った。

 この人はいつも隣にいる。隣にいる時は手を上げない。離れているから上げる。離れる距離がどれくらいから上げる形になるのかは、決まっていない。


 部屋の中には、番号しか知らない人が多くいる。

 顔は知っている。廊下で見る。食堂で見る。列で前や後ろに立つ。それでも喋ったことは無い。

 喋ったことの無い人が四十人ほど、同じ部屋に座っている。座っているだけで、部屋の温度が上がる。上がった分だけ、窓の近くが人気になる。


 H-0009は入口の近くの壁に立っている。椅子が空いているのに座らない。

 壁に手を当てて、いつもの速さで動かしている。往復に二秒。今日も同じだ。

 係員が一度、座るように言った。この人は座らない。係員はそれ以上言わなかった。


 この人の周りだけ、人が座っていない。

 空いているのは椅子二つぶんになる。避けているのではないと思う。壁際は手が当たるので、誰も選ばないだけだ。

 私はその二つのうち片方に座ってみようかと考えて、やめた。やめた理由は自分でも分からない。


 H-0031は三列目にいた。

 私を見つけて、少し手招きした。私は席を立って、隣が空いていたので移った。


「早い?」

「早いです」

「番号順じゃないんだって」

「そうなんですか」

「居室の並び。だから私とあんたは近い」


 この人は膝の上で手を組んでいる。組んだ指が動く。動かして、また止める。

「怖い?」

「怖くはありません」

「私は怖い」

「はい」

「三回目なんだけどね。三回とも怖い」


 三回。この人はここに四年いると言っていた。四年で三回になる。

 一年に一回なら四回になるはずだ。一回は受けていないことになる。理由は聞かなかった。


 十時前に、A-0114が入ってきた。


 入ってきた時、部屋の音が少し変わった。

 喋っていた人が止まって、それからまた喋り始める。止まっていたのは二秒ほどになる。


 その人は真ん中の列の前のほうへ座った。座る前に、こちらを見て手を上げた。

 私も上げた。手を上げるのが今日で二度目になる。


 少しして、その人が席を立ってこちらへ来た。

「隣、いい?」

「空いています」

 H-0031が詰めた。三人並ぶ形になる。


「あんた、初めて?」

「初めてです」

「そう。じゃあ、教える」

 その人は指を三本立てた。

「一つ、口を閉じないこと。閉じると歯が見えないから、もう一回やり直しになる」

「はい」

「二つ、目を動かさないこと。動かすと写真がぶれる」

「はい」

「三つ」

 その人は少し考えて、指を一本折った。

「三つ目は忘れた」


 H-0031が笑う。私も笑った。

 その人も笑って、それから言う。

「思い出したら教える」


「怖くないんですか」

「怖くない」

「はい」

「怖がっても点は変わんないから」

 点、という語が出た。私はその語を掲示で見ていない。誰かから聞いたのだと思う。


「点があるんですか」

「あるでしょ、たぶん」

 その人は指で自分の頬を押した。押すと、押したところが白くなって、離すと戻る。戻るのに一秒かからない。

「なかったら、甲とか乙とか、どうやって決めるの」

「はい」

「私は毎年同じ。同じだから、もう気にしてない」


 気にしていないと言った人が、さっき部屋へ入ってきた時に音が変わったことを、私は覚えている。

 変わったのはこの人のせいではない。周りが変えた。周りが変えたことを、この人は知らないかも知れない。


 番号が呼ばれ始めた。

 呼ぶのは係員で、扉のところに立っている。呼ばれた人は靴を脱いで、係員に渡す。渡した靴は棚へ並ぶ。


 棚は三段ある。並べる順は番号順ではない。渡した順になる。

 出てきた人は自分の靴を探す。探すのに時間がかかる人と、かからない人がいる。

 かからない人は、自分の靴の位置を覚えている。私は覚えることにした。


 待つ間、部屋の中で話が回った。

 項目がいくつあるか。前の年と同じか。写真は何枚撮るか。

 誰も正確なところを知らない。知っている人がいないので、話は同じところを回る。


「歯を見るんだよ」

「爪も見る」

「爪は見ない。去年見なかった」

「区画で違うんじゃない」


 話は結論に行かない。行かないでいるうちに、次の番号が呼ばれる。

 呼ばれた人が立つと、話がそこで切れる。切れてから、また別のところから始まる。


 R番号の人が私の二つ隣に座った。前に食堂で、ものさしの話をした人になる。

 その人は私に気づいて、少し頷いた。頷きだけで会話にはならない。ならなくても、知っている人が近くにいるのが分かる。


 部屋の中には、知っている番号が五つある。

 三八〇の人とH-0009、それにH-0031とA-0114、R番号の人。五つを数えて、それから残りの人数を引いた。四十六人が知らない人になる。

 四十六人と、五人。同じ部屋にいて、比は九対一になる。


 私は呼ばれた人を数えていた。午前で十九人ある。

 一人あたり十五分と掲示にあった。十九人で二百八十五分になる。午前は三時間しかない。合わない。

 合わないので、実際は一人あたり九分ほどだ。掲示の十五分は、長いほうを書いてある。


 部屋の音は時間で変わる。

 最初の一時間は喋る人が多い。二時間目から減る。三時間目には、喋っているのは二か所だけになった。

 減った分だけ、扉の開く音がよく聞こえる。開く音は一日で四十回を超えた。数えたのは私だけだと思う。


 昼をまたぐ。昼は待合に皿が運ばれてくる。皿は普段より小さい。二〇〇ほどしかない。

 半分の量だと係員が言った。午後の分がある人は、終わってからもう半分もらえるらしい。


 小さい皿は早く終わる。早く終わると、待つ時間が長くなる。

 A-0114は自分の皿の縁を匙でならしてから食べ始めた。三八〇の人と同じ動きだ。前の列から、三八〇の人がこちらを見た。見てから、自分の皿へ戻った。


「あんた、いつも何食べてんの」

「これです」

「そうじゃなくて。四三〇でしょ」

「はい」

「私、四〇〇。今日は二〇〇」

「はい」

「半分って、四〇〇の半分だから二〇〇でいいけど、四三〇の半分は二一五でしょ」

 私は自分の皿を見た。ほかの皿と同じ大きさに見える。

「同じでした」

「でしょ。そういうとこ、雑」

 その人は笑った。笑い声が部屋の後ろまで届いて、二人ほどが振り返った。


 午後の二番目に呼ばれる。


「J-0037」

「はい」


 靴を脱いで、係員に渡した。渡す時に、棚の何処へ置くかを見る。二段目の左から四つ目になる。覚えた。

 靴を脱ぐと床が近くなる。廊下の床は樹脂で、素足で立つと少し冷たい。冷たいのは最初だけで、二十秒ほどで消える。

 消えてから、足の裏に床の細かい粒が当たるのが分かるようになる。掃いてあっても粒は残る。


 審査室は明るい。

 照明が四つある。天井に二つと、床に立てたものが二つ。床のほうは向きを変えられる形になっている。


 壁は白い布が張ってある。撮影の日と同じ布に見える。皺の寄り方が違う。別の布かも知れない。


 人は三人いる。

 一人は机に着いて紙を持ち、一人は機械を持つ。もう一人は道具を持っている。

 道具を持っている人は白衣ではない。上着が薄い青で、袖のところに線が二本入っている。


「そこに立って」

「はい」


 床に印が付いている。足の形が二つ、白い線で描いてある。

 合わせて立つ。合わせると、正面が機械のほうへ来る。


「顔上げて。動かないで」

 光が二度出た。撮影の日と同じ出方だ。


「横向いて。右」

 私は右を向く。

「もう少し。そこで止めて」

 止めた。光が出る。

「反対」

 左を向く。光が出る。


 三枚撮る。三枚とも、光の後に緑が残る。残る時間は同じだ。


 道具を持っている人が近づいてくる。

 道具は板になる。透明な板で、上に細い線が縦横に引いてある。線は等間隔だ。


 板を私の顔の前へ持ってくる。

 近い。息が板に当たる。当たると白く曇って、すぐ消える。


「動かないで」

「はい」


 その人は板の位置を少しずつ変える。

 変えて、机の人へ数を言う。数は二桁だ。言う度に、机の人が書く。


 私は板の向こうにいる。

 線が私の顔の上に乗っている。乗っている線を、私は自分では見られない。見られるのは板の向こうの人だけになる。


 板は近い。近いので、板の線と、その向こうの人の顔が同じ距離に見える。

 目の焦点を線に合わせると、人の顔がぼやける。人の顔に合わせると、線が消える。両方は同時に見えない。

 私は線のほうに合わせた。合わせている間、向こうの人の顔は分からなくなる。


 線の間隔は指の幅より狭い。数えると、板の縦に十二本、横に十七本ある。

 交わっている点は二百四になる。二百四のうち、私の顔に乗っているのは半分ほどだ。


 板を通して、机の人がこちらを見る。

 見て、それから道具の人に何か言った。道具の人が板を少し下げる。下げて、また上げた。


「もう一回、正面」

 私は正面を向く。


 格子を当てると、右の目が一つぶん下にある。


 道具の人はそう言った。私にではない。机の人に言った。

 机の人が書く。書く音がした。


「はい、外して」

 板が離れる。離れると、顔の前の空気が動く。動いた分だけ涼しい。


「口、開けて」

 私は開ける。

「もう少し。歯が全部見えるように」

 開けた。開けたなりで待つと、機械が近づいてくる。光が出る。


「はい。今度は笑って」

「はい」

 私は口の端を上げた。

「歯を見せて」

 上げ直した。

「そのまま」


 そのままで、と言われた後が長い。

 数えた。十秒あった。十秒の間、顎に力が入る。入れ続けると頬が震え始める。震え始めたところで声が掛かった。

「はい、いいです」


 声が掛かってから、顎の力を抜くまでに間がある。抜くと頬が一度だけ大きく震えて、それから止まる。


 次は皮膚だった。

 道具の人が私の腕を取って、内側を見る。それから手の甲、首の横、耳の後ろの順に見た。順は決まっているらしい。迷わない。

 見る時に、指で軽く押す。押すと白くなって、離すと戻る。戻る速さを見ている。三か所で同じことをした。


 髪も見られた。

 後ろから持ち上げて、根元のほうを見る。持ち上げられると首の後ろが涼しい。涼しいのは五秒ほどになる。

 その人は数を言わなかった。言わずに、机の人へ小さく頷いた。頷きだけで何が伝わるのかは分からない。


 次は姿勢になる。

 壁を背にして立つ。踵と尻と肩、それに後頭部を壁に付ける。付けると顎が上がる。

「顎、引いて」

 引いた。引くと後頭部が離れる。

「離れていい」

 離した。


 道具の人が私の肩に手を当てて、少し押した。押されると、体が壁のほうへ寄る。

 寄せてから、その人は横へ回って、机の人に数を言った。今度は三桁になる。


「はい、終わり」

 十四分だった。時計は部屋の中にある。入った時刻と出る時刻を見た。掲示の十五分より一分短い。


 待合へ戻ると、席が空いている。

 午前の人はもう帰っている。残っているのは午後の分だけになる。


 H-0031が座っていた。この人はもう終わっている。

「どうだった」

「終わりました」

「板、当てられた?」

「当てられました」

「あれ、去年は無かった」

「はい」

「今年から増えたんだと思う」


 この人は自分の顔を触る。頬から顎へ、指を滑らせた。

「何を見てるんだろうね」

「分かりません」

「私も分からない」


「聞いたことはありますか」

「一回だけ聞いた」

「なんて言われましたか」

「決まりですって」

「はい」

「決まりです、って言われると、それ以上聞けないよね」

 この人は指を顎で止めた。止めてから、手を膝へ戻す。


「あんた、聞いた?」

「聞いていません」

「聞かないほうがいいよ」

「はい」

「聞くと、聞いたことが顔に出る」

 顔に出る、という言い方を私はしたことがない。出たかどうかを、自分では見られない。


 待合の温度は午後のほうが高い。窓を開けても変わらない。

 人が減ったのに温度が下がらないのは、壁と床が温まったからだ。温まった壁は夜まで冷えない。私は壁に手を当てて確かめる。手より温かい。


 三時を過ぎて、係員が名簿を持って部屋に入ってきた。

 結果を伝えるのだと言う。伝えるのは口頭で、紙は無い。

 部屋の音が止まった。止まったのは今日で二度目になる。一度目はA-0114が入ってきた時だ。


 係員は入口の近くに立って、番号を読む。

 読んで、その人が「はい」と言うと、一言だけ言う。一言はよく聞こえない。近くにいる人には聞こえる。


 順に呼ばれていく。呼ばれた人が戻ってくると、周りが聞く。聞かれた人は答える人と答えない人がいる。

 答える人のほうが多い。


「乙」

「私も乙」

「丙だった」

「丙って言った?」

「言った」


 丙と言われた人は、少し笑ってから座る。座って、それきり喋らない。


 その人の隣の人が、椅子を少し寄せた。寄せただけで、何も言わない。

 寄せた分は五センチほどになる。五センチが何を意味するのかは、私には言えない。言えないが、寄せる前と後で、その人の座り方が変わった。


 部屋の中で、丙は今のところ二人になる。乙は十一人。甲は出ていない。

 数えているのは私だけだと思う。数えても、何処にも書かない。


「J-0037」

「はい」


 私は入口へ行く。

 係員は名簿を見て、それから顔を上げた。顔を上げるのは、番号と顔を合わせるためだと思う。


「乙です」

「はい」

「以上」

「はい」


 それだけだった。私は戻る。

 戻る途中で、丙と言われた人の横を通った。その人は下を見ている。下を見ている人の横を通る時、何処を見ればよいのかを私は知らない。

 私は前を見て通った。通ってから、それが正しかったのかを確かめる方法は無い。


 席に着いて、私は自分の顔に手を当ててみた。

 頬から顎へ、H-0031と同じ順で滑らせる。滑らせても何も分からない。分かるようには出来ていない。


 戻ると、H-0031が見ていた。

「どうだった」

「乙でした」

「よかった」

 この人はそう言う。よかった、という語を、私はこの人から初めて聞いた。


「あなたは」

「私も乙」

「三回とも乙ですか」

「三回とも」

「はい」

「変わらないのが一番いい」

 この人は膝の上の手を開いて、閉じた。組んでいた形が解けている。


 解けた手を、この人は膝の横へ下ろした。下ろすと肩も下がる。

 朝からずっと上がっていたのだと、今になって分かる。上がっているうちは分からない。下りて初めて分かる。


 A-0114が後ろから来た。

「なんだった?」

「乙です」

「そう」

「A-0114は」

「私は毎年同じ。同じだから、もう聞かない」

「聞かないんですか」

「聞かなくても、向こうが先に言うもの」


 その人は自分の指を二本立てて、私の指と合わせるような形をした。合わせはしない。近づけて、離した。

 近づけた距離は一センチほどになる。触れなかったのは、そういう決まりがあるからではない。この人がそうしただけだ。


「よかったね」

「はい」


 三八〇の人が向こうの列で座っている。

 この人はもう聞き終わっている。何だったのかは聞かなかった。聞かないほうがよい時があるのを、私は知っている。


 部屋を出る時、私は棚から自分の靴を取った。

 二段目の左から四つ目にあった。覚えていたので、探さずに取れた。取ってから、空いた場所をもう一度見た。踵の形の埃の輪が、そこだけ残っている。


 廊下へ出ると、外の光が入っている。

 七月の夕方は明るい。明るいのに、廊下の照明はもう点いている。点いている必要は無いように見える。


 H-0009が私の前を歩いている。

 壁を触って歩く。触る速さはいつもと同じだ。今日も変わらない。

 この人が何と言われたのかは知らない。知らないでいるうちに、私は後ろを歩く。


 廊下の途中で、この人が一度止まった。

 止まって、触っていた手を壁から離す。離した手を見て、また当てた。当てる位置は離した位置と同じになる。

 私は追い越さずに待った。待っている間、私も壁を見た。壁には何も無い。塗ってあるだけの面が続いている。


 居室へ戻ると、隣の人がもう横になっていた。

 夕方に横になるのは珍しい。今日は珍しいことが起きる日だったのだと思う。

 私は寝台の縁に座って、足の裏を見た。素足で歩いた時に付いた粒が、まだ一つ残っている。取ると、指の腹に付いた。

 指の腹から落とそうとして、擦り合わせた。落ちたかどうかは分からない。落ちた先も分からない。


 乙、と言われた。

 言われた語は一つで、二拍しかない。二拍のために半日いた。

 半日の間に測られたものが何だったのかを、私は言葉に出来ない。顔を見られた。歯も見られた。板を当てられて、笑うように言われて、十秒そのままでいた。

 それらが一つの語になって出てきた。出てくるところは私からは見えない。


 夕方の給餌で、残りの半分が出た。

 二三〇ある。二〇〇と足すと四三〇になる。合っている。

 今日は皿を二度受け取った日になる。二度受け取ると、二度とも同じ重さに感じる。半分でも同じに感じるのは、持ち方が同じだからだ。


 食堂は静かだった。

 朝より静かで、昼より静かになる。全員が同じ日を過ごして、全員が一言だけ言われて帰ってきた。

 言われた語は三つに分かれている。分かれたことを、誰も口に出して確かめない。確かめないでいることが、この日のやり方になる。


 三八〇の人が隣に座って、いつものように三口分を移した。移してから言う。


「乙だって?」

「はい」

「そうかね」

「はい」

「よかったよ」


 この人は自分の皿を見た。見てから、匙で表面をならす。

 ならす音は小さい。小さいのに、今日は聞こえた。部屋が静かだからだと思う。


 私は自分の皿を見た。二三〇のほうは、四三〇の時より深さが浅い。

 浅いので、匙が底に早く当たる。当たる音が三度した。三度目で終わった。


 食べ終わってから、私は今日の言葉を並べた。

 三人が同じ語を言った。語尾だけが違う。よかった、よかったね、よかったよ。

 三人とも、私の点を知らない。


──────────────────


国立人類保全園 第七園

展示適性審査 判定調書


個体番号 J-0037

審査日 令和二百十二年七月十五日

審査者 飼育部門二名、広報課一名


一、判定



二、区分の基準


 等級  得点

 甲   八十五以上

 乙   六十以上八十五未満

 丙   四十以上六十未満

 無等級 四十未満


三、判定の内訳


 項目            配点 得点

 顔面の均整         二十 十一

 皮膚の状態         十五 十三

 歯列            十五 十四

 頭髪            十  八

 姿勢            十  九

 表情の可動         十五 六

 来館者からの申し出(加減) 十五 十

 合計            百  七十一


四、計測


顔面の均整は本年度から格子板による計測を加えた。左右の目の位置に一目盛の差を認めた。


計測の値は前年度と比較していない。前年度に計測の記録が無いためである。


五、審査前の従事について


当該個体は本年度、審査前に展示へ二日従事した。


審査前の展示従事について、遡及して適否を判定する定めは無い。就業欄への記載も行わない。


六、展示室の運用


展示室は一号から三号までを使用している。四号以降は令和二百七年から閉鎖した。


閉鎖の理由は来館者数の減少による。開放の条件は、甲の在籍が四名に達した場合とした。


本年度の甲の在籍は三名であった。開放の予定は無い。


七、通知


判定の内訳は個体へ通知しない。等級のみを口頭で伝えた。


内訳の開示を求める申し出は、開園以来で一件あった。当該の一件について、対応の記録は残っていない。


内訳を通知しない理由は、様式の備考に「必要が無いため」とある。必要の有無を判断した者の記載は無い。


八、写真の取り扱い


撮影した三葉は本調書に添付した。添付分の複製は作成していない。


前年度分の写真は本年度分の添付をもって差し替えた。差し替えた前年度分は廃棄した。比較の資料は残っていない。


九、E区画の集計


E区画の対象は二百四十一名であった。審査は七月十四日から十九日までの六日に分け、一日あたりの対象を五十一名までとした。


判定は甲を認めず、乙百六十二名、丙六十八名、無等級十一名である。


前年度と比較して、丙は九名増えた。増加の要因は特定していない。


十、留意


表情の可動の得点は、前回の審査から二点低下した。


(審査 飼育部門/写し 広報課・記録管理室)

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