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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第一章 展示

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13/22

第013話 四段目

国立人類保全園 第七園

就業手当支給明細(六月分)


対象 J-0037

交付 飼育部門 七月三日


一、支給の内訳


 区分 就業手当(洗濯) 単位 日 実績 十四 単価 一 額 十四

 区分 就業手当(清掃補助) 単位 日 実績 三 単価 一 額 三

 区分 展示手当 単位 日 実績 二 単価 三 額 六

 区分 ふれあい歩合 単位 接触百 実績 十四 単価 一 額 十四

 区分 修繕補助 単位 – 実績 – 単価 – 額 –

 区分 合計 額 三十七


二、控除


 区分      額

 被服の追加交付 二

 合計      二


三、差引支給額


三十五枚とした。前月の差引支給額は三十一枚であった。


四、算定の基準


就業手当は従事した日数による。半日の従事も一日として数えた。


展示手当は一日につき三枚とした。展示室の使用時間にかかわらず同額とした。


ふれあい歩合は接触数百につき一枚とした。接触数は係員の目視による概算である。厳密な計数は業務に支障を来すため求めない。


五、修繕補助について


修繕の補助に係る区分は本様式に設けている。ただし作業班の日報に個体の従事の記載が無い場合、実績の確認が出来ない。


本月において当該の記載は無かった。よって実績を零とした。


六、残高


前月からの繰越は九十二枚であった。本月の支給を加え、使用を差し引いた残高は百二十七枚となる。


本月の使用は零であった。


七、交換所の取扱品


交換所において交付する物品は九品目とした。前年度は十一品目である。二品目は取扱を終えた。


終えた理由は仕入の停止による。代替の品目は設けていない。


八、支給の対象


支給の対象は就業に従事した個体とした。従事の記録は各所管が作成する。


記録の様式は所管ごとに異なる。統一について検討したことは無い。


九、端数の処理


歩合の算定において生じた端数は切り捨てとした。切り上げを求める意見は過去に無い。


十、留意


手当は園内の交換所においてのみ使用出来ることとした。園外への持ち出しは認めない。


譲渡は認めない。ただし譲渡の事実を確認する手段は無かった。


(交付 飼育部門/写し 総務課)


──────────────────


 明細は月に一度出る。三日に配られて、四日から使える。配るのは係員で、居室の前で一人ずつ渡される。

 渡す時、係員は番号を読み上げない。紙の上に番号が刷ってあるので、渡す前に一度見て、それから出す。見る時間は一人につき二秒ほどになる。


 紙は薄い。片面だけに刷ってあって、裏は白い。

 刷りたての紙には匂いがある。乾いた粉のような匂いで、指で擦ると薄くなる。擦らなければ二日ほど残る。

 受け取った紙は温かい。刷った機械の熱が残っている。温かさは廊下を歩く間に消える。居室へ着く頃には室温と同じになった。


 七月の朝は起きた時から暑い。

 窓は開かない。開く形になっていない。上のほうに細い隙間があって、そこから空気が入る。入る量は季節で変わらない。

 寝台の合成繊維は熱を持つ。夜のうちに体温が移って、朝には自分の形のところだけ温い。起きて手を当てると分かる。


 私は自分の紙を見た。

 上から順に、洗濯が十四日、清掃補助が三日、展示が二日。それからふれあいの行がある。


 ふれあいの行の数は十四だった。

 接触百につき一枚だから、六月の接触は千四百ほどになる。私は六月に八日ふれあいへ出ている。一日あたり百七十五になる。


 真ん中に置かれた日は一日だけだった。

 真ん中の日は三百を超える。端の日は二十に届かないこともある。八日のうち一日が真ん中で、残りが端と、その隣だ。


 合計は三十七。控除が二あって、差引で三十五になる。

 繰越は九十二あった。足すと百二十七になる。


 百二十七を、私は覚えた。覚えるのは難しくない。数は三つの塊に分かれる。百と、二十と、七。

 塊に分けると、数は場所を取らなくなる。分けずに覚えようとすると、途中で崩れる。崩れると最初から数え直しになる。


 紙の下のほうに、使途を書く欄が無い。

 支給の欄と控除の欄はある。残高の欄もある。使った物の名前を書くところだけが無い。

 無くても困らない。私は使っていない。使っていない者にとって、無い欄は目に入らないはずだ。目に入ったのは今月が初めてになる。


 交換所は食堂の隣にある。

 窓口が一つあって、そこで枚を出すと物が出てくる。物は決まっている。石鹸と櫛と便箋、それに布の袋と菓子になる。

 菓子は二十枚だ。ほかは五枚から十枚の間になる。


 私は交換所で何も買ったことがない。買わない理由を聞かれたことは無い。聞かれないので、答えたことも無い。


 交換所の前には毎月四日と五日だけ列が出来る。

 列は短い。十人ほどで、進みは速い。窓口の人が物を出すまでに三十秒かからない。

 並んでいる人は皆、紙を手に持っている。持っている紙の折り目の付き方で、その人が何度読んだかが分かる。折り目が多い紙ほど柔らかい。


 私は列の外から見た。

 菓子を買った人が出てくる。袋は小さい。中に六つ入っていると聞いた。買った人はその場で一つ食べて、残りを袖へ入れる。

 その人が私に気づいて、袋を少し傾けた。

「いる?」

「いえ」

「一つだけ」

「いえ、ありがとうございます」

 その人は袋を戻して、行った。行ってから、私は自分が礼を言ったことに気づいた。もらっていないのに礼を言った。


 朝の給餌で、三八〇の人が明細を見せてくれた。

「見る?」

「はい」


 その人の紙は行が少ない。就業手当の行が一つと、ふれあいの行が無い。

「ふれあい、出ていないんですか」

「出てない。もう呼ばれない」

「はい」

「呼ばれないと、行が消える。行が消えても、紙は同じ大きさで来る」


 その人の合計は十一だった。控除が一あって、差引で十になる。

 繰越の欄は空だ。使ったのだと思う。何に使ったのかは書いていない。使途を書く欄が無い。


 この人は紙を戻して、皿へ向かった。

 今日も三口分を私の皿へ移す。移す前に、匙で自分の皿の表面を平らにならした。ならしてから三口分を取る。

 取った後の皿は、真ん中がへこんでいる。へこんだところへ、この人はまた匙を入れて平らにする。


「あんた、何か買うの」

「買いません」

「何も?」

「何も」

「菓子も?」

「食べたことがありません」

 この人は手を止めた。止めてから、また動かした。

「二十枚だよ。あんたなら二週間もかからない」

「はい」

 私は「はい」と言った。言ってから、二十枚と二百枚を頭の中で並べた。並べると、二十のほうが小さい。小さいのに、私は二十のほうを取らないだろうと思った。


「あんたは」

「三十五です」

「多いね」

「はい」

「ふれあいが十四もある」

「はい」

「私、十年前は二十四あった」


 その人は笑った。笑うと下の歯が見える。前歯が一本、隣より短い。

 私も笑った。笑って、二十四という数を覚えた。覚えても使い道は無い。


 昼の休みに、洗濯室の前でH-0031と会った。

 この人は先月、私が落とした袋を拾って腕の上へ載せてくれた人になる。名前は知らない。番号は覚えた。


「明細、出た?」

「出ました」

「私、今月から清掃が減った」

「はい」

「係の人が、来月から戻るって」

「はい」


 この人は自分の紙を四つに畳んで、袖の内側へ入れた。入れる場所が決まっているらしい。

「あんた、貯めてるの」

「貯めているというより、使っていません」

「同じじゃない?」

「同じかも知れません」


 この人は少し考えて、言った。

「私、去年、資料館の券を買った」


 私はその人の顔を見た。

 顔を見たのは初めてだった。今まで手と、畳む速さしか見ていない。

 目の下に薄い線が二本ある。笑うと三本になる。


「入れるんですか」

「入れる。券があれば入れる」

「いくらですか」

「二百」

「二百」

「そう。私は二年かかった」


 二年。私は自分の数を思い出した。百二十七ある。

 二百までは七十三足りない。月に三十五ずつなら、二か月と少しになる。二年ではない。


「二年もかかりますか」

「あんたはふれあいが多いから、もっと早い」

「はい」

「私は洗濯だけだから」

 この人はそう言って、袖のところを押さえた。押さえると紙の音がする。


「何がありましたか」

「中に?」

「はい」

 この人は少し黙って、それから言った。

「行ってごらん。私が言うと、私の見たものになる」


「入ってどれくらいですか」

「一時間半」

「長いですね」

「順路が一方通行なの。戻れない」

「はい」

「戻れないから、見落としたところは見落としたままになる」


 この人は袖の上から紙を押さえて、少し笑う。

「私、途中で戻ろうとして、係の人に止められた」

「止められましたか」

「うん。恥ずかしかった」

 恥ずかしい、という語をこの人は使った。私はその語を使ったことがない。

 使ったことがないので、どういう時に出るのかが分からない。分からないでいるうちに、私も少し笑った。


「もう一回行きますか」

「二百って、もう一回ぶんだからね」

「はい」

「一回目のぶんを覚えてるうちは、行かない」


 この人は自分の指を四本立てた。それから一本折った。

「四年で二回。それくらいが、ちょうどいい」

 私は指を見ていた。折られた一本のところに、爪の付け根の色が濃いところがある。洗剤の色だと思う。洗濯の当番を長くやると、そこから色が変わる。


 午後は当番が無い。日曜は洗濯が休みになる。

 休みの日に何をするかは決まっていない。決まっていないので、たいてい居室にいる。居室にいると、隣の人が寝ている音が聞こえる。


 今日は歩いていくことにした。

 決めたのは昼の会話の後だ。決める前に、私は自分の紙をもう一度見た。見て、畳んで、袖へ入れた。

 入れてから立ち上がった。立ち上がる時に、行くと言った相手はいない。言う相手がいないことは、行かない理由にはならない。


 資料館は正門の内側にある。E区画からは遠い。

 通路は屋根が付いている。屋根の下を歩くと、外の光が横から入る。歩く向きによって、右か左のどちらかだけが明るい。


 途中で外へ出る場所が一箇所ある。屋根が切れて、十歩ほど空が見える。

 上を向くと、雲の位置が前に見た時と違う。前に見たのはいつだったかは覚えていない。覚えていないのは、上を向く用が普段は無いからだ。

 十歩を、私は十四歩で歩いた。歩幅を狭くすると長くなる。長くしても十四歩で終わる。


 屋根の下へ戻ると、光が横から入る形に戻る。

 右の頬だけが温い。歩く向きが変わるところで、温いほうが左へ移る。移る境目は柱のところにあって、通ると一度暗くなる。

 柱は八本ある。八本目を過ぎると、正門の建物が見え始める。


 その十歩の間、草の匂いがする。

 園内の植え込みは低い。刈った後の日は匂いが強い。今日は刈った後の三日目くらいで、匂いが少し古い。古い草の匂いは甘さが抜けて、粉に近くなる。


 通路の途中に、来館者の通る道と交わるところがある。

 交わると言っても、間に柵が入る。柵は腰の高さで、上に手を掛けられるようになっている。ふれあい広場のものと同じ形になる。


 柵の向こうを来館者が歩いている。

 日曜なので多い。子どもを連れた人が四組続けて通った。子どもは柵のこちら側を見る。大人は見ない。


 見られると、私は歩く速さを変えたくなる。

 変えないほうがよいと決めている。決めているので、そのまま歩いた。歩いていると、後ろから来た来館者が私を追い越した。追い越された。柵の向こうと、こちら側で、同じ方向へ歩いている。


 正門の内側まで来ると、人の数が変わる。

 来館者の道と園の道が近づいて、間の柵が低くなる。低いといっても越えられる高さではない。腰より少し下で、上に平たい板が渡してある。

 板の上に、飲み物の容れ物が二つ置いてあった。誰かが置いて、忘れたのだと思う。片方は空で、片方は半分ほど残っている。


 資料館の前に着いた。

 建物は白い。園の中の建物はどれも灰色で、白いのは獣医室の扉とここだけになる。

 白い壁は近くで見ると白一色ではない。細かい粒が混ざっていて、粒のところだけ灰色になる。離れると混ざって白く見える。


 入口の前に段がある。

 三段ある。上がると扉の前へ出る。扉は硝子で、両側に枠がある。枠は金属で、触ると外の熱が来る。


 園の中に段はほとんど無い。

 廊下は平らで、区画の間にも段は無い。車輪の付いたものを通すためだと聞いたことがある。

 段があるのは、ここと、正門の内側の詰所の前だけになる。


 私は一段目に足を掛けた。高さは十五センチほどある。

 上がると、上がった分だけ扉が近くなる。近くなると、硝子の向こうが見える。


 段の縁は少し丸い。角が擦れて丸くなったのだと思う。丸くなり方は真ん中が一番強くて、端はまだ角がある。

 真ん中を通る人が多い。通った数だけ丸くなる。何人で丸くなるのかは、私には見当が付かない。


 二段目に上がった。二段目の面には、細かい溝が横に並んでいる。滑らないための溝で、溝の中に砂が入っている。

 三段目にも上がった。三段目の砂は少ない。掃かれているのだと思う。


 三段目の上に線が引いてある。

 白い線で、幅は指一本ぶんだ。線の手前に立て札がある。立て札には字が刷ってある。

 この先は観覧券が必要です

 三段目までは上がってよい。四段目からが券になる。


 立て札の横に、券売の窓口がある。

 窓口は開いていて、中に人がいる。券は紙で、束になって置いてある。

 一枚だけ、見本が窓の内側に貼ってあった。見本には斜めに線が入っていて、無効と書いてある。


 券の大きさは手のひらの半分ほどだ。色は薄い黄で、縁に細い模様が入っている。

 模様は同じ形の繰り返しになる。何の形かは分からない。花にも見えるし、歯車にも見える。近づけば分かるが、近づく用が無い。


 窓口の下に小さい札があって、料金が書いてある。

 一般 二百円。園内 二百枚。

 二つの数が同じ形で並んでいる。単位だけが違う。同じ二百でも、片方は私が二か月かかる。


 私は硝子の向こうを見た。

 入口の内側は広い。奥へ行くほど暗くなる。手前だけが明るい。


 手前に陳列の棚が二つある。

 棚は硝子の箱で、中に物が置いてある。置いてある物には札が付いている。札の字は小さい。ここからでは読めない。


 右の棚に、細長い黒いものが入っている。

 見覚えがある。生息環境展示の卓袱台の上に置いてあるものと同じ形をしている。押しても何も出ないものだ。


 同じ形のものが一つだけ、棚の真ん中に置いてある。

 置き方が違う。展示室のものは卓袱台に転がしてあるが、これは台に立ててある。立ててあると、大きさが分かる。手のひらより少し長い。


 私は数を思い出した。展示室にあるのは二台だ。計画書には三台と書いてあると聞いたことがある。

 三台目が何処にあるかを、私は知らない。知らなかった。


 棚の中のそれには、下に小さい札が付いている。札は白くて、字は黒い。

 字は三行あって、一行目が一番大きい。名前だと思う。二行目は年で、三行目には四角い枠がある。枠の中に別の字が入っている。

 枠のある字は、園の中の書類で見る形に似ている。番号の形だ。物にも番号が付く。


 物に番号が付くと、それはこの棚から動かない。動かす時は別の紙が要る。

 紙が要るということは、動いた記録が残るということになる。残るはずのものが残らなかった場合に、何処を見れば分かるのかは知らない。


 左の棚には紙が入っている。

 紙ではなく、板かも知れない。板の上に写真が貼ってあって、その下に字がある。


 写真は机だ。

 上から撮ってある。天板が写っていて、天板に何か彫ってある。

 彫ってあるのは文字と数字だ。ここからでは読めない。読めないが、形は分かる。アルファベットが一つあって、その後に数字が並ぶ。

 彫った跡は浅い。写真でも浅いのが分かる。深く彫れば消えにくいが、深く彫るには時間が要る。時間の掛からない道具で、少しずつ増やしたのだと思う。


 写真は三枚ある。三枚とも別の天板だ。彫ってある位置が違う。

 一枚目は天板の真ん中、二枚目は手前の縁の近く、三枚目は右の奥になる。奥に彫ると、座った人の腕で隠れる。隠れる場所を選んだ人がいる。


 私は見ていた。

 見ていると、窓口の人が顔を出した。


「券、買う?」

「買いません」

「そう」

 その人は引っ込んだ。それから、もう一度出てきた。

「見てるだけならいいよ。開館中は」

「はい」

「線は越えないで」

「はい」


 私は三段目に立って、見ていた。

 立っている間に、来館者が四人、私の横を通って中へ入った。券を出す人と、出さない人がいる。出さない人は首から何か下げている。年間の券だと思う。


 通る時、来館者は私を見る。見てから、目を戻す。戻すまでが人によって違う。

 速い人は一秒に足りない。遅い人は三秒ほどある。三秒の人は、戻してからもう一度見る。

 もう一度見る人は四人のうち一人だった。その人は中へ入る前に、係の人へ何か聞いた。係の人は首を振った。振ってから、私のほうを見ない。


 私は柵の外にいる。柵は無い。段の上に線があるだけになる。

 線は白い塗料で、幅は指一本ぶん。触ると床より少し高い。塗料の厚みだけ盛り上がっている。

 私は靴の先を線の手前へ置いた。置いても越えていない。越えていないことを、自分の目で確かめた。


 線の向こう側の床は、こちら側と同じ材質に見える。色も同じだ。

 境目は塗料一本ぶんしかない。塗料は端のほうが薄い。薄いところは床の色が透けて、線の幅が場所によって違って見える。


 入る時、扉が開く。開くと中の空気が出てくる。

 冷えている。園の中より冷たい。冷えた空気は少し乾いていて、紙の匂いがする。獣医室の紙とは違う。もっと古い紙だ。


 空気は三秒ほどで散る。散ってから、また外の温度に戻る。

 扉が開く度に同じことが起きる。私は数えた。十五分で九回あった。


 左の棚の板を、もう一度見た。

 板の下の字は三行ある。一行目が短くて、二行目が長い。三行目はまた短い。

 三行目だけ、字の大きさが違う。小さい。注釈のようなものだと思う。


 窓口の人がまた顔を出した。

「あれね、記名の展示」

「きめい」

「名前とか番号とか、彫ってあるやつ。園の中で見つかったのを集めてる」

「はい」

「集めてるっていうか、写真だけね。机は使ってるから」


 使っている。

 私は今も使われている机のことを思った。教室のレプリカに十二ある。彫ってあるのは五つだと、前に数えた。

 あれは点検の対象外だと聞いた。備品ではないから、と。


「消さないんですか」

「消さないよ。資料だから」

 その人はそう言って、また引っ込んだ。


 資料。

 私はその語を頭の中で置いた。置く前に、口の中で一度言ってみた。声には出さない。舌が動くだけになる。

 この語を、私は書類の中で見たことがある。視聴覚資料。参考資料。どちらも物に付く語だった。置くと、置いた場所が決まらない。決まらないでいるうちに、私は段を降りた。


 段を降りる時、三段目から二段目までが一番高く感じる。足の裏が着くまでの間が長い。

 上がる時は気づかなかった。降りる時だけ分かる。同じ高さなのに、向きで変わる。


 帰りは同じ道を歩いた。柱を八本、逆から数える。

 草の匂いのする十歩を通る時、私は少し速く歩いた。速く歩くと匂いが短くなる。短くしたかったわけではない。ただ、帰りは速くなる。


 通路の途中で、来る時には気づかなかったものを見た。

 柱の一本の、腰より少し上のところに、印が付いている。横に細い線が三本並んでいて、深さが同じだ。爪では付かない深さになる。

 三本の下に、もっと薄い線が一本ある。四本目を付けようとしてやめたのか、消えかけているのかは分からない。


 私は指を当ててみた。当てると、線の中に指の先が入る。入る深さは一ミリに足りない。爪を立てても、それ以上は入らなかった。

 誰が付けたのかは書いていない。ここには札が無い。札が無いので、これは資料ではない。


 交わるところで、また来館者を見た。

 柵の向こうに、子どもが一人しゃがんでいた。地面の何かを見ている。親らしい人が呼んでいる。子どもは動かない。


 柵の板の上に、まだ容れ物が二つ残っていた。

 半分残っていたほうの中身が、日に当たって少し減っている。減った分だけ内側に線が付く。線は一本ではなく、三本ある。三度に分けて減ったのだと思う。

 誰も取りに来ない。閉場までにここへ来る係の人がいるのかどうかは知らない。


 私は立ち止まって見ていた。

 子どもは五秒ほどして立ち上がり、走っていった。しゃがんでいた場所に何があったのかは、柵の向こうなので分からない。


 夕方の給餌で、三八〇の人の隣に座った。

「行った?」

「行きました」

「入れた?」

「入れません。段の三段目までです」

「そう」

 この人は匙を持って、私の皿へ三口分を移した。移してから言った。

「私は行ったことがない」

「はい」

「行きたくないわけじゃない」

「はい」

「二百は遠いよ、私には」


 私は自分の数を言おうとして、やめた。

 やめて、代わりに言う。

「中に、押しても何も出ないものが置いてありました」

「あれね」

「知っていますか」

「展示室にあるやつでしょ。同じのが向こうにもあるの」

「同じです。台に立ててありました」


 この人は少し笑った。

「立てると偉そうね」

 私も笑った。笑ったのは、偉そう、という言い方が可笑しかったからだ。

 可笑しいと思ったところは自分で分かる。押しても何も出ないものが、台に立てられ、番号を付けられ、硝子の中に入っている。それを偉そうと言う人がいる。


 この人は皿の縁を匙でならして、それから匙を置いた。

「三段目まで上がったんでしょ」

「はい」

「上がっただけで、たいしたもんだよ」

「そうですか」

「園の中で、上がるところがいくつあると思う」

 私は考えた。詰所の前と、資料館。二つある。

「二つです」

「二つか」

「はい」

「じゃあ、あんたは半分行った」


 半分、という数え方を、私はしたことがない。

 二つのうち一つへ行ったので半分になる。数としては合っている。合っているのに、そういう数え方を私は思い付かなかった。


 夜、居室で明細をもう一度見た。

 紙はもう匂わない。昼の間に擦れたのだと思う。


 私は残高の欄を指でなぞった。百二十七。

 二百まで七十三ある。七十三を月に三十五ずつで割ると、二か月と少しになる。


 ただし三十五は今月の数だ。来月は違う。

 ふれあいが端の日ばかりなら、歩合の行は小さくなる。真ん中に置かれる日が増えれば大きくなる。置く場所を決めるのは私ではない。


 紙を畳んだ。四つに畳むと、袖の内側へ入る大きさになる。

 H-0031と同じやり方だ。真似た。真似たことは言わない。


 寝台に横になってから、私は数を並べた。

 百二十七。七十三。二百。


 並べる順は決めた。手元にあるもの、足りないもの、要るもの。この順にする。

 順を変えると、足りないほうが先に来る。先に来ると、その数のほうを長く見ることになる。長く見る必要は無い。


 目を閉じても数は消えない。消えないので、もう一度並べた。二度目は速く並ぶ。

 三度目からは、並べる前に答えが出ている。出てしまうと、並べる意味が無くなる。


 私は寝返りを打った。寝台の合成繊維は、体の下だけ温くなっている。

 温いところから体を外すと、外したところは冷たい。冷たいのは十秒ほどで、それからまた温くなる。移り方は毎晩同じだ。

 三つの数のうち、変わるのは真ん中だけになる。


──────────────────


国立人類保全園 第七園

資料館 入館実績報告(六月分)


作成 資料館

報告先 総務課


一、入館者数


六月の入館者は四千六百二十一名であった。前年同月は四千八百十名である。


うち観覧券による入館は三千九十四名、年間観覧券による入館は千五百二十七名であった。


二、観覧料


一般は二百円とした。園内において個体が用いる場合は二百枚とした。


料金の改定は令和二百七年に行った。改定の際、個体向けの取り扱いについて検討した記録は残っていない。


三、個体の入館


個体の入館は本年度で二件であった。前年度は五件である。


いずれもふれあい従事の接触数が上位の個体であった。因果の分析は行っていない。


個体向けの減額について、意見の提出は過去に無い。


四、資料の受入


本年度の受入は十一件であった。うち九件は園内からの移管である。


移管に係る記録は資料館において作成した。移管元の台帳への反映は移管元の所管とした。反映の確認は行っていない。


五、展示中の資料(抄)


 資料番号  名称           受入        移管元

 資-〇八八 携帯電話端末       令和二百十二年三月 生息環境展示

 資-〇八九 記名の記録(写真パネル) 令和二百十二年三月 教育棟

 資-〇九一 給餌用食器(旧型)    令和二百十二年五月 飼育部門


六、留意


資-〇八八について、移管元の点検簿に反映がされていないとの照会が本年三月にあった。


回答は「移管済である」とした。以後の照会は無い。


資-〇八九の写真パネルについて、被写体の机は現に使用中である。使用の停止は求めていない。


七、順路


順路は一方通行とした。逆行の申し出は本年度で十四件あった。いずれも認めなかった。


逆行を認めない理由の記載は、開館以来の綴りに無い。


八、次月


七月は行事の予定が無い。入館者数は六月と同程度を見込んだ。


開館時間の延長について検討したが、警備の増員を要するため見送った。


(作成 資料館)

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