第012話 一日
国立人類保全園 第七園
検査依頼書(控)
依頼 獣医室
宛先 機構検査室 第二分室
依頼日 令和二百十二年七月一日
一、検体
血液 個体一名につき五ミリリットル
血球数用二ミリリットル、生化学用三ミリリットルの二管に分ける
対象 四百十二名
採取期間 令和二百十二年七月一日から七月十日まで
前月の対象は四百十三名であった。一名の減は転出による。
二、検査項目
番号 項目 全個体 追加対象
一 血球数 有 –
二 血色素量 有 –
三 血糖 有 –
四 総蛋白 有 –
五 肝機能三項目 有 –
六 腎機能二項目 有 –
七 甲状腺 無 六十歳以上
八 血縁指標 無 別に指定する個体
三、追加対象の指定
第七項の対象は三十七名であった。年齢による。
第八項の対象は指定による。指定は血統管理の所管であり、獣医室は名簿の交付を受けて採取するのみとした。名簿の写しは獣医室に残さない。
第八項は個体につき一度とし、すでに採取した個体は指定から除いた。除いた者の一覧は血統管理が保持する。獣医室は交付を受けていない。
本年七月の第八項の対象は十九名であった。
四、採取の方法
採取は獣医室において行うこととした。区画ごとに日を割り当てた。E区画は七月一日から七月六日までの六日とし、各日の割当は午前九時から午後四時までとした。
一名あたりの所要は八分を見込んだ。前月の実績は一名あたり八分二十秒であった。一日あたりの対象は四十五名を上限とした。
採取の前十二時間は絶食とした。飲水は妨げない。
五、検体の取り扱い
血糖を測る分については、解糖を止める薬剤を加えた管に採ることとした。加える量は管ごとに定めてある。
検体は採取後二時間以内に冷蔵することとした。当日の便で機構検査室へ送付した。
送付の記録は獣医室で保管する。保管の年限は五年とした。
六、結果の取り扱い
結果は獣医室が受領し、個体記録票の第七欄へ転記することとした。転記の対象は基準値を外れた項目に限った。
基準値の内側にある項目は転記しない。転記しない旨を個体へ伝える定めは無い。
七、器具
穿刺針および採血管は単回使用とし、使用後は所定の容器へ廃棄することとした。再使用は認めない。
保定台、駆血帯および採取台の洗浄は、午前の分が終わった後にまとめて行うこととした。このため午前と午後の間に一時間の空きが生じた。空きの短縮について検討したが、洗浄設備の増設は本年度の予算に計上していない。
八、器具の洗浄に係る記録
洗浄の実施は記録している。洗浄に用いた薬剤の使用量は記録していない。使用量を記入する欄が無いためである。
当該の欄については、令和二百八年に総務課へ照会したことがある。回答は受けていない。
九、留意
前月の採取において、一名について再採取を行った。凝固によった。
再採取に係る記録の様式は定めていない。当該の一名については口頭で了解を得た。
(依頼 獣医室/控 獣医室)
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七月一日は採血の日になる。
私の分は毎月一日だ。日付が変わるだけで、曜日は毎月違う。今月は木曜になった。
区画と居室の並びで日が決まる。並びが変われば日も変わるはずだが、変わったことはない。
前の晩から食べていない。
十二時間の絶食は、夕方の給餌の後から始まる。夕方に食べて、朝は食べない。朝の鐘は鳴るが、皿は出ない。
鳴る音だけがいつも通りに来る。四点鐘は七時に鳴って、食堂の扉は開かない。開かない扉の前を通って、私たちは廊下に並ぶ。
空腹は前の日から準備が利く。夕方に少し多く食べておく。多くと言っても四三〇しかない。
多く食べる方法は一つだけある。ゆっくり食べることだ。ゆっくり食べると、同じ量でも終わりが遅くなる。終わりが遅い日は、朝までの間隔が短く感じる。
水は飲んでよい。朝のうちに二度飲んだ。飲むと胃の中で音がする。音は自分にしか聞こえない大きさで、隣に立っている人には届かない。
二度目は多く飲みすぎた。飲みすぎると腹が重くなって、空腹とは別の重さになる。二つが同時にある。片方だけを消す方法は無い。
絶食の朝は、体の順番が変わる。
いつもなら起きてから顔を洗い、鐘を聞いて食べる。今日は食べるところが抜ける。抜けた分だけ、朝が短い。
短いのに、廊下へ出るまでの時間は同じだ。同じ時間を、やることが一つ少ない状態で過ごす。余った時間に何をするかは決めていない。私は寝台の縁に座って、指を組んで待った。
立ち上がる時に少しふらついた。ふらつくのは絶食の日に限らない。速く立つとそうなる。
ゆっくり立てば起きない。ゆっくり立つと、その分だけ遅れる。遅れると列の後ろになる。私は速く立って、壁に一度手を突いた。
顔を洗う。七月の水は冷たくない。指の関節も固まらない。
固まらないので、洗った後に手を握って開く回数が減った。冬は十度ほどやっていた。今日は二度で済む。
済んでしまうと、その分の時間が余る。余った時間に鏡を見た。洗面所の鏡は高い位置にあって、映るのは額から上になる。
額の生え際のところに、髪の分かれ目がある。今朝は右へ寄っていた。昨日は左だった。寝る向きで変わる。
廊下は九時から使う。
E区画は六日に分けてある。今日はその一日目で、四十五名までと聞いた。順番は番号順ではない。居室の並び順になる。私は七番目だ。
火曜の台の日と並び方が違うので、前に立つ人も違う。
今日の私の前は、壁を触る人だ。H-0009になる。この人は列でも壁のほうを向いている。向いたなりで、指を壁に当てて動かない。
列は静かだ。絶食の日は誰も喋らない。喋ると腹が減ると言った人がいる。本当かどうかは分からない。分からないが、私も喋らない。
静かな列は進み方が違う。
喋る列では前が動いてから後ろが動くまでに間がある。静かな列は全員が同時に動く。前の人の背中が動いた瞬間に、自分の足が出る。
出た足が前の人の踵に近づきすぎる日がある。今日は二度あった。二度とも、私が先に止まった。
廊下の壁には掲示が二枚ある。
一枚は当番表で、もう一枚は古い。角が四つとも丸くて、字が薄い。掲示板のものと同じ種類の古さになる。
薄い字の中に、読める語が二つある。実施、と、別途。二つの間に何行あるかは、この距離では数えられない。
列の前のほうで一度、扉が開いた。
出てきた人が袖を捲ったまま歩いていく。捲れた腕に綿が貼ってある。貼ったところを押さえながら歩くと、肘が曲がらない。曲がらないので歩幅が小さくなる。
小さい歩幅で角を曲がって、見えなくなった。
列に並んでいる人の腹の音が、順に聞こえる。
前の人が鳴って、少し置いてその前の人が鳴る。同じ時刻に鳴るわけではない。鳴る間隔はばらばらだ。
鳴ると、鳴った人が少しだけ姿勢を変える。変えたところで音が止まる。止まるのは姿勢のせいなのか、たまたまなのかは分からない。
私の前の人だけが鳴らなかった。H-0009は列の間じゅう壁に指を当てていて、指の動く速さも変わらない。
速さを数えた。壁を横へ、五センチほど動かして戻す。一往復に二秒ほどかかる。九分で二百六十回になる計算だが、途中で数えるのをやめた。
やめたのは、その数を置く場所が私の中に無いからだ。
診察室は獣医室の中にある。
獣医室の扉は白い。ほかの扉と色が違う。園の中の扉は灰色で、白いのはここだけになる。
匂いは扉の外まで来る。
消毒の綿の匂いだ。給餌室の消毒液とは別のもので、こちらのほうが鋭い。鼻の奥を通って、額の裏あたりまで届く。届いてから薄くなる。
中から名前ではなく番号が呼ばれる。
「J-0037」
「はい」
私は入った。
診察室は狭い。机が一つ、椅子が二つ、寝台のような台が一つある。
台には紙が敷いてある。紙は巻いてあって、人が変わると引き出して新しい面を出す。引き出す時に音がする。乾いた音で、長さは一秒に足りない。
台の脇に踏み台が置いてある。低い。使う人は使う。私は使ったことがない。
壁に棚がある。棚には箱と瓶が並んでいる。
瓶の中身は見えない。ラベルが貼ってあって、字が細かい。細かい字は近づかないと読めない。近づいてよいとは言われていない。
箱のほうは同じ形が七つ並んでいる。七つのうち、手前の三つだけ角が擦れている。よく出すものが手前にある。
窓は一つで、磨り硝子が入っている。外は見えない。光だけが入る。
入った光は棚の下まで届かない。棚の下には床用の箱があって、そこだけ暗い。
床は樹脂で、廊下と同じ色をしている。継ぎ目が一本、机の下を通っている。
継ぎ目の上に椅子の脚が乗ると、動かす時に引っ掛かる。私の椅子の右前の脚がそこにある。座る前に一度、少しずらした。
香月獣医師は椅子に座っていた。
白衣を着ている。首から札を下げていない。ほかの職員は下げている。緑の紐で、胸のあたりに来る。
この人のは机の上に置いてある。裏返しに置いてあるので、字は見えない。
「座って」
「はい」
私は椅子に座った。椅子は診察の側にあって、机を挟んで向かい合う形にはならない。斜めになる。
この人は机のほうへ体を向けない。
書く時も、体は私のほうを向いていて、腕だけが机へ伸びる。書きにくいはずだと思う。それでも向きを変えない。
背中は一度も見えなかった。
「体重」
「五二・四です」
「火曜のね」
「はい」
この人は書いた。書いて、また私のほうを見る。
「口、開けて」
私は口を開けた。この人は小さい光を当てて、中を見る。光は白い。当たっている間だけ、口の中が乾く。
「舌、上げて」
「はい」
「はい、いい」
「目、こっち」
指が動く。左から右へ、それから上下。私は目で追った。追う速さは自分では変えられない。
「もう一回」
もう一度追った。二度目のほうが遅かったのだと思う。この人は何も言わずに次へ行った。
首の横を押される。二か所、順に押す。押す位置は前と同じだ。前がいつだったかは覚えていない。
「飲み込んで」
私は飲んだ。飲む時に指が動く。動いてから離れる。
背中に何か当てられる。冷たい円で、当たると一度息が止まる。
「息、吸って。吐いて」
「はい」
三か所でやった。当てる度に、この人は少し首を傾ける。傾けている時間は一か所につき四秒ほどになる。
四秒を三度で十二秒だ。十二秒の間、この人は何も言わない。言わずに離す。
離した後、この人は円のところを手のひらで温めた。次の人のためだと思う。
「変わったことある?」
「ありません」
「痛いところは」
「ありません」
「じゃあ、腕出して」
私は左腕を出した。
袖を捲る。捲る位置は肘の上までと決まっている。決めたのは私ではない。前に来た時に言われた。
この人は手袋をはめた。薄い。はめると指の形がそのまま出る。爪の形まで出る。
それから私の腕を取った。
手が冷たい。手袋越しでも冷たい。取ってから、肘の内側を親指で二度押した。押されると、その下に何かがあるのが分かる。
肘の上に帯が巻かれる。巻いて、端を留める。留めると締まる。
締まると腕の先が重くなる。重くなったところで、肘の内側に筋が浮いた。浮いたのは自分でも見える。
「いいね」
この人はそう言う。何がいいのかは言わない。
消毒の綿が当たる。冷たい。
当てた後、この人は少し待つ。乾くまで待つのだと思う。待っている間、私は自分の腕を見ていた。綿の当たったところだけ色が濃い。
針は見なかった。
見ないことにしている。見ると腕が動く。動くとやり直しになる。やり直しになった人が前にいた。
入る時は音がしない。
痛みは一度だけ来て、それから引く。引いた後は、押されている感じだけが残る。
管が付く。管は細くて、透明だ。中を通るものが見える。見えるのは赤い線で、線は途中で止まらずに上がっていく。
線の進む速さは一定ではない。最初が速くて、途中で少し緩む。緩んだところで香月獣医師が帯の端を外した。
外すと腕の重さが戻る。戻ると線がまた速くなる。速くなるところで、腕の内側が引かれる感じがする。
管の先に容れ物がある。容れ物には番号が刷ってある。J-0037。
刷ってあるのではなく、貼ってある。細い紙で、上から巻いてある。巻いた端が少し浮いている。
容れ物は二つ要る。一つ目が満ちると、この人は管の先を付け替える。
付け替える間、私は自分の腕を見ていた。腕からは何も出ていないように見える。針の入っているところは綿で隠れている。隠れているので、出ているところは見えない。
外した一つ目を、この人は台の布の上へ置いた。
置いた場所は、私の手のすぐ脇になる。私の手は台の上にある。指の外側が容れ物の側面に当たっている。
離せば当たらない。私は離さなかった。
出たばかりの血は、私の指より温かい。
二つ目が満ちるまでの間に、温かさは減っていく。減り方は一定ではない。最初の十秒で大きく減って、その後はゆっくりになる。
三十秒ほどで、指と同じになった。同じになると、そこに何が入っているのかが分からなくなる。
この人は二つとも蓋をして、机の上の箱へ入れた。箱の中には同じものが並んでいる。数えた。私の二つを入れて十四本ある。
二本で一人ぶんになる。十四本なら七人ぶんだ。
箱には蓋が付いていて、閉めると音がする。閉める前に、この人は中を一度見た。
見て、それから閉めた。何を確かめたのかは分からない。
針が抜かれる。
抜く時のほうが、入れる時よりはっきり分かる。抜いた場所に綿を当てて、上から押さえる。
「押さえてて。五分」
「はい」
私は右手で押さえた。押さえていると、下で血が止まっていくのが分かる。分かるというより、押さえている力の要る量が減っていく。
この人は机へ向かった。向かっても、体は斜めになっている。
書く。紙は綴じてある。私の頁を開いている。頁の上に番号が刷ってある。
書き終えて、この人は次の紙を取ろうとした。
紙は机の端に重ねてある。上から一枚取る。取ろうとして、指が滑った。
紙は落ちなかった。
落ちる前に、この人は手を引いた。引いて、机の上で握って、開いた。
手が震えている。
震えは大きくない。指の先だけだ。人差し指と中指の先が、同じ速さで小さく動いている。
この人はもう一方の手をその上に置いた。置くと止まる。止まるというより、見えなくなる。
私は綿を押さえて見ていた。
この人はこちらを見ない。机のほうを見ている。体は斜めになっている。
十秒ほどして、この人は手を離した。震えは無い。
それから紙を取って、書き足した。書き足す字は、さっきより少し大きい。
大きい字は行からはみ出る。はみ出た分を、この人は消さずに続けた。
園の中で震える人を、私は前に見たことがある。
冬の朝に、廊下で待たされていた人が震えていた。あれは寒さだった。寒さの震えは体の全部が動く。
この人のは指の先だけだ。ほかは動いていない。肩も、腕も、止まっている。同じ言葉で呼ぶものなのかどうかは分からない。
「五分たった?」
「まだです」
「そう」
この人は椅子に座り直した。座り直してから、初めてこちらを正面から見た。
「痛くない?」
「大丈夫です」
「今のは押さえてる方じゃなくて」
「はい」
「腕のほう」
私は少し考えた。考えて、言った。
「昨日から、肘の内側が痛いです」
「今日刺したところ?」
「反対の腕です」
「見せて」
私は右腕を出した。押さえていた手を離すと、左の綿がずれる。ずれた分だけ、また少し出た。
「あ、押さえといて」
「はい」
私は左手で左を押さえ直して、右腕を差し出した。
この人は右の肘を見る。見る前に、袖の縁を持って捲り上げた。捲り上げる手つきは速い。速いのに引かれない。
肘の内側は、左より少し色が濃い。濃いのは陽に当たった色ではない。展示の日に腕を出しているからだと聞いたことがある。聞いただけで、確かめていない。
この人は指で押した。押すと痛い。
「ここ?」
「はい」
「先月もここから採ってる」
「はい」
「二回続けて同じところは、避けるようになってるんだけどね」
この人は自分の紙を見た。前の月の頁を繰る。繰る音が三度した。
「書いてない」
「はい」
「誰が採ったかも書いてない。書く欄が無いから」
この人は紙を戻した。戻してから、少し黙った。
黙っている間、机の上の札は裏返しになっていた。
「痛みは何日目」
「二日目です」
「熱は」
「ありません」
「腫れてない。中で固まってるだけ。一週間で引く」
「はい」
この人は書こうとして、手を止めた。
止めてから、言った。
「これは書かないでおく」
「はい」
「書くと回付になる。回付になると、来週もう一回ここに来ることになる。面倒でしょう」
「はい」
私は「はい」と言った。
面倒かどうかを、私は考えたことがない。考えたことがないので、この人の言う通りだと答えるほかにない。
この人は紙を閉じた。閉じる時、指はもう震えていない。
「五分たった。離していい」
私は綿を離した。血は止まっていた。
この人は小さい絆創膏を出して、貼った。貼る時に指が当たる。指はまだ冷たい。
「今日はもう食べていいよ」
「はい」
「ゆっくり食べて。急ぐと気持ち悪くなる人がいる」
「はい」
「あなたは大丈夫そうだけど」
この人は少し笑った。笑うと目尻に線が出る。線は三本ある。
私も少し笑った。笑ってから、この人は次の番号を呼んだ。
「次、H-0009」
私は立った。立つ時に、机の上の箱をもう一度見た。蓋は閉まっている。閉まっていると、中に何本入っているかは分からない。
分からないので、十四本という数だけが私の中に残った。十四本のうちの二本が私のものだった。ものだった、という言い方が合っているのかどうかは分からない。
扉のところで、私は一度立ち止まった。
「あの」
「うん」
「私の分は、いつ戻りますか」
この人は少し黙る。それから言った。
「戻らないよ」
「はい」
「結果は戻る。中身は戻らない」
「はい」
この人はそれ以上言わない。私も聞かなかった。
私は出た。廊下では次の番号がもう呼ばれている。
扉を閉める時、内側から紙を引き出す音がした。台の紙を新しい面へ送る音だ。乾いた音で、長さは一秒に足りない。
次の人が入る前に、その音がする。私が入る前にも鳴っていたはずだが、廊下では聞こえなかった。
出る時に振り返ると、この人は次の紙を用意していた。体は扉のほうを向いたままで、腕だけが動いている。
廊下に出ると、匂いが変わる。
消毒の綿の匂いが薄くなって、園の匂いに戻る。園の匂いは洗剤と、人と、床の樹脂でできている。
鋭くない。鋭くないほうが、私には長く分かる。
食堂へ行った。
絶食の後の給餌は九時半から始まっている。皿は普通の四三〇だ。量は変わらない。
最初の一口が重い。
空にしていた胃に入れると、入ったところが分かる。落ちていく位置が順に分かって、下まで行くと分からなくなる。
二口目からは普通になる。普通になると、朝食べていなかったことも忘れる。
食堂は今日、いつもより静かだった。
午前に採った人は食べていて、午後の人はまだ絶食している。同じ卓に、食べる人と食べない人が並ぶ。
食べない人は水だけを前に置いて座っている。座っているだけなのに、席は使う。使うので、席が足りない。
足りない分は立って食べる。立って食べる人は皿を胸の高さに持つ。持つと匙の動く距離が短くなって、早く終わる。
私の向かいに座った人は午後の組だった。
私が食べているのを見ないようにしている。見ないようにしていることが、見ないでいる形で分かる。顔は横を向いていて、目だけがときどき戻る。
私は皿を少し自分のほうへ寄せた。寄せても意味は無い。意味は無いが、そうした。
三八〇の人が隣にいた。
「採った?」
「採りました」
「私は午後」
「はい」
「午後は待つの長いよ」
「そうなんですか」
「朝の人が終わってから、器具を洗うんだって。それで一時間空く」
この人は自分の腕を見せた。袖を捲ると、肘の内側に小さい丸が三つある。
三つとも色が違う。一つは薄い茶色で、一つはもっと薄い。もう一つは、言われなければ分からない。
「三月ぶん」
「はい」
「四月ぶん目は消えた。私、消えるのが早いの」
「はい」
「あんたのは?」
私は絆創膏を剥がして見せた。剥がすと、下は丸くなっている。丸の真ん中に点がある。
「まだ新しいね」
「はい」
「そのうち消える」
「消えないほうがいいですか」
「どっちでもいいよ」
その人は少し考えて、言い直した。
「いや、消えないほうがいい。数えられるから」
「数えるんですか」
「数えない。数えられる、っていうだけ」
その人は自分の袖を戻した。戻してから、匙を持った。
「あんた、今日は多く食べな」
「同じ量です」
「そうか。そうだったね」
その人は笑う。私も笑った。笑うと、空腹の後の腹が少し引きつる。引きつるところは臍の上あたりになる。
午後は洗濯だった。袋は九枚ある。三枚ずつ三度に分けて運んだ。
左腕で持つと、押さえたところが引く。引くので、右で持つ回数を増やした。増やすと右の肘が痛む。昨日からの痛みのほうだ。どちらかが痛むように運ぶことになる。
三度目の途中で、袋を床へ置いて休んだ。休むのは決まりに無い。咎められたこともない。
置いた袋の上に手を載せると、布越しに中身の形が分かる。畳んだ角が四つ、同じ高さで並んでいる。畳んだ人の手が揃っている。
洗濯室の扉は今日も音がしない。
先週まで擦れていたものが擦れない。擦れないと、閉めた後で一度振り返る癖がついた。閉まっているかどうかを目で確かめる。
目で確かめるのは音より遅い。遅いぶん、扉の前に立つ時間が長くなった。
窓は今日も曇っている。指の跡が二つある。昨日は三つあった。
曇りは下から乾いていく。下にあった跡から消える。上に付いた跡ほど長く残る。
私は下のほうに手を当てた。当てただけで、字は書かない。
運ぶ間、私は五ミリリットルを考えた。
五ミリリットルがどれくらいかは、洗面所の水で見当が付く。手のひらに溜めると、少しだけになる。少しだけのものが、今は箱の中にある。
箱は冷やされて、当日の便で外へ出る。外へ出た先で何かの数になって、その数が紙に載る。
載るのは基準を外れた項目だけだと聞いた。外れていなければ載らない。
夕方、獣医室の前を通った。
扉は白いままだ。中の明かりは点いている。午後の分がまだ終わっていない。
扉の下から、廊下へ光が漏れている。
漏れている幅は指二本ぶんだ。中で誰かが動くと、光の中を影が横切る。横切る回数を数えた。二分で七回ある。
七回のうち、四回は同じ向きだった。机と棚の間を往復しているのだと思う。往復の片道が二回に一度しか影にならない位置がある。
扉の前に、椅子が一つ出してある。
朝には無かった。午後の列のために出したのだと思う。座面に布は張っていない。旧西棟のものと同じ形になる。
私はそこに座らなかった。座る用があるわけではない。
椅子の背に、白衣が一枚掛かっている。誰のものかは分からない。掛け方が雑で、袖が片方だけ床のほうへ垂れている。
居室へ戻る廊下は、この時刻だけ人が多い。
午後の採血が終わった人が戻ってくる。戻ってくる人は皆、片腕を少し曲げて歩く。曲げると押さえが効く。
同じ形で歩く人が七人続いた。七人目が過ぎたところで、廊下はまた普通の歩き方に戻る。
私は自分の左腕を触った。
絆創膏の下は温かい。周りより温かい。押すと少し痛い。
温かさは体温だ。私の中から来ている。外へ出たほうは、もう私の温度ではなくなっている。
箱は今ごろ冷えているはずだ。二時間以内に冷やすと書いてあった。
冷えた後は便で運ばれる。運ばれる先の建物を、私は見たことがない。園の外にあるとだけ聞いている。
居室へ戻る廊下で、H-0009とすれ違った。
この人は壁を触って歩いている。触っている手のほうの袖が捲れていた。捲れたまま戻していない。
肘の内側に、私と同じ丸がある。丸は新しい。今日の分だ。
私は戻すように言おうとして、やめた。
言われて困る人がいることを、私は知っている。この人は壁のほうを見たまま行った。
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国立人類保全園 第七園
診察記録
個体番号 J-0037
記録日 令和二百十二年七月一日
記録者 獣医室
一、当日の実施
定期採血を実施した。時刻は午前九時五十二分であった。
採取量は五ミリリットル、二管に分けた。採取部位は左肘窩とした。
二、所見
体重 五二・四キログラム(七月一日現在の直近計測値。計測日は六月二十九日)
体温 三十六度四分
脈拍 七十二
視診および触診において、特記すべき所見を認めなかった。
三、既往
本年度の受診は本件を含めて七件であった。いずれも定期によった。
定期以外の受診は本年度に無い。前年度は一件であった。理由の記載は当該の頁に無い。
当該の一件については、記録者の欄も空である。当時の獣医室の担当は二名であった。いずれに照会するかは定めていない。
四、就業に係る所見
本人の就業は洗濯、ふれあい、展示、清掃補助である。いずれについても制限を要する所見を認めなかった。
ふれあいの従事時間について、獣医室から意見を述べる定めは無い。
五、本人からの申し出
本人からの申し出は無かった。
六、次回
次回の定期採血は八月一日とした。八月一日は日曜にあたる。日曜の実施について変更の指示は受けていない。
七、当日の待機
E区画の割当時間内に来室しなかった個体は一名であった。当該個体は午後の区画へ回した。回付の記録は作成していない。
八、経過観察
前回の記録において経過観察を要すると記載した項目は無かった。
九、当日の記録者
本記録の記入は獣医室が行った。記入者の氏名を記す欄は本様式に無い。
十、備考
前回の採取部位について、記録の欄が無いため確認できなかった。採取者の記載欄も設けていない。
様式の改定については、獣医室から総務課へ照会したことがある。照会は令和二百八年である。回答は受けていない。
(記録 獣医室)




