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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第一章 展示

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12/22

第012話 一日

国立人類保全園 第七園

検査依頼書(控)


依頼 獣医室

宛先 機構検査室 第二分室

依頼日 令和二百十二年七月一日


一、検体


血液 個体一名につき五ミリリットル

   血球数用二ミリリットル、生化学用三ミリリットルの二管に分ける

対象 四百十二名

採取期間 令和二百十二年七月一日から七月十日まで


前月の対象は四百十三名であった。一名の減は転出による。


二、検査項目


 番号 項目     全個体 追加対象

 一  血球数    有   –

 二  血色素量   有   –

 三  血糖     有   –

 四  総蛋白    有   –

 五  肝機能三項目 有   –

 六  腎機能二項目 有   –

 七  甲状腺    無   六十歳以上

 八  血縁指標   無   別に指定する個体


三、追加対象の指定


第七項の対象は三十七名であった。年齢による。


第八項の対象は指定による。指定は血統管理の所管であり、獣医室は名簿の交付を受けて採取するのみとした。名簿の写しは獣医室に残さない。


第八項は個体につき一度とし、すでに採取した個体は指定から除いた。除いた者の一覧は血統管理が保持する。獣医室は交付を受けていない。


本年七月の第八項の対象は十九名であった。


四、採取の方法


採取は獣医室において行うこととした。区画ごとに日を割り当てた。E区画は七月一日から七月六日までの六日とし、各日の割当は午前九時から午後四時までとした。


一名あたりの所要は八分を見込んだ。前月の実績は一名あたり八分二十秒であった。一日あたりの対象は四十五名を上限とした。


採取の前十二時間は絶食とした。飲水は妨げない。


五、検体の取り扱い


血糖を測る分については、解糖を止める薬剤を加えた管に採ることとした。加える量は管ごとに定めてある。


検体は採取後二時間以内に冷蔵することとした。当日の便で機構検査室へ送付した。


送付の記録は獣医室で保管する。保管の年限は五年とした。


六、結果の取り扱い


結果は獣医室が受領し、個体記録票の第七欄へ転記することとした。転記の対象は基準値を外れた項目に限った。


基準値の内側にある項目は転記しない。転記しない旨を個体へ伝える定めは無い。


七、器具


穿刺針および採血管は単回使用とし、使用後は所定の容器へ廃棄することとした。再使用は認めない。


保定台、駆血帯および採取台の洗浄は、午前の分が終わった後にまとめて行うこととした。このため午前と午後の間に一時間の空きが生じた。空きの短縮について検討したが、洗浄設備の増設は本年度の予算に計上していない。


八、器具の洗浄に係る記録


洗浄の実施は記録している。洗浄に用いた薬剤の使用量は記録していない。使用量を記入する欄が無いためである。


当該の欄については、令和二百八年に総務課へ照会したことがある。回答は受けていない。


九、留意


前月の採取において、一名について再採取を行った。凝固によった。


再採取に係る記録の様式は定めていない。当該の一名については口頭で了解を得た。


(依頼 獣医室/控 獣医室)


──────────────────


 七月一日は採血の日になる。

 私の分は毎月一日だ。日付が変わるだけで、曜日は毎月違う。今月は木曜になった。

 区画と居室の並びで日が決まる。並びが変われば日も変わるはずだが、変わったことはない。


 前の晩から食べていない。

 十二時間の絶食は、夕方の給餌の後から始まる。夕方に食べて、朝は食べない。朝の鐘は鳴るが、皿は出ない。

 鳴る音だけがいつも通りに来る。四点鐘は七時に鳴って、食堂の扉は開かない。開かない扉の前を通って、私たちは廊下に並ぶ。


 空腹は前の日から準備が利く。夕方に少し多く食べておく。多くと言っても四三〇しかない。

 多く食べる方法は一つだけある。ゆっくり食べることだ。ゆっくり食べると、同じ量でも終わりが遅くなる。終わりが遅い日は、朝までの間隔が短く感じる。


 水は飲んでよい。朝のうちに二度飲んだ。飲むと胃の中で音がする。音は自分にしか聞こえない大きさで、隣に立っている人には届かない。

 二度目は多く飲みすぎた。飲みすぎると腹が重くなって、空腹とは別の重さになる。二つが同時にある。片方だけを消す方法は無い。


 絶食の朝は、体の順番が変わる。

 いつもなら起きてから顔を洗い、鐘を聞いて食べる。今日は食べるところが抜ける。抜けた分だけ、朝が短い。

 短いのに、廊下へ出るまでの時間は同じだ。同じ時間を、やることが一つ少ない状態で過ごす。余った時間に何をするかは決めていない。私は寝台の縁に座って、指を組んで待った。


 立ち上がる時に少しふらついた。ふらつくのは絶食の日に限らない。速く立つとそうなる。

 ゆっくり立てば起きない。ゆっくり立つと、その分だけ遅れる。遅れると列の後ろになる。私は速く立って、壁に一度手を突いた。


 顔を洗う。七月の水は冷たくない。指の関節も固まらない。

 固まらないので、洗った後に手を握って開く回数が減った。冬は十度ほどやっていた。今日は二度で済む。

 済んでしまうと、その分の時間が余る。余った時間に鏡を見た。洗面所の鏡は高い位置にあって、映るのは額から上になる。

 額の生え際のところに、髪の分かれ目がある。今朝は右へ寄っていた。昨日は左だった。寝る向きで変わる。


 廊下は九時から使う。

 E区画は六日に分けてある。今日はその一日目で、四十五名までと聞いた。順番は番号順ではない。居室の並び順になる。私は七番目だ。


 火曜の台の日と並び方が違うので、前に立つ人も違う。

 今日の私の前は、壁を触る人だ。H-0009になる。この人は列でも壁のほうを向いている。向いたなりで、指を壁に当てて動かない。


 列は静かだ。絶食の日は誰も喋らない。喋ると腹が減ると言った人がいる。本当かどうかは分からない。分からないが、私も喋らない。


 静かな列は進み方が違う。

 喋る列では前が動いてから後ろが動くまでに間がある。静かな列は全員が同時に動く。前の人の背中が動いた瞬間に、自分の足が出る。

 出た足が前の人の踵に近づきすぎる日がある。今日は二度あった。二度とも、私が先に止まった。


 廊下の壁には掲示が二枚ある。

 一枚は当番表で、もう一枚は古い。角が四つとも丸くて、字が薄い。掲示板のものと同じ種類の古さになる。

 薄い字の中に、読める語が二つある。実施、と、別途。二つの間に何行あるかは、この距離では数えられない。


 列の前のほうで一度、扉が開いた。

 出てきた人が袖を捲ったまま歩いていく。捲れた腕に綿が貼ってある。貼ったところを押さえながら歩くと、肘が曲がらない。曲がらないので歩幅が小さくなる。

 小さい歩幅で角を曲がって、見えなくなった。


 列に並んでいる人の腹の音が、順に聞こえる。

 前の人が鳴って、少し置いてその前の人が鳴る。同じ時刻に鳴るわけではない。鳴る間隔はばらばらだ。

 鳴ると、鳴った人が少しだけ姿勢を変える。変えたところで音が止まる。止まるのは姿勢のせいなのか、たまたまなのかは分からない。


 私の前の人だけが鳴らなかった。H-0009は列の間じゅう壁に指を当てていて、指の動く速さも変わらない。

 速さを数えた。壁を横へ、五センチほど動かして戻す。一往復に二秒ほどかかる。九分で二百六十回になる計算だが、途中で数えるのをやめた。

 やめたのは、その数を置く場所が私の中に無いからだ。


 診察室は獣医室の中にある。

 獣医室の扉は白い。ほかの扉と色が違う。園の中の扉は灰色で、白いのはここだけになる。


 匂いは扉の外まで来る。

 消毒の綿の匂いだ。給餌室の消毒液とは別のもので、こちらのほうが鋭い。鼻の奥を通って、額の裏あたりまで届く。届いてから薄くなる。


 中から名前ではなく番号が呼ばれる。

「J-0037」

「はい」

 私は入った。


 診察室は狭い。机が一つ、椅子が二つ、寝台のような台が一つある。

 台には紙が敷いてある。紙は巻いてあって、人が変わると引き出して新しい面を出す。引き出す時に音がする。乾いた音で、長さは一秒に足りない。

 台の脇に踏み台が置いてある。低い。使う人は使う。私は使ったことがない。


 壁に棚がある。棚には箱と瓶が並んでいる。

 瓶の中身は見えない。ラベルが貼ってあって、字が細かい。細かい字は近づかないと読めない。近づいてよいとは言われていない。

 箱のほうは同じ形が七つ並んでいる。七つのうち、手前の三つだけ角が擦れている。よく出すものが手前にある。


 窓は一つで、磨り硝子が入っている。外は見えない。光だけが入る。

 入った光は棚の下まで届かない。棚の下には床用の箱があって、そこだけ暗い。


 床は樹脂で、廊下と同じ色をしている。継ぎ目が一本、机の下を通っている。

 継ぎ目の上に椅子の脚が乗ると、動かす時に引っ掛かる。私の椅子の右前の脚がそこにある。座る前に一度、少しずらした。


 香月獣医師は椅子に座っていた。

 白衣を着ている。首から札を下げていない。ほかの職員は下げている。緑の紐で、胸のあたりに来る。

 この人のは机の上に置いてある。裏返しに置いてあるので、字は見えない。


「座って」

「はい」

 私は椅子に座った。椅子は診察の側にあって、机を挟んで向かい合う形にはならない。斜めになる。


 この人は机のほうへ体を向けない。

 書く時も、体は私のほうを向いていて、腕だけが机へ伸びる。書きにくいはずだと思う。それでも向きを変えない。

 背中は一度も見えなかった。


「体重」

「五二・四です」

「火曜のね」

「はい」

 この人は書いた。書いて、また私のほうを見る。


「口、開けて」

 私は口を開けた。この人は小さい光を当てて、中を見る。光は白い。当たっている間だけ、口の中が乾く。

「舌、上げて」

「はい」

「はい、いい」


「目、こっち」

 指が動く。左から右へ、それから上下。私は目で追った。追う速さは自分では変えられない。

「もう一回」

 もう一度追った。二度目のほうが遅かったのだと思う。この人は何も言わずに次へ行った。


 首の横を押される。二か所、順に押す。押す位置は前と同じだ。前がいつだったかは覚えていない。

「飲み込んで」

 私は飲んだ。飲む時に指が動く。動いてから離れる。


 背中に何か当てられる。冷たい円で、当たると一度息が止まる。

「息、吸って。吐いて」

「はい」

 三か所でやった。当てる度に、この人は少し首を傾ける。傾けている時間は一か所につき四秒ほどになる。

 四秒を三度で十二秒だ。十二秒の間、この人は何も言わない。言わずに離す。


 離した後、この人は円のところを手のひらで温めた。次の人のためだと思う。


「変わったことある?」

「ありません」

「痛いところは」

「ありません」

「じゃあ、腕出して」


 私は左腕を出した。

 袖を捲る。捲る位置は肘の上までと決まっている。決めたのは私ではない。前に来た時に言われた。


 この人は手袋をはめた。薄い。はめると指の形がそのまま出る。爪の形まで出る。

 それから私の腕を取った。

 手が冷たい。手袋越しでも冷たい。取ってから、肘の内側を親指で二度押した。押されると、その下に何かがあるのが分かる。


 肘の上に帯が巻かれる。巻いて、端を留める。留めると締まる。

 締まると腕の先が重くなる。重くなったところで、肘の内側に筋が浮いた。浮いたのは自分でも見える。


「いいね」

 この人はそう言う。何がいいのかは言わない。


 消毒の綿が当たる。冷たい。

 当てた後、この人は少し待つ。乾くまで待つのだと思う。待っている間、私は自分の腕を見ていた。綿の当たったところだけ色が濃い。


 針は見なかった。

 見ないことにしている。見ると腕が動く。動くとやり直しになる。やり直しになった人が前にいた。


 入る時は音がしない。

 痛みは一度だけ来て、それから引く。引いた後は、押されている感じだけが残る。


 管が付く。管は細くて、透明だ。中を通るものが見える。見えるのは赤い線で、線は途中で止まらずに上がっていく。

 線の進む速さは一定ではない。最初が速くて、途中で少し緩む。緩んだところで香月獣医師が帯の端を外した。

 外すと腕の重さが戻る。戻ると線がまた速くなる。速くなるところで、腕の内側が引かれる感じがする。


 管の先に容れ物がある。容れ物には番号が刷ってある。J-0037。

 刷ってあるのではなく、貼ってある。細い紙で、上から巻いてある。巻いた端が少し浮いている。


 容れ物は二つ要る。一つ目が満ちると、この人は管の先を付け替える。

 付け替える間、私は自分の腕を見ていた。腕からは何も出ていないように見える。針の入っているところは綿で隠れている。隠れているので、出ているところは見えない。


 外した一つ目を、この人は台の布の上へ置いた。

 置いた場所は、私の手のすぐ脇になる。私の手は台の上にある。指の外側が容れ物の側面に当たっている。

 離せば当たらない。私は離さなかった。


 出たばかりの血は、私の指より温かい。


 二つ目が満ちるまでの間に、温かさは減っていく。減り方は一定ではない。最初の十秒で大きく減って、その後はゆっくりになる。

 三十秒ほどで、指と同じになった。同じになると、そこに何が入っているのかが分からなくなる。


 この人は二つとも蓋をして、机の上の箱へ入れた。箱の中には同じものが並んでいる。数えた。私の二つを入れて十四本ある。

 二本で一人ぶんになる。十四本なら七人ぶんだ。


 箱には蓋が付いていて、閉めると音がする。閉める前に、この人は中を一度見た。

 見て、それから閉めた。何を確かめたのかは分からない。


 針が抜かれる。

 抜く時のほうが、入れる時よりはっきり分かる。抜いた場所に綿を当てて、上から押さえる。


「押さえてて。五分」

「はい」

 私は右手で押さえた。押さえていると、下で血が止まっていくのが分かる。分かるというより、押さえている力の要る量が減っていく。


 この人は机へ向かった。向かっても、体は斜めになっている。

 書く。紙は綴じてある。私の頁を開いている。頁の上に番号が刷ってある。


 書き終えて、この人は次の紙を取ろうとした。

 紙は机の端に重ねてある。上から一枚取る。取ろうとして、指が滑った。


 紙は落ちなかった。

 落ちる前に、この人は手を引いた。引いて、机の上で握って、開いた。


 手が震えている。


 震えは大きくない。指の先だけだ。人差し指と中指の先が、同じ速さで小さく動いている。

 この人はもう一方の手をその上に置いた。置くと止まる。止まるというより、見えなくなる。


 私は綿を押さえて見ていた。

 この人はこちらを見ない。机のほうを見ている。体は斜めになっている。


 十秒ほどして、この人は手を離した。震えは無い。

 それから紙を取って、書き足した。書き足す字は、さっきより少し大きい。

 大きい字は行からはみ出る。はみ出た分を、この人は消さずに続けた。


 園の中で震える人を、私は前に見たことがある。

 冬の朝に、廊下で待たされていた人が震えていた。あれは寒さだった。寒さの震えは体の全部が動く。

 この人のは指の先だけだ。ほかは動いていない。肩も、腕も、止まっている。同じ言葉で呼ぶものなのかどうかは分からない。


「五分たった?」

「まだです」

「そう」


 この人は椅子に座り直した。座り直してから、初めてこちらを正面から見た。


「痛くない?」

「大丈夫です」

「今のは押さえてる方じゃなくて」

「はい」

「腕のほう」


 私は少し考えた。考えて、言った。

「昨日から、肘の内側が痛いです」

「今日刺したところ?」

「反対の腕です」

「見せて」


 私は右腕を出した。押さえていた手を離すと、左の綿がずれる。ずれた分だけ、また少し出た。

「あ、押さえといて」

「はい」

 私は左手で左を押さえ直して、右腕を差し出した。


 この人は右の肘を見る。見る前に、袖の縁を持って捲り上げた。捲り上げる手つきは速い。速いのに引かれない。

 肘の内側は、左より少し色が濃い。濃いのは陽に当たった色ではない。展示の日に腕を出しているからだと聞いたことがある。聞いただけで、確かめていない。


 この人は指で押した。押すと痛い。

「ここ?」

「はい」

「先月もここから採ってる」

「はい」

「二回続けて同じところは、避けるようになってるんだけどね」


 この人は自分の紙を見た。前の月の頁を繰る。繰る音が三度した。


「書いてない」

「はい」

「誰が採ったかも書いてない。書く欄が無いから」


 この人は紙を戻した。戻してから、少し黙った。

 黙っている間、机の上の札は裏返しになっていた。


「痛みは何日目」

「二日目です」

「熱は」

「ありません」

「腫れてない。中で固まってるだけ。一週間で引く」

「はい」


 この人は書こうとして、手を止めた。

 止めてから、言った。


「これは書かないでおく」

「はい」

「書くと回付になる。回付になると、来週もう一回ここに来ることになる。面倒でしょう」

「はい」


 私は「はい」と言った。

 面倒かどうかを、私は考えたことがない。考えたことがないので、この人の言う通りだと答えるほかにない。


 この人は紙を閉じた。閉じる時、指はもう震えていない。


「五分たった。離していい」

 私は綿を離した。血は止まっていた。

 この人は小さい絆創膏を出して、貼った。貼る時に指が当たる。指はまだ冷たい。


「今日はもう食べていいよ」

「はい」

「ゆっくり食べて。急ぐと気持ち悪くなる人がいる」

「はい」

「あなたは大丈夫そうだけど」


 この人は少し笑った。笑うと目尻に線が出る。線は三本ある。

 私も少し笑った。笑ってから、この人は次の番号を呼んだ。


「次、H-0009」

 私は立った。立つ時に、机の上の箱をもう一度見た。蓋は閉まっている。閉まっていると、中に何本入っているかは分からない。

 分からないので、十四本という数だけが私の中に残った。十四本のうちの二本が私のものだった。ものだった、という言い方が合っているのかどうかは分からない。


 扉のところで、私は一度立ち止まった。

「あの」

「うん」

「私の分は、いつ戻りますか」

 この人は少し黙る。それから言った。

「戻らないよ」

「はい」

「結果は戻る。中身は戻らない」

「はい」

 この人はそれ以上言わない。私も聞かなかった。


 私は出た。廊下では次の番号がもう呼ばれている。

 扉を閉める時、内側から紙を引き出す音がした。台の紙を新しい面へ送る音だ。乾いた音で、長さは一秒に足りない。

 次の人が入る前に、その音がする。私が入る前にも鳴っていたはずだが、廊下では聞こえなかった。

 出る時に振り返ると、この人は次の紙を用意していた。体は扉のほうを向いたままで、腕だけが動いている。


 廊下に出ると、匂いが変わる。

 消毒の綿の匂いが薄くなって、園の匂いに戻る。園の匂いは洗剤と、人と、床の樹脂でできている。

 鋭くない。鋭くないほうが、私には長く分かる。


 食堂へ行った。

 絶食の後の給餌は九時半から始まっている。皿は普通の四三〇だ。量は変わらない。


 最初の一口が重い。

 空にしていた胃に入れると、入ったところが分かる。落ちていく位置が順に分かって、下まで行くと分からなくなる。

 二口目からは普通になる。普通になると、朝食べていなかったことも忘れる。


 食堂は今日、いつもより静かだった。

 午前に採った人は食べていて、午後の人はまだ絶食している。同じ卓に、食べる人と食べない人が並ぶ。

 食べない人は水だけを前に置いて座っている。座っているだけなのに、席は使う。使うので、席が足りない。

 足りない分は立って食べる。立って食べる人は皿を胸の高さに持つ。持つと匙の動く距離が短くなって、早く終わる。


 私の向かいに座った人は午後の組だった。

 私が食べているのを見ないようにしている。見ないようにしていることが、見ないでいる形で分かる。顔は横を向いていて、目だけがときどき戻る。

 私は皿を少し自分のほうへ寄せた。寄せても意味は無い。意味は無いが、そうした。


 三八〇の人が隣にいた。

「採った?」

「採りました」

「私は午後」

「はい」

「午後は待つの長いよ」

「そうなんですか」

「朝の人が終わってから、器具を洗うんだって。それで一時間空く」


 この人は自分の腕を見せた。袖を捲ると、肘の内側に小さい丸が三つある。

 三つとも色が違う。一つは薄い茶色で、一つはもっと薄い。もう一つは、言われなければ分からない。


「三月ぶん」

「はい」

「四月ぶん目は消えた。私、消えるのが早いの」

「はい」

「あんたのは?」


 私は絆創膏を剥がして見せた。剥がすと、下は丸くなっている。丸の真ん中に点がある。

「まだ新しいね」

「はい」

「そのうち消える」

「消えないほうがいいですか」

「どっちでもいいよ」

 その人は少し考えて、言い直した。

「いや、消えないほうがいい。数えられるから」

「数えるんですか」

「数えない。数えられる、っていうだけ」


 その人は自分の袖を戻した。戻してから、匙を持った。

「あんた、今日は多く食べな」

「同じ量です」

「そうか。そうだったね」

 その人は笑う。私も笑った。笑うと、空腹の後の腹が少し引きつる。引きつるところは臍の上あたりになる。


 午後は洗濯だった。袋は九枚ある。三枚ずつ三度に分けて運んだ。

 左腕で持つと、押さえたところが引く。引くので、右で持つ回数を増やした。増やすと右の肘が痛む。昨日からの痛みのほうだ。どちらかが痛むように運ぶことになる。


 三度目の途中で、袋を床へ置いて休んだ。休むのは決まりに無い。咎められたこともない。

 置いた袋の上に手を載せると、布越しに中身の形が分かる。畳んだ角が四つ、同じ高さで並んでいる。畳んだ人の手が揃っている。


 洗濯室の扉は今日も音がしない。

 先週まで擦れていたものが擦れない。擦れないと、閉めた後で一度振り返る癖がついた。閉まっているかどうかを目で確かめる。

 目で確かめるのは音より遅い。遅いぶん、扉の前に立つ時間が長くなった。


 窓は今日も曇っている。指の跡が二つある。昨日は三つあった。

 曇りは下から乾いていく。下にあった跡から消える。上に付いた跡ほど長く残る。

 私は下のほうに手を当てた。当てただけで、字は書かない。


 運ぶ間、私は五ミリリットルを考えた。

 五ミリリットルがどれくらいかは、洗面所の水で見当が付く。手のひらに溜めると、少しだけになる。少しだけのものが、今は箱の中にある。


 箱は冷やされて、当日の便で外へ出る。外へ出た先で何かの数になって、その数が紙に載る。

 載るのは基準を外れた項目だけだと聞いた。外れていなければ載らない。


 夕方、獣医室の前を通った。

 扉は白いままだ。中の明かりは点いている。午後の分がまだ終わっていない。


 扉の下から、廊下へ光が漏れている。

 漏れている幅は指二本ぶんだ。中で誰かが動くと、光の中を影が横切る。横切る回数を数えた。二分で七回ある。

 七回のうち、四回は同じ向きだった。机と棚の間を往復しているのだと思う。往復の片道が二回に一度しか影にならない位置がある。


 扉の前に、椅子が一つ出してある。

 朝には無かった。午後の列のために出したのだと思う。座面に布は張っていない。旧西棟のものと同じ形になる。

 私はそこに座らなかった。座る用があるわけではない。

 椅子の背に、白衣が一枚掛かっている。誰のものかは分からない。掛け方が雑で、袖が片方だけ床のほうへ垂れている。


 居室へ戻る廊下は、この時刻だけ人が多い。

 午後の採血が終わった人が戻ってくる。戻ってくる人は皆、片腕を少し曲げて歩く。曲げると押さえが効く。

 同じ形で歩く人が七人続いた。七人目が過ぎたところで、廊下はまた普通の歩き方に戻る。


 私は自分の左腕を触った。

 絆創膏の下は温かい。周りより温かい。押すと少し痛い。

 温かさは体温だ。私の中から来ている。外へ出たほうは、もう私の温度ではなくなっている。


 箱は今ごろ冷えているはずだ。二時間以内に冷やすと書いてあった。

 冷えた後は便で運ばれる。運ばれる先の建物を、私は見たことがない。園の外にあるとだけ聞いている。


 居室へ戻る廊下で、H-0009とすれ違った。

 この人は壁を触って歩いている。触っている手のほうの袖が捲れていた。捲れたまま戻していない。

 肘の内側に、私と同じ丸がある。丸は新しい。今日の分だ。


 私は戻すように言おうとして、やめた。

 言われて困る人がいることを、私は知っている。この人は壁のほうを見たまま行った。


──────────────────


国立人類保全園 第七園

診察記録


個体番号 J-0037

記録日 令和二百十二年七月一日

記録者 獣医室


一、当日の実施


定期採血を実施した。時刻は午前九時五十二分であった。

採取量は五ミリリットル、二管に分けた。採取部位は左肘窩とした。


二、所見


体重 五二・四キログラム(七月一日現在の直近計測値。計測日は六月二十九日)


体温 三十六度四分

脈拍 七十二


視診および触診において、特記すべき所見を認めなかった。


三、既往


本年度の受診は本件を含めて七件であった。いずれも定期によった。


定期以外の受診は本年度に無い。前年度は一件であった。理由の記載は当該の頁に無い。


当該の一件については、記録者の欄も空である。当時の獣医室の担当は二名であった。いずれに照会するかは定めていない。


四、就業に係る所見


本人の就業は洗濯、ふれあい、展示、清掃補助である。いずれについても制限を要する所見を認めなかった。


ふれあいの従事時間について、獣医室から意見を述べる定めは無い。


五、本人からの申し出


本人からの申し出は無かった。


六、次回


次回の定期採血は八月一日とした。八月一日は日曜にあたる。日曜の実施について変更の指示は受けていない。


七、当日の待機


E区画の割当時間内に来室しなかった個体は一名であった。当該個体は午後の区画へ回した。回付の記録は作成していない。


八、経過観察


前回の記録において経過観察を要すると記載した項目は無かった。


九、当日の記録者


本記録の記入は獣医室が行った。記入者の氏名を記す欄は本様式に無い。


十、備考


前回の採取部位について、記録の欄が無いため確認できなかった。採取者の記載欄も設けていない。


様式の改定については、獣医室から総務課へ照会したことがある。照会は令和二百八年である。回答は受けていない。


(記録 獣医室)

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