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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第一章 展示

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第011話 引く手

国立人類保全園 第七園

安全衛生委員会 議事要旨(第二回)


作成 総務課

開催 令和二百十二年六月十日

出席 総務課三名、飼育部門二名、作業班二名、産業医一名


一、報告


本年度第一四半期の労働災害は二件であった。いずれも作業班の擦過傷である。


うち一件は工具の受け渡しの際に生じた。受け渡しの手順に定めは無かった。


二、個体との接触について


作業班から、作業中に個体が近くにいる場合の取り扱いについて意見が出た。


現行の手順では、作業区域に個体が立ち入ることを妨げていない。作業班からは、立ち入りを一律に禁じてほしいとの要望があった。


飼育部門は、区画内の生活を妨げるため一律の禁止は困難であると述べた。合意には至らなかった。


当面は現行のとおりとする。事故が生じた場合は個別に判断する。


三、呼称について


作業班から、個体の呼称を統一してほしいとの意見が出た。班によって呼び方が異なり、記録の際に混乱が生じているとのことである。


協議の結果、作業班が個体を呼ぶ際は個体番号を用いることとした。名称の使用は認めない。


飼育部門から、係員心得四との整合について確認があった。心得四は来館者への教示を禁じるものであり、職員の使用を禁じるものではない。ただし作業班については本件のとおりとする。


理由の記載は求めない旨を確認した。


四、作業の記録


作業日報の様式について、記入項目の追加を求める意見は無かった。


現行の様式では、作業に関与した者の欄は作業班の職員に限る。個体が作業を補助した場合の記入欄は設けていない。設ける予定も無い。


五、応急手当


各区画に置いた救急箱の点検を行った。E区画の箱は令和二百七年に補充した以後、開けた記録が無かった。


内容物の期限を確認したところ、三点が期限を過ぎていた。差し替えは次回の点検までに行う。


六、健康診断


作業班の年次健康診断は七月に実施する。対象は十一名である。


前年度の受診率は九割一分であった。未受診の一名について、産業医から再度の案内を求める意見があった。


七、掲示について


作業区域の表示に用いる標識について、現行のものが色褪せているとの報告があった。更新の予算は本年度に計上していない。


当面は現行のまま用いる。読み取れない標識については個別に貼り替えることとする。


八、次回


次回は九月に開催する。議題は追って通知する。


(作成 総務課/写し 飼育部門・作業班)


──────────────────


 廊下の照明が一つ切れている。切れたのは四日前だ。E区画の一階、洗濯室へ行く途中の、突き当たりから数えて三つ目になる。


 切れる前の日から、その一つだけが点滅していた。点いて、消えて、また点く。間隔は一定ではない。

 二日目に間隔が長くなって、三日目は点かない時間のほうが長くなった。四日目の朝には点かなくなっていた。

 誰かが係員に言ったかどうかは知らない。私は言っていない。言う手順を教わっていなかった。


 切れてからの四日で、廊下の歩き方が変わった。暗いところで人は少し速くなる。速くなって、明るいところへ出るとまた戻る。全員が同じことをしている。誰も言わない。

 私も速くなる。速くなるのは暗いところの三歩ぶんで、四歩目からは戻る。数えたので分かる。


 暗い場所は床の色が変わって見える。実際には変わっていない。両端の明かりが届く範囲の外側だけが、少し青い。

 青いところに立って足元を見ると、自分の履物の色も違って見える。手も同じだ。手の甲だけを明るいほうへ出すと、そこで色が切れる。切れる線は指の付け根を横切る。


 朝の点呼までに、私は左の肩を回した。

 昨日は洗濯で、袋を十三枚運んだ。運んだ翌朝は肩の後ろが張る。張るのは肩甲骨の内側で、腕を上げると引く。

 引きは五度ほど回すと軽くなる。軽くなってから点呼へ出た。


 顔を洗う水は今日も冷たい。六月に入って、水の冷たさは少し落ちた。それでも指の関節は朝のうち固い。

 固い指で袋の口を開けると、爪の縁が引っ掛かる。昨日そこが割れた。割れた場所は右手の中指で、今日はまだ痛みがある。押すと分かる程度で、動かすぶんには支障が無い。


 朝の点呼の後で、係員が来た。

「J-0037、今日は洗濯じゃなくて、修繕の手伝い」

「はい」

「工具を渡すだけ。触らなくていい。渡すだけ」

「はい」

「昼は普通に食べていいから」

「はい」


 修繕の手伝いは初めてになる。誰がやるかは決まっていない。その日にいる人が呼ばれる。呼ばれる人は毎回違う。

 洗濯の当番は誰かが替わる。誰が替わったのかは、戻ってから袋の積み方で分かる。積み方には人の癖が出る。角を揃える人と、揃えないで数だけ合わせる人がいる。


 手が空くのは落ち着かない。

 洗濯の日は、朝から昼まで手が止まらない。止まらないと時間が短くなる。短くなると、その日の記憶も薄くなる。

 薄いほうがよいのかどうかは決めていない。決めずに、私は洗濯の日を数えていない。展示の日と、火曜だけを数えている。


 九時に廊下へ出る。作業の人はもう来ている。二人いる。一人は若い。もう一人は年配で、背が低い。

 二人とも、私が来ても顔を上げなかった。上げないのは無視ではない。手が塞がっている。塞がっている時に顔を上げる人はいない。


 廊下の端に、園の外から入れた物が置いてある。木の箱が二つと、丸めた電線の束が一つ。

 箱には字が刷ってある。園の書式ではない。角が丸い書体で、園の掲示に使う字とは形が違う。読める字が三つあって、意味は分からない。

 外の字を見るのは久しぶりだった。何年ぶりかは覚えていない。


 二人とも作業着だ。園の職員の白い上着とは違う。濃い青で、膝のところに別の布が当ててある。

 当て布は左だけにある。片膝をつく仕事だからだと思う。糸が太い。縫い目が外から見える。園の中の服は縫い目が内側へ入る。


 脚立が二つ置いてある。床に布が敷いてあって、その上に道具が並べてある。並べ方は決まっているらしい。若いほうが並べ直している。

 並べ直す順は、大きいものが手前で、小さいものが奥だ。奥のほうは布から少しはみ出ている。はみ出た分だけ、床に直接触れている。


 道具は十四ある。数えた。柄の色が三種類ある。黒が七、青が四、残りの三つは色が塗っていない。

 塗っていないものは金属のままで、持つと冷たい。ほかのものより古いのだと思う。


 匂いがする。油の匂いだ。園の中にこの匂いは無い。機械の油で、少し甘い。甘いのに、嗅いでいると鼻の奥が渋くなる。

 匂いは布から出ている。布は油を吸って、色が濃くなっている。濃いところが手前に寄っていて、そこだけ布が硬い。触ると紙に近い。


「これ持ってて」

 若いほうが袋を寄越した。布の袋で、口が開いている。中に細いものが入っている。

 持つと重い。片手では持てない。両手で抱えた。


「そこ、動かないで」

「はい」

 私は脚立の横に立った。立って、袋を抱えて待つ。


 年配のほうが脚立に上がる。上がる時、脚立が少し鳴った。

 鳴ったところで一度止まって、それから上がった。止まったのは音を確かめたからだ。


 切れた照明の器具を外す。

 外すと、天井に穴が開く。穴の中に線が三本ある。色が違う。白と、黒と、緑。


「渡して」

 若いほうが手を出す。私は袋から一本出して渡した。

 その人の指が私の指に当たる。当たっても、その人は何も言わない。受け取って、上へ渡す。


 袋の中身は棒だった。細くて、長さは腕ほどある。片端に金具が付いていて、そこだけ重い。

 同じものが六本入っている。六本のうち、二本は金具の色が違う。新しいのだと思う。


 渡し方は三度目で分かる。

 一度目は袋の口から先に出しすぎて、床に当たりそうになった。二度目は短く持って、途中で持ち替えることになる。

 三度目からは、金具のほうを自分の側へ向けて、軽いほうから先に出す。出したところで相手の指が来る。来る位置は毎回ほとんど同じだ。


 若いほうは、受け取ってから必ず一度、手の中で回す。回して向きを揃えてから上へ渡す。

 揃える向きは毎回同じになる。金具が右へ来る。上の人が右手で取るからだと思う。


 脚立の上と下で、言葉はほとんど交わされない。

「はい」

「うん」

 それだけで済んでいる。済ませるまでに何年かかるのかは、私には見当が付かない。


 十時を過ぎた頃、もう一人来た。


 足音で分かった。

 園の中の足音は、だいたい聞き分けられる。係員の靴は底が柔らかくて、床を押すような音になる。個体の履物は音がほとんど出ない。

 この足音は違う。踵から落ちる。落ちてから、爪先で少し引きずる。引きずる音のほうが長い。


 その人は廊下の向こうから来た。

 背が高い。作業着は同じ濃い青だが、袖を捲っている。腕に何か彫ってあるのではなく、日に焼けた線が肘のところで切れている。外で働く時間が長いのだと思う。


 年配のほうが脚立の上から声を掛けた。

「戸波さん、こっち終わったら扉のほうお願いします」

「はい」


 その人は道具の布のところで屈んで、何か選ぶ。選ぶ時に一つずつ持ち上げて、置き直す。置き直す音が同じ間隔で続く。

 置き直す位置は元の位置と同じだ。持ち上げた跡が布に残るので、戻した位置が合っているかどうかは見れば分かる。三つ持ち上げて、三つとも元へ戻した。


 腰のところに巻き尺を下げている。金属の箱に入っていて、引くと帯が出る。出た帯には目盛が刷ってある。

 その人は歩きながら一度引いて、すぐ戻した。戻る時に音がする。帯が箱へ吸い込まれる音で、最後の一瞬だけ速い。


 廊下の途中で、別の個体が向こうから歩いてきた。

 その人は立ち止まった。壁のほうへ半歩寄って、通り過ぎるのを待つ。個体のほうが道を空けようとして、二人が同じ側へ動いた。

 もう一度、その人は反対側へ動いた。個体が通り過ぎる。その間、その人は個体のほうを見ていない。天井を見ている。


 立ち上がって、こちらを見た。


「J-0037」

「はい」

「そこの、青いやつ」


 私は袋の中を見た。青い柄のものが一本ある。

 取り出して、差し出した。


 その人は手を出す。私の手のほうへ来て、途中で止まった。

 止まってから、指の先だけで柄の端を摘まむ。摘まんでから、手を引いた。


 渡す時、この人の手は先に引く。


 柄はまだ私の手の中にあった。引かれた分だけ、私の手が前へ出る形になる。

 その人はもう一度、今度は上のほうを持った。私は離した。


「ありがとう」

 その人はそう言って、扉のほうへ行った。


 扉は洗濯室の扉だ。建て付けが悪い。閉める時に下が擦れる。

 擦れる音は毎日聞いている。聞いていたが、直すものだとは思っていなかった。


 その人は扉の前で屈んで、下の隙間を見る。見てから、巻き尺の帯を隙間へ差し込んだ。差し込んで、抜いて、また差し込む。

 三度やって、三度目で止めた。止めた位置を指で押さえて、そのまま目の高さまで持ち上げる。

 持ち上げる時、帯は捩れない。捩れないように、指の押さえ方が決まっている。


 測り終えてから、道具を当てた。削る音がする。金属を削る音は、削られている側の音のほうが高い。

 削る前に、その人は床へ布を敷いた。布は道具の下に敷いてあるものとは別の、小さいほうになる。屑を受けるためだ。

 削り屑は細い。糸に近い形で出てくる。出てすぐ丸まる。丸まったものが布の上へ落ちる。


「九ミリ」

 その人が言った。誰にも言っていない。声は小さい。

 言った後で、もう一度測った。同じ数を二度は言わない。言わずに、道具を持ち替えて続ける。


 私は脚立のほうへ戻った。

 若いほうが手を出す。私は次の一本を渡す。指が当たる。何も言われない。


 昼の少し前に、袋が空になった。

 空になった袋を持ったまま立っていると、年配のほうが降りてきた。

「J-0037、これ捨てといて」

 古い器具を渡された。ガラスの管で、両端に金具が付いている。持つと軽い。中が空だからだと思う。

 管の内側が白く曇っている。曇りは端のほうが濃い。


 捨てる場所を聞いた。

「そこの籠」

 籠は廊下の隅にある。入れると音がした。中に同じものが三本入っている。四本目になる。

 三本とも内側の曇り方が違う。濃いものほど下にある。下にあるものほど先に捨てられたのだと思う。籠に入れた日を書く紙は付いていない。


 昼の給餌へ行く前に、扉のほうをもう一度見た。

 その人はまだ屈んでいる。同じ姿勢で三十分ほど続いている。膝の当て布のところだけ、床の埃が付いていた。


 昼の給餌は普通に出た。四三〇の皿だ。

 手に油の匂いが残っている。洗ってから食堂へ来たが、匂いは指の股のところに残る。掬った匙を口へ運ぶたび、油と完全栄養食の甘さが一緒に来る。

 残っている匂いのぶんだけ、皿の味が違う気がした。気がしただけで、味そのものは毎日同じだ。


 三八〇の人は今日いない。当番の時間がずれた日は、席の並びも変わる。

 空いた隣に、知らない番号の人が座った。


「あの人、ものさし」

 その人が言った。

 E区画の人ではない。洗濯で何度か見た顔になる。番号の頭はRだ。Rは私より上のほうにある。


「ものさし」

「うん。あの人、測ってからじゃないと触らないから」

「はい」

「なんでも測る。扉も床も、人も」


 人も、というところで、その人は少し笑った。

 私も少し笑った。笑ってから、笑うところだったのかどうかを確かめる相手がいない。


「誰が言い始めたんですか」

「知らない。私が来た時にはもう言ってた」

「はい」

「言い始めた人はもういないかもね」


 その人は皿の縁を匙でならした。ならし方はA-0114と同じだ。

 同じならし方をする人が、この園に何人いるのかは分からない。


「ほかの人にも、あるんですか」

「あるよ」

 その人は指を折り始めた。

「白衣の背の高いのが、ぬまさん。首から下げてるのが緑だから」

「はい」

「食堂の朝の人が、はやおき」

「はい」

「一階の掃除の人が、みぎまわり。ずっと右から回るの」

「はい」

「あと」

 その人は少し考えて、指を戻した。

「あと、思い出したら教える」


「私にもありますか」

 私は聞いた。聞いてから、聞くべきではなかったかも知れないと思った。

「あんたの?」

「はい」

「あるかもね」

「あるんですか」

「知らない。自分のはたいてい自分に来ない」

 その人は匙を置いて、少し笑う。私も笑った。

「気になる?」

「なりません」

「嘘だ」

 その人は皿を持って立つ。立ってから、こちらを向いて言った。

「教えないよ。教えると変わっちゃうから」

 変わるというのが何のことかは分からない。分からないでいるうちに、私は「はい」と言った。


 私は聞いた名前を頭の中で並べた。

 ものさし。ぬまさん。はやおき。みぎまわり。四つある。

 どれも書いてあるところを見たことがない。名札にも、日報にも、掲示にも無い。


 この園で、紙に載っていない名前を私が知ったのは今日が初めてになる。


 午後も同じ場所へ戻された。戻る途中で、廊下の反対の端まで一度歩いた。

 反対の端から見ると、切れていた三つ目の位置が分かる。四つの照明のうち、そこだけ光の届く輪が小さい。器具が新しくても輪は小さい。天井の高さは同じなので、器具の側が違う。


 照明のほうは終わっていた。天井の穴が塞がれて、新しい器具が付いている。

 点けると、前より白い。前の三つと色が違う。四つ並ぶと、新しい一つだけが浮く。


「そのうち馴染むよ」

 若いほうが言った。馴染むというのがどうなることかは分からない。


 午後は扉のほうへ回された。

 その人は扉の下を削り終えて、今度は蝶番を見ている。蝶番は三つある。上と真ん中と下だ。


「J-0037」

「はい」

「そこ、押さえてて」

 私は扉の縁を押さえた。押さえると、扉の重さが手のひらに来る。真ん中より上を押さえたほうが軽い。

 蝶番から遠いほど軽くなるのだと年配のほうが言った。長いほど軽くなる。洗濯の袋を持つ時と逆になる。袋は体に近いほど軽い。

 同じ腕でやっているのに、逆になる。逆になる理由は聞かなかった。聞けば答えてくれたと思う。


 その人は下の蝶番の螺子を回した。回すと、扉が少し傾く。

「もう少し」

「はい」

 私は押した。押した分だけ扉が動く。動いた先で止める。止めていると腕が震え始めた。震え始めてから、その人が言った。

「離していい」


 離すと、扉は元へ戻らない。位置が変わっている。

 その人は扉を閉める。閉めると、下が擦れない。音がしない。


「そこの布、集めて」

「はい」

 私は小さいほうの布を持ち上げた。四隅を寄せて、真ん中へ集める。集めると、削り屑が中で動く音がした。乾いた音だ。

 持つと軽い。手のひらへ載せても、重さと呼べるほどのものは無い。


「どこへ入れますか」

「籠でいい」

 私は籠のところへ行って、布の口を開けた。屑が落ちる。落ちると、ガラスの管の上へ積もる。

 積もったところだけ、管の白い曇りが見えなくなる。


「はい、次」

 次の道具を渡す。今度も、その人は指の先で摘まむ。摘まんで、手を引く。

 私の手が前へ出る。出た分だけ、その人は後ろへ下がっている。


 次の道具は重い。両手で持つ。持って差し出すと、その人はまた指の先で摘まむ。

 摘まんだところで、重さが片側へ寄る。寄っ多分、私の手のほうが下がる。

 その人はもう一方の手を添えて、水平に戻してから引き取った。添えた手も、私の手には触れない。


 蝶番の螺子は六本ある。上下に三本ずつだ。

 外すのは二本だけになる。二本を外して、板を一枚挟んで、また締める。板は薄い。厚みは紙を十枚重ねたほどしかない。

 挟む板は三種類あって、その人は一番薄いものを選んだ。選ぶ前に、扉と枠の隙間へ順に差し入れて確かめている。


 午後のうちに、その人は私の番号を九回言った。

 九回とも同じ言い方だった。抑揚が付かない。呼んでいるというより、その場所を指しているのに近い。

 九回のうち、三回は道具の名前が付いていた。残りの六回は番号だけだ。番号だけの時は、その人はこちらを見ない。見ないで手だけを出す。


 三時を過ぎて、年配のほうが休みを取った。

 若いほうは道具を布の上へ戻している。戸波さんは扉の前に立ったままだ。


 私は袋を持って立っていた。持っているものはもう無い。

 立っているのが仕事なのかどうかを聞いていない。聞かずに立っていた。


「座っていいよ」

 若いほうが言った。

「はい」

 私は床に座った。廊下の床は冷たい。座ると腿の裏から来る。冷たさは尻の下から広がって、二分ほどで止まる。


 年配のほうが休みから戻ってきて、私の隣にしゃがんだ。

「疲れた?」

「疲れていません」

「嘘つき」

 その人は笑う。私も少し笑った。

「立ってるだけって、いちばんきついんだよ。座ってるより、歩いてるより」

「そうなんですか」

「そうだよ。俺は三十年やってる」

「三十年」

「三十一かな。忘れた」


 その人は膝の当て布を指で払った。埃が落ちる。落ちた埃は床の色と同じで、落ちた先が分からなくなる。

「あんた、名前」

 その人がそこまで言って、止まった。止まってから、言い直した。

「番号、なんだっけ」

「J-0037です」

「そう。覚えとく」

 覚えておくと言われたのは初めてになる。覚えられたかどうかを確かめる方法は無い。


 その人は扉を三度開け閉めした。

 一度目は速く、二度目はゆっくり、三度目はまた速く。閉まる音が三度とも同じだった。同じであることを確かめている。


 確かめてから、その人は扉の枠に手を掛けた。掛けた手で、枠を上から下へなぞる。

 なぞる速さは一定だ。途中で止まらない。止まらずに下まで行って、手を離した。


「終わり」

 その人は道具を持って、廊下を戻っていった。

 戻る時の足音も同じだった。踵から落ちて、爪先で引きずる。引きずる音のほうが長い。


 道具の布を畳むのは年配のほうがやった。

 私は袋を返した。返す時、その人は袋ごと私の手から受け取った。手が当たる。当たっても何も言わない。


「助かったよ」

「ありがとうございます」

 私は言った。言ってから、礼を言うのはこちらでよかったのかを考えた。考えている間に、その人はもう脚立を担いでいた。


 夕方、日報を書いている人が廊下にいる。

 板に紙を挟んで、立ったまま書いている。書きながら扉のほうを見て、また書く。

 書く姿勢が斜めだ。板を左の腕で支えて、右で書く。支えている腕の肘が体から離れている。離れているぶん、板が少し揺れる。


 私は離れて見ていた。近づいてよいかを聞いていない。

 紙には表が刷ってある。横に長い表で、列がいくつかある。左のほうから順に埋めている。

 埋める速さが列ごとに違う。左の三つは速い。四つ目で一度止まって、扉を見て、それから書く。


 書き終わって、その人は板を下ろした。

 下ろした拍子に紙が見えた。逆さになる。逆さでも、埋まっている列と埋まっていない列は分かる。


 埋まっていない列が一つある。右から二番目だ。

 何の列かは読み取れなかった。読み取れないでいるうちに、その人は廊下を戻っていく。


 籠の中を覗いた。古い器具が四本ある。四本のうち、私が入れたのは一番上の一本になる。

 下の三本は曇りの濃さが違う。一番下のものが最も濃い。濃いほうが古いのだと思う。

 いつ入れられたのかは書いていない。籠に札も付いていなかった。月末に回収されて、その先は知らない。


 居室へ戻る途中で、新しい照明の下を通った。

 白い。前の三つより白い。白いところだけ、自分の手の色が違って見える。手を出して、引っ込めた。

 白いところと、そうでないところの境目に立つ。境目は床に線を作らない。明るさが少しずつ変わるだけになる。

 変わり始める場所を探す。三度やって、三度とも違う場所で足が止まった。


 居室へ入る前に、私はもう一度あだ名を並べた。

 ものさし。ぬまさん。はやおき。みぎまわり。

 並べる順は聞いた順にした。順を変えると別のものになる気がする。気がするだけで、確かめる方法は無い。


 昨日までなら、この四つは私の中の何処にも置き場が無かった。今日は置き場ができた。

 置き場は音で出来ている。ものさし、と言う時の口の開き方は、みぎまわり、とは違う。四つとも終わりの音が下がる。下がり方は四つで少しずつ違って、一番下がるのがぬまさんになる。


 寝る前に、私は指で四つを数えた。人差し指から順に押していく。小指まで行ったら四だ。

 四で終わる。それ以上は増えない。今日はそれだけになる。


 廊下の突き当たりで、扉を一度閉めてみた。

 擦れない。音がしない。

 四日ぶりではなかった。扉が擦れていたのは四日より前からだ。いつからかは覚えていない。


 もう一度開けて、閉めた。同じだ。手にだけ、閉まりきる時の小さな抵抗が来る。

 音のしない扉は、閉まったかどうかが手でしか分からない。今までは音で分かっていた。

 三度目はわざと途中で止めてみた。止めると隙間が残る。隙間から洗濯室の中の暗さが見える。中の空気は廊下より湿っている。顔を近づけると分かる。


 四度目に閉めた時、後ろから人が来た。

「壊れてる?」

 通りかかった個体が聞いた。

「直りました」

「へえ」

 その人は扉を見ないで行った。音がしないので、直ったことに気がつかない。

 気がつかないほうが、直ったということなのだと思う。


 閉めた扉の前で、私は九ミリという数を思い出した。

 九ミリが何処の寸法なのかは聞いていない。聞かなかったので、私はそれを扉の下だと決めた。決めても、確かめる方法は無い。

 九ミリは指の爪の幅より少し狭い。合わせてみると、爪のほうが広かった。爪は日ごとに伸びるので、いつか同じになる日がある。同じになる日は分からない。


──────────────────


国立人類保全園 第七園

作業日報


区画 E区画一階

日付 令和二百十二年六月二十四日(木)

作業班 第二班


一、作業の内容


廊下照明器具の交換 一箇所

洗濯室扉の建て付け調整 一箇所


二、従事した者


作業班 三名(うち一名は午前十時より従事)


所要は七時間三十分であった。休憩を除く。


三、材料


照明器具 一個 在庫より払出

撤去した器具は廃棄籠へ入れた。籠の回収は月末とする。


蝶番の調整に伴う材料の使用は無かった。


四、個体の立会い


個体の立会い無し。


五、支障


照明器具の色温度が既設と異なった。既設の在庫が無く、代替品を用いた。


来館者の動線ではないため、統一は行わないこととした。


六、工具


工具の一部を区画内へ持ち込んだ。持ち込みの記録は本日分を作成した。


作業中、工具の受け渡しに要した時間は計上していない。計上する欄が無い。


七、扉の調整


下端の擦れを認めた。床面との隙間を九ミリまで削った。


蝶番は下の一箇所を調整した。上および中央は前回の調整のままとした。前回は令和二百九年である。


八、次回


E区画一階の照明は残り十四箇所である。うち三箇所は既に暗い。交換の時期は未定とする。


在庫は二個であった。発注は次月とする。


九、健康診断の予定


作業班の年次健康診断は七月十日とする。当該作業員は前年度が未受診であった。案内を再度行った。


十、申し送り


当該作業員は、七月以降E区画の定期担当とする。頻度は週二回を予定する。


配置の理由は、本日の作業において当該区画の設備の状態を最も把握したことによる。


個体への周知は行わない。周知を要する定めが無い。


(記入 作業班第二班/写し 総務課・飼育部門)

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