第九話 戻り駒
宗佐が槇山掃部を南へ打ってから、2年が経った。
二俣で砦も渡しも捨て、妻子の村だけを守った、あの境目の小領主。宗佐が斬らずに買い、土佐の南の端へ打ち直した男だった。北の故郷からは遠い。本山の境からも遠い。古い縁が利かぬ場所へ。そう読んで、宗佐は掃部をそこへ置いた。
その読みは、当たっているように見えた。
掃部は、よく働いた。南の土地に馴染み、村の者を束ね、道を直し、長宗我部のために、地味な役を文句も言わずに果たした。二年。短くない歳月だった。古い縁は、薄れていくように見えた。
だから宗佐は、少しだけ思い始めていた。自分の読みは、間違っていなかった、と。取った駒は、遠くへ打てば、古い形は利かなくなる。掃部がその証だ、と。
その頃、長宗我部は、北の本山をほぼ呑み込もうとしていた。
長浜、二俣、火車、鵺。幾度かの戦を経て、本山茂辰の力は削れていた。土佐の北は、もうほとんど長宗我部の色に染まっていた。茂辰は、追い詰められていた。
追い詰められた者は、なりふりを構わない。
茂辰は、長宗我部の弱みを探した。正面では、もう勝てぬ。ならば、内側から崩す。長宗我部の駒の中に、元は敵だった者がいる。取り込まれた、降将がいる。その者の、いちばん柔らかいところを握る。
茂辰の手の者が動いたのは、北の、ある村だった。
掃部の、故郷の村。妻子のいる村。
宗佐が南へ打った掃部の、その根がまだ残っている場所だった。茂辰は、そこを押さえた。掃部の妻と、幼い子を。村の者を。そして、掃部のもとへ、ひそかに文を送った。
——長宗我部を離れ、本山へ戻れ。さもなくば、村を焼き、妻子を斬る。
その報せが、宗佐の網にかかった。
了円——あの寺の高みから谷を見ていた小坊主は、もう痩せた青年になっていた。土佐じゅうに広がった宗佐の目を、束ねる役を担っている。その了円が、北の村の異変をいち早く掴んで、宗佐に告げた。
「軍師さま」と、了円は静かに言った。「本山が、掃部どのの村を押さえました。妻子を、人質に」
宗佐は、絵図の前で、しばらく動かなかった。
読めていた。これは、見えぬ升ではなかった。茂辰が追い詰められれば、降将の弱みを握りに来る。掃部の根が北に残っていることも、宗佐は知っていた。二俣で掃部が砦も渡しも捨てて村を守った、あの一事を、宗佐は誰よりよく覚えていた。
見えていた升だった。
ただ——その升の重さを、測り違えていた。
二年。古い縁は、薄れたはずだった。南の土地に馴染んだ掃部は、もう北を捨てたはずだった。宗佐は、そう読んだ。距離と歳月が、根を断つと読んだ。
だが、根は、断たれていなかった。
「掃部は」と、宗佐は低く問うた。「どう動く」
了円は、答えなかった。答えは、二人とも分かっていた。
掃部は、南の陣を抜けた。
夜のうちに、わずかな郎党だけを連れて、北へ。誰にも告げず、ただまっすぐ、妻子のいる村へ向かって。二年、長宗我部のために働いた男が、一夜で北へ戻った。
知らせを受けて、家中は沸いた。怒りで。
「裏切りだ!」と、若い譜代が叫んだ。「あれほど目をかけてやった降将が、恩を仇で返した! やはり、敵は敵だ! 取り込むなど、できはせぬのだ!」
久武も、いた。だが、久武はもう、ただ宗佐を責めるためだけに口を開く男ではなくなっていた。受けの戦で、必至を盤の上で知って以来、久武は、宗佐を軽んじることができなくなっていた。
その久武が、静かに言った。
「軍師どの。あんたは、これを読んでいたか」
宗佐は、目を逸らさなかった。
「読んでいた」
家中が、ざわついた。読んでいて、なぜ防がなかったのか、と。
「掃部が北へ戻る目は、読んでいた」と宗佐は続けた。「茂辰が追い詰められて、掃部の村を握りに来る手も読んでいた。——だが、わたしは、二年という歳月が、掃部の根を薄れさせると読んだ。遠くへ打てば、古い形は利かぬ、と。その見込みが——甘かった」
久武は、宗佐を長いこと見ていた。
「読めなんだのではない」と、久武は言った。「読んだ升の、重さを測り違えた、と」
「そうだ」
それは、これまでの宗佐にはなかった負けだった。霧の中の見えぬ升でしくじったのではない。はっきりと見えていた升の、その升に乗った人間の心の重さを軽く見積もった。盤の上の歩には重さの違いなどない。だが、土佐の歩にはあった。掃部という歩は、ほかの歩よりずっと重かった。北に、村と、妻子と、田を抱えていたから。
掃部は本山へ戻った。
戻ったところで、もはや本山の大勢を覆す力は、掃部にはなかった。茂辰はすでに削られ、掃部が一人戻ったとて、戦の趨勢は変わらなかった。掃部の戻りは、長宗我部にとって、痛手というほどの痛手ですらなかった。盤の上の損得で言えば、歩を一枚、敵に戻された。それだけのことだった。
だが、宗佐は、その夜、一人、絵図の前に座っていた。
歩を一枚、失った。それだけのことだ。それだけのことが宗佐の頭の中のいちばん深いところを揺らしていた。
そこへ、茂助が来た。
長浜から元親に従う、一領具足の古強者。半分は百姓、半分は兵。土の匂いのする、節くれだった手の男。宗佐の勝ちの裏側を、いつも畦のこちら側から見てきた男だった。歳を重ね、髪に白いものが増えていた。
茂助は宗佐の傍らにどっかと胡座をかいた。しばらく何も言わなかった。それから低い声で言った。
「軍師さま。掃部のことを、責めなさるな」
宗佐は答えなかった。
「あの男はな」と茂助は言った。「二俣で、砦も渡しも捨てて、村を守った男じゃ。あんたは、その悪手を買うた、と言うた。覚えておいでか。——悪手を指す男は、いつでも悪手を指す。村のためなら、何度でも。それがあの男の芯じゃ。あんたはその芯を二年で薄れると読んだ。だが、芯は薄れぬ。芯じゃからな」
宗佐は、絵図の上の、北へ戻った掃部の駒を見ていた。
「軍師さま」と、茂助は続けた。声に、責める色はなかった。ただ、長く土を踏んできた者の、静かな声だった。「あんたの盤では、わしらは歩じゃ。一つずつ升を進む、弱い歩。あんたは、その歩を、どこへでも打てると思うておる。遠くへ打てば、古い縁は切れると思うておる」
茂助は、節くれだった指で絵図の北の村を指した。
「だが、田には妻子がおる」
宗佐はその指の先を見た。
「歩には、帰る田がある」と茂助は言った。「あんたが南へ打った歩も、心は北の田に残しておった。盤の歩なら、打った升がすべてじゃ。だが、土佐の歩は、打たれた升と、帰る田と、二つの場所に立っておる」
宗佐は長いこと黙っていた。
茂助の言ったことは、正しかった。宗佐は、掃部という駒を南の升に打った。だが、掃部の心は、北の田に残っていた。一枚の駒が、二つの場所に立っている。それを、宗佐の盤は、捉えきれていなかった。盤の駒は、一つの升にしか立てない。だが、人は違った。
「打たれた升だけを見ておった」と、宗佐は低く言った。「帰る田を読んでいなかった」
茂助は、それ以上、何も言わなかった。責めもせず、慰めもせず、ただ、節くれだった手で自分の膝を一つ叩いて、立ち上がった。土の側から、言うべきことを言った、という顔だった。あとは、軍師が自分で考えればいい、と。
茂助が去ったあと、宗佐は、一人、絵図の前に残った。
掃部は戻った。だが、それは盤の上の言葉ではなかった。
将棋に戻り駒という手はない。取った駒は持ち駒になり、こちらが打つまで、動かない。打たれた駒が、勝手に元の主のもとへ歩いて帰る——そんな手は、盤の上には存在しない。盤の駒は、打たれた升で、こちらの命を待つだけだ。
人だけが戻る。
宗佐はその一事を初めてはっきりと噛みしめた。盤の駒には足がない。帰る場所もない。だが、人には足があった。田があった。妻子がいた。だから、打たれた升から自分の足で元の田へ戻っていく。
人を打つなら、打った升だけを見ていては足りない。その人の帰る田まで読まねばならない。
そこへ元親が来た。
長浜から十年あまり、戦に鍛えられた当主は、宗佐の顔を一目見て、足を止めた。
「戦には勝っておる」と、元親は言った。「本山は、もう息も絶え絶えだ。掃部の一人くらい、戻ったとて、どうということはない。——だが、お前は負けた顔をしておるな」
宗佐は、絵図から目を上げた。
「負けました」
「どこでだ」と元親が問うた。「掃部を置いた升か」
「いえ」と宗佐は言った。「掃部を置いた升では、ございませぬ。——掃部の帰る田で負けました」
元親はその言葉をしばらく味わうように聞いていた。それから、ふっと、口の端を上げた。
「お前でも、しくじるか」と、元親は言った。責める声ではなかった。むしろ、どこか安堵したような声だった。「いつも、すべてを読み切るお前が。——少し、安心したぞ。お前が、ただの化け物でないと、分かった」
宗佐は、答えなかった。
「で、どうする」と元親。「降将を取り込むのを、やめるか」
「やめませぬ」と宗佐は言った。「取り込む道は、間違っておりませぬ。やめれば、敵は、敵のまま死ぬだけです。——ただ、これからは、駒の置き場だけでなく、その駒の帰る田まで読みます。田が敵地に残っているうちは、その駒は、いつでも戻り得る。次は、そこまで数に入れます」
「ならば、それでいい」と元親は言った。「次は、田まで読め。——それだけのことだ」
元親は、それ以上は言わなかった。国を作れ、とも、統治がどうの、とも。ただ、田まで読め、と。今は、それで十分だった。
元親が去ったあと、宗佐は、彫った盤に向かった。
北へ戻った掃部の駒を、手に取った。
捨てるのではなかった。盤から下ろしもしなかった。宗佐は、その駒を、盤の隅へそっと置いた。盤の上に、残した。いつか、もう一度打ち直すために。掃部の北の田が、いつか長宗我部のものになり、戻る田を失ったその時、こんどこそ、田ごと迎えるために。
「盤から落ちた駒は、ただの木切れだ」と、宗佐は独りごちた。「だが、盤の上にある限り、まだ打ち直せる」
宗佐は、その駒を、長いこと見ていた。
歩は、弱い。一つずつしか進めぬ。遠くへ打てば、古い縁は薄れると思っていた。だが、歩には、田があった。妻子がいた。帰る場所が、あった。
盤の上の歩には、ない重さが。
宗佐は、初めて、土佐という盤の、その下を見た。升の下に、田があることを。駒の下に、根があることを。これまで、宗佐は、升だけを見て読んできた。升の上を、駒がどう動くか、だけを。だが、その升の下には、ずっと、田が広がっていた。誰かが耕し、誰かが妻子と暮らす、生きた田が。
その田を、宗佐は、これまで読んでいなかった。
盤の解像度が、一つ深くなった。升だけの盤から、升の下に田のある盤へ。それは、宗佐の読みが、また一段、遠くまで届くようになった、ということだった。掃部という歩を一枚失って、宗佐は、その分、深い目を手に入れていた。
盤の外の遠くでは、火を食う大駒が、なお育ち続けていた。潮が満ちる前に、四国を束ねねばならない。急がねばならない。
だが、急いで取った駒が、田を向いて戻るなら、いくら取っても、ざるで水を掬うのと同じだ。速さだけでは足りない。打つ升と、帰る田と、その両方を読んで、初めて、取った駒は、こちらの駒になる。
宗佐は、低く囲った自陣の、いちばん遠い隅の歩を、一つ進めた。
今度は、その歩の下にある田の重さを少しだけ測りながら。
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