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と金の軍師 〜記憶なき将棋名人、土佐の隅から天下を詰ます〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第十話 一手損

掃部かもんの戻り駒から、宗佐は一つ学んだ。人は、取っただけでは駒にならない。帰る田まで、読まねばならない。


その学びを抱えたまま、北の本山をほぼ押さえた長宗我部は、東へ向いた。


だが、すぐには進めなかった。田があり、雨があり、山があった。北を平らげてから東の安芸あきと向き合うまでに、田植えと刈り入れが、また幾度か過ぎた。


土佐の東に、安芸あき国虎(くにとら)がいた。本山より格が上だった。城は堅く、兵は多く、東の海をまるごと従えている。土佐七雄の中でも、長宗我部ちょうそかべが次に向き合う、いちばんの強敵だった。


東へ向かう道は、山と海に挟まれて細かった。山側を行けば、木立が兵を隠す。海側を行けば、安芸の船が横腹を刺す。どちらを歩いても、安芸の長い利きが——その角が、道の上にずっと利いていた。


その安芸との戦は、茂助にとって、これまでで、いちばん腹の立つ戦だった。


茂助は、もう若くない。長浜からずっと、元親に従ってきた一領具足だ。髪は白く、膝は痛む。それでも、槍を持てば、まだ若い者には負けぬ。安芸と当たると聞いた時、茂助は、ひさしぶりに腹の底が熱くなった。


ところが、軍師の指図は、こうだった。


退け。取れる砦を取るな。渡れる川を渡るな。


茂助は、自分の耳を疑った。


最初の戦で、安芸の東の小砦が、目の前にあった。守りは薄い。茂助の隊だけでも、半日あれば落とせる。誰が見たって、取れる砦だった。茂助は、槍をしごいて、命令を待った。


来た命令は、退け、だった。


「なぜじゃ」と、茂助は、伝令の若い者に、思わず詰め寄った。「目の前に、空いた砦があるんじゃぞ。取れる。なぜ、退く」


伝令は、青い顔で首を振った。「軍師さまのご指図です。あの砦は取るな、と」


茂助は舌打ちして退いた。泥の中を背を向けて退いた。


その退く背を、安芸国虎は丘の上から見ていた。


押し出しの強い、堂々とした体躯の男だった。土佐の東を長年海ごと従えてきた自負が、その立ち姿にあった。


「取れる砦を取らぬか」と、国虎は低く言った。


傍らの家臣が笑った。「長宗我部ちょうそかべも安芸の海を恐れたのでしょう。本山ごときは呑めても、我らの海は別物と見える」


国虎は笑わなかった。だが、目を細めた。背を見せて退く長宗我部に、油断ではなく、好機を見ていた。後手に回った敵。今こそ、こちらが先に動く時だ、と。


「ならば、こちらが先に形を決める」と、国虎は言った。「海から刺せ。あの軍師が立て直す前に横腹を抉れ」


その一言で、安芸の角が盤の上へ出た。


国虎は誰に強いられたのでもなく、自分の意志で、自慢の海の急襲路を選んだ。一手、得をした、と思っていた。その得を活かそうとしていた。


これが茂助にはいちばんこたえた。


退く、というのは、ただ歩くのとはわけが違う。背中を敵に見せる。安芸の物見が丘の上からこちらを嗤っているのが見えるようだった。逃げる長宗我部。腰の引けた、土佐の田舎者。茂助の隊の若い者が、悔しさで唇を噛んでいた。中には泣いている者もいた。槍を握りしめたまま、一度も突かずに退く。兵にとって、これほどの屈辱はない。


陣に戻ると、家中も荒れていた。


「なぜ取れる砦を取らぬ!」と、若い武者たちが口々に言った。「安芸ごときに、なぜ後手を引く! 軍師はまた臆病風に吹かれたか!」


茂助は、その夜もう我慢がならなかった。


絵図のある本陣の幕へ、ずかずかと踏み込んだ。


宗佐は、いつものように、彫った盤の前に座っていた。傍らに久武がいた。久武は、自分で升を引いた粗末な盤を宗佐の盤の隣に置いて、何やら駒を並べていた。


「軍師さま」と、茂助は、白い髭を震わせて言った。「わしは、もう年寄りじゃ。長いことは生きられん。その短い余生で、こんな恥さらしな戦は、初めてじゃ。——なぜ退かせる。なぜ取れる砦を取らせん。若い者が泣いておったぞ。一度も槍を突かずに背を見せて泣いておった」


宗佐は、茂助を静かに見た。


「茂助。一手、損をしている」


「一手、損?」


「取れる砦を取れば、一手、得をする」と宗佐は言った。「だが、わしはあえてそれを取らぬ。一手、損をする。——わざと悪くなる手を指している」


茂助は、わけが分からなかった。隣の久武も、眉をひそめていた。久武が口を挟んだ。


「軍師どの。わたしもそれが分からぬ」と、久武は言った。受けの戦で必至を知って以来、久武は、宗佐の手を頭ごなしに否まなくなっていた。だが、今度ばかりは腑に落ちぬ、という顔だった。「一手損をして、なお良くなる手など、本当にあるのか。砦を取れば、こちらが強くなる。取らねば、弱いままだ。弱くなって、どう勝つ」


宗佐は、盤に向き直った。


「お見せしよう」


宗佐は、盤の上である形を作った。自分の駒と、敵の駒を向かい合わせる。そして、互いの斜めに長く利く駒——角を、ぶつけて交換した。盤から、双方の角が消えた。


それから宗佐は自分の駒だけを一手遅らせた。わざと手を渡した。


「見ての通り、悪くなっている」と宗佐は言った。「わしは、一手遅れた。手番を、敵に渡した。これだけ見れば、ただの損だ」


「悪くなっておるではないか」と久武。


「悪くなっている」と宗佐は、あっさり認めた。


久武の眉が寄った。「ならば、なぜ指す」


宗佐は盤の上の手を渡された側——敵の駒を指した。


「手番を渡されると、敵は動かねばならぬ。先に、形を決めねばならぬ。——人は、手番が回ってくれば、何か指したくなる。攻めたくなる。一手得をしたと思えば、その得を活かそうとする。安芸は、こちらが退いたのを見て、必ずこう思う。長宗我部が後手に回った、好機だ、と。そして、自分から攻めの形を決める」


宗佐は自分の遅れた駒を指した。


「敵が先に形を決めれば——こちらは、それを見てから受けられる。後から指す者は、相手の手を見てから、いちばん良い形を選べる。先に動いた者は、もう形を変えられぬ。——一手損をするとは、弱くなることだ。だが、弱くなったこちらを見て、敵は安心して、先に形を決める。その形さえ決まってしまえば——あとは、こちらが読み切れる」


茂助は、白い髭の下で口を開けていた。


頭では、まだ半分も分からなかった。だが、一つだけ腹に落ちたことがあった。あの屈辱の退きには、意味があった。若い者が泣いて退いたあの一手は、ただの逃げではなかった。安芸に「勝った」と思わせるための餌だった。


「……わしらは」と、茂助は低く言った。「わざと、負けて見せたのか」


「そうだ」と宗佐は言った。「すまぬ。若い者には、つらい役をさせた。背を見せて退くのが、いちばんこたえる。それは、わしも知っている。——だが、あの退きが、安芸の角を引き出す」


戦が動いた。


宗佐の読んだ通りだった。長宗我部が退き、取れる砦さえ取らずに後手に回ったのを見て、安芸国虎は好機と見た。一手得をした、と思った。そして、自分から攻めの形を決めにきた。


安芸の強さは、城そのものよりも、東から長く利く線にあった。海沿いの、船で兵を運ぶ急襲路。それが、安芸のいちばん鋭い武器だった。盤で言えば、斜めに長く利く、角だった。長宗我部が正面から安芸へ攻めれば、その角が横から背を刺す。


だから宗佐は、まず角を換える、と決めていた。


安芸の船は、夜明け前の潮に乗って出た。海を知る者なら、誰もが選ぶ刻だった。


だから、源八は、そこに網を置いていた。


漁の小舟に見せかけた長宗我部の船が、岬の陰から現れた。対岸の岬に、火が三つ灯った。合図だった。安芸の船団は、海の上で、進む道と退く道を、同時に失った。前には、待ち構えた船。後ろには、塞がれた潮。


安芸の自慢の角が——海の急襲路が、海の上で折れた。


茂助は、その海戦にはいなかった。だが、後で聞いた。安芸が、自慢の海から長宗我部の脇腹を突こうとしたら、出てくる場所も刻も、何もかも、長宗我部が先に知っていた、と。安芸の船は、夜明けの海で袋叩きに遭った、と。


だが、その海戦で長宗我部もただでは済まなかった。


安芸は、長宗我部に海を読まれた、その出どころを潰しにかかった。源八の糸が表に出たからだった。一度表に出た糸は、たどられる。湊の魚商が一人、消えた。堺へ渡るはずだった小舟が一艘戻らなかった。源八の海の糸が二本切れた。

糸の先には人がいた。魚を商う者がいて、舟を漕ぐ者がいた。その人が消えた。


宗佐はそれを承知の上だった。


「角を換えた」と、宗佐は、戦のあと、久武に言った。「安芸の海の角。長宗我部の海の糸。両方をぶつけて、消し合った。安芸は、自慢の急襲路を、もう使えぬ。長宗我部も海の目を二つ失った。糸の先の人ごと。——双方の斜めに長く利くものが盤から消えた」


宗佐の声に痛みは滲ませなかった。だが、消えた糸の先に人がいたことを、宗佐は、絵図の隅に、また書き留めた。魚を商っていた者。舟を漕いでいた者。名は分からなかった。村と生業(なりわい)だけを書いた。


掃部かもんの田を読み損ねて以来、宗佐は、糸の先の人を、数えるようになっていた。


久武は、自分の盤に、その形を並べ直していた。角の消えた盤。長い利きの消えた盤。


「角が消えれば」と、久武はゆっくりと言った。「あとは……斜めから刺す手が、なくなる。残るのは、地べたの押し合いだけだ」


「そうだ」と宗佐は言った。「海の急襲も、長い間者線も消えた。残ったのは、土の上の兵と兵の厚みの勝負だ。——そして、その厚みの勝負なら」


宗佐は盤の後から指す側の駒を指した。


「先に形を決めた安芸より、後から形を選べるこちらが勝つ」


最後の戦は茂助の出番だった。


海の角も間者線も消えた、地べたの押し合い。茂助のような土を踏んで戦う一領具足の出番だった。


安芸は先に攻めの形を決めていた。海から突くつもりで、陸の備えを薄くしていた。その薄くなったところへ、長宗我部の厚い陣がぶつかった。


茂助は、ようやく槍を突けた。


あの日、目の前の砦を取らせてもらえず、背を見せて退き、悔し涙を流した若い槍持ちが、今度は先頭で、安芸の槍を受けた。


泣き顔はなかった。


ただ、歯を剥いていた。退かされた屈辱をすべてこの一突きに込めるように。茂助は、その若い背を見て、胸の奥が熱くなった。あの退きは、この一突きのための退きだった。


退きに退いて、背を見せ続けた、あの屈辱の分を、この一戦で返した。安芸の先に決まってしまった形は、もう変えられなかった。後から形を選んだ長宗我部の厚みが安芸を押し込んでいった。


茂助は泥の中で槍を振るいながら、ふと思った。


——あの退きがなかったら。


もし、あの日、目の前の砦を取っていたら。一手得をしていたら。安芸は、後手に回ったと油断せず、海の角を後生大事に温存していただろう。長宗我部は、いつまでもその海の角に背を刺され続けただろう。


あの腹の立つ退きが——安芸の角を、引きずり出した。一手損をして、安芸に「勝った」と思わせたから、安芸は自慢の角を使った。使わせて消した。


茂助は槍を振るいながら、初めて、あの軍師の戦の形を見た気がした。


戦のあと、陣で、茂助は、宗佐の前に座った。


「軍師さま」と茂助は白い髭を撫でた。「わしは、あんたを臆病者と思うた。取れる砦も取らぬ、腰抜けの軍師だと。——すまなんだ」


「謝るな、茂助」と宗佐は言った。「お前の腹立ちは正しい。退くのはつらい。背を見せるのは恥だ。それを若い者に強いた。恨まれて当然の役だ」


「いや」と茂助は首を振った。「分かったのよ。あんたは、一手損をして見せて、安芸に得をしたと思わせた。得をしたと思うた安芸が、先に形を決めた。決まった形をあんたが後から読んだ。——わしらのあの恥さらしな退きは、安芸に形を決めさせるための、餌じゃった」


茂助は低く笑った。


「軍師というのは……えげつないものじゃな。負けて見せて、勝つ。退いて見せて、攻めさせる。損をして見せて、得を引きずり出す」


宗佐は彫った盤に目を落とした。胸の内で、一度だけ、その手の名を呼んだ。


——一手損角換わり。


遠い記憶の中でまだ宗佐が盤の前に座っていた頃、自分の好敵手が好んで指した手だった。一手をわざと損する。すぐに得を取らず、あえて手番を相手に渡す。先に形を決めさせ、それを見てから、後手で最善を選ぶ。急いで得を取りに行く者が、かえって損をする——そういう、逆さまの(ことわり)を孕んだ戦法だった。

狭い盤で誰かが何百年もかけて磨いた、その逆さまの構想を、宗佐は土佐の山と海に置き直した。


その手の名は誰にも言わなかった。茂助にも、久武にも。言ったところで、伝わらぬ。ただ、宗佐の頭の中のあの静かな盤にだけその名はあった。


久武は、その夜も、自分の盤に向かっていた。


角の消えた盤を、何度も並べ直していた。一手損して、手番を渡し、敵に形を決めさせ、後から読む。その形が、久武の頭の中で、少しずつ像を結んでいた。


「軍師どの」と、久武がふと顔を上げた。「安芸は……先に動いたのではない。動かされたのか」


宗佐は答えなかった。だが、その沈黙が答えだった。


久武はしばらく盤を見ていた。それから、低く唸った。受けの戦で必至を知った時と、同じ唸りだった。盤の上では、宗佐にまだ遠く及ばぬ。それを認めるしかない者の唸りだった。


ただ今度は、その声に悔しさだけではないものが混じっていた。


——この男の戦を、もっと知りたい。


久武は、いつのまにか、宗佐を論破するためではなく、宗佐の戦を理解するために、盤を並べていた。敵意が、関心に変わりかけていた。久武自身も、まだそれに気づいていなかった。


東の安芸が折れた。


これで、土佐の東は、長宗我部の色に染まった。北の本山はすでに呑んだ。残るは、西だけだった。


宗佐は絵図の前で西を見た。


そこに、一条がいた。土佐のいちばん西。京から下った、別格の公家大名。これまで戦ってきた、どの相手とも違う。安芸のように海の角を持つ敵ではない。一条は刀ではなく、別のもので土佐に立っていた。


——あれは力では討てぬ。


宗佐はまだその盤を読みあぐねていた。


盤の外の遠くでは、火を食う大駒が、なお育っていた。安芸を呑むのに、また歳月が流れた。潮は、刻一刻と満ちている。急がねばならない。だが、西の一条は、急いで力で押せば押すほど、こちらが損をする相手の気がした。


その読みあぐねを、宗佐は胸に留めた。


そして、低く囲った自陣の隅の歩を、また一つ、西へ向けて進めた。

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