第七話 受け
本山が、初めて本気で押し返してきた。
本山茂辰は、焦っていた。
姫若子と侮っていた小僧が、父の死をきっかけに化けた。長浜で寡兵に敗れ、二俣を奪われ、北の境をじりじりと削り取られている。土佐七雄の中でも、長宗我部は最も小さなどんぐりのはずだった。それが今、手のつけられぬ何かに育ちつつある。
放っておけば、もう抑えられぬ。
しかも、頼れる者がいなかった。東の阿波と讃岐は三好の膝下にあって、本山ごとき境目の喧嘩に構う余裕はない。西の一条は、京から下った別格の公家大名で、土佐の小競り合いには指一本動かさぬ。本山は誰の助けも当てにできぬまま、単独で、この育ちかけの怪物を踏み潰さねばならなかった。
好機は、今しかなかった。秋が来れば、長宗我部の半農の兵は、稲刈りのため田へ帰る。一方で本山自身の兵も田に戻る。そうなれば戦にならない。
兵が溶けるその前に叩く。
茂辰は、攻めの一手を、最も得手とする男に託した。桑名兵庫。勢いで敵を押し潰す猛攻の将。火のついた車のごとく止まらぬその攻めから、火車、と呼ばれた男だった。
「兵庫」と茂辰は言った。「秋までに、奪われた地を、力で取り返せ。あの軍師に、考える暇を与えるな」
火車の兵庫が、ありったけの攻め手を率いて、北の境へ吐き出された。
数は、本山が勝っていた。
長宗我部の陣では、誰もが攻めを論じた。勢いのあるうちに北へ討って出て、火車の出鼻を挫く。久武も茂助も、若い譜代たちも、口々に前へ出ることを説いた。
宗佐だけが、退け、と言った。
「退きます」と、宗佐は絵図の前で言った。「北の境の村を一つ、空けます。兵を退き、敵に取らせます。——ただし、村の民は、夜のうちに後方へ移します。米も、鍬も、牛も、運べるものはすべて運ばせる。敵に残すのは、空の米蔵と、『取った』と思わせる形だけです」
陣がざわついた。
「取らせる、だと」と久武が声を尖らせた。「二俣で奪った地を、また敵にくれてやるのか。何のために戦った。受けなど、ただの負けの先延ばしだ」
「違います」
宗佐は言った。
「受けとは、敵の攻めを止めることではございませぬ。敵の攻めを、続かぬ形にすることにございます。——攻めは、続いている間だけ攻めです。切れれば、伸びた駒が残るだけ。火車の攻めは、速い。速い攻めほど、続きませぬ。続かぬようにしてやれば、ひとりでに、切れます」
「いつ切れる」と久武が噛みついた。「それまで何人、死ぬ。受けるとは、味方の体で、敵の刃を受け止め続けることだぞ」
宗佐は、すぐには答えなかった。
「——殺さぬためには、削られねばなりませぬ」と、やがて低く言った。「攻めれば、派手に死ぬ。受ければ、地味に削られる。どちらが人を多く失うか。わたしは、受けのほうが少ないと読みます」
元親は、長いこと絵図を見ていた。それから宗佐を見た。
「お前は、受けて勝てると言うのだな」
「勝てます」
「どう勝つか、説いてみよ」
宗佐は、口を閉ざした。
説けなかった。いや、説いても誰にも見えぬと分かっていた。受けの理は、いま語った。だが、その理が、半月後にどんな勝ちの形になるのか——それは、宗佐の頭の中の盤にしかない。言葉にすれば、かえって薄っぺらになる。
「理は、いま申しました」と、宗佐は言った。「ですが、勝ちの形までは、まだ、お見せできませぬ。ただ、退きます。殿が、わたしを信じてくださるなら」
陣が静まった。久武が勝ち誇ったように、鼻を鳴らした。説明もできぬ策を、誰が信じる、と。
元親は、その静寂の中で、宗佐のいつもと変わらぬ凪いだ目を見ていた。
「信じる」と、若い当主は言った。それから、立ち上がった。「退く恥は、俺が背負う。兵の前で後ろを見せる恥も、家中の怒りも、すべて俺だ。——だが宗佐、死んだ者の名は、お前が背負え。お前の読みのために削られた者の名を、一人残らず、覚えておけ」
宗佐は、頭を下げた。
「背負います」
久武が、何か言いかけて、口を噤んだ。
退く戦は、見るに堪えぬものだった。
宗佐は、北の境の村を一つ、また一つと空けていった。火車の兵が押してくる。長宗我部は戦わずに退く。本山は空いた村に、易々と入った。長宗我部の兵は、その後ろ姿を見ながら、歯を食いしばって退いた。
火車の攻めは、噂に違わなかった。退き遅れた殿を見れば、すぐに噛みつき、逃げる兵の背を裂いた。兵庫は、退く敵の最も弱いところを、知り尽くした男だった。押す力だけなら、本山にこの男と並ぶ者はいない。退く戦は、その火車を相手に、背を晒し続けることだった。宗佐の受けは、最初から、血を流すと決まっていた。
だが、宗佐の退きには形があった。
漫然と退いているのではなかった。空けた村には、それぞれ、仕掛けがあった。
一つ目の村には、大きな米蔵があった。火車の兵は、喜んで、その蔵を開けた。中は、空だった。米はすでに、長宗我部が後方へ移していた。村を取っても、兵糧は、一粒も手に入らなかった。攻める兵の腹は、進むほどに、減っていった。
二つ目の村は、川の渡しに面していた。火車の兵が、いざ来た道を退こうとした時、渡しの綱は、切られていた。船は、すべて対岸に寄せられていた。退路のはずだった川が、ただの、渡れぬ壁になった。
三つ目は、山道だった。火車の兵が、山伝いに逃げ道を探ると、要所要所に倒木が積まれ、その陰に、宗佐の伏せた小さな備えが、潜んでいた。大軍は、通れなかった。
どれも、派手な攻撃ではなかった。敵を、一兵も斬らぬ手すらあった。だが、そのすべてが、敵の逃げる升を、ひとつずつ、消す手だった。
本山は、勝っていると思っていた。村を次々と取り、長宗我部を押し込んでいる。だが、押し込むほどに、火車の攻めは、伸びた。腹は減り、退き道は塞がり、形は、糸のように細く長く伸びていった。
兵庫が、それに気づいたのは、攻めが、ぴたりと止まった時だった。
これ以上、前へは進めぬ。長宗我部の本隊が、固く受けている。ならば退くか。退こうとして、初めて兵庫は、来た道が断たれていることを知った。左の川は、綱を切られて渡れぬ。右の山は、倒木に塞がれて抜けられぬ。腹は、減っている。
王手は、かかっていなかった。
長宗我部は攻めてこない。槍を突きつけてもいない。兵庫の首に、刃は当たっていなかった。
だが、どこにも進めなかった。
前へ出れば固い受けに潰される。退こうとすれば道がない。左へ逃げれば川。右へ逃げれば山。動けるはずの升が、気づけばひとつも残っていなかった。
兵庫は、初めて寒気を覚えた。
勝っていたはずだった。村を取り、長宗我部を退かせ、逃げる兵の背を斬っていた。だが、振り返れば、取った村に米はない。左に川、右に山、後ろに倒木、前に元親。
火は、燃えるものがなければ消える。
火車と呼ばれた己の攻めが、もう、燃やすものを失っていた。自分の熱だけを残して、燃え尽きようとしていた。
宗佐は、本陣で、ただ静かに言った。
「いま攻めてはなりませぬ」
「なぜだ」と元親。
「敵には、まだ逃げる升が、わずかに残っております」
「では、いつだ」
「逃げる升が、なくなった時です。——あとは、待ちます」
火車の攻めは、宗佐の読んだ通りに、切れた。
動けぬまま、日が経った。腹が減り、退き道はなく、まず心が崩れた。火を噴くようだった兵庫の攻めは、自分の伸びきった形の中で、ひとりでに、消えた。兵庫は、わずかな手勢だけで、山の獣道を這うようにして、本国へ逃げ帰った。
奪われかけた北の境は、すべて長宗我部の手に戻った。
だが、その勝ちに、派手なところは何ひとつなかった。
華々しい突撃も、敵将の首もなかった。あったのは、退き続けた味方の、地味な損耗だけだった。村を空け、後ろ姿を見せて退くたびに、殿で味方が削られた。受けの勝ちは、血を流す。ただ、攻めて派手に死ぬより、その血は少なかった。それだけのことだった。
戦のあと、宗佐は一人、削られた味方の数を、絵図の隅に書き留めていた。数ではなく、一人ずつ、名を。元親に、背負えと言われた名を。
名の分からぬ者は、村と、年格好だけを書いた。北谷の、若い槍持ち。渡しの殿で討たれた、名の知れぬ者。一人ずつ、升に置かれて消えた、一枚ずつの歩として。
盤の歩には、名がない。だが、土佐の歩には、あった。一枚ずつ、宗佐は、書いた。
その夜、誰もいないと思っていた陣幕に、人がいた。
久武だった。
久武は、板切れに自分で升を引いた、粗末な盤を、膝の前に置いていた。盤の上には、駒が並んでいた。今度の戦の形を、久武が自分で並べ直したものだった。
久武は、宗佐を論破するために、ひそかに将棋を覚え始めていた。あの説明もできぬ策の、どこがただの臆病な負けの先延ばしなのか。それを盤の上で証してやろうと、駒を並べ、宗佐の退きを一手ずつ辿っていた。
宗佐は戸口で足を止めた。久武は気づかぬまま、駒を一つずつ動かしていた。
辿るうちに、久武の手が止まった。
宗佐の退きが、一手も無駄でないことに気づいたからだった。あの空にした米蔵の手は、敵の腹を削っていた。あの渡しの綱を切った手は、左の逃げ升を消していた。あの山道の倒木を置いた手は、右の逃げ升を消していた。漫然と退いているとしか見えなかったその一手一手が、すべて、敵の逃げる升を、ひとつずつ消す手だった。
久武は、最後の駒を置いた。
盤の上に、四方を塞がれて動けなくなった本山の形が、現れた。
「王手では、ない」
久武は、低く呟いた。
「どこにも刃は当たっておらぬ。なのに、次が受からぬ。前へ出ても、退いても、左右へ逃げても、終わる」
久武は、盤の上の形を、見下ろした。
「これが……必至か。王手ではない。だが、次に、必ず詰む形。——あの男は退きながら、ずっと、これを組んでおった」
宗佐は、戸口で、何も言わなかった。
久武の声に、悔しさはなかった。あったのは、もっと冷たいものだった。自分がただの臆病な負けと嗤ったもの。その正体が、攻めよりもはるかに深い読みであったと、認めるしかなくなった者の声だった。
「——化け物か」と、久武はひとり呟いた。
宗佐は、静かに戸口を離れた。久武に、見られたとは悟らせなかった。久武が一人、盤の前で認めたこと。それを宗佐が見ていたと知れば、久武の最後の矜持が折れる。折れた家臣は、使えない。気づかせず、置いておく。——それもまた、受けだった。
火車は折れた。だが、本山が折れたわけではなかった。
逃げ帰った兵庫の報せを受けて、本山茂辰は、本陣で、しばらく動かなかった。力で押し返す目は、消えた。秋までに地を取り返すという目論見も、潰えた。だが、まだ長宗我部を、滅ぼしたわけではない。
茂辰は、もう一人の男を、呼んだ。
「兵庫は、勝ちに行って、潰れた」と、茂辰は低く言った。「ならば、勝ちに行く者ではない。あの軍師に、勝たせぬ者を出す。——お前の出番だ」
その男は、占いと陣形を読む、本山の軍配者だった。正体の知れぬ獣のように、誰にも手の内を読ませぬことから、鵺、と呼ばれていた。
その夜の報せの中に、宗佐が胸に留めたものがあった。
逃げ帰った本山の兵の中に、鉄砲を持つ者がいた。土佐では、まだ珍しいものだった。その鉄砲を扱う者。そして、壊れた鉄砲を直せる、鉄砲鍛冶。そういう者たちが、東から流れてきていた。畿内で行き場を失った牢人に混じって。
硝石。牢人。鉄砲を扱う者。
三つ目が、見えた。
だが、まだ線は、一点へ交わらない。戦が増えれば、鉄砲も鍛冶も流れる。それだけのことかもしれぬ。三つの、まったく別の世界の兆しが、寸分たがわず同じ一点を指したとき。そのときに初めて読む。
宗佐は、まだ断じなかった。聞き流して、忘れぬように留めた。
宗佐は、彫りかけの盤を引き寄せた。
両取りの桂は、片付けた。代わりに、玉を奥へ引き、金銀を低く寄せて、囲った。攻めるための形ではない。受けるための形。動かず、退き、相手に攻めさせて、その攻めの中で、相手の逃げ升を消していく形。
派手ではない。
だが、いちばん堅い。
宗佐は、その低い囲いを、長いこと見ていた。
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