第六話 両取り
宗佐は、自分で盤を彫った。
長浜で拾われ、土佐に根を下ろしてからの夜なべの手すさびだった。木を削り、墨で線を引き、駒を一枚ずつ形にした。不格好な、誰に見せるでもない盤。それをある夜、宗佐は元親の前に置いた。
「殿に、お見せしたいものがございます」
元親は胡座をかいて、その粗末な盤を覗き込んだ。木の駒が、九つ並んだ縦と横の升の上に、向かい合って置かれている。
「将棋、と申します」と宗佐は言った。「わたしの頭の中にあったもの、とだけ申しておきます。これで、戦を読みます」
「戦を、これで」
「盤の上の戦に、嘘はありませぬ」と宗佐は言った。「兵の数も地の利も、すべて升と駒に置き換わる。読み違えれば負ける。読み切れば勝つ。——本物の戦も同じです。ただ本物には、霧がかかっている。盤の上には、霧がない」
元親は駒を一つ、指で摘んだ。歩、と宗佐が教えた。前へ一つしか進めぬ、いちばん弱い駒。
「弱いな」
「弱うございます。ですが敵陣の奥まで進めば、成る。成れば金と同じ働きをします。——隅の歩でも、成り上がれば、玉を詰ますのです」
元親はその歩をしばらく見ていた。それから低く笑った。
「姫若子と呼ばれた歩も、おるかもしれぬな」
宗佐は答えなかった。ただ盤の上に、新しい形を作った。
「今宵は一つだけ、お教えします。——両取り、と申します」
宗佐は桂という駒をひとつ跳ねさせた。その桂が、敵の二つの駒を同時に睨む位置に止まった。
「この桂は一手で、二つを狙っております。右の飛車と、左の金。敵はどちらかしか守れませぬ。飛車を逃がせば金を取られる。金を守れば飛車を取られる。——どちらを選んでも、こちらは一つ、得をする」
元親の目が、駒の上で止まった。
「敵に、選ばせるのか」
「左様。両取りとは、敵に損を選ばせる手です。こちらが二つとも取るのではない。敵自身に、どちらを捨てるかを決めさせる。——人は、自分で選んで捨てたものには、文句を言えませぬ」
元親はしばらく盤を睨んでいた。それから桂の睨む二つの駒を、交互に指さした。
「飛車と、金。——どちらを捨てる」
「殿なら、どちらを」
元親は迷わず、飛車を逃がし、金を捨てた。
「飛車は強い。金は惜しいが、飛車には替えられぬ」
「ようございます」と宗佐は言った。「それが正しい。——ですが、もし敵が、強い飛車より弱い金を、どうしても捨てられぬとしたら。その金がただの金ではなく、敵にとって何より大事なものだったとしたら」
元親が顔を上げた。
「そのとき敵は、正しくない手を指します」と宗佐は言った。「強い飛車を捨てて、弱い金を守る。損を承知で。——両取りでいちばん面白いのは、そこです。敵が何を捨てられぬかを読む。捨てられぬものを、狙う」
灯火が揺れた。元親はその粗末な盤を、長いこと見ていた。
「面白いな」と、やがて元親は言った。「お前の頭の中は、こうなっておるのか」
「こうなっております、これしかありませぬ」
「ならば」と元親は駒を置いて、宗佐を見た。「次の戦も、この盤の上にあるのだろう。——読め、宗佐。誰の、何を、両取りにする」
その「次」は、北の境にあった。
二俣という土地だった。本山方の境目を、槇山掃部という男が押さえていた。大きな家ではない。境目の、小さな領主。だが土地を知り尽くしていた。
宗佐は、了円の目と、商人の値と、源八の海越しの細い糸を束ねて、二俣の盤を読んだ。
槇山は、二つの要を握っていた。
一つは二俣の砦。川が二つに分かれる、その股に立つ。ここを抜かれれば、本山の北の境がまるごと開く。槇山にとって、武の要だった。
もう一つは渡し場。二俣の川を越える、ただ一つの渡り。ここを押さえられれば、本山方の兵糧が北へ運べなくなる。槇山にとって、利の要だった。
砦と渡し。武と利。槇山はその二つを、両の手で握っていた。
「両取りだ」と、宗佐は絵図の前で独りごちた。
砦と渡しは離れている。槇山の手勢は、二つを同時には守れない。長宗我部がその中間に兵を置けば、槇山は選ばねばならぬ。砦を守るか、渡しを守るか。どちらを守っても、もう一方は空く。
元親が絵図を覗き込んで、すぐに気づいた。
「あの夜の桂か」と、若い当主は口の端を上げた。「砦と渡しを一手で睨む。槇山は片方しか守れぬ」
「左様」
「ならば俺は、どこに立つ」
「ここに」と宗佐は、二俣の砦と渡しのちょうど中間を指した。両側を低い丘に挟まれた、平らな野。「ここに殿が立てば、砦へも渡しへも、半日で届く。槇山が砦を固めれば、殿は渡しへ。渡しを固めれば、砦へ。——槇山は、殿の足を見てから守る場所を決めねばならぬ。後手に回る」
久武が横から口を挟んだ。以前ほどの棘はなかった。だが、まだ疑いは残していた。
「槇山が両方を捨てて、こちらの中間の兵を正面から討ちに来たら、どうする。砦も渡しも囮にして、殿の本陣を狙えば」
「来ませぬ」と宗佐は答えた。「槇山は境目の小領主です。砦と渡しが身代のすべて。両方を捨てて打って出るほどの兵も、肝もない。——あの男は必ず、どちらかを守ります。守ろうとする、その動きが、こちらに答えを教える」
宗佐はそこで、わずかに言葉を切った。
「ただ——槇山がどちらを守るかは、まだ読み切れておりませぬ」
「読めぬのか」と元親。
「砦を守るのが武の理。渡しを守るのが利の理。どちらも筋は通る。——ですが人は、理だけでは動きませぬ。槇山が何を、いちばん捨てられぬか。そこがまだ、霧の中です」
宗佐は了円を呼び、二俣の村をもう一度、見させた。
了円が痩せた指で、絵図の一点を差した。砦でも渡しでもない。その奥の、小さな村だった。
「ここに」と、了円は静かに言った。「槇山の妻子がおります」
宗佐は、その村を長いこと見た。
砦は武の要。渡しは利の要。だがその奥の村は——槇山が何より捨てられぬものだった。両取りの桂が睨む二つの駒の、さらに陰に、もう一枚、隠れた駒があった。
「読めた」と、宗佐は言った。
戦は、宗佐の引いた線の通りに運んだ。
元親が二俣の中間の野に立った。槇山はその足を見て、守る場所を決めねばならなくなった。後手に回った。
槇山はまず、砦を固めた。武の要を選んだ。元親はすかさず、渡しへ向かった。
そこまでは読み筋だった。
だが元親が渡しへ迫ると、槇山は砦を捨てた。固めたばかりの砦をあっさり捨てて、兵を返した。元親はてっきり、渡しを守りに来ると読んだ。
槇山の兵は、渡しへは来なかった。
奥の村へ走った。
宗佐は本陣の絵図の前で、それを聞いて、一瞬、息を詰めた。
槇山は砦も渡しも捨てた。武の要も利の要も投げ出して、ただ妻子のいる村だけを守りに走った。両取りの二つの駒を、両方とも捨てた。隠れたもう一枚の駒だけを、抱きしめるために。
——正しくない手だ。
将棋なら悪手だった。強い飛車を捨て、強い金を捨て、盤の隅の何の働きもない駒を、後生大事に守る。そんな手を指せば、宗佐の盤では負ける。
だが槇山は、その手を指した。
宗佐は絵図の上の、空いた砦と空いた渡しを見た。両取りは完全に成った。槇山は武も利も失い、長宗我部は二俣の要を二つとも手にした。読み通りの、鮮やかな勝ちだった。
それでも宗佐は、しばらく動かなかった。
「殿にお伝えしろ」と、宗佐は伝令に言った。「砦と渡しを押さえよ。槇山は追うな。——村は囲むだけにして、手を出すな」
久武が訝った。「なぜ追わぬ。槇山は丸裸だ。今、村ごと討てば、二俣は完全に片付く」
「片付きます」と宗佐は言った。「ですが、それはこちらが何も捨てずに、二つも取った手です。両取りは敵に損を選ばせる手。——槇山はもう選んで、捨てました。武も利も。残ったのは村だけ。その村まで奪えば、それは両取りではない。ただの撫で斬りです」
宗佐は立ち上がった。
「槇山を、生きたまま捕らえます。村は焼かせませぬ」
槇山掃部は、村の前で捕らえられた。
兵はほとんど残っていなかった。砦と渡しを捨てた時点で武装した手勢は散り、槇山の傍らには、わずかな郎党とおびえた村人だけがいた。槇山は抜き身を提げたまま、自分の家の前に立っていた。中には妻と幼い子がいた。
元親が馬上から見下ろした。
「砦も渡しも捨てて、この小さな村を守ったか」と、若い当主は言った。「悪手だ。お前は将棋なら、負けておる」
槇山は抜き身を、ゆっくりと下ろした。
「将棋は存ぜぬ」と、槇山は低く言った。「だが砦も渡しも、焼ければまた建つ。米もまた穫れる。——この中にいるものは、焼ければ二度と戻らぬ。それだけのことよ」
宗佐は馬を下り、槇山の前に立った。
斬れば、本山の境目の駒が一枚減る。生かせば、二俣の土地と村を知る駒が一枚増える。源八の時と同じ勘定だった。だが宗佐が見ていたのは、勘定だけではなかった。
この男は二つの要を、両方捨てた。理を捨てて、村を選んだ。源八のように、自分の値打ちを読んで盤を替える男ではない。理ではなく、田と妻子で動く男だ。
——こういう駒は、遠くへ打っても。
その先を、宗佐はその時はまだ、言葉にしなかった。
「槇山どの」と、宗佐は言った。「あんたは悪手を指した。だがその悪手で、村は焼けずに済んだ。——わしは、その悪手を買う」
「買う、だと」
「あんたを斬れば、二俣は片付く。だが二俣の村も道も人も、あんたほど知る者はおらぬ。あんたを生かして使えば、長宗我部は二俣を、敵地ではなく味方の地として得る。——斬って更地にするより、生かして土地ごといただく。そのほうが、得だ」
槇山は宗佐を、長いこと見ていた。源八のような、計る目ではなかった。ただ疲れた、土の匂いのする目だった。
「村は」と、槇山は言った。「村は、焼かぬか」
「焼かぬ」
「妻子は」
「触れぬ」
槇山は抜き身を地に置いた。そして膝をついた。源八のように盤を読んで降ったのではなかった。ただ、守りたいものを守るために、頭を下げた。
「——この身は、好きに使われよ」と、槇山は言った。「ただ、村と妻子だけは」
宗佐は頷いた。
その夜、本陣で、宗佐は槇山を、二俣からはできるだけ遠い土佐の南へ打つと決めた。取った升の近くに置けば、古い形に引き戻される。源八の時に言葉にした、あの理の通りに。
「南へやる」と、宗佐は元親に告げた。「二俣からは遠い。本山の境からも遠い。古い縁が利かぬ場所だ」
元親は頷いた。それからふと、北のほうを見た。
「だが宗佐」と、若い当主は言った。「あの男は、源八とは違うな」
「違います」
「源八は、盤を替えれば、どこにいてもこちらの駒だ。あの男は——」元親は言葉を探した。「あの男は、田に根がある。南へ打っても、根は北に残るのではないか」
宗佐はすぐには答えなかった。
元親の言ったことは、宗佐がその夜、自分でもわずかに引っかかっていたことだった。源八は頭で動く駒。槇山は根で動く駒。頭は盤ごと替えられる。だが根は——遠くへ打っても、土の下で繋がっているかもしれぬ。
「遠くへ打てば、古い形は利かぬ」と、宗佐は言った。「そう、読んでおります」
「読んでおる、か」と元親は、わずかに笑った。「お前が言い切らぬのは、珍しいな」
宗佐は答えなかった。
その夜の報せの中に、一つ、宗佐が胸に留めたものがあった。
二俣の砦の兵糧蔵に、雇われていた牢人が幾人かいた。土佐の者ではなかった。東の、遠い国の名を口にする者たちだった。畿内の方で大きな家がいくつも潰れ、行き場を失った兵が、西へ西へと流れてきているのだという。
硝石を、誰かが買い集めている。そして戦に使われるはずだった兵が、行き場を失って流れている。
二つだ、と宗佐は思った。
硝石と牢人。二つの別の世界の兆しが、同じ東の恐らく本州を指している。だが、まだ二つだ。二つでは断じない。三つの別の兆しが同じ一点を指すまで、宗佐は読みを確かめない。それが流儀だった。
聞き流した。聞き流して、忘れぬように留めた。
宗佐は彫りかけの盤を、膝に引き寄せた。
両取りの桂を、もう一度置いてみた。二つの駒を一手で睨む。敵は片方しか守れぬ。——だが今日、槇山は二つとも捨てて、隠れた一枚を守った。盤の上ではありえぬ手だった。
盤の駒には、守りたい村はない。
だが土佐の駒には、あった。
宗佐はその桂を、長いこと見ていた。
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